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人物図鑑 新選組 五番隊 生年 不詳(諸説) 没年 1867年

武田観柳斎

新選組・五番隊組長。甲州流軍学を学んだ軍学者として、調練(訓練)や隊の運用面で重用された人物。 しかし時代が西洋式兵制へ移る中で立場が揺らぎ、離隊後に「銭取橋(竹田街道)」付近で暗殺されたと伝わる。

人物概要

武田観柳斎とは

武田観柳斎(たけだ かんりゅうさい)は、新選組の五番隊組長として活動した隊士です。 もともとは医学生だったとも伝わり、のちに江戸で甲州流軍学(軍事学)を学びました。 新選組に参加してからは、訓練や学問面(文学師範)を担い、近藤勇から重用されたとされます。 一方で隊内では反感を買ったという証言もあり、のちに離隊。慶応3年(1867年)6月22日(新暦1867年7月23日)に、 京都郊外の「鴨川・銭取橋(竹田街道)」付近で暗殺されたと伝わります。

本名
福田 廣(ふくだ ひろし)
諱(いみな)
徳裕(のりひろ)
生年
不詳(1830〜1834頃など諸説)
没年月日
慶応3年6月22日(1867年7月23日)
出身
出雲国 母里藩(松江藩支藩、現・島根県周辺)
専門
甲州流軍学(軍事学)
主な役職
新選組 五番隊組長、文学師範(学問方)、軍事方、副長助勤(時期あり)

人物像のポイント

要素ポイント
役割 「剣の強さ」だけでなく、軍学・訓練(調練)を担う"運用側"の人物として重用された。
強み 交渉・学問・訓練など、隊の裏方を広く支えるポジションにいたとされる。
転機 新選組が西洋式兵制(フランス式など)を取り入れる流れの中で、立場が揺らいだとされる。
最期 離隊後、京都郊外の「銭取橋(竹田街道)」付近で暗殺されたと伝わる。実行犯は諸説。

年表(主要な出来事)

1830年代
誕生
出雲国・母里藩の出身とされる。生年は不詳(諸説)。
江戸期
軍学を学ぶ
江戸で甲州流軍学(軍事学)を学び、「武田観柳斎」を名乗る。
1863
新選組に参加
文久3年(1863年)後半ごろに新選組に参加し、軍学者として重用されたとされる。
1864
副長助勤に抜擢
元治元年(1864年)に副長助勤に抜擢されたとされ、のち五番隊組長や文学師範などを担う。
1864
池田屋事件(出動)
池田屋事件に出動した隊士の一人。古高俊太郎の捕縛に関与したとする説もある。
1866〜1867
立場の揺らぎ・離隊
新選組が西洋式兵制を取り入れる流れの中で、武田の軍学は"古い"ものと見なされ立場が揺らぐ。離隊が認められた時期も諸説。
1867
暗殺(銭取橋)
慶応3年6月22日(1867年7月23日)、京都郊外の銭取橋(竹田街道)付近で暗殺されたと伝わる。

関連事件・出来事

事件1864年

池田屋事件

武田観柳斎は出動隊士の一人。直前の探索や古高俊太郎捕縛への関与は諸説ある。

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事件1867年

武田観柳斎暗殺(銭取橋)

慶応3年6月22日(1867年7月23日)、京都郊外の銭取橋(竹田街道)付近で暗殺されたと伝わる。実行犯は諸説。

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関連人物

近藤勇
新選組局長。武田を軍学者として重用したとされ、離隊時に送別の酒宴があったという伝承もある。
土方歳三
新選組副長。武田の薩摩接触などを疑い、動向を把握していたとする説がある。
伊東甲子太郎
のちに御陵衛士を率いる。武田は伊東への接触を図ったとされるが、受け入れを拒絶されたという説がある。
斎藤一
暗殺の実行犯として名前が挙がることがあるが、当時の状況から否定的に見る説もある(諸説)。

ゆかりの地

出雲国・母里藩(出身地)
松江藩の支藩・母里藩の出身とされる(現・島根県周辺)。
江戸(軍学修行)
脱藩後、江戸で甲州流軍学(軍事学)を学んだとされる。
京都・壬生(新選組屯所周辺)
新選組の活動拠点。武田は訓練や学問面を担ったとされる。
京都・鴨川 銭取橋(竹田街道)
慶応3年(1867年)に暗殺されたと伝わる場所。銭取橋は勧進橋とも呼ばれたという。