第七章:辞世の句 ― 死してなお残る志

幕末の風景イメージ

1. 牢で迎える夜明け前

鶏の声が、まだ届かぬ明け方。
以蔵は、静かに目を開けた。

薄明の光が、鉄格子の向こうから差し込んでいる。
あの夜、筆でしたためた辞世の一首が、まだ乾かぬままの紙の上に置かれていた。
その字は、かすれていたが、力強かった。
まるで、命そのものが墨となって滲んだようだった。

君か為
尽す心は
水の泡
消にしのちそ
すみ渡るべき

尽くしても、裏切られ、踏みつけられ、捨てられる。
けれど、それでよかった。
その尽くす心こそが、自分のすべてだったのだから。

牢の外から、足音が近づいてくる。
いくつもの重い足取り。
誰が来るかは、もう分かっていた。

そのとき、ふと風が吹いた。
牢の隙間から、春の匂いがわずかに忍び込んだ。

――あの日と同じ匂いや。

初めて剣を握り、空に向かって振った、あの春の風。

あのころの自分は、まだ何も知らなかった。
誰を守れるわけでもなく、何を変えられるわけでもなかった。

だが今、すべてを知った。
そして、ようやく静かに死ねる。

以蔵はゆっくりと立ち上がった。
足元はふらつき、鎖が軋んだが、背筋だけはまっすぐに伸ばした。

刀も、名も、すでにこの身には必要なかった。
ただこの魂だけが、すみ渡った空に還ってゆく。

「いこか」

誰に言うでもなく、以蔵はつぶやいた。
それは、旅の始まりのような声だった。

鉄の扉が開く。
光が差し込む。
そして、歩き出す――最期の道を。

2. 「君か為」――その句に込めた想い

処刑台への道は、驚くほど穏やかだった。
京の空は晴れ、夜明けの光が瓦屋根を照らしていた。
囚人の一団に紛れ、岡田以蔵は無言で歩いていた。

罪人の列のなかにあっても、その姿はただ静かで、どこか気高かった。
骸骨のように痩せた体。
焼け爛れた手足。
それでも、その目だけは、何かを見据えていた。

誰に見送られるでもなく。
誰の涙も、届かぬまま。

だが――
以蔵の胸には、確かにひとつの"言葉"が灯っていた。

君か為
尽す心は
水の泡
消にしのちそ
すみ渡るべき

「君」は、誰か――
武市半平太だったかもしれない。
かつて志をともにした同志たちだったかもしれない。
あるいは、名もなき民だったかもしれない。
それとも、"国"そのものだったのかもしれない。

尽くすということは、報われぬと知っていても行うこと。
斬ることでしか信を示せなかった剣士は、
最後の最後に、言葉でその心を遺した。

血で染まった道を歩きながら、
裏切られ、切り捨てられ、忘れられながら、
以蔵はそれでも、静かに「信じた者たち」を愛し続けていた。

水の泡のように、全ては消え去る。
名も、剣も、生きた証も――
だが、そのあとに澄み渡るものが、たしかに心の奥に残っている。

それこそが、以蔵の辞世の句に込められた真意だった。

斬られることを選んだのではない。
斬ることを選び、耐え、そして最後に「剣を置いた」こと。
そのすべての過程が、まっすぐな"生"だった。

句の最後に添えられた墨のにじみは、震える手の証でもあり、
生き抜いた者だけが辿り着ける、澄明な心の結晶だった。

3. 最期の道を歩く

足枷の鉄が、かすかに鳴った。
土の香りと朝露の匂いが混じる、処刑場への道。
その静けさは、奇妙なほど清らかだった。

岡田以蔵は、ゆっくりと歩いていた。

京の町の片隅。
誰も口には出さないが、人々は知っていた。
――今日、"あの男"が斬られる、と。

誰も見ようとはしない。
ただ、家の中から戸を閉じ、息をひそめるようにして、やり過ごす。

けれど、どこかで、ひとつの問いが残っていた。
"あの男は、本当に悪だったのか"――と。

以蔵の顔は、穏やかだった。
剣を抜いたときの鋭さも、拷問に耐えたときの苦悶もなかった。

背筋はまっすぐに伸びていた。
その姿は、処される囚人ではなかった。
まるで、志を終えた一人の男が、旅の終着地へと向かうようだった。

前を歩く役人が、一瞬だけ振り返った。
その目に、何か言葉をかけようとした色が浮かんだ。
だが、以蔵は首を横に振った。

「もう、なんも言わんでええ。...ようやってきたき」

それだけを、小さく呟いた。

処刑台が見えてきた。
木の階段、濡れた板、首を斬るための台座。
だが、以蔵はそこに怯えを見なかった。

手に剣はない。
けれど、心には、最後まで折れなかった"何か"があった。

登壇の前、以蔵は空を仰いだ。
快晴だった。
雲ひとつない、すみ渡る空。

(ああ、きれいや)

その空に、辞世の句が浮かぶ。

君か為
尽す心は
水の泡
消にしのちそ
すみ渡るべき

命は尽きる。
だが、志はすみ渡る。
そう思えたとき、以蔵は、微かに笑った。

そして、ゆっくりと台の上に膝をつき、
己の最期を、静かに受け入れた。

4. 遺された者たち

以蔵が処刑されたことを、坂本龍馬が知ったのは数日後のことだった。
その報せを聞いた瞬間、龍馬は何も言わなかった。
ただ、手にしていた茶碗をそっと置き、しばらく天井を見つめていた。

「......あいつ、泣かずに死んだがか」

問いかけに答える者はいない。
けれど、龍馬には分かっていた。
あの男は、最後まで涙を見せなかっただろう。
自分よりも不器用で、真っすぐで、誰よりも"信じる"ことに命をかけた男だった。

「もし、あと一度だけ話せたなら......剣を捨てても、生きてよかったって、そう言うたかった」

風が吹いた。
その風に、ふとあの声が混じった気がした。

――おまんは前を見い。わしは、もう十分や。

その夜、龍馬は以蔵の辞世の句を、何度も書き写した。
そのたびに、胸の奥に何かが澄み渡っていくのを感じた。

君か為
尽す心は
水の泡
消にしのちそ
すみ渡るべき

一方、土佐に残された以蔵の母、とよもまた、息子の死を知った。
泣き崩れることもなかった。
ただ、小さな仏壇の前に座り、炊きたての米を供え、静かにこう呟いた。

「......あんた、ほんまに、強うなったねえ」

それだけだった。
けれど、その言葉には、母としての全てが詰まっていた。

時が流れ、人々の記憶は薄れていった。
明治という新しい時代が始まり、志士たちの名が教科書に刻まれるようになっても、
岡田以蔵という男の名は、歴史の隅に追いやられた。

ただ、町の片隅では今でも、時折こんな声が囁かれる。

「昔、京に、人斬り以蔵という男がいてな――」
「ほんとうはな、あの人、泣きながら剣を振っちょったらしいぜ」

その声は、風に乗って消えていく。
けれども、澄んだ空を見上げる者の心には、どこかに――
あの男の"志"が、今も静かに息づいているのだった。

エピローグ ――剣なき時代に

時は流れた。
剣で語る時代は過ぎ去り、銃と言葉と経済が国を動かす時代になった。

誰もが名を知る英雄が、歴史の表に刻まれ、
誰にも語られぬ男たちは、その陰に埋もれていった。

だが――岡田以蔵という一人の男の生涯は、
確かに、剣の光と影を知るこの国の"骨"のような存在として、静かに根を張っている。

人を斬る剣は、やがて人に恐れられる。
それでも、誰かを信じ、守りたくて振ったその剣には、
決して軽んじてはならない"祈り"があった。

報われず、誤解され、罵られ、
それでも立ち上がり、剣を握ったその姿は――

いま、私たちが「誰かのために」何かをなそうとしたとき、
心の奥で静かに重なるはずだ。

もしあなたが、まっすぐに誰かを思い、
孤独に立ち尽くし、それでも歩みを止めぬとき――

その足元に、
一人の剣士の影が、
静かに寄り添っているかもしれない。

澄み渡る空の下に
その名もなき志が、
今も、確かに、生きている。

あとがき

この物語を、最後まで読んでいただきありがとうございます。

岡田以蔵という人物は、「人斬り以蔵」として語られることがほとんどです。
史実に残されたのは、血の記録と、悲劇的な最期、そしてわずかな辞世の句――
多くの人々にとって、彼は"恐れられた剣士"でしかなかったかもしれません。

けれども私は、その裏にあったであろう「声にならない感情」「誰にも語られなかった動機」に、耳を傾けたくなりました
彼は、本当に人を斬ることを望んでいたのでしょうか?
もし違うなら、なぜ彼はあれほどまでに剣に、命を懸けたのでしょうか?

物語を紡ぎながら私は、彼の剣の軌跡の中に、"人間らしさ"を見つけようとしていました。
それは時に、醜く、愚かで、不器用なものでした。
けれど、だからこそ美しい――そんな光が、たしかに彼の人生にはあったと思います。

現代に生きる私たちにも、"以蔵のような瞬間"はあります。
報われず、誤解され、それでも信じて動く。
孤独を抱えながら、それでも進まねばならない日々。
そんなとき、彼の姿が、少しでも心に寄り添ってくれたら――
この小説を書いた意味は、それだけで十分です。

最後に。
読んでくださったあなたの心に、
一滴でも"澄み渡るもの"が残っていたなら、
以蔵の人生も、決して水の泡ではなかったと信じます。

ありがとうございました。

――著者