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事件 新選組 年 1864年 場所 京都・三条木屋町

池田屋事件

1864年(元治元年)6月、京都・三条木屋町の旅宿「池田屋」に集まっていた尊王攘夷派を、新選組が急襲・制圧した事件。 京都での一連の騒乱を未然に防いだ出来事として知られ、新選組の名が広く知られる契機となった。

事件概要

池田屋事件(イメージ)

池田屋事件とは

池田屋事件は、京都の治安を守る任務を担っていた新選組が、池田屋に集まっていた尊王攘夷派を襲撃し、戦闘・逮捕へと至った事件です。 事件の経緯や死傷者数などは資料により幅があるため、このページでは「大枠の流れ」と「影響」を中心に整理します。

発生
1864年(元治元年)6月(旧暦:元治元年6月5日とされる)
場所
京都・三条木屋町の旅宿「池田屋」(現:石碑・案内などが残る)
主な当事者
新選組(近藤勇・土方歳三ら)/尊王攘夷派(長州系を中心とする志士たち)
概要
池田屋に集結していた一派を急襲。乱戦ののち制圧し、死傷者・逮捕者が出た。
影響
新選組の名声が高まり、京都での存在感が一気に増した。のちの政局・武力衝突にも影響。

ポイント(簡潔)

要素ポイント
なぜ起きた?京都での政情が緊迫し、過激な計画(放火・襲撃など)が疑われる中で、情報を掴んだ新選組が動いた。
何が決定的?池田屋での制圧成功により、新選組の実戦力と組織力が強く印象づけられた。
何が残った?新選組の評価(名声)と反発(敵対)が同時に強まり、以後の衝突の火種にもなった。

背景(なぜ池田屋に至ったか)

1864年前後の京都は、幕府・朝廷・諸藩の思惑がぶつかり合い、過激な尊王攘夷派の動きも活発化していました。 新選組は会津藩などの指揮下で治安維持にあたり、密偵や探索によって動向を探っていたとされます。

この事件の"前段"

一部の志士たちが京都で大規模な騒乱を起こす計画を持っていた疑いがあり、 その動きを掴んだ新選組が、集合場所(池田屋)を急襲した----というのが、一般的に語られる骨格です。 ※計画の具体像は史料差があるため、断定しすぎない書き方がおすすめです。

年表(主要な流れ)

1864 初夏
京都の緊迫
京都では尊王攘夷派・諸藩・幕府側の対立が深まり、治安が不安定化。
直前
情報の獲得
新選組が探索・取調べなどから手掛かりを得て、池田屋への急襲へ向かう。
事件当日
池田屋へ突入
近藤勇らが池田屋へ踏み込み乱戦に。のちに増援も加わり制圧へ。
事件後
名声の拡大
新選組の存在が広く知られ、京都での発言力が増す。一方で敵対も強まる。
同年夏
衝突の連鎖
池田屋事件の余波も含め、京都はさらに大きな武力衝突へ傾いていく。

※日付の細部(新暦換算・前後関係・人数など)は資料に差があるため、必要に応じて注記で補強すると信頼性が上がります。

関係人物

土方歳三
新選組副長。部隊運用・増援などを含め、事件対応の中核を担ったとされる。
沖田総司
新選組一番隊組長。池田屋で奮戦したという逸話が多い(体調不良説などは諸説)。
尊王攘夷派の志士たち
長州系を中心に、京都での政変を目指した一派が池田屋に集結していたとされる。

ゆかりの地

池田屋跡(京都・三条木屋町)
事件現場。現在は周辺に石碑・案内表示があり、位置関係を辿れる。
壬生(新選組の拠点)
新選組が活動拠点を置いた地域。事件前後の出動・運営の土台となった。
西本願寺(屯所)
新選組が屯所を置いた場所として知られ、組織運営の拠点の一つ。
アクセス用メモ(地図)