第六章:京で孤立化し捉えられ拷問 ― 裏切りと悟り
1. 裏切りの始まり
その知らせは、風のように届いた。
「以蔵、おまんの名が幕府の追手に漏れちゅう」
囁くように伝えられた声に、以蔵はひとつ頷いただけだった。
驚きはなかった。
すでに何度もそうなる未来を、うすうす予感していた。
近頃、同志たちの口数が減っていた。
目を合わせなくなった。
命を受けることも少なくなった。
代わりに、"あの男は危険だ"という噂が、薄く流れていた。
(便利な剣だった)
(けれど今は、口を閉ざせぬ刃となった)
"人斬り以蔵"の名が、仲間の間でさえ"災厄"になりかけている。
誰かが告げたのだろう。
以蔵が何をしたかではなく、何者であるかが、恐れになっていく。
ある夜、隠れ家に戻ると、障子が開け放たれていた。
湯も飯も用意されておらず、迎えるはずの同志の姿もなかった。
違和感に気づいた瞬間、背後で草履の音がした。
振り返ると、黒装束の男たちがいた。
幕府の役人――見廻組の者たちだった。
以蔵は即座に抜刀し、斬りかかった。
だが、屋根の上、軒の影、四方八方から網のように仕掛けられていた包囲に、反撃の余地はなかった。
縄をかけられ、地に伏せたとき、ひとりの役人が言った。
「さすがは人斬り以蔵。...だが、裏切り者の末路はこんなもんじゃ」
その言葉に、以蔵は顔を上げた。
「......裏切ったがは、誰ですろうか」
声は静かだった。
痛みも怒りもなかった。
ただ、空っぽなまなざしで、闇を見つめていた。
連行される途中、京の町の灯が見えた。
かつて、自分が守ろうとしたこの町に、誰ひとり、目を向ける者はいなかった。
遠くで、かすかに聞こえたのは、誰かの笑い声だった。
それがあまりに普通で、あまりに遠かった。
(これが、俺の終わりか――)
そう思った瞬間、以蔵は、自分の手の中に、何も残っていないことを知った。
2. 捕縛と拷問の日々
闇に閉ざされた土牢。
湿気と鉄の臭いが混ざった空気が、以蔵の鼻を刺した。
捕えられたその夜から、尋問は始まった。
初めは言葉だった。「誰の命令か」「共謀者は誰か」「裏には誰がいるか」
次第に、言葉は鞭となり、鞭は針金となり、そして火となった。
以蔵は、喋らなかった。
いや、喋れなかった。
痛みの中で、声は上がらず、記憶は曖昧になり、言葉は脳に届かなかった。
爪が剥がれ、指が折られ、足が焼かれても、
以蔵の瞳だけは、濁らなかった。
それだけが、誇りだった。
「なんでそこまで耐えられる?」
役人の一人が、思わず漏らした。
以蔵は笑った。
それは、嘲りでも誇示でもなかった。
ただ、笑う以外に残っているものがなかった。
「痛みは...生きちゅう証ながやき...」
ある晩、牢に一枚の紙と筆が投げ入れられた。
「名を書け。同志の名を十書けば、楽にしてやる」
以蔵は紙を見つめた。
筆を取った。
名前を書いた。
――最初の一文字を書いたとき、手が止まった。
その文字の奥に浮かんだのは、焚き火を囲んで笑っていた仲間の顔。
「以蔵、おまん、なんもしゃべらんけど、ちゃんとおるもんな」
かつて吉村が言った言葉が、耳の奥でこだました。
以蔵は、紙を破った。
筆を折った。
翌日、より重い拷問が待っていた。
だが、もう何も感じなかった。
痛みも、怒りも、涙も、すべて、どこかへ流れていった。
血に濡れた指先で、以蔵は自分の胸を叩いた。
――まだ、ここが鳴っちゅう。
それが、剣を捨てても残っていた、唯一の証だった。
3. 剣を手放すという悟り
以蔵はもう、剣を握ることができなくなっていた。
焼かれた指、裂かれた掌、折られた関節――
それらは、物理的に剣を扱う力を奪った。
だが、それ以上に、彼の心が、もう刃を欲しなくなっていた。
土牢の隅、雨漏りの滴が落ちる音だけが時を刻んでいた。
かつて、竹林で素振りを繰り返した日々が、ふいに胸をよぎる。
そのとき握った木刀は、斬るためではなく、守るための剣だった。
――俺は、いつから人を斬る剣になったがや。
その問いが、骨に染み込んだ痛みよりも重くのしかかる。
牢の外では、土佐勤王党が崩壊へと向かっていた。
武市半平太は拘束され、志士たちは散り散りになった。
かつての同志たちの名が、ひとつ、またひとつと消えてゆく。
信じた"志"はどこへ行ったのか。
尽くした"忠義"は何を守ったのか。
――剣では、誰も救えなかった。
それが、以蔵が辿り着いた真実だった。
そしてもう一つ、彼は気づいていた。
剣を手放した今、
自分の中に、初めて"静けさ"が宿っていることに。
かつて、斬ったあとに訪れる沈黙を、恐れていた。
それは、自分が破壊した証だったから。
だが今、剣が手を離れたあとに訪れた静けさは、違っていた。
それは、赦しのような、やすらぎのような、
ほんの一瞬、心がすみ渡る感覚だった。
誰の命令でもない。
誰の評価でもない。
ただ、己の魂の奥にあるものと向き合う時――
そこには、もう"斬る"という選択肢はなかった。
以蔵は、剣を失って、ようやく"剣士"ではなく、"人間"になったのかもしれなかった。
4. 静かな夜と、決意の前夜
処刑の前夜、牢内は不思議なほど静かだった。
拷問の悲鳴も、牢番の怒号もない。
ただ月明かりだけが、鉄格子の隙間から差し込み、以蔵の肩を淡く照らしていた。
肌に染みついた血の痕も、焼かれた指の痛みも、今はもう遠い。
ただ一つ、胸の奥に残っているのは、自分が何のために生き、何のために死ぬのか――
その問いだけだった。
牢番が、筆と紙をそっと置いていった。
「辞世の句を書くがよい」と、一言だけ残して。
以蔵はしばらく、それを見つめていた。
かつて、剣を抜くたびに信じていた"正義"。
命令に従うたびに守ってきた"忠義"。
そのすべてが崩れた今、自分に残ったものとは何か。
彼は震える手で、筆を取った。
指は自由に動かない。それでも、力を込める。
紙に滲む墨が、まるで血のように思えた。
筆先が刻んだのは、たった一首。
> 君か為
> 尽す心は
> 水の泡
> 消にしのちそ
> すみ渡るべき
尽くした心は、水の泡のように消えていく。
だが、泡が消えたあとの水面が、澄み渡っているのなら――
その一生に、悔いはない。
以蔵は、筆を置いた。
今まで何度も命を奪ってきた手が、ようやく何かを"遺す"ことができた。
それは剣よりも深く、強く、生きた証だった。
月は高く昇っていた。
遠くで夜鳥が鳴いた。
その声を聞きながら、以蔵はゆっくりと目を閉じた。
明日、迎えるそのときまで――もう、何も恐れていなかった。