第二章:剣術修行 ― 剣が人生を変える
1. 土佐の道場時代
「見とけよ。あいつ、また来ちゅうぜ」
少年たちの視線の先に、ひとりの若者が黙って立っていた。
岡田以蔵、十六の春。
まだ背も低く、痩せていた。だが、その瞳だけが異様なほど深く光っていた。
だが、郷士の家の出である以蔵には、そこに"居場所"などなかった。
稽古の輪に入るたび、誰かが小さく笑った。
打ち込む竹刀の音に、侮蔑と優越が混じっていた。
それでも以蔵は、一言も発しなかった。
朝、誰よりも早く道場に現れ、黙々と素振りを重ねる。
夕暮れ、誰よりも遅くまで残り、木刀を振り続ける。
血豆が潰れても、腕が上がらなくなっても、彼は剣を手放さなかった。
「おまん、ほんに剣が好きながやねぇ」
ある日、道場主の久保善兵衛が、ぽつりと呟いた。
その口調は、嘲りではなかった。ただ静かな驚きと、少しの敬意がにじんでいた。
ある雨の日、道場の試合で事件は起きた。
体格に勝る上士の子が、以蔵を押し倒し、反則まがいの打ち込みを見舞った。
鼻血を流し、膝をついた以蔵に、周囲はもう終わったと思った。
だが次の瞬間、以蔵は跳ね起き、鋭く踏み込み、まっすぐに面を打った。
打たれた少年はその場に崩れ落ち、道場は静まり返った。
その日の帰り道、久保善兵衛がぽつりと言った。
「お前の剣には、鬼が宿っちゅう。...いや、違うな。誰かを守りたい気持ちが、鬼のように強いだけじゃ」
以蔵は答えなかった。
ただ、剣が自分を裏切らないことだけを、信じた。
剣を振るたび、母の笑顔が浮かんだ。
剣を振るたび、孤独が消え、自分が"この世界に存在している"ことが分かった。
それが、岡田以蔵という剣士の始まりだった。
2. 剣の意味を問う師との対話
夏が終わるころ、以蔵の剣は誰の目にも一目置かれるものになっていた。
打ち合いの中での間合い、反射、判断。どれを取っても、年上の門弟を凌駕していた。
それでも、以蔵の顔に誇りの色はなかった。
人の目を避けるように稽古を終え、掃除をし、最後まで黙って道場を後にする。
強くなれば、何かが変わると思っていた。
けれど、心の奥に宿った静かな空虚は、どれだけ打ち込んでも満たされなかった。
ある晩、以蔵は道場に一人残っていた。
外は細かい雨が降っていた。縁側の灯りが揺れ、木刀を握る以蔵の影が、静かに床板に伸びていた。
「まだやっちゅうのか」
背後から声がした。振り向くと、道場主の久保善兵衛が、笠を脱ぎながら立っていた。
灯りに照らされたその顔は、疲れたようでいて、どこか優しげだった。
「剣とは、そんなに面白いか?」
善兵衛の問いに、以蔵は答えなかった。
ただ、握った木刀に視線を落とした。
「おまん、剣にすがっちゅうのやないか?」
「...すがる、とは違う」
以蔵が、ぽつりと呟いた。
「剣を振っていれば、消えそうなもんが、ぎりぎりで繋がっちゅう。そんな気がするがです」
善兵衛はしばらく黙っていた。
そして、縁側に腰を下ろし、竹刀を見つめた。
「わしはな、剣というのは"道"やと思う。斬るためやない。進むためや。己の中の弱さ、迷い、恐れ――そういうもんと向き合うための道や」
以蔵は、思わず息を呑んだ。
その言葉は、鋭く、しかし深く胸の奥へと染み込んでいく。
「けんど、その道には、ひとつだけ罠がある」
善兵衛は、ゆっくり言葉を続けた。
「斬ったあとに残る静けさは、時に人の心を奪う。なぜか分かるか? それは、"もう何も考えずに済む"からや。考えることをやめてしまうと、人は剣に飲まれるがや」
以蔵は、膝に置いた木刀を見つめながら、そっと答えた。
「俺はまだ、斬ったことはない。...けんど、たぶん、その静けさに憧れちゅう」
善兵衛は深く頷いた。
「そうやろうな。だからこそ、おまんの剣には"鬼"が宿る。けんど、それが"人"であり続けるか、"鬼"になるかは、これからのおまん次第や」
外の雨音が、ふと止んだ。
夜の土佐に、風がひとつ吹き抜けた。
以蔵はその夜、何度も木刀を構え直した。
誰に見せるでもなく、ただ一人で。
剣は、振れば強くなる。
だが、それが正しい道かどうかは、誰も教えてはくれない。
3. 見世物剣士としての苦悩と誇り
「次は土佐の鬼、岡田以蔵の登場じゃあ! 見とれよ、竹をも裂く、その太刀筋!」
男の声が響くと、観客のざわめきがひときわ大きくなった。
野原に組まれた簡素な舞台の上。夜店の灯が揺れ、人々の顔が橙に染まる。
その中央に、以蔵は立っていた。
黒い道着に素足、手には木刀――
舞台の向こうには、五本の竹が立てられている。
その間を風のようにすり抜け、音もなく一太刀。
竹が「ザクリ」と音を立てて割れた。
観客から歓声とどよめきが起こる。
「やっぱり以蔵じゃ!」
「見事な太刀じゃ、まさに人斬りの腕前よ!」
以蔵は、目を伏せたまま舞台を降りた。
拍手も喝采も、彼の心には何も届かない。
ただ――疲れていた。魂が、どこかで乾いていた。
これも「修行」の一環だと、道場主は言った。
上京の費用を稼ぐため、力を見せ、銭を得る。それが、武士になれぬ者の道だと。
だが、以蔵の心のどこかは知っていた。
これは"強さ"ではなく、"見せ物"だと。
斬ることの意味も、剣の道の重さも、そこにはなかった。
ある日、舞台の裏手で、子どもが彼に近づいた。
「ねえ、剣士さん。どうやったら、あんなに強くなれるが?」
以蔵は答えられなかった。ただ目を伏せて、静かに立ち去った。
その夜、酒場の隅で、興行仲間の男――かつて浪人だったという壮年が、以蔵に言った。
「おまえは剣が上手い。けど、それだけじゃ、人は救えんぞ」
「救う...?」
「そうだ。誰かを守るために振るう剣と、銭を稼ぐために振るう剣は、似て非なるもんだ。どっちも命を懸けるが、終わったあとに残るものが違う」
以蔵はその言葉を、胸の奥で反芻した。
自分が剣を振るう理由とは何か。
あのときと同じ、何かが胸に刺さっていた。
それでも彼は、次の夜もまた舞台に立った。
観客の目の前で竹を裂き、的を貫き、人々に「おお」と言わせた。
剣を振るうことでしか、生きる道がなかった。
それが誇りであると同時に、深い呪いでもあった。
以蔵は知らぬふりをして、ただ前を見つめる。
この剣が、いつか"ほんとうに守るべきもの"を斬らずに済む日が来ることを、心のどこかで願いながら。