第四章:天誅の名人への道 ― 剣の先にある地獄
1. 闇の中の剣
岡田以蔵の名は、静かに、そして確実に広がっていった。
「一太刀の以蔵」――
そう呼ばれたのは、京の町で二人目の標的を斬った直後のことだった。
斬る動きに、ためらいがなかった。
剣に、情が乗らなかった。
だからこそ速く、正確で、逃さなかった。
以蔵は、自らの剣に"鬼"が棲み始めたことを知っていた。
それでも、止めなかった。
止められなかった。
武市の言葉、仲間の信頼、自分にしかできないこと――
その全てが、剣の動機になっていた。
ある夜のこと。
依頼された標的は、元・同志の男だった。
攘夷に懐疑を抱き、幕府寄りに転じたと噂されていた。
雨が降っていた。
以蔵はその男の家の前で、刀に手をかけていた。
中から聞こえるのは、笑い声。
子どもがいるらしい。
妻も、いるらしい。
以蔵は、刀を握る手に力が入らなかった。
ふと、過去の自分が言った言葉が蘇った。
(俺は、誰かを守るために、剣を振るう)
だが今、剣は誰かの人生を奪うために使われている。
刃を抜くことは、簡単だった。
斬ることも、もう迷いはなかった。
ただ、その帰り道。
以蔵は初めて、通りの小石につまずいて転んだ。
その膝から血が出ても、立ち上がるのに時間がかかった。
「強くなった」と言われても。
「役に立っている」と言われても。
心のどこかで、自分が「壊れ始めている」と分かっていた。
ある日、勤王党の同志が、ぼそりとつぶやいた。
「以蔵が通ったあとは、草も生えんき......」
それは賞賛か、それとも、恐れか。
夜の町で、以蔵はひとりだった。
剣を抱え、人目を避け、誰とも目を合わせず。
斬って得たのは、名でも栄誉でもなかった。
ただ、ひとつの異名――
「人斬り以蔵」。
それは、彼の剣が人の心を離れ、"業(ごう)"へと変わった証だった。
2. 天誅とは正義か
「これが、正義か?」
夜の洛中の屋敷跡にて、以蔵はぼんやりと呟いた。
先ほどまで、そこには人がいた。男が、女が、灯火があった。
今は、ただ血の匂いだけが残っていた。
「勤王党の剣」として、以蔵はすでに十を超える天誅を果たしていた。
密告者、幕府側の密偵、同志を裏切った者。
名を挙げられれば、ただその夜に消えた。
武市からの密命を受けるたび、以蔵は何も問わなかった。
問えば、剣が鈍ると知っていた。
だが、心のどこかで、確かに違和感は募っていた。
ある夜、坂本龍馬と偶然に出くわした。
龍馬は、以蔵の顔を見て、すぐに言った。
「おまん、顔が変わったのう」
「なんのことですろう」
以蔵は目をそらした。
「昔のおまんは、もっと――透明やった。今は、泥にまみれちゅう」
「俺は、先生のために...勤王のために...」
「違う。おまんは今、自分を守るために人を斬りよる。己の"価値"を失うのが怖うて」
言葉が刺さった。以蔵は黙って拳を握った。
だが、反論の言葉は出なかった。
龍馬は、柔らかな口調で続けた。
「以蔵。剣で切れるもんと、切れんもんがある。
信じる気持ちは、剣じゃ切れん。けんど、疑いの目には勝てんのじゃ」
以蔵は、その夜、眠れなかった。
剣が、自分の生きる証であり、そして同時に、自分の存在を濁らせる毒であるように思えた。
翌日、勤王党の同志の一人がこう言った。
「以蔵は便利よ。命じれば確実に斬ってくれる。けんど、あまりに剣が過ぎる者は、いずれ恐れられる」
以蔵は耳を傾けながら、笑った。
――正義のために斬っているはずだった。
――なのに、いつの間にか、自分が"扱われている"側になっていた。
正義とは誰が決めるのか。
剣とは、何のために振るうのか。
それを問うほどに、以蔵は孤独になっていった。
3. 心を削るたびに名が残る
「人斬り以蔵」――
その名は、風の噂より早く京の町に広がっていた。
茶屋の娘が囁いた。
「夜道を歩くとき、あの目と目が合うたら、もう終いや」
旅人の口から漏れた。
「名を聞いただけで、身が震えたわい」
町の子どもが、遊びの中でこう叫んだ。
「鬼が来るぞ!人斬り以蔵や!」
名が残るたび、心が削れていった。
以蔵は、誰とも目を合わせなくなった。
道を歩けば、人が避ける。
名が知れ渡れば渡るほど、彼は"人間"から"影"になっていった。
ある日、子どもが石を投げてきた。
「ばけもん!おまえがまた殺したがやろ!」
以蔵は反応しなかった。ただ黙って歩いた。
だがその声は、剣の一撃よりも深く心を裂いた。
その夜、彼はいつものように刀を研いでいた。
石の上を滑る音が、静寂のなかで響く。
研げば研ぐほど、刃は美しくなる。
それと引き換えに、自分の心はますます濁っていくようだった。
「強いのう」
と、ある同志が笑いながら言った。
「けんど、剣しかない奴は、最後は誰にも必要とされんぜ」
それは冗談だったかもしれない。
だが、以蔵の中では、剣より鋭く残った。
誰かを守るために始めた剣。
それは今、誰からも守られることなく、自分自身を斬っていた。
ある夜、任務の帰り道、以蔵はひとつの屋敷の窓から、灯火のもとに笑う親子を見た。
父と娘。
ただ、それだけの光景だった。
剣の柄を強く握りしめた。
それは斬るためではなかった。
もう何も、壊したくなかったのだ。
けれど、朝が来ればまた命が下る。
また剣を抜き、また斬り、また名が広がる。
斬れば斬るほど、名が残る。
名が残るたび、心は削れてゆく。
――もう、誰も守れちょらん。
その思いだけが、胸の奥で消えずに残った。
4. 武市の命令か、自分の意思か
「以蔵――次の相手は、わしが直接、名を挙げた」
その夜、武市半平太はいつになく静かな口調でそう言った。
火鉢の炎が揺れるなか、以蔵は黙って座していた。
目の前の師の顔が、やけに遠く感じられた。
巻物の端に記された名は、以蔵の記憶にある同志の一人だった。
過去、共に勤王の志を語り、酒を酌み交わしたこともある男――
それが今、「天誅」の対象となっている。
「心苦しいことや。けんど、裏切りに情けは無用や」
そう言う武市の目に、かつての柔らかな光はなかった。
「先生......この人が、ほんまに裏切ったんですろうか」
以蔵が問うたのは、久しぶりのことだった。
武市は一瞬、眉をひそめたが、やがて頷いた。
「わしの目を信じよ。おまんは、剣に迷うな」
その言葉が、心に重く沈んだ。
いつからか、以蔵の剣は"自分の意思"ではなく、"命令"によって動くものになっていた。
最初のころは、それで良かった。
信頼されることが嬉しく、役に立つことが誇りだった。
けれど今――
その命令に、ほんの少しでも"私怨"が混じっていたら?
名のもとに処される者たちが、もしも無実だったら?
その夜、以蔵は剣を抜かなかった。
巻物を手にしながら、ただ座して夜を明かした。
月は静かに登り、そして沈んだ。
それでも以蔵の手は、動かなかった。
翌日、武市の使いが来た。
「昨夜、なぜ行かなかったのか」と。
以蔵は何も答えず、ただ刀を差し出した。
その刃は、いつになく鈍く、重かった。
彼の中で、剣はすでに"武器"ではなくなっていた。
それは、命を運ぶ器であり、自分自身を壊す道具であり、そして――
すでに"振れないもの"になり始めていた。
武市の命令か、自分の意思か。
その境界が曖昧になったとき、以蔵は剣士ではなくなった。
そのときから、彼は"人間"に戻り始めていたのかもしれない。