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人物図鑑 新選組 四番隊 生年 1815年頃 没年 1865年

松原忠司

新選組の四番隊組長・柔術師範として知られる隊士。「今弁慶(いまべんけい)」の異名で語られ、 池田屋事件では土方歳三の隊に属して戦功を挙げたとされる。最期は病死とする記録がある一方、切腹未遂など諸説も伝わる。

松原忠司 早わかり

松原忠司

松原忠司 早わかり(30秒まとめ)

松原忠司(まつばら ちゅうじ)は、新選組の四番隊組長であり、隊内では珍しい「柔術師範」として語られる人物です。坊主頭に白鉢巻、脇に大薙刀という強烈ないで立ちから「今弁慶(いまべんけい)」の異名が伝わります。池田屋事件では土方歳三の隊に属して戦功を挙げたとされ、1865年の組織再編で四番隊組長・柔術師範に就任。最期は病死とする記録がある一方、切腹未遂や心中説など複数の伝承があります。

松原忠司の詳細

松原忠司(まつばら ちゅうじ)は、新選組隊士で、四番隊組長および柔術師範を務めた人物です。
播磨国小野藩の藩士の子として生まれ、のちに大坂で柔術(北辰心要流など)を教える道場を開いていたとされます。
文久3年(1863年)までに壬生浪士組(新選組の前身)へ入隊し、八月十八日の政変では御所警備にあたった際の「坊主頭に白鉢巻・大薙刀」という姿から「今弁慶」の異名を取ったと伝わります。
元治元年(1864年)の池田屋事件では土方歳三の隊に属して戦功を挙げ、慶応元年(1865年)の組織再編で四番隊組長・柔術師範となりました。
同年に死去し、新選組の記録では病死とされる一方、死因には切腹未遂などの諸説もあります。

松原忠司のポイント

要素ポイント
武芸 剣客集団の印象が強い新選組の中で、柔術師範として語られる点が特徴。
異名 八月十八日の政変での装束(坊主頭・白鉢巻・大薙刀)から「今弁慶」と呼ばれたとされる。
人柄 「親切者は山南と松原」という言葉が伝わるほど温厚だった、という逸話が残る。
最期 病死とする記録がある一方、切腹未遂・降格などの諸説もあり、断定は避けて整理するのが安全。

松原忠司の情報

名前
松原忠司(まつばら ちゅうじ)
別の読み
「ただじ」「ただし」とも
柳趙斎(りゅうちょうさい)
生年
文化12年(1815年)頃
没年月日
慶応元年9月1日(1865年10月20日)
出身
播磨国小野藩(藩士の子)
武芸
柔術(天神真楊流を学び、北辰心要流柔術を開いた/伝えたとされる)
主な役職
新選組 四番隊組長、柔術師範
異名
今弁慶(いまべんけい)

年表(主要な出来事)

1815年頃
誕生
播磨国小野藩の藩士の子として生まれる(文化12年頃)。
安政年間
大坂で道場を開く
「徘徊御免」となったのち、大坂で北辰心要流柔術などを教える道場を開いていたとされる。
1863年
壬生浪士組に入隊
文久3年(1863年)5月までに、壬生浪士組(新選組の前身)に入隊していたとされる。
1863年
八月十八日の政変(御所警備)
御所警備にあたり、坊主頭に白鉢巻・大薙刀の姿から「今弁慶」の異名を取ったと伝わる。
1864年
池田屋事件
土方歳三の隊に属し、戦功を挙げたとされる(報奨金を受けたという記述もある)。
1865年
四番隊組長・柔術師範に
慶応元年(1865年)の組織再編で、四番隊組長・柔術師範となる。
1865年
死去(最期は諸説)
慶応元年9月1日(1865年10月20日)に死去。病死とする記録がある一方、切腹未遂など諸説が伝わる。

生涯と経歴(どこで何をしていたか)

播磨国小野藩の出身と大坂での活動

松原は播磨国小野藩の藩士の子として生まれ、のちに大坂で柔術(北辰心要流など)を教える道場を開いていたとされます。天神真楊流を学び、北辰心要流を開いた/伝えた人物としても知られます。

壬生浪士組〜新選組へ

文久3年(1863年)までに壬生浪士組(新選組の前身)へ入隊。京都の治安維持や御所警備など、実戦と警備の現場で存在感を示していきます。

今弁慶とは(異名の由来)

「今弁慶」の異名は、八月十八日の政変で御所警備に就いた際の姿――坊主頭に白鉢巻、脇に大薙刀という、弁慶を思わせる風貌から生まれたと伝わります。見た目の迫力とは裏腹に、温厚だったという逸話も残ります。

武芸・北辰心要流(柔術師範としての強み)

なぜ「柔術師範」が重要なのか

新選組は剣術のイメージが強い一方、刀を失う・密着されるなどの状況では柔術がものを言います。松原は隊内で柔術を担う立場として語られ、剣客集団の中で役割がはっきりしているのが特徴です。

北辰心要流と松原忠司

北辰心要流は天神真楊流の分派とされ、松原が大坂で伝えた流派として言及されます。体系や伝承の詳細は資料によって差があるため、当サイトでは「断定できる範囲」と「伝承の範囲」を分けて整理します。

池田屋事件での立ち位置(確実なこと/推定)

確実に言えること

元治元年(1864年)の池田屋事件で、松原は土方歳三の隊に属して戦功を挙げたとされます(報奨金の記述がある資料もあります)。

推定の部分

当時の行動は一次史料が十分に残っていない部分もある。

最期はなぜ諸説ある?(病死・切腹未遂・心中説など)

松原の死因は、新選組の記録では病死とされる一方で、切腹未遂や降格をともなう話など複数の説が語られます。創作や脚色が混じりやすい分野でもあるため、当サイトでは次のように分けて紹介します。

病死説

もっとも基本の説明として「病死」とする記録があります。

切腹未遂・降格がからむ説

何らかの不始末で切腹したが未遂に終わり、立場が変わった――といった筋立ては複数の説に共通するとされます。

「壬生心中」説(物語化の注意点)

「愛人をめぐって土方に咎められ心中した」という話は、子母澤寛の著作などを通じて広まりました。ただし、伝聞の再構成で脚色の可能性も指摘されるため、史実として断定せず「創作の疑いもある伝承」として扱うのが安全です。

人物像・逸話(「親切者は山南と松原」)

松原は温厚な人物として語られ、「親切者は山南と松原」という言葉が伝わります。武の迫力(今弁慶)と、人柄の柔らかさが同居する点が、松原の魅力として残りました。

ゆかりの地

播磨国小野(出身地)

播磨国小野藩の藩士の子として生まれたとされる。

大坂(道場)

安政年間以降、大坂で北辰心要流柔術などを教える道場を開いていたとされる。

京都・禁裏(御所)周辺

八月十八日の政変では、仙洞御所前や御所南門の警備を担当したとされる。

光縁寺(墓所)

墓所が光縁寺にあるとされます。参拝の可否や撮影可否は現地の案内・寺院の方針に従いましょう。

よくある質問(FAQ)

Q. 松原忠司の「今弁慶」は何が由来?

A. 八月十八日の政変の御所警備で、坊主頭に白鉢巻、大薙刀という姿だったことが由来と伝わります。

Q. 松原忠司は何の武術が得意?

A. 柔術師範として語られ、天神真楊流を学び北辰心要流を開いた/伝えたとされます。

Q. 最期は病死?心中?

A. 病死とする記録がある一方で、切腹未遂や心中説など複数の伝承があります。創作・脚色の可能性がある話は断定せず、出典を示して紹介するのが安全です。

関連事件・出来事

事件1864年

池田屋事件

池田屋事件

新選組の名を一躍有名にした事件。近藤勇も出動隊の一人として関与し、急進派の動きを制圧したとされる。

関連人物

近藤勇
近藤勇
新選組局長。松原は草創期から隊に加わり、のちに四番隊組長を任される。
土方歳三
土方歳三
新選組副長。池田屋事件では土方隊に属して戦功を挙げたとされる。
山南敬助
山南敬助
「親切者は山南と松原」という言葉が伝わるなど、人柄を語る逸話で並べて登場する。

参考文献・出典

  • ウェブ:Wikipedia「松原忠司」(諸説の整理の入口として参照)

※伝承・異説は本文内で「諸説」として分け、史実の断定は避けています。