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事件 新選組 御陵衛士 年 1867年(慶応3年) 場所 京都・油小路通(本光寺前/油小路七条周辺)

油小路事件

1867年(慶応3年)11月18日、新選組が御陵衛士(高台寺党)の伊東甲子太郎を暗殺し、 さらに遺体を引き取りに来た仲間を待ち伏せして斬り合いとなった抗争事件。 伊東甲子太郎・藤堂平助らが命を落とし、新選組内部抗争の「最後」とも位置づけられる。

事件概要

油小路事件(本光寺前・油小路通周辺)

油小路事件とは

油小路事件は、新選組から分離した「御陵衛士(高台寺党)」との対立が、暗殺と待ち伏せによって決定的になった事件です。 事件は大きく(1)伊東甲子太郎の暗殺、(2)遺体を巡る待ち伏せ・斬り合い、の二段階で語られることが多いです。 ※人数・細部は史料差があるため、このページでは"流れ"と"影響"を中心に整理します。

発生
慶応3年11月18日(1867年12月13日)
場所
京都・油小路通(本光寺前)/油小路七条の辻(待ち伏せ地点とされる)
当事者
新選組 ↔ 御陵衛士(高台寺党)
主な犠牲者
伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助
位置づけ
新選組と御陵衛士の抗争/新選組内部抗争の最後とされる

ポイント(簡潔)

要素ポイント
何が起きた? 伊東甲子太郎が帰路に暗殺され、遺体を引き取りに来た仲間が待ち伏せを受けて斬り合いになった。
なぜ重要? 新選組の分裂が"武力衝突"として表面化し、以後の新選組の立場にも影響した。
注意点 動機(近藤暗殺計画の有無など)や出動人数は諸説あり、断定しすぎない記述が安全。

背景(なぜ対立が起きたか)

御陵衛士(高台寺党)は、新選組参謀だった伊東甲子太郎が新選組を離脱して結成した一派とされます。 御陵(天皇陵)を守る名目で活動し、拠点を高台寺の塔頭・月真院に移したことから「高台寺党」と呼ばれました。

動機・真相は「諸説」

「伊東が近藤暗殺を企てたため新選組が先手を打った」とする見方がある一方で、 そもそも暗殺計画自体が無かったとする説もあり、評価は分かれます。 また、長州処分など政治方針をめぐる対立が背景にあったともいわれます。

※人物の評価が割れやすいテーマなので、「〜とされる」「〜という説がある」を基本にすると読みやすく、信頼性も上がります。

年表(主要な流れ)

1867年
3月
御陵衛士(高台寺党)の結成
伊東甲子太郎が新選組を離脱し、御陵衛士を結成したとされる(人数など諸説)。
1867
6月頃
拠点を月真院へ
高台寺の塔頭・月真院へ拠点を移し、「高台寺党」とも呼ばれる。
1867年
11月18日
伊東甲子太郎の暗殺
近藤の招きで酒宴ののち、帰路の油小路通(本光寺前)で新選組隊士らに襲撃され絶命したとされる。
同日夜
遺体を巡る待ち伏せ
新選組が油小路七条の辻へ遺体を置き、引き取りに来た仲間を待ち伏せしたとされる。
同日夜
斬り合い・犠牲者
藤堂平助・服部武雄・毛内有之助らが討死。逃れた者もいたとされる。
事件後
御陵衛士は弱体化
中核が失われ、高台寺党は壊滅的打撃を受けたとされる。

関係人物

近藤勇
新選組局長。伊東を招いて酒宴を開いたという経緯が語られる(詳細は諸説)。
補足(出動隊士は諸説)

事件に出動した新選組隊士は「17名~40・50名」など幅があり、 具体名も"出動した可能性がある"として列挙されることがあります(大石鍬次郎、原田左之助、永倉新八、斎藤一 ほか)。 ページ内では断定を避けるのがおすすめです。

ゆかりの地

本光寺前(伊東甲子太郎外数名殉難跡・石碑)
京都市下京区・油小路通木津屋橋上る東側(本光寺前)。 「伊東甲子太郎外数名殉難跡」の石碑があり、事件を辿れる地点として知られる。
油小路七条の辻(待ち伏せ地点とされる)
伊東の遺体が置かれ、引き取りに来た仲間を待ち伏せした場所と語られる。
高台寺・月真院(御陵衛士屯所跡)
御陵衛士(高台寺党)の拠点。現地には「御陵衛士屯所跡」の石碑があると紹介される。
アクセス用メモ(地図)