第五章:坂本龍馬・勝海舟との出会い ― 揺らぐ信念
1. 龍馬との再会と"非武の道"
京の町に、早春の風が吹いていた。
剣を抜く夜が続き、心がすり減っていたある日、以蔵は思いがけず一人の男と再会する。
坂本龍馬。
かつての同志。剣を学び、志を語り合った、あの明るく豪胆な男。
「おお、以蔵やないか。生きちゅうがか」
その声は変わっていなかった。
だが、着ているものも、顔の雰囲気も、どこか以前とは違っていた。
剣の臭いが、まったくしなかった。
「今は薩摩とも付き合いがあるき、自由に動いちょる」
龍馬は肩肘張らずに言った。
「もう剣は、振らんがですか」
以蔵が問うと、龍馬はにやりと笑って首を振った。
「剣では国は変えられん。殺しても恨みが増えるだけじゃ」
「けんど、武力なくしては幕府は倒れんがでは...」
「違う。交渉じゃ。知恵じゃ。剣で人を救える時代は、もう終わりちゅう」
言葉が刺さった。
龍馬はさらに続けた。
「以蔵。おまんは、剣がうまい。それは知っちゅう」
「けんど、おまんはほんまは、斬るのが好きな男やない。わしはそれを知っちゅうがぜ」
その言葉に、以蔵は答えられなかった。
ただ、何かを否定するように口をつぐんだ。
「今、おまんが振っちゅう剣は、"誰かの剣"やろ? 先生のため、仲間のため、藩のため......けんど、"以蔵自身のため"にはなってない」
沈黙のなか、以蔵は小さく呟いた。
「...俺には、剣しかないき」
「違う」と、龍馬は静かに言った。
「剣があるから、"剣しかない"と思い込んじゅうだけや。剣を置いてからが、おまんの本当の道ぜよ」
その夜、以蔵は久々に酒を飲んだ。
龍馬と語り、笑い、泣きはしなかったが、胸の内は波立っていた。
剣の道しかないと思っていた。
だが今、その道の先に、果たして"生"があるのか。
それとも、待つのはただの"終わり"か。
坂本龍馬は、何も持たず、何も斬らず、それでも前へ進んでいるように見えた。
以蔵は、その背を見ながら、心の奥で初めて――
"剣のない自分"を想像しようとした。
2. 勝海舟との対話 ― 時代を読む男
「海舟先生、お人が来ちょります」
そう言って坂本龍馬が案内した先には、一人の男が黙って立っていた。
やせ細った体。日に焼けた顔。目には深い影。
勝海舟は一瞥しただけで、その男の内側を見抜いた。
「おまえが、岡田以蔵か」
その声音は静かで、鋭くもなく、柔らかすぎもしない。
ただ、まっすぐだった。
以蔵は深く頭を下げた。
緊張というよりも、どこか警戒していた。
剣を使わずに国を動かす――
その力を持つ男の前に立つことは、剣士である自分を否定される気がしたのかもしれない。
「おまえ、剣で何人、斬った?」
その問いに、以蔵は答えなかった。
数えたことはあった。
だが、数えること自体が、もう意味をなさないと悟っていた。
「剣はな、人を救う道具や」
勝の声は、まるで以蔵の迷いを見透かすようだった。
「けんど、おまえの剣はもう、"斬ること"が目的になっとる」
以蔵は、拳を握った。
胸の奥が、ざわざわと軋んだ。
「......じゃあ、俺は何のために剣を学んだがですか」
「それは、おまえが決めることや」
勝は淡々と答えた。
「剣は道具や。その先に、何を見るかで価値が決まる」
以蔵は、勝の目を見た。
その目には、争いの疲れも、恐れもなかった。
まるで、すべてを俯瞰している者のようだった。
「おまえの剣は、美しい。けんど、悲しい」
勝の言葉は続いた。
「人を斬って人を救える時代は、終わりかけとる。これからは、言葉と理(ことわり)で国が動く。剣は、いずれ捨てられる」
以蔵は言葉を失った。
「捨てられる」
それは、自分が"いずれ不要になる"ことを告げる言葉だった。
だが、そのとき初めて、以蔵は思った。
(もし本当に、剣がいらなくなる時代が来るのなら――)
誰かを守るために斬らなくてもよかった未来。
勝海舟は、最後にこう言った。
「おまえの剣には、魂がある。
魂のある剣は、いずれ、振れなくなる日が来る。
それが、"人"や」
その言葉は、以蔵の胸に深く突き刺さった。
そして、じわじわと、癒えることのない傷となった。
3. 消せぬ血と、消えぬ名
雨が降っていた。
京の石畳を濡らす音が、胸の奥にぽつぽつと落ちてくるようだった。
以蔵は、寺町通の外れに腰を下ろしていた。
刀を抱え、背を丸め、ただ人の往来を見つめていた。
勝海舟と別れてからというもの、以蔵の中には、言葉にならぬ重さが居座っていた。
(俺の剣は、もう"斬る"ことしかできんのか?)
通りを歩く人々は、誰もが何かを持っていた。
商いの帳面、子を抱える腕、荷物を背にする者、笑いながら歩く者。
誰も、刀を持ってはいなかった。
自分だけが、血の匂いを纏っていた。
その夜、久々に仲間たちと顔を合わせた。
以蔵の顔を見て、誰もがわずかに眉をひそめたが、言葉にはしなかった。
「次の命が下った」
そう言ったのは、かつて共に酒を酌み交わした同志だった。
以蔵は、一瞬だけ目を閉じた。
「......その者は、何をした?」
問いに、誰も明確に答えなかった。
「幕府の間者らしい」「噂や」「確証はない」――
声がばらばらに飛び交い、何も核心には届かなかった。
それでも、皆が言った。
「おまえが行け。おまえなら確実じゃ」
以蔵は、頷かなかった。
ただ、黙ってその場を立ち去った。
血を流すたびに、名が広まる。
恐れられ、語られ、そして――
誰の記憶にも"人"として残らなくなる。
以蔵は、それが何よりも怖かった。
ある路地で、少年がふと彼を指さした。
「人斬り以蔵や......」
その声に、母親が慌てて子を抱え、以蔵から目を背けた。
自分が守りたいと思った"民"が、自分を見ない。
目を合わせることすら、許してもらえない。
(俺は、何を守ってきたがや......)
それでも、刀は手から離れなかった。
それしか、自分を"自分"と呼べるものが、もう残っていなかった。
剣は、抜けば血を流す。
血は、地に染み、消える。
だが、名は、消えない。
消せぬ血と、消えぬ名――
以蔵はそのふたつを、今も背負いながら、夜の闇に沈んでいく自分を感じていた。