新撰組、山南総長のこと ~後編~
今年は、山南忌に間に合わなかったのですが、お彼岸の入りの日である18日に光縁寺へ行くことができました。西本願寺、壬生寺へお参りした後、八木邸の前を通り、旧前川邸を訪れ、光縁寺へ向かいました。
光縁寺では、山南敬助のお墓にお線香を供えた後、本堂に上がってお参りさせていただきました。複数のお位牌が並んでいる真ん中には、東北関東大震災で亡くなられた方のために光縁寺のご住職がつくられた白木のお位牌がありました。
そして、その右隣りには、山南総長のお位牌がありました。東北関東大震災犠牲者のお位牌の隣に仙台藩出身の山南敬助のお位牌があるということに、とてもご縁を感じました。
山南さんのお位牌の前で掌を合わせたら、昨年とは違った感覚がしました。昨年は、会いに来てくれてとっても嬉しい、という感覚だったのですが、今年は、何か大切なことを託されたような感覚がありました。
新撰組の前身が浪士組であったこと、山岡鉄舟が浪士組の取締役であったことは、前々回のブログに書きました。鉄舟は幕臣でしたが、最期の最後まで、共に学びあった幕末の志士たちがいたことを、けして忘れていませんでした。
山岡鉄舟は、山南敬助と同じく北辰一刀流の千葉周作の門人です。日本橋の玄武館の門人といえば、坂本龍馬、清河八郎、新選組の藤堂平助、伊東甲子太郎、服部武雄、吉村貫一郎などの幕末維新を代表するような志士たちです。志を持った者同士、同じ千葉周作の弟子、玄武館道場の門下生として、ともに学びあい、助け合った仲だったのかもしれません。
山岡鉄舟は、明治16年、幕末維新の国事に殉じた人々の菩提を弔うために、東京都台東区谷中に全生庵を建立しました。谷中といえば、15代将軍徳川慶喜のお墓がある谷中霊園が有名です。著名人のお墓が多いたいへん大きな霊園なのですが、慶喜公が眠るこの地に、幕末の志士たちの御霊を弔うお寺を建立した鉄舟という人物の懐の深さ、心根の奥深さを感じずにはいられません。
これからの時期に訪れたい山岡鉄舟ゆかりの地、おすすめスポットは、谷中霊園、全生庵、寛永寺、上野の彰義隊慰霊碑(山岡鉄舟書)です。ぜひ、訪れてみてください。
桜の季節に、亡くなった方の想い、命の尊さを、いまいちど考えてみたいと思います。
合掌
こんな時こそ
こんにちは。「山岡鉄舟とその時代」執筆者です。
東北地方では、史上最大と言われているマグニチュード8.8の大地震で、宮城県では連絡が取れなくなっている市町村があると報道されています。私が住んでいる、埼玉県でも、先週の月曜日から余震があり、3月11日の金曜日には、震度5の地震が起きてしまいました。
こんなことは、かつてあったでしょうか。阪神淡路大震災でも、その町が全滅するということはあったのでしょうか。繰り返しテレビで流される、家や畑、道路が津波に飲み込まれていく映像に、自然の膨大な威力と人間の無力さを感じずにはいられませんでした。このような非常時にあっても、お互いを思いやり、助け合う日本人の姿が、外国の方からは賞賛に値するほどの行動と見られ、「地学的、歴史的に経験がある事を差し引いても日本人の特異性、規律性、自律性、協調性を私達こそ学ばなければならない。」と、たたえられています。
非常時における、山岡鉄舟の行動力は、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と、西郷隆盛から賞賛されるほどでした。
実家のお寺には、関東大震災のときに亡くなった方々の慰霊碑があります。関東大震災が起こった当時、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが飛び交い、このデマによって殺された朝鮮人の方がたくさんいたそうです。
お寺の墓地の一角に、このデマによって殺された朝鮮人の方のお墓があります。この方のお墓がもとになって、現在の慰霊碑ができたのです。
関東大震災で亡くなった方たちや、生き残った方たちは、子孫が自分たちと同じように亡くなったり、過ちを犯してほしくないと願っていることでしょう。
慰霊碑に般若心経をあげ、祈りを捧げさせていただきました。
「命」は大切です。
そのために、自分はどんな行動が起こせるのか。
今一度考えていきたいと思います。
皆様のご無事をお祈りしています。
感謝
新撰組、山南総長のこと ~前編~
3月になりましたね。 だいぶ、いえ、かなり、ご無沙汰してしまいました。
前回のブログを書いてから、個人的にとっても忙しくて、常に自分との闘いが続いていましたが、ようやく余裕ができてきました。今月は、4月から始まる新しい環境に備えての準備期間だと定めて今までのことを振り返っています。
さて、昨年の3月の頃はといえば・・、思い返せば、大河ドラマ「新撰組!」のDVDにはまっており、壬生寺に行ってみたい!八木邸に行ってみたい!ということで、京都へ出かけて行ったことを思い出しました。
新撰組の前身は、浪士組です。山岡鉄舟は、浪士組の取締役でありました。大河ドラマでは、新撰組隊士の生き方が非常にドラマチックに描かれていました。幕臣である鉄舟よりも、浪人であったり、農民や商人の出身であった新撰組の隊士が脚光を浴びるのも、身分が平等な今の時代だからなのでしょう。
昨年3月の第2日曜日、午前中に壬生寺から八木邸へ向かい、その後は人の流れに沿って光縁寺に向かいました。人通りが多いと思っていたら、ちょうど旧前川邸で、新撰組総長だった山南敬助の山南忌がおこなわれていました。
光縁寺では、山南敬助のお位牌を拝むことができました。手を合わせたら、喜んでくれているような、なんだか魂の深い部分でジーンとくるような、不思議な感覚がしました。
今から145年前、山南敬助は、1865年(元治2年)3月20日に、旧前川邸で33歳の生涯を閉じました。山南は、文武両道の人で、性格は、心優しくて温厚だったそうです。出身地は、仙台で、脱藩して江戸に出たとされています。小野派一刀流の免許皆伝の凄腕で、北辰一刀流の千葉周作の門人となり、自身の腕前を試すべく天然理心流の道場である試衛館で他流試合を挑み、近藤勇の剣の腕前や人柄に感服して、近藤を慕うようになったといわれています。
1865年(元治2年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走したとされています。屯所の移転問題や病気だったという説、けがをしたために隊士として戦えなくなっていたという説など、山南が脱走した理由には諸説あって真相はわからないようですが、今や、その人物像がクローズアップされ、さらに、「新撰組!」山南敬助役の堺雅人さんによって人気者になった山南敬助は、その生涯を武士として生き、切腹して果てるという死に様が、多くの人の心に届き、山南敬助という人物の人柄と生きざまを、深く印象づけることになりました。
また、今年もたくさんの方が、光縁寺と旧前川邸を訪れることでしょう。
山南さんのお位牌の前で掌を合わせると、「よく来てくださった」と、喜んでくださいますよ。
みなさんも、山南さんにご挨拶する気持ちで光縁寺を訪れてみてください。
山岡鉄舟の人気の秘密
私の実家のお寺には、山岡鉄舟直筆の山額があります。
明治初期に火災で焼失した本堂を再建するため、当時の住職に協力して寄進を集めるための、たくさんの書を残したそうです。お寺には、この山額しか残っていないのですが、わずか1年余りで本堂を建て直してしまったそうですから、その人望とパワーは想像もつかないぐらい凄いものだったと思います。
鉄舟の書については、山岡鉄舟研究家の山本紀久雄さんが「山岡鉄舟研究会」のホームページにきれいな写真と素晴らしい解説でわかりやすく書いていらっしゃいます。山本さんの鉄舟研究をお読みになると、当時の時代背景や人間関係、鉄舟の日ごろの様子や心構えなどが見えてきます。
山岡鉄舟の名前は、禅と剣と書に生きた人として海外でも人気があります。禅・剣・書といえば、日本文化の象徴みたいなものです。なにしろかっこいい!禅の修行をしている日本人で、おサムライで、しかもお習字がうまい!と、非常に外国人好みの要素に富んだ人物なのです。むしろ、日本人のファンより外国人のファンのほうが多いのではないか?と思えるぐらいです。とくに、武道をやっている外国人の方にとっては、憧れの存在のようです。
無骨な性格だったと言われている鉄舟ですが、正直で素直な人柄は好かれたようですし、とにかく強かったという逸話がたくさんあります。亡くなるときも、自らの死期を悟って最期の座禅をくみ、そのままの姿勢でなくなったといいます。
とにかく、最後の最期まで非常にかっこよかった。
それが、山岡鉄舟という幕末を生きた人物の人気の秘密です。
現代に生きる私たちも、日本の文化や伝統を見直し、それを日々実践していくことで、外国人もかっこいい!と感じてくれる日本人になれるのです。
かっこいい日本人を目指して生きましょう!
感謝
京都の霊山歴史館に行ってみました
先週の月曜日まで京都にいました。
平安神宮に程近い東山地区に宿泊し、そこから祇園へ行ったり、清水寺近辺へ行ったりしていました。霊山歴史館に行ったのは8月の最終日曜日で、ちょうど大龍馬展Ⅱ期の最終日だったため、とても混んでいました。
坂本龍馬は、中岡慎太郎とともに、慶応3年11月15日に京都の近江屋で暗殺されました(近江屋事件)。京都見廻組実行説、新撰組犯行説、薩摩藩陰謀説、イギリス陰謀説など、実行犯には諸説あります。こちらに展示されている刀は、見廻組の桂早之助が龍馬を斬ったという刀で、テレビでも紹介されていたものでした。この刀の前にしばらく立って眺めていたら、なぜだか急に、からだがぞくぞくしてしまいました。怪しい気迫に満ちた刀なのでした。
帰りに、龍馬と中岡慎太郎のお墓に行ってきました。お墓参りする人やグッズを買っている人がとても多くて、記念撮影している人もたくさんいました。なぜか、当たり前のように福山雅治さんの歌が流れていて、人気の観光スポットになっていました。
暗殺される以前もその直後も、坂本龍馬の名前はあまり知られていませんでした。それほど世間に名前が知られていなかった龍馬が有名になったのは、明治37年の日露戦争前夜に明治天皇皇后(のちの昭憲皇太后)の夢枕に立ち、海軍守護を誓ってからだといいます。
坂本龍馬の素晴らしいところは、立憲制代議政体を構想しつつ、徳川慶喜に対して、大政奉還による打開策をもちかけたことです。幕府や藩はなくしても、慶喜自身の指導力は残していた。討幕ではなく、あくまでも倒幕の姿勢を貫いたというところなのです。
山岡鉄舟が西郷隆盛との準備交渉をおこなったことによって、西郷隆盛と勝海舟らの会談が実現し、江戸城無血開城によって、江戸とその住民を戦渦に巻き込まずに済んだことは、龍馬の望みでもあったのです。
坂本龍馬と山岡鉄舟、ともに時代の表舞台には登場していない人物が、後世に与えた影響は大きく、偉大な手本となったことは、紛れもない事実です。日本人として非常に誇りを感じます。
心から感謝してご冥福をお祈りしたい。
感謝
彰義隊ゆかりの地へ行ってみました
先日、山岡鉄舟研究家の山本紀久雄さんが主宰されている『山岡鉄舟研究会』の例会に参加しました。
この日のテーマは、「彰義隊壊滅の深層」というタイトルでした。
彰義隊が、なぜ一日で壊滅してしまったのかという理由を、「リーダーの情報力と認識差」という視点で、山岡鉄舟研究会会長の山本紀久雄さんがわかりやすく解説してくださいました。
官軍の指揮は、大村益次郎がとっていたのですが、その策が、非常に現実的で、理に適っていたものだったそうです。今の時代は、まさに、大村益次郎のようなリーダーが求められているとのことです。ユニークな切り口のお話しがとっても面白くて、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
次の例会は、7月4日(日)で、上野公園周辺を探索するそうです。
この日(旧暦では、慶応4年5月15日)は、彰義隊が官軍によって壊滅させられた日なので、彰義隊の本拠地となった上野公園と、谷中霊園にある徳川慶喜の墓所や寛永寺周辺を探索する予定だそうです。あまり知られていない、秘密の場所にも連れて行ってくださるそうですよ。
ちょうど、西郷さんの銅像が建っているあたりは、激戦地となったところです。銅像のすぐ近くに、彰義隊のお墓があります。
お墓の文字は、鉄舟が書いたものです。
私はちょうど3ヶ月ほど前に、ここを訪れたのですが、昔のような暗さはなくて、旧友に会ったような、とても懐かしい感じがいたしました。
みなさんも、上野に行く機会があったら、ぜひ、彰義隊のお墓を訪ねてみてくださいね。
時代は坂本龍馬、長崎の龍馬伝館へ行ってきました。
山岡t鉄舟と坂本龍馬の接点は定かではありませんが・・。
中学生の頃から坂本龍馬ファンだった私は、ふたつの龍馬館へ行ってきました。
ひとつは、佐世保のハウステンボスにある「海がつないだ龍馬伝説~龍馬伝館」
http://
もうひとつは、長崎市内にある「長崎奉行所龍馬伝館」
http://
こちらの龍馬伝館は、長崎歴史文化博物館の中にあります。
入り口を入ってすぐのところに、大きな坂本龍馬像と岩崎弥太郎像がありました。こちらは新しくてたいへん綺麗な施設で常設展が充実していました。港の文化を持つ長崎らしい展示品がたくさんあって、非常に興味深くて新鮮な感じがしました。
今回は、坂本龍馬がつくった日本で最初の貿易会社ともいわれる亀山社中があった場所には時間の関係で行けませんでした。残念!
次回は、もっとアクティブに動いてみたいです。
山岡鉄舟は、どんな人物だったか
山岡鉄舟は、江戸城無血開城の立役者で、西郷隆盛と勝海舟の会談を実現させ、江戸を戦火から救った幕臣です。
剣・禅・書の達人として、明治維新後の多くの人材に影響を与えました。明治天皇の教育係として十年間仕え、日本の精神教育や文化に多大な影響を与えたといわれています。
歴史の表舞台に、山岡鉄舟の名前はあまり登場しません。幕末から明治維新にかけて、日本の歴史の大きな転換期になし得た偉業に比べて知名度が低いのは、鉄舟があまりにも無欲の人であったからなのでしょう。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と、西郷隆盛を賞賛させたことからも山岡鉄舟という人物の大きさを推し量ることができます。
鉄舟は、53歳で胃癌で亡くなるまで坐禅を続けました。新撰組の前進である浪士組の取締役であった頃から、常に自分の死や同志の死と向き合いながら生きてきたのでしょう。晩年は、維新で命を落としたたくさんの人々を供養するためのお寺を建立し、多くの廃寺を再興させてきました。言葉にすると簡単ですが、一代では成し得ないような大仕事をいくつも成し遂げてきたのです。
「山岡鉄舟とその時代」は、そのような人物を生み出した時代ー山岡鉄舟という人物を生み出す母体となった時代背景を考察しながら、人の生き方、人生についてじっくり考える機会を作るという目的で開設しました。今の時代を生きる私たちに、大きな恵みを与えてくれることでしょう。
鉄舟が生きた時代に思いを馳せながら、私たちの時代を生き抜きましょう。
合掌
はじめまして。執筆者です!
はじめまして。「山岡鉄舟とその時代」執筆者です。
私が生まれ育ったところは、500年前の室町時代に開かれたお寺です。
明治時代の火災によって本堂が全焼したため、山岡鉄舟が再興したお寺でもあります。
お寺にまつわるエピソードや写真、訪れた史跡や風景などをmixiの日記でも公開しています。
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=1041167
鉄舟が再興したお寺を、今よりも素晴らしいお寺にすることが、私の今後の目標です。
山岡鉄舟が好きな方、お寺が好きな方、文化財を大切に守っていきたい方のご訪問をお待ちしています。
感謝
鉄太郎