人物概要

松原忠司とは
松原忠司(まつばら ちゅうじ)は、新選組隊士で、四番隊組長および柔術師範を務めた人物です。 播磨国小野藩の藩士の子として生まれ、のちに大坂で柔術(北辰心要流など)を教える道場を開いていたとされます。 文久3年(1863年)までに壬生浪士組(新選組の前身)へ入隊し、八月十八日の政変では御所警備にあたった際の 「坊主頭に白鉢巻・大薙刀」という姿から「今弁慶」の異名を取ったと伝わります。 元治元年(1864年)の池田屋事件では土方歳三の隊に属して戦功を挙げ、慶応元年(1865年)の組織再編で四番隊組長・柔術師範となりました。 同年に死去し、新選組の記録では病死とされる一方、死因には切腹未遂などの諸説もあります。
名前
松原忠司(まつばら ちゅうじ)
別の読み
「ただじ」「ただし」とも
号
柳趙斎(りゅうちょうさい)
生年
文化12年(1815年)頃
没年月日
慶応元年9月1日(1865年10月20日)
出身
播磨国小野藩(藩士の子)
武芸
柔術(天神真楊流を学び、北辰心要流柔術を開いた/伝えたとされる)
主な役職
新選組 四番隊組長、柔術師範
異名
今弁慶(いまべんけい)
人物像のポイント
| 要素 | ポイント |
|---|---|
| 武芸 | 剣客集団の印象が強い新選組の中で、柔術師範として語られる点が特徴。 |
| 異名 | 八月十八日の政変での装束(坊主頭・白鉢巻・大薙刀)から「今弁慶」と呼ばれたとされる。 |
| 人柄 | 「親切者は山南と松原」という言葉が伝わるほど温厚だった、という逸話が残る。 |
| 最期 | 病死とする記録がある一方、切腹未遂・降格などの諸説もあり、断定は避けて整理するのが安全。 |
年表(主要な出来事)
1815頃
誕生
播磨国小野藩の藩士の子として生まれる(文化12年頃)。
安政年間
大坂で道場を開く
「徘徊御免」となったのち、大坂で北辰心要流柔術などを教える道場を開いていたとされる。
1863
壬生浪士組に入隊
文久3年(1863年)5月までに、壬生浪士組(新選組の前身)に入隊していたとされる。
1863
八月十八日の政変(御所警備)
御所警備にあたり、坊主頭に白鉢巻・大薙刀の姿から「今弁慶」の異名を取ったと伝わる。
1864
池田屋事件
土方歳三の隊に属し、戦功を挙げたとされる(報奨金を受けたという記述もある)。
1865
四番隊組長・柔術師範に
慶応元年(1865年)の組織再編で、四番隊組長・柔術師範となる。
1865
死去(最期は諸説)
慶応元年9月1日(1865年10月20日)に死去。病死とする記録がある一方、切腹未遂など諸説が伝わる。
関連事件・出来事
関連人物
ゆかりの地
播磨国小野(出身地)
播磨国小野藩の藩士の子として生まれたとされる。
大坂(道場)
安政年間以降、大坂で北辰心要流柔術などを教える道場を開いていたとされる。
京都・禁裏(御所)周辺
八月十八日の政変では、仙洞御所前や御所南門の警備を担当したとされる。
光縁寺(墓所)
墓所が光縁寺にあるとされる。