March 2011
新撰組、山南総長のこと ~後編~
今年は、山南忌に間に合わなかったのですが、お彼岸の入りの日である18日に光縁寺へ行くことができました。西本願寺、壬生寺へお参りした後、八木邸の前を通り、旧前川邸を訪れ、光縁寺へ向かいました。
光縁寺では、山南敬助のお墓にお線香を供えた後、本堂に上がってお参りさせていただきました。複数のお位牌が並んでいる真ん中には、東北関東大震災で亡くなられた方のために光縁寺のご住職がつくられた白木のお位牌がありました。
そして、その右隣りには、山南総長のお位牌がありました。東北関東大震災犠牲者のお位牌の隣に仙台藩出身の山南敬助のお位牌があるということに、とてもご縁を感じました。
山南さんのお位牌の前で掌を合わせたら、昨年とは違った感覚がしました。昨年は、会いに来てくれてとっても嬉しい、という感覚だったのですが、今年は、何か大切なことを託されたような感覚がありました。
新撰組の前身が浪士組であったこと、山岡鉄舟が浪士組の取締役であったことは、前々回のブログに書きました。鉄舟は幕臣でしたが、最期の最後まで、共に学びあった幕末の志士たちがいたことを、けして忘れていませんでした。
山岡鉄舟は、山南敬助と同じく北辰一刀流の千葉周作の門人です。日本橋の玄武館の門人といえば、坂本龍馬、清河八郎、新選組の藤堂平助、伊東甲子太郎、服部武雄、吉村貫一郎などの幕末維新を代表するような志士たちです。志を持った者同士、同じ千葉周作の弟子、玄武館道場の門下生として、ともに学びあい、助け合った仲だったのかもしれません。
山岡鉄舟は、明治16年、幕末維新の国事に殉じた人々の菩提を弔うために、東京都台東区谷中に全生庵を建立しました。谷中といえば、15代将軍徳川慶喜のお墓がある谷中霊園が有名です。著名人のお墓が多いたいへん大きな霊園なのですが、慶喜公が眠るこの地に、幕末の志士たちの御霊を弔うお寺を建立した鉄舟という人物の懐の深さ、心根の奥深さを感じずにはいられません。
これからの時期に訪れたい山岡鉄舟ゆかりの地、おすすめスポットは、谷中霊園、全生庵、寛永寺、上野の彰義隊慰霊碑(山岡鉄舟書)です。ぜひ、訪れてみてください。
桜の季節に、亡くなった方の想い、命の尊さを、いまいちど考えてみたいと思います。
合掌
[ 2011年03月28日20時13分29秒 ]
こんな時こそ
こんにちは。「山岡鉄舟とその時代」執筆者です。
東北地方では、史上最大と言われているマグニチュード8.8の大地震で、宮城県では連絡が取れなくなっている市町村があると報道されています。私が住んでいる、埼玉県でも、先週の月曜日から余震があり、3月11日の金曜日には、震度5の地震が起きてしまいました。
こんなことは、かつてあったでしょうか。阪神淡路大震災でも、その町が全滅するということはあったのでしょうか。繰り返しテレビで流される、家や畑、道路が津波に飲み込まれていく映像に、自然の膨大な威力と人間の無力さを感じずにはいられませんでした。このような非常時にあっても、お互いを思いやり、助け合う日本人の姿が、外国の方からは賞賛に値するほどの行動と見られ、「地学的、歴史的に経験がある事を差し引いても日本人の特異性、規律性、自律性、協調性を私達こそ学ばなければならない。」と、たたえられています。
非常時における、山岡鉄舟の行動力は、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と、西郷隆盛から賞賛されるほどでした。
実家のお寺には、関東大震災のときに亡くなった方々の慰霊碑があります。関東大震災が起こった当時、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが飛び交い、このデマによって殺された朝鮮人の方がたくさんいたそうです。
お寺の墓地の一角に、このデマによって殺された朝鮮人の方のお墓があります。この方のお墓がもとになって、現在の慰霊碑ができたのです。
関東大震災で亡くなった方たちや、生き残った方たちは、子孫が自分たちと同じように亡くなったり、過ちを犯してほしくないと願っていることでしょう。
慰霊碑に般若心経をあげ、祈りを捧げさせていただきました。
「命」は大切です。
そのために、自分はどんな行動が起こせるのか。
今一度考えていきたいと思います。
皆様のご無事をお祈りしています。
感謝
[ 2011年03月13日09時38分38秒 ]
新撰組、山南総長のこと ~前編~
3月になりましたね。 だいぶ、いえ、かなり、ご無沙汰してしまいました。
前回のブログを書いてから、個人的にとっても忙しくて、常に自分との闘いが続いていましたが、ようやく余裕ができてきました。今月は、4月から始まる新しい環境に備えての準備期間だと定めて今までのことを振り返っています。
さて、昨年の3月の頃はといえば・・、思い返せば、大河ドラマ「新撰組!」のDVDにはまっており、壬生寺に行ってみたい!八木邸に行ってみたい!ということで、京都へ出かけて行ったことを思い出しました。
新撰組の前身は、浪士組です。山岡鉄舟は、浪士組の取締役でありました。大河ドラマでは、新撰組隊士の生き方が非常にドラマチックに描かれていました。幕臣である鉄舟よりも、浪人であったり、農民や商人の出身であった新撰組の隊士が脚光を浴びるのも、身分が平等な今の時代だからなのでしょう。
昨年3月の第2日曜日、午前中に壬生寺から八木邸へ向かい、その後は人の流れに沿って光縁寺に向かいました。人通りが多いと思っていたら、ちょうど旧前川邸で、新撰組総長だった山南敬助の山南忌がおこなわれていました。
光縁寺では、山南敬助のお位牌を拝むことができました。手を合わせたら、喜んでくれているような、なんだか魂の深い部分でジーンとくるような、不思議な感覚がしました。
今から145年前、山南敬助は、1865年(元治2年)3月20日に、旧前川邸で33歳の生涯を閉じました。山南は、文武両道の人で、性格は、心優しくて温厚だったそうです。出身地は、仙台で、脱藩して江戸に出たとされています。小野派一刀流の免許皆伝の凄腕で、北辰一刀流の千葉周作の門人となり、自身の腕前を試すべく天然理心流の道場である試衛館で他流試合を挑み、近藤勇の剣の腕前や人柄に感服して、近藤を慕うようになったといわれています。
1865年(元治2年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走したとされています。屯所の移転問題や病気だったという説、けがをしたために隊士として戦えなくなっていたという説など、山南が脱走した理由には諸説あって真相はわからないようですが、今や、その人物像がクローズアップされ、さらに、「新撰組!」山南敬助役の堺雅人さんによって人気者になった山南敬助は、その生涯を武士として生き、切腹して果てるという死に様が、多くの人の心に届き、山南敬助という人物の人柄と生きざまを、深く印象づけることになりました。
また、今年もたくさんの方が、光縁寺と旧前川邸を訪れることでしょう。
山南さんのお位牌の前で掌を合わせると、「よく来てくださった」と、喜んでくださいますよ。
みなさんも、山南さんにご挨拶する気持ちで光縁寺を訪れてみてください。
[ 2011年03月01日19時33分07秒 ]
鉄太郎