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人物図鑑 新選組 文学師範 生年 1839年 没年 1913年

尾形俊太郎

新選組隊士。副長助勤として初期から重用され、諸士取調兼監察・文学師範など"文官"の役割も担った人物。 池田屋事件当夜は留守居役のため不参加。戊辰戦争では目付として転戦し、会津での記録を最後に一時消息不明となるが、 後年の資料解析により熊本に戻り私塾を開いたことなどが伝わる。

人物概要

尾形俊太郎とは

尾形俊太郎(おがた しゅんたろう)は、新選組で副長助勤・諸士取調兼監察・文学師範などを務めた隊士です。 肥後国熊本藩領来民に生まれ、本姓は三嶋、諱は義代。新選組入隊後は近藤勇の信頼も厚く、 江戸での隊士募集や長州出張にも随行し、隊の運営・調査・文書面を支える役割を担いました。 戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いから会津へ転戦し、会津若松城下での宿泊記録を最後に消息を絶った時期もありますが、 2013年に子孫資料(漢詩書など)と文書解析が進み、熊本に戻って私塾を開き大正2年に没したことなどが示されています。

本姓・諱
本姓:三嶋/諱:義代
生年月日
天保10年4月26日(1839年6月7日)
没年月日
大正2年(1913年)6月13日
出身地
肥後国 熊本藩領 来民(現・熊本県山鹿市周辺)
役職(主なもの)
副長助勤/諸士取調兼監察/文学師範/目付/(五番組組頭 など)
特徴
剣客中心の新選組で、調査・文書・教育(文学)面でも重用された"文武両道"タイプ

人物像のポイント

要素ポイント
立ち位置 副長助勤など幹部格に近い役割を担い、近藤勇から信頼されたとされる。
文官的役割 諸士取調兼監察・文学師範として、隊内の調査・文書・教育面を支えた。
池田屋事件 当夜は留守居役を命じられ、襲撃には参加しなかった。
消息と晩年 会津での記録を最後に消息不明となったが、のちの資料解析で熊本帰還・私塾・記念碑などが判明したとされる。

年表(主要な出来事)

1839
誕生
肥後国熊本藩領来民で生まれる(本姓:三嶋)。
1863
新選組に入隊・副長助勤
文久3年5月25日以降の入隊とされ、同年6月の編成で副長助勤を務める。
1864
池田屋事件(留守居役)
池田屋事件当夜は留守居役を命じられ不参加。
1865-1866
長州出張に随行
慶応元年・2年の長州出張に随行。慶応元年4月の編成では諸士取調兼監察方・文学師範に就任。
1867
幕臣取立(見廻組格)
慶応3年の幕臣取立で、副長助勤として見廻組格となる。
1868
戊辰戦争(目付)
鳥羽・伏見の戦いで目付。敗走後に江戸へ戻り、甲州勝沼を経て会津へ。母成峠の戦い後の宿泊記録を最後に消息不明となる。
1869-1913
熊本帰還・私塾(後年に判明)
会津ののち熊本へ戻り、本姓「三嶋」に戻したとされる。山鹿市鹿北町方面に転居し私塾を開くなどの足跡が、後年の資料解析で示された。
1913
死去
大正2年6月13日に死去。

関連事件・出来事

政変1863年

八月十八日の政変

京都政局が大きく動いた政変。尾形は新選組として参加した可能性があるとされる。

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事件1864年

池田屋事件

当夜は留守居役のため不参加。新選組の実戦イメージが定着した事件。

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関連人物

近藤勇
新選組局長。尾形は近藤の信頼が厚く、初期から重用されたとされる。
斎藤一
会津まで同行した副長助勤は尾形と斎藤のみ、とされる。会津若松での宿泊記録にも名が出る。
永倉新八
尾形と同年齢とされる新選組隊士。尾形の来歴説明でも比較対象として言及される。
松本喜次郎
会津の正福寺に伝わる墓の伝承で、尾形姓の墓と並んで言及される人物。

ゆかりの地

熊本・来民(出生地)
肥後国熊本藩領来民に生まれたとされる。
京都(新選組の活動地)
京都市中で新選組の治安活動に従事。池田屋事件当夜は留守居役を命じられた。
会津若松(戊辰戦争)
甲州勝沼を経て会津へ。会津若松城下での宿泊記録を最後に消息不明となった時期がある。
熊本・山鹿市鹿北町(私塾・記念碑)
後年の資料解析により、椎持地区の須屋集落で私塾を開いたこと、多久の原に本人筆の「溝渠疏鑿記念碑」が残ることなどが伝わる。