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人物図鑑 新選組 生年 1833/1836年(諸説) 没年 1865年

山南敬助

新選組総長(のち参謀役的立場)として、近藤勇・土方歳三を支えた幹部。 温厚で文武に通じた人物像が伝わる一方、隊の方針をめぐって首脳部と距離が生まれ、 元治2年(1865年)に脱走未遂の咎で切腹したとされる。

人物概要

山南敬助

山南敬助とは

山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ)は、新選組の幹部として知られる幕末の人物です。 当初は副長格として運営を支え、のちに総長として近藤勇の参謀役に近い立場を担ったとされます。 しかし隊の方針(屯所運営など)をめぐり首脳部と対立が深まり、元治2年2月23日(1865年3月20日)に切腹したと伝わります。 ※名前の読み(やまなみ/さんなん)、生年・出身などは資料により差があるため、断定を避けた表記にしています。

読み
やまなみ けいすけ/さんなん けいすけ(両説)
諱(いみな)
知信(とものぶ)
別称
三南三郎 など
生年
天保4年(1833年)または天保7年(1836年)※諸説
没年月日
元治2年2月23日(1865年3月20日)
出身(伝承)
陸奥国・仙台藩※「仙台?」など不確かな記録もあり
剣術
一刀流系(小野派/北辰一刀流など)→ 天然理心流(試衛館)※学習順や詳細は諸説
主な役職
壬生浪士組 副長格 → 新選組 総長

人物像のポイント

要素ポイント
立ち位置現場の実務だけでなく、調整・参謀的役割を担ったとされる幹部。
性格・評判温厚で文武に通じ、隊士や壬生の人々に慕われたという伝承が多い。
葛藤隊の方針をめぐって首脳部と対立が深まり、脱走未遂の末に切腹したと伝わる。
注意点切腹に至る真相や動機は確定しづらく、史料差が大きい。断定を避けるのが安全。

年表(主要な出来事)

1833/1836
誕生(諸説)
陸奥国・仙台藩の出身とされる。生年・家系の細部は資料により差がある。
青年期
学問・剣術修行
江戸で学問や剣術を修め、一刀流系の剣術に通じたとされる(詳細は諸説)。
1863
浪士組に参加
近藤勇らとともに上洛し、浪士組→壬生浪士組へ。運営面でも中心人物となる。
1864
新選組の活動が拡大
池田屋事件などを経て新選組の存在感が増す中、山南も幹部として組織運営を担う。
1864末〜1865初
方針対立(屯所運営など)
屯所のあり方・運営方針などをめぐって首脳部と溝が深まったとされる。
1865
脱走未遂・切腹
脱走未遂の咎で切腹したと伝わる。介錯が沖田総司だったという話もある(伝承)。

関連事件・出来事

事件1864年

池田屋事件

新選組の名声が一気に高まった事件。幹部の山南も事件後の体制強化の中で重要な立場にあったとされる。

公開中読む
出来事1865年

山南敬助の切腹

脱走未遂の咎で切腹したと伝わる出来事。動機や経緯は史料差が大きく、真相は断定しづらい。

準備中読む

関連人物

近藤勇
近藤勇
新選組局長。山南は幹部として近藤を支えたが、方針をめぐり距離が生じたとも伝わる。
土方歳三
土方歳三
新選組副長。規律と実務を担う中心人物で、山南の離脱と深く関わったとされる。
沖田総司
沖田総司
新選組一番隊組長。山南切腹の介錯を務めたという伝承が広く知られる(諸説)。
近藤周助
近藤周助
天然理心流・試衛館の師範。山南が試衛館に出入りし、近藤勇らと関係を深めた背景に関わる。

ゆかりの地

京都・壬生(新選組屯所周辺)
新選組の活動拠点。山南は幹部として隊運営に関わり、壬生の住人にも慕われたという伝承が残る。
旧前川邸(山南切腹の地とされる)
山南が切腹した場所として語られる史跡。現在は見学・展示が行われることがある。
光縁寺(墓所)
京都市下京区。山南敬助をはじめ新選組ゆかりの墓がある寺として知られる。
仙台(出身地とされる)
陸奥国・仙台藩の出身とされる。生誕地の細部は確定しづらく「仙台?」とされる資料もある。