専制君主白河院の純愛物語
今回は、清盛の父と噂されていた白河法皇について、ドラマで触れられていなかったお話をさせて頂きます![]()
摂関家御堂流を外戚に持たなかった後三条天皇の第1皇子として誕生した院は、延久5年(1073)に父帝からの譲位を受けて、即位しました![]()
ドラマでは晩年の院の姿が描かれていますが、判明しているだけでも15人の女性の間に、男子が8人・女子が6人の総勢14人もの子供を儲けました
(清盛を含めると15人になりますが・・・
)
この白河院が天皇時代に、最も寵愛していたのが、中宮位に昇った源賢子(みなもとのけんし)でした![]()
彼女は、村上源氏源顕房(みなもとのあきふさ)の娘でしたが、関白藤原師実(ふじわらのもろざね)の養女として、当時、東宮(とうぐう)(皇太子の別名)だった貞仁(さだひと)親王に入内しました![]()
彼女は延久3年(1071)に入内したのですが、この婚姻の背景には、自らの妻麗子(れいし)の姪であった賢子を通して、外戚関係の再構築を画策した師実の思惑があったのです![]()
厳密にいえば、御堂流の血統ではなかった賢子でしたが、4歳年長の白河院の寵愛を一心に受ける事になります![]()
院は彼女との間に、2男・3女を儲けました
第1皇子敦文(あつぶみ)親王出産後、中宮に立后されたのですが、残念ながら、敦文は3歳で夭絶してしまいました![]()
しかし、院の賢子に対する殊遇は変わらず、2年後に第2皇子の善仁(たるひと)親王が誕生します![]()
(この善仁親王が後の堀河天皇で、鳥羽院の父となる人物です
)
若き頃の白河院は、この中宮賢子の他に、御堂流傍流の藤原能長(よしなが)娘の道子(どうし)や、藤原小野宮流経平(つねひら)娘の経子(けいし)を女御に迎えていましたが、賢子の寵愛度合いは、著しく他を圧していたのです![]()
しかし、突然の悲劇が賢子を襲います![]()
応徳元年(1084)、俄かに病を得た賢子は、重態に陥ってしまいました![]()
当時の宮中の慣例として、重病となった后妃は退出して、里内裏等に移る事が仕来りとなっていました![]()
天皇は死後の穢れに触れる事は許されないというのがその理由でありましたが、白河院は最早絶望的な病状であった賢子の退出を許さず、彼女の臨終に立ち会いました
そして、冷たくなった彼女の亡骸を抱きしめて号泣したと言われています![]()
院のあまりの悲嘆ぶりを見かねた、院側近源俊明(みなもとのとしあきら)は、『帝は穢れ触れてはいけませぬ
』と忠告し、屋敷を移る事を勧めたのですが、院は・・・
『例は此よりこそ始まらめ
』と言って聞き入れなかったと
れています
悲しみの余り、院は暫く食事すらも摂る事が出来なかったといわれています![]()
『天皇が后妃の死に立ち会う先例は自らが作る
』という趣旨の発言だったと思われますが、若き日の白河院の激情がほとばしる逸話として、よく知られてます![]()
時に賢子、享年27歳![]()
未だ、春秋に富んだ佳人の惜しまれた逝去でありました![]()
最愛の女性であった賢子を失った白河院は以後、60歳近くになる迄、多くの女性と見境なく関係を結ぶ事になるのです![]()
そして、前述した通り、晩年の寵姫として知られる祇園女御を見初める事になります![]()
白河院の若き日における、純愛物語でした![]()
清盛の母についての一考察
清盛の母親についてですが、こちらは父親以上に判別が難しいと思われます![]()
今までの説を簡単に眺めてみますと・・・![]()
①祇園女御生母説
白河院の晩年の寵姫だった祇園女御については、生没年とも全くの不祥であります![]()
元は、身分の卑しい白拍子上がりだったと言われていますが、確かな事はわからないみたいです![]()
しかしながら、どの様なルートを辿ったのかは不明ですが、白河院の側に侍った折に、その美貌に魅かれた院の寵愛を受ける様になったのだと考えられます![]()
一躍、時代の寵児となった彼女の周りには、院の御贔屓にあやかりたいという貴族達が群れを為す様になりました![]()
彼女の歓心を買う事はそのまま、白河院への覚えが目出度くなり、早い話、出世への糸口を掴む事になる訳です![]()
平正盛も、祇園女御の仲介によって自領の荘園を院に寄進しており、院との大きなパイプを作ったのです![]()
この祇園女御こそが、清盛の生母であるのではという説は、かなり以前から専門研究者近辺では囁かれていました![]()
巷説によると、祇園女御はお腹に院の子供を宿した時に、平忠盛に下げ渡された(拝領妻ですね
)といわれていますが、彼女の推定される年齢に落とし込むと、譲り受けた忠盛よりも遙かな年上女房になってしまいます![]()
それ故、彼女を清盛の母親とする説には無理ありとの事で、現在ではあまり有力視されていないみたいです![]()
②祇園女御妹もしくは縁者説
近年ではこの説が定説化しつつあります
白拍子出身だったとされる女御の妹や縁者達も、同じ仕事を生業としていた可能性は大いにあり得ると思われます
また、この時代、姉妹で同じ人物の侍妾になるケースもいくつかあったみたいです![]()
好例として、白河院の後宮には、うれしき・いわいを(人の名前です)という姉妹の女御が院に仕えていました
(2人は共に加茂女御と呼ばれていました
)
この様な実例が存在する事から考えても、祇園女御の妹または、その縁者が女御と同じ時期に白河院に近侍していても何の不思議もなかったのではないかと考えられます![]()
その彼女の妹か縁者に院の手が付いた結果、身籠ってしまい、始末に困った院は祇園女御と相談して彼女を平忠盛に身重のままで下げ渡したのではないか
とタケ海舟は推測しています![]()
ところで、祇園女御は晩年の白河院に最も愛された女性であったのですが、彼女は遂に院の子供を産む事は出来ませんでした![]()
仮にもし、女御が院の皇子を産んだとしたら、白河院政末期の大きな波乱を巻き起こしていた可能性は、甚大だったと言えるのではないのでしょうか![]()
(あくまでも仮説ですが・・・)
ここで、タケ海舟の素朴な疑問ですが、何故祇園女御は妹または自分の縁者が生んだ男の子(これこそ清盛
)を自分の養子(猶子)として引き取らなかったのでしょうか![]()
正盛以来、女御と伊勢平氏との関係は極めて良好だったと思われます、引き取った経緯をも十分熟知していた正盛・忠盛父子に因果を含んでおけば、男子誕生後に自身で養育する事もできた筈です![]()
男児だった故、皇位継承争いの火種になる事を恐れて、伊勢平氏の子供として育てさせようと考えたのでしょうか
それとも女児だったら引き取る意向だったのでしょうか
(白河院も了承していたのでしょうか
)
真相は不明です![]()
最も、祇園女御は清盛が生まれる以前、白河院と相談の上で、藤原閑院流家公実の末娘、璋子を2人の猶子として養っていました
(既に鳥羽天皇に入内していました
)
璋子を鳥羽院中宮へと押し上げるという一連の作業を済ませていた女御は、これ以上自らの猶子を必要とする政治的な必要性を感じていなかったのかもしれません
(璋子の皇子出産こそが白河院と女御の宿願でありました
)
自身の母は果たして、誰か![]()
成長するに連れて、清盛の疑問は大きくなったかと思われますが、義父(タケ海舟は実父同然と見なしていますが・・・)忠盛や義母宗子(心の中ではいろいろな葛藤もあったと思いますが・・・)の愛情を受けて、平氏の男児として生きて行く事になります![]()
(ただ、伊勢平氏棟梁の座を引き継げるかどうかは、この時点では白紙状態だったと思われます
正妻となった宗子のは平二(家盛)が生まれており、他にも母の違う弟達が、次々と誕生する訳ですから
)
本日はここまでにします![]()
清盛の父親について一考察
清盛の出生と稀有な出世との因果関係は
いよいよ、大河ドラマ「平清盛」が始まりました![]()
初回視聴率は、17.3%
一昨年の龍馬伝や江の初回時と比較して低かったみたいですが、1年通して見てみたいなという気持ちになった方も多いのでは思いました![]()
ところで・・・
清盛の両親については、いろいろな諸説があるみたいです・・・![]()
ドラマでは清盛の生みの親は白河法皇![]()
育ての親は平忠盛という設定になっています![]()
従って、清盛は最初から王家の血を引き継ぐ皇胤(こういん)という設定になっていますので、ドラマ上では議論の余地等はないのですが、彼の両親について推測を交えながらお話をしてみたいと思います![]()
まず、父親の方ですが、清盛の父は、実は白河院であるという噂は、彼の在世時から出ていました![]()
王家の守護の役割を務めながらも、貴族社会の最下層に属し、五位が相当とされていた伊勢平氏の棟梁清盛は、確かに若年の頃から異例の出世を遂げていました![]()
特に久安2年(1146)、29歳の時に任命された安芸守という受領職は、播磨守や伊予守と並んで、有力院近臣しか任命されない重職でした
この時、父忠盛はまだ棟梁として健在で、しかも播磨守を務めていました![]()
親子2代にわたる大国受領職の拝命は、清盛が王家の血を受け継ぐ人物であるという証左とも考えられますが、客観的には別の見方も考えられます![]()
白河院、更に次代の治天の君だった鳥羽院の時代、伊勢平氏は清盛の祖父正盛と父忠盛の2代にわたる地道な努力によって、王家から絶大な信頼を得ていました![]()
白河院はそもそも、王家の用心棒として、伊勢平氏や河内・摂津源氏を召し使っていました![]()
院は、両勢力を競わせながら、京都の治安維持や謀反人討伐の象牙として活用していたのですが、貴族社会になかなか、馴染めなかった源氏に比べて、正盛・忠盛親子が棟梁だった伊勢平氏は、院の忠実な武士としての地位を築くことに専念しました![]()
正盛は源義親(みなもとよしちか)討伐に成功した功績として、大国但馬守に任命![]()
以後、大国の受領を歴任しながら、本拠地伊賀国にある所領を院に荘園として寄進等を行い、院に対する経済的な奉仕活動を行いました![]()
父の後を継いだ忠盛も、同じく大国受領を務める傍ら、海賊退治の功績、院御願の寺院建立に関する奉仕等で、遂に伊勢平氏初の殿上人に任じられました
(天皇の私的な場所である清涼殿に参上して、天皇に会う事が許されたのです
)
人脈ネットワークにおいても正盛は、白河院の寵姫だった祇園女御や院の乳母の子供であった藤原顕季(ふじわらのあきすえ)、院の政務補佐を務めた藤原為房(ふじわらのためふさ)等の院近臣の有力者との連携を深め、院との密接な関係を築きました![]()
忠盛も、鳥羽院中宮の待賢門院や皇后美福門院の政所別当を務め、更には鳥羽院の執事別当に任じられる等、今や伊勢平氏は院近臣(王家)の重鎮的存在になっていました![]()
おまけに、受領時代に蓄えた富や、海賊征伐によって瀬戸内海や西国との交通・貿易ルートを統御していた事によって、財力的にも侮れない力を有していました![]()
こうして見ると、清盛の異例の出世の背景には、祖父・父の賢明なる先見性に基づいた布石が大いに物をいったのではないのでしょうか![]()
最大の武力を有した伊勢平氏の実力を、無視する訳にはいかなかった![]()
この頃は、鳥羽院後を巡る王家・摂関家の内紛が次第に尖鋭化していた時期に当たり、伊勢平氏を自陣営に引き込もうという動きが、保元の乱の前からあったのでしょう![]()
前述したとおり、清盛が白河院の皇胤ではないか
という噂はかなり前からありました![]()
彼の異常とも思われたスピード昇進は、この噂がもたらした影響と、伊勢平氏の政治的な地位上昇という2つの側面から実現されたのではと考えています![]()
そして、清盛自身も自身に囁かれ続けていた皇胤という噂を、自己の地位向上の為、最大限活用したのではないのでしょうか![]()
何れにしても、父親が誰か
という事については決定的な証拠が出て来ない以上、断定できないのですが、自身の政治的地位を有利に導く目的で、誰かが(清盛本人か平家一門やその親藩勢力か)意図的に落胤説を喧伝したかもしれません![]()
結果として、初の公卿補任や大納言、内大臣、太政大臣という階段をあっという間に駆け上がった姿を概観すると、巷に流れていた噂を真実として、認めさせてしまったという凄味すら感じさせられます![]()
タケ海舟は、白河院側近に侍り、院の子を宿したある女性が、信任厚かった平正盛・忠盛父子に下げ渡され、その後清盛が誕生したというのが一番、自然ではないかと考えています![]()
(異論反論一杯あるとは思いますが・・・
)
母親については次回に致したいと思います![]()
璋子との縁談を忌避した藤原忠実の思惑
関白藤原忠実は、何故、嫡男忠通と璋子との結婚を固辞したのでしょうか![]()
タケ海舟は、3つの理由があったのではないかと推測しています![]()
第1の理由は・・・
忠実自身が璋子の実家である閑院流家を嫌ってた![]()
この理由は、普通に考えると成程と肯けます![]()
以前もご紹介しましたが、閑院流家は一族の女子が白河・鳥羽両帝の生母となっており、一時代前には藤原御堂流の既得権益であった王家の外戚という地位を、代々占める様になっていました![]()
王家に入内した、藤原頼通・教通(のりみち)兄弟の娘たちに皇子が遂に誕生しなかった結果、御堂流は摂関政治の拠り所とも云うべき外戚という立場を喪失してしまいました![]()
御堂流と縁のなかった後三条帝に后を入内させたのが、閑院流家でした
(生まれたのが白河院です
)
父帝の後を継いだ白河院は御堂流の血筋を引いておらず、危機感を覚えた頼通の嫡男師実(もろざね)は、道長以来濃い縁戚関係を結んでいた村上源氏(村上帝の孫師《もろふさ》を祖とする公卿源氏)顕房(あきふさ)の娘賢子(けんし)を自身の養女として、院に入内させました![]()
養女とはいえ、御堂流の外戚が復活したのです
院と賢子との間に生まれたのが堀河帝です![]()
白河院は程なく堀河帝へ譲位したのですが、自己の血統による王位の継承を願い、堀河帝の后として生母の実家であった閑院家の子女を迎えました![]()
この時、御堂流には堀河帝に入内させるべき女子がいませんでした
師実後に関白を継承した嫡男の師通(もろみち)は早死してしまい、彼の子であった忠実が御堂流当主の座に就いたのですが、内覧のみの継承しか認められず、関白職はその後暫く、空席という状態が続いたのです![]()
白河院が政治の指導権を掌握したのはまさしく、この時期からであったと考えられます![]()
院の前に隠忍自重を強いられた忠実でしたが、数年後に漸く関白職を取り戻す事が出来ました![]()
(しかし、この任命は他ならぬ白河院の任命であり、忠実の死命は院に握られているといっても過言ではありませんでした
)
更に、忠実を震撼させる事件が、堀河帝の崩御直後に勃発しました![]()
堀河帝は生前、閑院流出身の苡子(いし)との間に鳥羽院を儲けており、即位自体は円滑に進んだのですが、新帝の摂政人事を巡って、大きな問題が発生したのです![]()
それは、鳥羽院の外戚であった閑院流家当主公実(きんざね)が、新帝の摂政になる事を希望したのです![]()
公実はこの時、正二位権大納言という地位にあったのですが、王家外戚という立場と院近臣家や御堂流庶家との婚姻関係を背景に、朝野において隠然たる勢力を扶植していました![]()
公実は鳥羽帝即位を好機に、外戚と摂関職を手中に入れて、名実共に御堂流に取って代わる事を目論んだのでしょう![]()
しかも、彼の言い分が実に的を得ていたのでした![]()
彼の白河院に次の様に奏上しました![]()
『古来より、摂政に就任した者で、王家と縁戚関係になかった者は一人もおりませぬ
』
摂政は、聖徳大師が任命されたのが嚆矢でありましたが、以後、藤原北家から何人かの摂政が輩出されていましたが、王家と縁戚関係になかった人物は皆無でした
(帝が幼いという事もあり、母の実家等の身内の補佐が不可欠だったのでしょう
これに関して、成人した帝を輔弼する関白職には、王家の縁戚以外の人物が任命される場合もありました
)
貴族政治の最大判断基準とされていた先例を持ち出した、公実の意見に(自分を売り込んでるから凄い人ですね
)さしもの白河院も、現職関白だった忠実を差し置いて、公実の摂政任命に傾いたと思われます![]()
先に外戚も奪われ、今また摂関位を失うという、御堂流当主として忠実は最大の危機を迎えていたのです![]()
ところが、忠実に救いの神が現れたのでした![]()
白河院の側近として、院の政治上の補佐役を務めていた源俊明(みなもとのとしあきら)という人物が、決断を躊躇していた院に対して、速やかな摂政位任命を要請したのでした![]()
この続きは次回とさせて頂きます![]()
大河ドラマ50の歴史展
正月休みの1月3日に、JR高島屋名古屋駅店で開催されていた「大河ドラマ50の歴史展」を見て来ました![]()
第1回の「花の生涯」から昨年放映された「江~姫たちの戦国~」までの50作品の内容と、当時俳優さんが実際に使用していた衣装(甲冑または打掛け)や、名場面の写真・VTR等が展示・上映されていました![]()
タケ海舟が歴史の世界に魅了されたきっかけとなった「風と雲と虹と」
(うわー懐かしい
)
初の鎌倉時代をテーマにした「草燃える」
(北条政子を岩下志麻さんが演じていました
)
『おかか!おかか!』が流行語となった「おんな太閤記」![]()
そこには、タケ海舟が子供の頃に胸ときめかせていた世界が、その頃のままに再現されていました![]()
全ての展示を見終わるまで、何と2時間以上も要していました
(時間の経過さえも忘れていました
)
大河ドラマも、松山ケンイチさんが演じる「平清盛」で51作目を数える事になります![]()
1月8日の第1回が今から楽しみです![]()
このブログにおける清盛のお話もいよいよ、本格的に進めて行きたいと思います![]()
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2012年度を迎えて
明けましておめでとうございます![]()
一昨年より始めさせて頂いたこのブログですが、昨年より漸く軌道に乗ったみたいです![]()
昨年は江を題材に記事を書かせて頂いた事が多かったのですが、今年は清盛について書く事が多くなると思います![]()
自分なりに、一層勉強をして、少しでも皆様に詳しくかつ、わかりやすくご説明をさせて頂ければと願っておりますので、今年もタケ海舟のブログをよろしくお願い申し上げます![]()
このブログをご覧頂いて、気が付かれた事やご不明な点等ございましたら、是非、お問い合わせ頂けたらと思っております![]()
タケ海舟の今年の目標は、今まで、文献や著書やネット等で調べた事を自分自身で咀嚼しながら、記事を書いていたのですが、今年はこの勉強方法を踏襲しながらも、自分なりの歴史観を織り交ぜながらお話をさせて頂けたらいいなと思っています![]()
また、歴史史跡や現場にも、出来るだけ足を延ばしてみたいなと考えています
(時間がなくてなかなか行けないかもしれませんが・・・東海地方の源平合戦の古戦場には行ってみたいですね
)
今年が皆さまにとっていい年になる事を願っています![]()
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待賢門院璋子を巡る政治情勢
璋子を発端に露呈された院と藤原摂関家との不協和音
白河院と祇園女御によって養育されていた藤原璋子は、16歳の時に鳥羽天皇に入しました![]()
この婚姻が、養父白河院の主導の下で進められた事は論を待ちませんが、院は当初、璋子の伴侶として別の人物を考えていました![]()
それは、摂関家の当主で、関白を務めていた藤原忠実(ふじわらのただざね)の嫡男忠通(ただみち)でありました![]()
この時期、白河院の威信は盤石な物となっており、公卿筆頭の摂関家でさえも、その権勢に抗う事は出来ませんでした![]()
そもそも忠実は、父であった摂政師通(もろみち)が急死した時、まだ22歳で、貴族社会のトップである摂関位を受け継ぐ事は難しいとみられていました
(まだまだ経験不足という事ですね
)
この為、師通死後直ちに、摂政就任する事は見送られ、内覧《ないらん》(天皇に上程される政治上の文書を事前に目を通す事ができる地位)のみの任命となったのです![]()
長治2年(1105)、漸く堀河天皇の関白に任命されたのですが(この時忠実27歳)、2年後の嘉承2年(1107)の堀河天皇崩御の後、新たに践祚された鳥羽院の摂政位を巡って、朝廷人事は紛糾したのでした![]()
実際、摂政位に鳥羽天皇生母の実家閑院流家の当主公実(きんざね)を任命しようという動きがありました![]()
また公実本人も、『我こそ摂政位に相応しい人物なり
』といって、自ら摂政就任を熱望していたのです![]()
この公実こそ、鳥羽天皇生母苡子(いし)の兄であり、璋子の実父であった人物でした![]()
白河院自身も閑院流家出身の女性を母に持っており、かつ、公実の意見も正論であった為、一時は本気に公実の摂政任命を考えたのですが、院近臣達の反対(彼等にとって同じ院近臣であった公実の栄達は決して、好ましいものでは無かったのです
)によって、忠実が鳥羽天皇の摂政に任命されました![]()
辛うじて、摂関位の確保に成功した忠実でしたが、最大権力者であった白河院の後押しによって、先祖道長以来の御堂流が代々就任していた摂関位を死守する事ができたのでした![]()
(従来の摂関位就任の条件であった、王家との外戚関係を有していない忠実の摂政就任によって、以後摂政関白は藤原御堂流の世襲である事が確定し、この時摂関家という家格が確立したのは歴史の皮肉であります・・・
)
従って、以後の忠実は、政治向きの最終的な決定(特に人事権)等については、ほとんど全てといって良い位、白河院の意向や裁断を仰がなければならなくなってしまいました![]()
本来なら、摂関位・公卿筆頭で、政治を総覧する執政の立場であるのですから、大概の事は公卿会議を通じて摂政または関白が決裁するすれば良かったのです![]()
しかし、白河院のツルの一声で、何とか摂政になったという権力基盤の弱さが大きな泣き所となっていたのでしょう
摂政関白としての政治力や指導力を果たす事が困難でありました
(父師通死後直後の状況と比べて、あまり大きな変化はなかったみたいです
)
こうして、白河院政の元、忍従を強いられていた忠実でしたが、20代・30代・40代と年齢を重ねる事によって、摂関家当主としての風格も漂う様になり、次第に白河院の庇護・監督から離れ、政治的な独立を意図するようになっていました![]()
その様な時期に、白河院より猶女璋子と彼の嫡男忠通との縁談話を打診されたのです![]()
院にとっては、掌中の珠であった璋子を摂関家の嫡男の北政所(摂政関白の正室の呼称)にすれば、王家と摂関家との関係は更に親密になるとともに、璋子を通じた摂関家のコントロールもますます可能になると目論んだのでしょう![]()
しかし、忠実はこの縁談話を『時機が到来してから』とか『返事には暫しのご猶予を』とかあれこれ理由を並び立てて、一向に話を進めようとはしませんでした・・・![]()
そうこうするうちに結局、話は自然消滅してしまいました・・・![]()
忠実は、王家の縁戚になれるというこの美味しいお話を何故、断ったのでしょう
(話を進めなかったのは、断ったのと同じですね
)
その背景には、白河院と忠実との間に内在していた対立があったのです![]()
このお話の続きは次回にします![]()
待賢門院璋子の入内
異例の待遇を受けて、入内した待賢門院璋子
さて、待賢門院璋子のお話です・・・![]()
前にもご紹介したように、彼女は藤原閑院流公実の末娘として誕生しましたが、7歳で父を失って後、白河法皇とその寵妃であった祇園女御(ぎおんにょうご)に養われていました![]()
院政の時代を開いた白河院は、堀河・鳥羽・崇徳3代の間、治天の君として辣腕を振ったのですが、一方で大変な艶福家としても知られていました![]()
院の周辺には中宮始め多くの女性が仕えていたのですが、その中で院が晩年に最も寵愛した女性がこの璋子の養母となった祇園女御でありました![]()
彼女の出自に関しては不明な点が多いのですが、最愛の女性であった中宮藤原賢子(けんし)を失って以来、白河院が唯一心を許した女性でありました![]()
彼女が住んでいた祇園・白河殿には、院に取り入って自己の勢力を広げようとしようと目論む、多くの貴族たちが出入りしていました
(いつの時代でも権力者の歓心を買う事は、出世の近道ですね
)
璋子は、白河院の意思決定に大きな影響を及ぼしていた祇園女御に養育され、彼女からは勿論、院の鐘愛をも一心に受けるようになりました![]()
2人の愛情を受けて成長した璋子は、16歳となった永久5年(1117)に白河院孫の鳥羽天皇に入内する事になりました![]()
この入内は、白河院の主導によって進められ、璋子は院の猶子としての資格で天皇家に嫁いだのです![]()
彼女の実家が公卿とはいえ、大臣を出していなかった閑院流であった事は、家柄や身分に厳格だった当時の貴族社会において大きなハンディになっていましたが、白河院猶子という立場は、不利を補って余りある位の箔付けをされた事を意味していました![]()
こうして白河院の強力な後ろ盾を受けて入内を果たした璋子は、1月後に早くも中宮宣下を受け、後宮内に確固たる地位を占める事になりましたが、実はこの鳥羽院への輿入れが決まる前に、璋子には別の縁談話が持ち上がっていたのです![]()
次回はそのお話をさせて頂きます![]()
待賢門院璋子
院政期における王家外戚として君臨した藤原閑院流
さて、いきなりの質問ですが![]()
皆さまは久我美子(くがよしこ)さんという女優さんをご存じでしょうか![]()
タケ海舟はお名前だけは知っていたのですが、大変美しく気品に溢れた女優さんだったとお聞きしています![]()
私生活では、特撮映画の名脇役といわれていた俳優の平田昭彦(ひらたあきひこ)さんと結婚されていました![]()
ご主人が亡くなってからも女優活動を続けられていましたが、最近は表舞台からは遠ざかっていらっしゃるとお聞きしています
(既に80歳近いご高齢との事ですが・・・)
この久我美子さんが、今から39年前に放映された大河ドラマ「新平家物語」で演じていた役が、本テーマの待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)でした![]()
さて、本題に入りますが・・・
待賢門院璋子は、鳥羽天皇の中宮として輿入れして、天皇との間に崇徳院・後白河院・上西門院の始め、7子を儲けました![]()
彼女は、藤原北家傍流である閑院流(かんいんりゅう)当主藤原公実(ふじわらのきんざね)の末娘として康和元年(1101)に誕生しました![]()
閑院流家とは、藤原北家師輔(もろすけ)11男公季(きんすえ)を祖として始まった家で、北家の祖であった冬嗣の邸宅閑院(かんいん)を伝承した事が、この流派の由緒とされています![]()
ちなみに、公季の兄兼家(かねいえ)の子供が有名な御堂関白道長であり、師輔は道長の叔父に当たります![]()
閑院流は、5代目の公実まで正二位権大納言が極官で、なかなか大臣を出す事が出来なかったのですが、その代わりに摂関家が長らく、独占していた王家外戚の地位を続けて獲得する事に成功していました![]()
摂関政治が頓挫したのは、道長の嫡男頼通(よりみち)が王家に入内させた娘達が、皇子を生まなかった事が原因でありましたが、御堂流を外戚としない後三条天皇が妃としたのが、閑院流藤原公成(ふじわらのきんなり)の娘茂子(もし)でした
(閑院家外戚の嚆矢
)
彼女が産んだ第一皇子こそが、院政生みの親で50年余の間、治天の君として君臨した白河天皇その人であります![]()
閑院流は、この後も4代当主実季(さねすえ)娘の苡子(いし)が、堀河天皇(白河院皇子)の女御として入内して鳥羽天皇を儲けていました![]()
鳥羽院の中宮となった待賢門院が、崇徳・後白河両院を産んだ事は既にお話しましたが、白河院以来、10世紀後半から11世紀中頃にかけての天皇は、殆ど全てといって良い位、閑院流家を外戚としていました
(但し、藤原善勝寺流出身の美福門院が鳥羽院との間に産んだ近衛天皇は、閑院流を外戚としていません
)
そして、鳥羽院中宮として栄華を極めた待賢門院の登場を以て、王家・貴族・寺社・武士がそれぞれ鎬(しのぎ)を削った変革の11世紀が始まったのです![]()
待賢門院については次回以降、詳しくお話をさせて頂きます![]()
頼朝はかくして助命された
頼朝の処刑が確実視されたまさにその時、清盛の目の上のたんごぶ(失礼
)であった池の禅尼が現れて、清盛に訴えました![]()
『如何に敵方の御曹司であっても、頼朝殿はまだ13歳というではありませぬか
清盛殿、ここは御仏の慈悲の御心を持って、臨んで下され
さすれば、そなたにも平家一門にも、必ずや幸運が訪れましょう
』
果たして、彼女が清盛に対して、上記の様な嘆願をしたかどうかは不明ですが、清盛にとっては先の保元の乱に引き続いて、嫡母という存在の重さを思い知らされたのではないか
とタケ海舟は推測しております![]()
平家物語(恐らく・・・)によると、彼女は頼朝が自分が生んだ子供で、夭絶した家盛に生き移しだからという理由で清盛に助命を要請したともいわれています
泣き落としと脅しの両面性を有した説得手法で、義理の子どもである清盛に義母への孝養を尽せと言わんばかりの嘆願に、流石の平家の棟梁も頭が痛かったと思われますね![]()
しかし、事実はそんなに単純なものではなく、頼朝助命を願った或る有力な人物が背後にいて、禅尼を動かした物と思われます![]()
その人物は、後白河上皇の実姉であった上西門院(じょうさいもんいん)であったと思われます![]()
頼朝が若くして、上西門院の蔵人に任じられた事は前述致しましたが、実は頼朝の母由良御前の実家である熱田神宮大宮司家に属した多くの子女が、この女院及びその関係者に近侍していました![]()
(娘たちが女院の女房として仕えていた他に、頼朝の外祖父藤原季範の息子達が後白河上皇の北面の武士として仕えていました
)
熱田大宮司家(この頃季範は既に死去しており、嫡男の範忠《のりただ》が大宮司の地位を継承していました)は中央に幾重にも張りめぐらせた人脈のネットワークを駆使して、自家の血筋を受け継ぐ頼朝の命を助けようと奔走、上西門院に働きかけたのが真相だったと思われます![]()
上西門院も自分の身近に仕えていた頼朝の命を助けたいという思いは強かった筈です
彼女は実弟の後白河上皇に対しても、積極的に助命嘆願を行うと同時に、実兄崇徳院の皇子重仁親王の乳母を務めた経緯を持ち、密接な繋がりを有していた池の禅尼(藤原宗子)にも頼朝救済に尽力する様、内々に指示を出したのではないのでしょうか![]()
また、後白河院は悲惨な結末に終わった兄崇徳院とは異なり、姉上西門院とは生涯に亘って緊密な関係を維持していました
(浮き沈みの激しかった後白河院政を陰日向となって支えたのは、まさにこの姉であったといっても過言ではありません
)
そのような大切な姉の嘆願を受けた以上、院も無碍な対応は出来なかった筈です![]()
また、王位の継承を巡っての争いが要因であった保元の乱とは異なり、平治の乱のそれは、後白河院近臣同士の勢力争いでありました![]()
前者は、公権力に対する反乱という性格を帯びており(崇徳院側の挙兵は鳥羽院が生前決めた後白河天皇の王権に対する公然とした反逆と見なされていました
)、従って乱後の処分として極刑が課されました![]()
後者は近臣同士の私的な勢力争いが、軍事衝突に発展したという性格を帯びていました
首謀者であった藤原信頼と源義朝は死罪を免れませんでしたが(義朝は逃亡中殺害されましたが、仮に捕えられても死罪は確実だったと思われます
)彼等以外の加担者については比較的温情措置が取られていました![]()
その様な一連の寛大な裁定の一環として、頼朝の助命・罪一等を減じた伊豆国(現静岡県伊豆半島)蛭ヶ小島(ひるがこじま)への配流処分が執行された物と考えられます![]()
ちなみに、13歳の頼朝が助命された結果、彼の同母弟希義(まれよし・母は頼朝と同じ由良御前)を始め、義朝愛妾常盤御前(ときわごぜん)が産んだ幼子3人(今若丸・乙若丸・牛若丸)も命を助けられ、それぞれ配流・出家という処分を受ける事になりました
(義朝末子の牛若こそが後の九郎義経《くろうよしつね》ですね
)
こうして、様々な人々の思惑が交錯した結果、頼朝は一命を拾い、伊豆国へ流されたのでした![]()
清盛の温情・・・(彼は極悪非道ではありませんでした
)を受けた頼朝は、21年後の治承4年(1180)に伊豆国で反平氏の旗を掲げます![]()
これが平氏滅亡の序曲となった事は否めません![]()
しかし、清盛一人が頼朝の生殺与奪の権限を持っていたのではなく、最終的には彼の上に君臨していた後白河院や上西門院等王家つまり、貴族政権の総意(少し言い過ぎか
)による頼朝助命であったのです![]()
清盛の優しさによって平氏が滅亡の淵へと追いやられたという判断は些か、酷ではないか・・・
と
タケ海舟は考えています![]()
タケ海舟