第三章:土佐勤王党 ― 信じた道の始まり

幕末の風景イメージ

1. 武市半平太との再会と忠義

文久元年の春。
以蔵は、土佐に戻っていた。
剣術修行と、見世物巡りの旅を終え、再び土佐の空を仰いだとき、空はどこか騒がしく見えた。
町の空気は張り詰めていた。武士も町人も、皆、何かを待っているような緊張を孕んでいた。

そんな中、以蔵はある男から手紙を受け取る。

「武市半平太様より、岡田以蔵殿へ。急ぎ、お会いしたいと。」

その名を見た瞬間、以蔵の心は震えた。
幼き頃に憧れた剣の師。土佐の地で誰よりもまっすぐに"志"を掲げた男。
数年ぶりの再会に、以蔵の胸は波立った。

武市は、かつての道場よりも静かな場所にいた。
藩の理不尽に抗うために、自ら「土佐勤王党」という組織を立ち上げ、密かに同志を集めていた。

「以蔵。おまんは、剣の道を進んだようやな」

久々に見るその瞳は、穏やかでありながら、燃えるような光を宿していた。
以蔵はただ黙って、深く頭を下げた。

「土佐の国は、変わらねばならん。いや、この国そのものが、変わらねばならん時が来ちゅう」
「...それは、剣で、変えられるがですか?」

問いを投げかけたのは以蔵だった。
迷いとも、希望ともつかぬ声で。

「剣だけでは、変えられん」
「けんど、剣の力が必要な時もある。誰かが命を張らな、この国は動かん」
武市の言葉は、静かで重かった。

「以蔵。おまんの剣を、俺に貸してくれ。いや、"国"に貸してくれんか」
そのとき、武市は確かに「命令」ではなく「願い」として、そう言った。

以蔵の中で、何かが弾けた。
生きてきた意味が、この一言で報われた気がした。

「先生のためなら...どこへでも行きます」

その言葉に、嘘はなかった。
以蔵は初めて、誰かの「ために」剣を振ろうとしていた。

それが、後に彼の人生を大きく揺るがす選択であることも知らずに――。

2. 志士たちとの日々

以蔵が土佐勤王党に加わってからの数ヶ月、時の流れは風のように過ぎていった。
武市半平太を中心に集まった同志たちは、皆それぞれの理想を胸に抱いていた。

中岡慎太郎――温厚で理知的な男。行動の前に必ず思考を重ね、周囲の信頼も厚い。
吉村寅太郎――熱き情を隠そうともしない快男児。己の激情を時に抑えきれず、剣よりも言葉で道を切り拓こうとする者。

彼らと囲む夜の焚き火、藩の体制を打ち砕く密談、そして誰かの目を盗んで行う志の誓い――
以蔵はその輪の中で、初めて"言葉"の持つ力を知った。

しかし同時に、己の居場所がそこにはないことも、薄々気づき始めていた。

ある夜、中岡がふと以蔵に尋ねた。

「岡田、そなたの志とはなんだ?」
「...志、ですか」
以蔵は、言葉に詰まった。

他の者たちは「尊皇攘夷」「国を変える」「天皇のために」と語っていた。
だが以蔵の胸にあるのは、剣で守りたいという、ぼんやりとした"誰か"の面影だけだった。

「俺には、剣しかありませんき」

そう言うと、中岡は静かに頷いた。

「ならば、その剣で何を守るかを忘れるな。剣は刃先ひとつで、人も国も変える。けんど、それを向ける先を誤れば、ただの鬼にもなる」

以蔵は、その言葉を心に刻んだ。

同志たちは、頭で国を動かそうとしていた。
以蔵は、身体で信じた者を守ろうとしていた。
言葉の剣と、肉体の剣。
どちらも「志」ではあったが、以蔵の剣には、まだその形がなかった。

それでも彼は、朝は誰よりも早く道場を掃除し、夜は薪を運び、指導も受けずに黙々と剣を振った。
言葉で仲間と交われない代わりに、行動で"信"を示すしかなかった。

ある日、吉村がぼそりと漏らした。

「おまん、なんもしゃべらんけど、ちゃんとおるもんな」

その一言が、以蔵にとっては何よりも温かかった。

剣しか持たぬ男が、仲間と共にあるという日々。
それは、いつか壊れる幻だったかもしれないが――
その時、以蔵は確かに、生きていた。

3. 初の密命と暗殺の夜

その命は、あまりに静かに下された。

「岡田。おまんにしか頼めん」

武市半平太は、巻物を一つ差し出した。
封もなく、ただ手渡されたそれには、ひとつの名と居所が記されていた。

「佐野善右衛門――土佐藩の役人。
幕府の命を受け、勤王党の動きを外に漏らしよる。今宵、誅す」

以蔵は問わなかった。
「なぜこの者を斬るのか」ではなく、
「いつ、どこで、どう動くか」だけを理解し、受け取った。

だが、その帰り道、胸の奥に冷たいものがひとつ残った。
これは"戦"ではない。
名乗ることもなく、正々堂々の勝負でもなく、
"暗殺"という、陰に潜む剣だった。

日が落ち、月が霞んだ夜。
以蔵は、草履の音も立てぬよう、静かに京町の路地を歩いた。

佐野善右衛門は、決して悪人には見えなかった。
痩せた背中に疲れを感じるような、ただの男だった。
以蔵は塀の影から、その姿をじっと見ていた。

(この人も、誰かの家族ながやろうか)

そんな思いが、一瞬、脳裏をよぎった。
だが、その瞬間、武市の声が蘇る。

「おまんの剣は、誰かの命を救う剣にもなる。斬るは、悪ではない」

以蔵は息を吸った。
そして、影のように動いた。

一太刀――
刃が風を切る音さえなかった。
男が崩れ落ちる音だけが、石畳に響いた。

以蔵は、手の中の血に濡れた刃を見つめた。
声も出なかった。ただ、手が小さく震えていた。

その夜、彼は道場に戻らなかった。
町外れの小さな川べりに腰を下ろし、ひとりで夜明けを待った。
川のせせらぎの音が、まるで斬った男の息のように耳に残っていた。

(俺がやらなきゃ、誰がやる――)

そう言い聞かせる声が、だんだんと小さくなる。

空が白み始めるころ、以蔵はゆっくりと立ち上がった。
剣を背に、道を歩き出す。

これが始まりだった。
剣に命を預け、血を背負う人生の、始まりだった。