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坂の上の雲(日露戦争の天王山 旅順攻防戦)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年12月06日11時26分52秒 | コメントなし | トラックバックなし

日露開戦時における日本軍の戦略構想について簡単にお話しておきますhappy01

①陸軍の第1・2軍は、海軍と連携して朝鮮半島に上陸sign01半島内のロシア軍を北に圧迫するok

②同じく第3・4軍は、旅順半島に上陸、同地のロシア要塞と軍港を孤立化させるok

③上記2つの作戦が完了後、満州方面に進出、出来るだけ早く同地のロシア軍主力と決戦を行い、これを殲滅させるok

④海軍は旅順を根拠地とするロシア太平洋艦隊を攻撃sign01これを壊滅させるok

⑤一連の作戦進行の最中、イギリスやアメリカに対して和平交渉の仲介を秘密裡に行うok

端的に言って、日本は超大国ロシアを相手に、軍事上での完全勝利など、とても望めない事であると端から考えていましたnew

当時の日本の国力では長期戦を遂行する事は不可能でしたbearing

完全な勝利が望めない以上、まず先制攻撃を仕掛けるsign01自国に優位な戦局を造り上げた上で、国内情勢が不穏なロシアの厭戦気分を煽り立てるsign01そして、日本に有利な条件での早期講和に漕ぎつけるsign03

日本政府と軍部首脳の考えは上記の通りであったと思われますok

そして、一連の思惑通りに戦争が遂行する必要条件とは・・・think

①陸軍は、シベリア鉄道完成後にヨーロッパから輸送されて来る、ロシア軍増援部隊到着前に満州軍のロシア軍をsign03

②海軍は、ロシア本国から大航海の末、日本近海に姿を現わすと見られていたバルチック艦隊の来援前に、ロシア旅順艦隊をsign03

それぞれ撃滅するという事でしたpunch

短期決着に持ち込むには、それより他に道はなかったのでしたdanger

ところが、東郷平八郎率いる聯合艦隊の戦略プランに狂いが生じますbearing

ロシア旅順艦隊は聯合艦隊との早期の決戦を避け、バルチック艦隊の来航を待つ戦略を採用したのですthink

基地である旅順港に逃げ込んだまま、動こうとしない旅順艦隊に対して、聯合艦隊は2度にわたる港の封鎖作戦を敢行して戦力の無力化を図りましたが、不首尾に終わりましたdespair

(この一連の港閉鎖作戦の実動部隊を指揮して、戦死したのが有名な広瀬武夫海軍少佐ですねhappy01

実はロシア軍首脳の方でも、意見の相違があったみたいで、旅順で穴籠りを決め込む事が出来なくなった旅順艦隊は、ウラジオストックにいる味方艦隊との合流を図ろうとしたのですが、港外で待ち構えていた聯合艦隊の攻撃を受け、再び港内への退避を余儀なくされたのですshock(黄海の海戦)

実はこの海戦の時、ロシア旅順艦隊はかなりの損害を受けており、以後組織的な艦隊作戦を遂行する事が出来なくなっていましたnew(つまり、聯合艦隊が恐れていたバルチック艦隊との合流作戦は事実上、不可能になっていたのですgood

だが、残念な事に、このロシア艦隊の内情を日本側は把握する事が出来ませんでしたweep

『バルチック艦隊が到着する前に、何としても旅順港のロシア艦隊を引っ張り出して、叩き潰さなければならないsign03

秋山真之聯合艦隊参謀を筆頭とした海軍首脳は、軍港を守る役割を有していたロシア軍旅順要塞の攻略を海軍に依頼したのですsign03

そして、乃木希典将軍の率いる第3軍が、旅順要塞を攻略を担当する事になったのですok

日露戦争における最大の天王山となった旅順要塞攻防戦の火ぶたが、こうして切って落とされたのですgood

続きは次回といたしますsoon

 

坂の上の雲(日露開戦)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年12月05日17時58分02秒 | コメントなし | トラックバックなし

ロシアは当時最大の陸軍を擁していた国である事は、前回ご紹介致しましたhappy01

実は陸軍ばかりか、海軍も世界第1位と言われていた、イギリスと匹敵するぐらいの戦力を装備していましたnew

冬が厳しい場所に本土があった為、ロシアは不凍港を求めて南下政策を国の大綱としていましたok

南下政策の一環として、ロシアは満州・沿海州という極東方面への進出を目指しており、沿海州にウラジオストックという大きな軍港を建設sign01ロシア太平洋方面艦隊の基地としましたpunch

同時に満州方面へ進出を画策shine日清戦争で日本が勝利を収め、遼東半島を清から割譲を受けた事に素早く、反応しましたthunder

日本が遼東半島を獲得を足がかりに、満州や北京の喉元を抑えた事が、満州における自国の権益を脅かす事を危惧したのでしょうsign03早速、同じ様な思惑を持っていたフランスとドイツとともに、日本に遼東半島を清国に返還する事を要求しましたimpact(良く知られている三国干渉ですねban

維新以来初めての対外戦争であった、清国との戦に勝ったばかりで余力のなかった日本は、断腸の思いで遼東半島を清に変換しましたcrying

するとロシアは、何と、清国に恩を売った事を口実に、遼東半島を租借する事を認めさせたのですimpact

租借とは、外国に領土にある土地を借りるという事なのですが、租借期間が99年間という、信じられない様な長さでしたshock(端的にいって、割譲を受けたも同じdashつまり、自国の領土にしたのですimpact

日本政府は勿論、国民もこれら一連のロシアのゴリ押しに対して、怒髪天を衝くという状況だったのですannoy

更に、ロシアは露骨な南下政策を推し進めますpunch

清国で義和団事件が(北清事変とも呼ばれています)勃発した時、清国内に権益を持っていた列強各国は、軍隊を派遣しましたsign03

この反乱は、排外扶清をスローガンにした民族主義的な色彩の強い物であったので、戦意旺盛で列強からなる連合軍も当初は苦戦をしましたgood

しかも、義和団有利という戦況を見た清国最大の実力者だった西太后が、義和団に対する全面支持を表明、列強に宣戦布告をしたのですshock(当時の自国を巡る状況をどれだけ正確に把握していたのかsign02理解に苦しみますが・・・coldsweats02

清国の敵対宣言を受けて、列強各国も本格的に軍隊を派遣sign03大勢は一挙に決しましたdanger

この時の義和団の乱鎮圧に為に、最も多くの軍隊を派遣したのが、朝鮮半島に軍を常駐させていた日本と、同じく満州に大軍を置いていたロシアでしたsign03

反乱の終息後、列強各国は撤兵を開始したのですが、ロシアのみは軍隊を引き続き満州に駐留させ、事実上同地はロシアに占領下に入ったのでしたrock

そしてロシアは、満州を足がかりにして最早、日本の勢力範囲となりつつあった朝鮮半島進出の動きを見せ始めたのですgawk

日清戦争の勝利で、日本は念願だった朝鮮半島に対する主導権を獲得する事が出来、同じく中国進出の橋頭保として遼東半島を手に入れましたconfident

ところが先のロシア主導による三国干渉で、遼東半島は取り上げられ、しかも同地は現在ロシアが事実上、自国の領土としているannoyしかも、同半島の要地である旅順には、強大な近代要塞と大きな軍港が建設されつつあるではないかsign02

そればかりか、今度は朝鮮半島をも脅かそうとしているロシアの剥きだしの野心に対して、日本の国論は概ねロシアとの戦争を視野に入れた准戦時体制を敷く事になりましたdanger

とはいっても、強大国のロシアと単独で戦うのは、無謀に近い蛮勇であった筈ですwobbly

そこで、仮に戦争になっても、他の国がロシア側に付いて参戦するのを防ぐ為、世界最強国イギリスとの同盟を結ぶ事に成功しましたok同時に、中国にはそれほど利害関係がないアメリカとも極秘に接触を重ね、和平斡旋を含めた外交交渉を行ったのですok(この方面の主導者は、伊藤博文でしたhappy01

一方で、当時国であったロシアとの利害衝突を何とかして避ける外交交渉も、断続的に続けられていましたgawk

しかし、ロシアの方がかなり強硬であったみたいで、交渉は容易に進展しませんでしたcrying

ロシア側の思惑は・・・

シベリア鉄道が建設中であり、完成の暁にはヨーロッパ方面に配置してた陸軍を満州方面に大量移送が出来るsign03

そして、旅順とウラジオストックにある太平洋艦隊の戦力に加えて、本国からパルチック艦隊を派遣すれば、日本の聯合艦隊など、敵ではないsign03(本格的な艦隊決戦は、バルチック艦隊到来後であるgood

上記2つの条件が整うまで、少しばかりの時間が必要であるok

しかしながら、現在の彼我の戦力差を比較しても、負ける要素など最初からない戦争なので、仮に開戦となっても、現状兵力でも十分戦えるだろうsmile

ロシア側には、多少の油断があったと思いますnew

開戦時期はまだ先であるという・・・楽観的観測とでもいうのでしょうかsign02

しかし、日本はロシアの戦備態勢が本格的に整わない内に、戦端を開いたのですimpact

明治37年(1904)2月8日に、旅順港のロシア艦隊を日本艦隊が奇襲sign03

遂に日本とロシアの全面戦争の火ぶたが切られたのですimpact

続きは次回にしますsoon

坂の上の雲(日露戦争と太平洋戦争 よく似ていた開戦前夜その1)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年12月03日09時56分16秒 | コメントなし | トラックバックなし

明日からいよいよ「坂の上の雲」最終シリーズが始まりますhappy01

タケ海舟は実は、これまで放送された第1部、第2部を、所々飛ばしながらの細切れ状態で視ていました・・・gawk

従って、いよいよ物語のクリアマックスである、旅順要塞攻防戦と日本海海戦を中心に展開される第3部こそは、しっかり視なければと思っていますhappy01

ところで、お話は少し変わりますが・・・

この年末には映画「聯合艦隊司令長官山本五十六」が上映されますok

今年が太平洋戦争開戦70周年である事を踏まえて、製作された映画みたいですねnew

タケ海舟の知人が少し前に試写会に行って来て、とても素晴らしい内容だったと話していましたok

年末の戦争をテーマにした映画では、「男たちのYAMATO」が実に印象的であったのですが、今回の映画で役所広司さんが山本五十六をどの様に演じるのかsign02今からとてもわくわくしていますpaper

ところで、日露戦争と太平洋戦争という近代日本の分岐点となった2つの戦争は、開戦に到る状況が非常に酷似しているのではないかと、タケ海舟は考えていますnew

その理由としては、戦う相手国がロシアとアメリカ(太平洋戦争では複数国と戦争状態になったのですが、最大の敵国はアメリカでしたsign01)という当時、最大の軍事力を擁していた国であった事ですpunch

日露戦争時のロシアは質量共に、最大といわれて陸軍を保有していましたshockロマノフ帝政の後進性という問題点が次第に表面化しつつあった国内問題を抱えていましたが、凍らない港と最強の陸軍をどこにでも輸送できる鉄道の獲得を目指した南下政策を国の方針として推進していましたpaper

そのロシアが、満州(中国東北部)と朝鮮(当時は韓国)に食指を伸ばし始めたのですcoldsweats02

日清政争で、朝鮮に対する主導権を清国(中国)から奪い取った日本にとって、ロシアの南下政策は大変な脅威でありましたshock

維新以来、富国強兵を国策として来た日本にとっては、朝鮮とその更に北にあった広大な満州方面への進出は国を挙げての悲願でありましたok(北上政策ともいうべきでしょうかsign02

一方のロシアは日本と正反対の南下政策を採っていて、両国の利害が朝鮮・満州を舞台に衝突する事になったのですthunder

当初、伊藤博文を中心とした穏健派は、ロシアとの外交交渉によって妥協点を見出そうとしていたのですが、ロシア政府はなかなか譲歩しようとはしませんでしたdespair

一方で、当時の総理大臣であった桂太郎や、伊藤と並ぶ長州閥の大物山県有朋、敏腕外交官として知られていた小村寿太郎達は、ロシアとの戦争も辞さずsign03という主戦論を展開していたのですsign03

ロシアとの対立が深まっていく中で、日本は満州方面でロシアの力が強まる事を恐れたイギリスに接近、有名な日英同盟を締結しましたnew

この同盟によって、万一、ロシアとの戦争状態に突入した時、イギリスは軍事面で日本に積極的な援助はしないものも、中立的な立場を取る事になったのですok(戦局が膠着化した場合、停戦・講和の仲介をするという思惑もあった筈ですnewイギリスも実際に講和を仲介したアメリカも、当然予想されたロシアの圧倒的勝利を望んでいなかったのですthink

こうして、イギリスとの同盟を締結した日本政府は、いよいよロシアとの戦争に突入していきますpunch

日露戦争前における状況と比較して、太平洋戦争前における環境はどうだったのでしょうかsign02

続きは次回にさせて頂きたいと思いますsoon

江(家康の悲しみ・・・)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年12月02日13時12分56秒 | コメントなし | トラックバックなし

断腸の思いで忠輝を処罰した家康weep

家康の本心では、なんとか忠輝を許したいという気持ちは十分にあった筈ですthink

大坂の役前に、秀忠の旗本を斬り捨てた事も、大きな問題となっていましたdespair

少なくともこれ以上、秀忠・忠輝との間を悪化させない為にも、険悪状態となっていた両者の関係を修復しなければならないcatface

家康はそう考えたのでしょうかsign02

大坂夏の陣の戦後処理が一段落した後、家康は戦争終結の奏上の為に禁裏に参内しましたhappy01

その時、家康は忠輝に同行を命じたのですscissors

一連の参内行事の中で、息子との時間を共有する事によって、将軍である兄への不敬を戒め、諭す狙いがあったと思われますconfident

ところが、親の心子知らずだったのか、何と忠輝は宮中参内をすっぽかしてしまったのですban

こうして、父親への不孝、将軍への不忠に加えて、朝廷への不敬という罪が忠輝に重ねられたのですcrying

この時点で、家康は忠輝の処罰は避けられないという気持ちに至ったのでしょうsad仮に自分が静観したとしても、将軍である秀忠が、弟に罰を与えざるを得ない情況に陥る事は、最早自明の理でありましたng

『恐らく秀忠は忠輝の処罰に躊躇するに違いない・・・ならば大御所である自分が先手を打って、忠輝に対して厳しい姿勢を示せば、秀忠も腹を括って忠輝処断に踏み切れるだろうsign03

『孫の婿である秀頼や、その母の淀殿を自害に追いやった自分達が、身内に甘い態度を取っては天下に示しが付かないsign03徳川将軍家は法度を破れば、譬え、身内縁者にも容赦はしないぞという姿勢を明確にしなければならないsign03

忠輝は、この徳川の世という、平和的秩序に基づいた仕組みを盤石にする為の人柱にされたと断言できますpunch

こうして忠輝は、家康より今後この世では一切対面をしない「永対面禁止令」という厳しい罰を受けたのでしたbearing

この罰は、徳川幕府からの公的な物ではなく、あくまでも大御所家康が息子忠輝に課した私的制裁でありましたimpact

しかし、家康のこの厳しい態度が、将軍秀忠や彼を支える老職達をして忠輝処罰に踏み切らせたといっても過言ではありませんpunch

ご存じのとおり、家康は翌年の元和2年(1616)に駿府城で75歳の生涯を閉じますweep

この時の臨終の枕元には秀忠始め、同地で家康の薫陶を受けていた義直・頼宣・頼房兄弟達が詰めていましたshock

しかし、勘当されていた忠輝は、父親との最後の対面を許されませんでしたweep

武蔵国(現埼玉県)深谷で謹慎していた忠輝は、幽閉先を抜け出して家康への対面の取りなしを生母茶阿局や南光坊天海等に懇願したみたいですが、家康は最後まで息子の願いを峻拒したのですweep

この時忠輝の岳父伊達政宗は、家康の病気見舞いで駿府に来ていましたnew

死の床で家康は政宗と何を話したのでしょうかsign02

はっきりとした史料等がなく詳細は不明なのですが、忠輝処罰について(おそら自身の死後における忠輝の配流や正室五郎八姫を伊達家に返す事等)説明と相談があったのではないのでしょうかsign02

正直な所、家康の政宗への怒りは相当の物であったと思いますannoy

『義理の父として何故、忠輝をしっかりと教育できなかったのかsign02大切な息子を託したにも拘わらず、最悪の結果を齎した責任の一端が、お主には無いとは言わせないぞthunder

と家康は面と向かって政宗を詰りたかったかもしれませんnew

果たしてこの様なやり取りがあったかどうかはわかりませんが、家康の真情は察して余りありますdespair

一方の政宗も、薄氷を踏む思いであった事は想像に難しくなかったと思いますdash

忠輝監督不行き届の咎で、何らかの処罰が下されても不思議ではなかった中、伊達家は一切お構いなしという事になり、内心ほっとしていたかもしれませんね・・・coldsweats02

果たして、政宗は忠輝を擁して、天下を簒奪する野望を抱いていたのでしょうかsign02

何れにしても、真相は闇へと葬り去られましたdanger

この様に、断腸の思いで、わが子の将来を奪わなければならなかった家康の葛藤を見ると、権力の頂点に立った者の悲哀と孤独が垣間見えますweep

渦中の忠輝は、家康の葬儀にも参列を許されず、まもなく生前の家康が沙汰した通り、伊勢国朝熊に配流されましたbearing

その後、飛騨国(現岐阜県)高山や信濃国(現長野県)諏訪へと配所を転々としながら、実に67年という長い余生を過ごす事になりますcrying

その間、将軍は秀忠、家光、家綱と続き、5代将軍綱吉の治世となっていましたthink

忠輝が92年の数奇な運命に翻弄されたその人生を終えたのは、天和3年(1683)の事でありましたsad

家康の息子達の中では、最も長寿を誇った訳ですok

まるで、一年でも長く生き続ける事こそが、自身の闘いであると自らに課したかのような晩年であったと思うのはこのタケ海舟だけでしょうかsign02

本日はここまでにしますsoon

 

天皇定年制問題から清盛の時代を読んでみる

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年12月01日09時40分50秒 | コメントなし | トラックバックなし

一昨日でしたが、秋篠宮殿下が天皇陛下のご病状に鑑み、ご公務の負担を軽くしたらどうかという個人的な見解を示されていましたnew(お誕生日の会見時であったと記憶していますが・・・)

皇室のご公務は、精神・体力両面においてタフさが求められる為、既に70歳半ばを迎えられた陛下のご負担を皇太子殿下とご自身で分担出来ればというお考えなのでしょうかsign02

このお話の延長線には、高齢を迎えた天皇の譲位という選択肢が出てくると思いますが、今後慎重かつ十分な議論がなされると思われますgood

明治以降、天皇は崩御(つまりはご自身のご逝去)以外に位を退く事が出来ない事になっていましたok

当然ながら、在位年数も長期間に及ぶわけで、病弱の為に15年で崩御された大正天皇を除けば、明治天皇は45年、昭和天皇に至っては、実に64年間という驚異的な在位年数を記録していましたok

明治に入って崩御以外に天皇の退位は認めないという皇室典範の改正が行われましたdanger

どうしてこの様な改正を行ったのかはわかりませんが、以後において、天皇がご高齢に達した時には決まってご健康問題が取り沙汰される事が常となったのですok

ところで・・・

明治以前の天皇は、自分の意志で位を譲る事が可能でしたok

退位した天皇の事を、太上天皇(たいじょうてんのう)(略して上皇《じょうこう》)と呼んでいましたwink

同じく、出家した太上天皇は、太上法皇(たいじょうほうおう)(略して、法皇《ほうおう》)と呼ばれていましたhappy01

現在の企業で例えると、社長を退任して会長に就任する事に該当すると思いますが、引退して上皇となれば、何かと制約の多い天皇という地位から解放され、自由な時間を過ごす事も可能でしたhappy01

従って、堅苦しい政治の世界から一線を引いて、余生を和歌・音曲に没頭したり、寺社仏閣への参詣や景勝地への旅行等に費やすという隠居生活を満喫出来たのでしたshine

しかし、天皇を辞めても、権力は手放さなかった上皇もかなり存在したみたいで、現役の天皇との二重統治という弊害を生む事も少なからずあったのですgawk

ところで・・・

来年の大河ドラマ「平清盛」はこの二重権力システムの角逐の中で、強大な権勢を振った上皇が何と3人も登場しますhappy01

白河(しらかわ)・鳥羽(とば)・後白河(ごしらかわ)という3人の上皇(3人とも後に出家して法皇となりますsmile)は早い段階で、天皇の地位を息子や孫に譲り、自らは前(元)天皇という比較的自由な立場(上皇という地位は完全たる公人とは言えないsign03)から政治権力を握って、思い通りの政事を行ったのですcoldsweats01

この天皇の父方親族である(尊属)上皇や法皇が行う政治システムの事を、院政といいますscissors

本来政治を行うべき天皇に代わって、上皇が政治を後見するので、後者にとって、前者がまだ政治を行う事が出来ない幼年であった方が都合がいい訳ですねsmile

この為、幼くして天皇位を譲られた鳥羽(白河法皇孫・父の堀河《ほりかわ》天皇は在位中に逝去)が20歳そこそこで、息子の崇徳(すとく)に譲位させられた事は良く知られていますdespair

無論、鳥羽に譲位を強要したのは、祖父である白河でしたgawk

(新帝となった崇徳の上に、白河法皇と鳥羽上皇が並び立つ事になりましたpaperしかし、最大の権力者は依然として白河の方でしたshine

この事からもわかる様に、院政権力の最大の源は、天皇の地位を自己の思うままに動かす事にあったのですnew

清盛は、白河法皇が始めた院政がその全盛期を迎えた頃に誕生していますhappy01

彼の祖父や父はこの院政勢力との繋がりを密にして、飛躍の足掛かりを掴んでいきますok

(この話はこれから進めて行きますのでお楽しみにdelicious

さて、お話を現在に戻しますが・・・

仮に今上陛下がご退位されるとなれば、歴史の先例に則って、太上天皇という称号が奉られるのでしょうかsign02

その場合は、象徴天皇制になってからは勿論、近代初の上皇誕生という事になりますねnew

女性宮家創設問題と合わせて、論議の行方に注目ですsoon

江(忠輝処罰の背景)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年11月30日10時47分07秒 | コメントなし | トラックバックなし

事実上の初陣となった大坂夏の陣においての、忠輝の働きはあまりにもお粗末でしたgawk

忠輝は生来、豪毅な性質を有しており、戦国武将としての資質は十分だったと思われますnew

ところで、家康の息子達を見渡してみると、乱世型・平和型の2つのタイプに大別できると考えられますok

前者は、信康・秀康・忠輝・頼宣ok

後者は、秀忠・忠吉・信吉・義直・頼房ok

という感じでしょうかhappy01

そうした中で、家康六男は遅れて生まれた乱世型の人間でしたok

その忠輝が待ちに待った合戦の場で、何らの働きもなさなかったのは、誠に不可解な印象を味方に与えたと思われますcloud

岳父独眼龍政宗の薫陶を受けていた筈なのに、何故このような失態を演じたのでしょうかsign02

一説では政宗が忠輝に、あまり勇んで突出しないようにと忠告した為といわれていますthink

実はこの時期、政宗と忠輝の周辺ではキナ臭い噂が流れていました・・・danger

政宗は、家臣支倉常長(はせくらつねなが)をローマ教皇への使節として派遣していましたsign01

この使節派遣の表向きの名目は、交易の振興とされていますが(家康も政宗の外交活動については承認を与えていますpaper)、真の狙いはローマ教皇を通じて、当時随一のカトリック強国だったスペイン(イスパニア)に艦隊派遣を要請して、その力を借りて徳川政権を転覆させるという奇想天外な企みであったと噂されています・・・sign03

そして、打倒した徳川政権の後釜に忠輝を押し立て、自らが後見人として天下の采杯を振うという青写真を描いていたsign02(外国の力を借りて徳川幕府を打倒するなんて、いくら何でも考えられないと思うのですが・・・run

あくまでも、噂や風評の域を出ていなかったのですが、政宗という人物は秀吉・家康という天下人ですら警戒を怠る事が出来ない程の油断のならない人物であったのですdanger(換言すれば、一目も二目も置いていた事になりますがcoldsweats01

最も、家康は政宗の危険性を百も承知で、彼の娘の五郎八姫を息子忠輝の正室として迎えていたのですconfident

政宗も若い頃は激しい気性であり、その将才によって、奥羽地方の統一をあと一歩の所まで推し進めていましたsign01

(秀吉の小田原征伐の為、時間切れとなりましたが・・・)

その政宗も30代から40代を迎えており、いよいよ円熟した近世大名としての風格を漂わせていましたok

家康は忠輝と政宗はどこか似た所があると思っていたのでしょうnew

それ故、どこか危うさを備えていた息子が政宗の薫陶を受ける事によって、人間的な成長が促されるのを秘かに期待していたのかもしれませんok

この試みは(忠輝と五郎八姫の結婚)ある意味、リスクを伴っていましたが、結果としては忠輝の運命を狂わせる事になったのは否めませんweep

また、忠輝にとって致命的だった事は、彼自身が兄である将軍秀忠と極めて険悪な関係であったという事ですbearing

前述したように、大坂陣勃発当時、秀忠の弟達で、成人(20代)に達していたのは忠輝一人のみでしたdanger

両者は10歳以上の年齢差がありましたが、徳川親族として忠輝が豊臣征伐に最も奮励しなければならない立場にあったのですshine

それが冬の陣では江戸城の留守番(これはこれで、忠輝以外に任せられる人がいなかったとは思いますが・・・)を仰せつかる事になり、彼自身は父家康よりは兄の秀忠に不満の矛先を向けたのかもしれませんrock

その鬱積した気持ちの爆発が、夏の陣開始前の近江国で起こった、秀忠家臣達の斬殺事件であった事は容易に推測できますok

こうした秀忠への不満が、夏の陣での意識的なサボタージュであったのかもしれませんpout

しかし、忠輝の不平不満はある程度、理解できますが、肝心な戦場での(しかも大和口の総大将を命じられていたsign01)怠慢行動については、弁解の余地等なかった筈です・・・gawk

はっきり言って、将軍の命令に従わず、軍紀違反と見なされても致し方なかったのですdespair

これでは、秀忠は勿論、父家康も怒り心頭であったに違いありませんangry

そんな我儘な忠輝に引き換え、他の徳川家の親族達は、大坂夏の陣では最前線に立って、血を流しながら戦ったのですbearing

家康嫡男信康は、正室徳姫(信長娘)との間に二人の娘を儲けていましたhappy01

この娘たち(家康の孫娘)は成長後、小笠原秀政(おがさわらひでまさ)と本多忠政(ほんだただまさ)にそれぞれ嫁ぎましたok

夏の陣での豊臣方との激戦地となった天王寺の戦において、秀政と嫡男忠脩(ただのぶ。母は信康娘)、忠政弟の忠朝(ただとも)は奮戦の末、討ち死にを遂げていますcrying

(ちなみに、本多兄弟の父親は有名な平八郎忠勝ですhappy01

また、家康次男結城秀康の嫡男であった松平忠直(まつだいらただなお)は、大坂方最強武将であった真田幸村を討ち取るという大手柄を上げていますsign03(忠直の正室は、秀忠と江の三女勝姫ですねconfident

徳川方の勝利に大きく貢献した彼等の一方で、忠輝の不甲斐無さ(武将としての能力を思う存分発揮できる最初で最後の機会であったにも拘わらず・・・weep)はあまりにも際立っていましたthunder

この時、家康は忠輝に対して何か処罰を与える事を考え始めたのではないのでしょうかsign02

将軍の命令の下、出兵・参陣した諸大名達への示しも付かなかった事も考えられます・・・

そして、実際に下された処罰はあまりにも過酷な物でしたimpact

処罰のあらましは、父家康との永対面禁止(今後この世では、一切対面しないimpact)を皮切りに、領地没収の上での幽閉と続き、最後に、家康の死直後に言い渡された伊勢国朝熊への配流処分でありましたcrying

端的に言えば、永久追放でしたweep

つまり、二度と世に出る事が許されない・・・公人としての死刑宣告に等しかった訳ですbearing

この時忠輝は未だ、22歳という若さでありましたbearing

どうしてこの様な酷薄な処罰が行われたのでしょうsign02

続きは次回に致しますsoon

江(忠輝の不行跡あれこれ・・・)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年11月29日11時25分18秒 | コメントなし | トラックバックなし

大坂夏の陣における忠輝の不可解な行動sign03

さて、忠輝のお話の続きですwink

大坂冬の陣の折、家康は手許において養育していた九男義直と十男頼宣を伴い、出陣しましたhappy01

当然幼い二人の息子達にとっては初陣となりましたok(末子の頼房はまだ11歳という事もあって留守番だったみたいですねcoldsweats01

戦国最後の大戦を幼いわが子に体験させたいという老父の親心だったのでしょうhappy01

ところが・・・

彼らより年長であった忠輝(この時22歳でした)はこの時、参陣を許されず、江戸城の留守居役を命じられましたweep

将軍秀忠が大坂征伐の為、居城である江戸城を留守にした訳ですので、主不在の間、将軍の弟の中で最も年長の忠輝が留守居役を務めるのは、ある意味当然だったと思いますok

しかし、生まれつき激しい気性に富んでいた忠輝にとって、幼い弟達に先を越されて初陣された事は、大きなショックであるとともに、屈辱であったと思われますangry

この点、タケ海舟は家康の忠輝への愛情の薄さをどうしても感じてしまいますgawk

この時義父である伊達政宗は大坂攻めに加わっていましたok忠輝がなぜ冬の陣の遠征メンバーから外されたのかはわかりませんが、家康は政宗と一緒の戦場に彼を置く事にある種の危険性を感じていたのかもしれませんban

面白くないのは当の本人である忠輝で、彼は領国の越後高田をなかなか出発しようとしませんでしたsign03政宗の慰留の手紙を受けて漸く、重い腰を上げるという始末でしたgawk

忠輝は、次の機会(最終決戦の夏の陣)での参陣を強く希望したのでしょうthink

もちろん、政宗も可愛い婿に初陣を飾らせてやりたいという気持ちもあった筈ですgood

彼等の嘆願が功を奏したのでしょうかsign02慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、忠輝は晴れて越後衆をひきいて出陣しましたhappy01

ところが、合戦における忠輝軍は実に不可解な行動に終始していたのですgawk

そもそも、合戦前から不穏な空気が流れていましたgawk

忠輝軍は北陸道から大坂を目指していたのですが、近江国で秀忠の旗本二人が忠輝軍と並んで行軍した事を理由に非礼を激怒した若き大将の命によって、斬殺されるという事件が起きたのですshock

当時、身分の低い人が断りもせず、目上の人と馬を並んで進む事は『乗り打ち』といって切り捨て御免の対象になっても文句が言えない程の不敬行為でしたsad

従って、忠輝はあくまでも正当な論理で相手を無礼討ちに処したのですが、斬り殺された二人が将軍直臣の旗本であった事が問題となったのですng

この事件の詮議は合戦終結後となったのですが、肝心の戦場においても忠輝は大和口の総大将という立場でありながら、その戦意は実に劣悪な物でありましたdespair

堪りかねた伊達政宗からの督促によって軍勢を動かしたものも、既に戦機は去った後でしたangry

更に、5月6日の道明寺合戦から8日までの最終決戦の間においても、忠輝軍は何ら満足な手柄も立てる事無く、大坂落城を以て、夏の陣は終わりを告げたのでしたsign01

これでは、いくら家康の息子でも、ここまで怠惰の極みを重ねてしまったら、そのままと云う訳にはいかなかったでしょうweep(はっきり言って、忠輝は不肖の息子の典型だと断言できますimpact

次回は忠輝没落の背景についてお話しますsoon

「江」を見終えての感想

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年11月28日14時26分31秒 | コメントなし | トラックバックなし

昨日の最終回で、遂に「江~姫たちの戦国~」が終わってしまいましたdespair

今回の大河は、12月に放送される「坂の上の雲」の為、通常より1か月少ない話数になっていましたdash

それ故、『1月に始まったばかりでもうお終いsign02』という思いが正直な感想でありますconfident

そこで、本日は11か月間ドラマを見続けた中で、最も印象に残った事柄をお話させて頂きたいと思いますgood

タケ海舟は、今回のドラマのテーマは、親と子供との愛情のすれ違いによる葛藤と和解だったと思いますup

加賀まり子さん演じた大姥局が『親が子を諦めてはならないsign03』と必死に江に訴えていましたdanger

初めての産んだ息子の竹千代を乳母の福に独占された彼女の気持ちが、弟の国松に移りつつあるのを危惧した彼女なりの最後の諫言だったのですが、江にしてみれば、兄弟に対して平等に愛情を注いでいる積りであった筈が知らず知らずの内に、国松を偏愛してしまっていたのでしょうsad

同じ親子でも家康と秀忠との確執もドラマを通じての問題として顕在化されていましたdanger

大姥局はこの不器用な父子に対しても、腹を割って話をする事を頻りに進めていましたねsign01

更に彼女は、福に対しても『乳母はどんなに尽くしても実の母を凌ぐ事は出来ないsign01子と母を結びつける事こそが乳母の務めであるsign03』と乳母の先輩として心得を説きましたok

そして・・・

『かく言う私も、未だ父と子を結ぶつける事が出来ないでいるが・・・gawk』と自嘲気味に話をしていましたgood

(覚えている方も多いかと思いますが・・・)

大姥局に苦言を呈された当人達は、その時点ではまだ事の重要性を理解できていなかったと思われますが、秀忠は父の死の直前に、そして、江は竹千代の「化粧事件」を契機にして、漸く相手が自分を如何に大切に想っているのかを確信できたのでしょうok

そして、江と竹千代の心を通わせる最後のダメを押した女性こそ、福でありましたshine

『竹千代様が化粧をされたのは、御台様を慕っている気持ちの表れでございますsign03

この時を以て、彼女は正真正銘の乳母となったのでしょうねgood

タケ海舟はこのシーンこそ、ドラマ製作者が一番視聴者に訴えたかった事であったと確信しておりますhappy01

現代でも親と子・兄弟・夫婦つまり、家族関係が希薄化のみならず、崩壊・ドロ沼化するという悲しい現実がありますweep

遠く、過去の歴史を紐解いてみても、父と子との確執が悲劇的な結末を迎えてしまい、その挙げ句に家が滅亡するという事例を数え上げたら、十指でも足りませんshock

このドラマでは家康と秀忠、江と竹千代という親子の他に、様々な親子の愛と葛藤が描かれていましたok

(この他には市と三姉妹、淀と秀頼、秀吉と秀次等の関係が印象的でしたが・・・think

こうした過去の親子の姿に学びながら、私たちの今の家族関係を見直す事も必要ではないかなと感じた次第ですhappy01

 

もうひとつ・・・think

ドラマでは江の終焉までを描いていませんでしたdanger

(約10年前の「葵徳川三代」では江の最期を取り上げていましたnewその時の江は岩下志麻さんでしたね・・・delicious

徳川将軍初代御台所江は、寛永3年(1626)江戸城西の丸にて54歳の生涯を閉じましたcrying

この時、夫の秀忠(大御所)と家光(三代将軍)・忠長の父子は後水尾天皇の行幸を二条城で迎える為、上洛中でしたok

江は突然病気になったみたいで、しかも僅かな病臥期間を経て危篤状態になったみたいですdespair

江戸より急報を受けた秀忠達は、天皇を迎えての式典最中の為、身動きが取れない状況でしたthink

窮余の策として、弟の忠長のみが京都を発って江戸へ向かったのですが、忠長の帰着前に江はこの世を去ってしまいましたweep

秀忠と家光は悲報を京都で受けたのです・・・weep

大御所と将軍が江戸に帰着後、盛大な葬儀が行われ、彼女は増上寺に葬られましたweep

そして、6年後に江と同じ54歳で逝去した秀忠も同じ寺に埋葬されましたthink

同じ享年で生涯を終えた事は、二人の絆の深さを感じさせますconfident

また、タケ海舟の個人的な意見ですが・・・

江は良い時に、この世を辞したと思っていますnew

ご存じの通り、彼女の死後に家光・忠長兄弟の間に深刻な対立が生じ、忠長は後年自害に追い込まれてしまいますcrying

忠長の賜死については機会を改めてお話をしたいと思いますが、もしその時、江が存命だったとしたらと考えると・・・sad

やはり彼女は幸運だったと思いますok

実の息子が命を奪われるという修羅場に立ち会わなくても良かったのですから・・・sad

本日はここまでにしますsoon

 

江(家康晩年の悩みの種だった六男忠輝)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年11月24日16時47分35秒 | コメントなし | トラックバックなし

家康の六男松平忠輝(まつだいらただてる)

ドラマ江で登場した家康の息子は、向井理さんが演じた秀忠の他には兄であった信康と秀康の三人だけでしたhappy01

実際の家康は、正室・側室含めて多くの子供を儲けており、男子は夭絶を含めると十三人が確認されていますscissors

関ヶ原合戦の折は、家康には、次男結城秀康を筆頭に、三男秀忠、四男松平忠吉(まつだいらただよし)、五男武田信吉(たけだのぶよし)、六男松平辰千代(たつちよ)の五人の息子達がいましたhappy01

この天下分け目の戦の年に九男五郎太(義直)が、更に数年後には十男長福丸(頼宣)と十一男鶴千代(頼房)が出生していましたscissors

この三人は家康が五十代の終わりから六十代にかけて、相次いで儲けた子供で、家康はこの孫みたいな年齢の子供達を大層可愛がったみたいで、駿府に居を移した時も、彼等を同行して自ら薫陶を加えましたhappy01

この三人の子供達が、尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖になりますscissors

一方で、年長の子供達の方はといいますと、生来病弱だった信吉(武田家を継いでいました)が、慶長8年(1603)に二十一歳で、更に、同12年(1607)には秀忠の同母弟だった忠吉が二十八歳で、秀康も三十四歳でそれぞれ早世してしまいましたweep(三人生まれて、三人亡くなったという事になりますね・・・)

将軍となった秀忠と年齢的にも近かった兄弟達の死によって、家康は将軍家を支える藩屏構想の根本的な転換を余儀なくされましたdanger

それ故、晩年に生まれた三人の子供達に亡くなった兄達の役割を継承させるべく、自らの膝下に置いて養育をしたものと思われますnew

同時に、秀忠のすぐ下の弟となった辰千代(忠輝)の役割が大変重くなったと考えられますshine

しかし、本来しっかりしなければならない忠輝が、家康晩年の頭痛の種であったのですshock

忠輝は天正20年(1592)に家康の六男として誕生しましたsign01(生母は茶阿局《ちゃあのつぼね》です)

忠輝の生母は家康の側室として、忠輝以外に弟の七男松千代を挙げていましたcatface(一説によると、忠輝と松千代は双子であったともいわれていますnew

ところで、忠輝は当初、父家康から子供として認知されていなかったみたいで、生まれてすぐ、下野国(現在の栃木県)の大名であった皆川広照(みながわひろてる)に預けられて養育されますgood

一方の弟松千代は、誕生後すぐに家康の子供としての待遇を受け、後に松平家支流の十八松平家の一家である長沢松平家(ながさわまつだいら)の養子として入嗣していますok

同じ母親から生まれた兄弟が、何故かくも明暗を分けたのかという理由ははっきりしないのですが、前述したとおり、忠輝・松千代兄弟は双子であったのかもしれませんthink

この時代、双子は畜生腹として忌み嫌われていました・・・それ故、二人の内、どちらかは捨てられるか里子に出される事が多かったみたいですdespair

この兄弟の場合、兄の忠輝が里子に出されたのでしょうdespairいくら当時の習慣とはいえ、生母の茶阿局にとっては耐えられなかった事でしょうweep

皆川広照に養われていた忠輝(この時はまだ辰千代)は慶長3年(1598)に漸く、実父家康と対面sign01正式にわが子として認められますokこの翌年、長沢松平家を相続していた弟松千代が夭絶した為、その後嗣となりますpaper(弟の家を兄が継承する事は当時としては結構稀な事でありましたnew

関ヶ原合戦後、慶長7年(1602)に元服して、上総介忠輝と名を改めますhappy01

この諱(いみな)ですが、忠は恐らく兄である秀忠から拝領してると思いますが、輝の字についてはどういう経緯で名乗りの字として採用されたのかはわかりませんsign02タケ海舟の推測ですが、育ての親である皆川広照の照の字を輝に変えたのか、または、忠輝の異母姉督姫(とくひめ・家康次女)の夫であった池田輝政の一字を拝領したのかもしれませんnew(あくまでも仮説に過ぎませんが・・・)

元服と前後して、忠輝は武蔵国、下総国で所領を与えられていましたが、慶長8年(1603)に信濃国川中島で十二万石に加増転封されましたok

そして、同11年(1606)に忠輝の命運をある程度、決定付けた婚姻が執り行われたのですdanger

忠輝正室として迎えられたのは、奥羽の独眼流伊達政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)でしたok

この婚儀は、既に関ヶ原大戦前の段階で婚儀の約束は取り交わされていましたscissors

幼かった当人同士の成長を待って(といっても当時忠輝はまだ十四歳、新婦に至っては十二歳でしたが・・・)実際の輿入れとなったのでしょうsign01

この婚儀の狙いは、関ヶ原合戦を目前に控えた家康が、向背定まらない政宗を自陣営に引き入れる為の懐柔策であったと思われますsharp決戦時、政宗は奥羽地方での家康方として重きを為しましたok

それから六年後に婚儀が実行に移された訳でありますが、隙あらば、天下を虎視眈々と狙っていた政宗が家康の子供の岳父となった事は、政宗の野望(彼は生涯天下取りの野心を持ち続けたと思っていますsign03)に更なる火を付けたのではないのでしょうかsign02

政宗という大きな後ろ盾を得た忠輝(家康にしてみれば政宗の動きを縛り付けて置きたいという思惑だったでしょうが・・・)は、慶長15年(1610)に越後国(現在新潟県)福島七十五万石に加増転封されましたok

福島城は旧領主堀家の居城でしたが、家康は新たに、高田の地における築城を命令sign03

天下普請として主に奥羽地方の大名十三家が築城に従事しましたdanger

岳父政宗が婿の君臨する新しい城造りに、ひと際邁進した事は論を待ちませんok

このように見ると、忠輝は将軍秀忠のすぐ下の弟として、奥羽地方の大名達の抑え役という役割を与えられていたのでしょうscissors同時に仙台城主であった伊達政宗と徳川幕府を繋ぐ存在としても期待されていた筈ですhappy01

確かに、家康はあまり忠輝を可愛がっていなかったのかもしれませんが、それとこれとは別で、少なくとも、この時点においては徳川体制を支える有力な親族としてその大いなる天下構想に組み込まれていたに違いありませんsign03

しかし、忠輝は自らの未熟さと慢心から道を誤ってしまいます・・・crying

ここから死を目前にした家康最後の苦闘が始まるのでした・・・bearing

続きは次回にしますsoon

 

江(戦乱の世の終焉)

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2011年11月24日11時40分12秒 | コメントなし | トラックバックなし

新たな支配体制の構築の為に・・・

大坂の役で豊臣家を滅ぼした家康は、休む間もなく、戦後処理と平和体制の構築に着手しましたhappy01

まず前者ですが、徹底した豊臣方の残党狩りを行いますshock

秀頼が側室との間に産ませていた長男鶴松は、大坂夏の陣開始前に城内から脱出していましたが、戦後直ちに見つけ出され、処刑されていますweep

秀頼にはもう一人娘がいましたが、彼女については秀頼正室の千姫の必死の嘆願によって助命され、鎌倉の東慶寺において出家、天秀尼と名乗りますdespair(当然ながら、彼女は子供を残さずに亡くなっているので、これを以て、豊臣家の嫡流は断絶する事になりましたweep

大坂方に味方して、行方が判らなく武将達の捜索も苛烈を極めましたweep

関ヶ原合戦で土佐国を没収された長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、潜伏先で捕らえられた後に斬首されましたweep

また、前回ご紹介した細川興秋も身柄を拘束され、父忠興の命によって切腹させられましたweep

しかし、大坂方の事実上の主将だった大野治長の弟達の、治房と治胤の兄弟達は戦後、行方不明となったみたいで、急先鋒的存在であった彼等の探索がかなり後年まで続いたと思われますnew

(結局、大野兄弟の行方は、最後まで判明しなかったみたいです・・・despair果たしてどこに行ったのでしょうかsign02

関ヶ原の合戦時と異なり、今回の豊臣討滅の戦における戦後処理は、実に過酷でしたshock

徳川体制を名実共に盤石なものとする為には、豊臣家の痕跡は全て抹殺しなければならなかったのでしょうthink

秀吉が祀ってあった豊国神社の破却が段階的に始まったのも、夏の陣終焉直後でしたgawk同時に秀吉は豊国大明神という称号も剝脱され、新たに仏の戒名を与えられる事になりました・・・sad

(秀吉正室であった高台院や、同じく側室だった京極龍子(寿芳院《じゅほういん》)がこの有様を見てどんな感情を抱いたでしょうかsign02心中察するに余りありますcrying

こうして戦後処理を一段落させた家康は、引き続き、徳川幕藩体制の礎となる法制の発布を実行に移しますsign03

まずは諸大名に戦の世は終了したという事を知らしめる一環として、一国一城令を公布しましたok

大名の領地には、大名自身が居住及び政治の拠点とする城以外は、新たに造ってはいけないsign01また、現在領内にある本城(大名の居住する城)以外の城は、速やかに取り壊す事を義務付けていましたpunch

もっとも、江戸時代では一万石以上の領地を持つ者は全て、大名と呼ばれていましたsign01

ですから前田家みたいに百万石以上の石高を誇る家もあれば、辛うじて一万石ギリギリの石高を保持していた家もあったのですnew石高の微少な大名達は領内に城を持たず、代わりに陣屋を儲けて領内支配の拠点としていましたsign01

また、一国に城は一つと云う事が原則でありましたが、あくまでも一大名に一つの城という建前でありましたgood

例えば、三河国(現愛知県東部)には複数の譜代大名が配置されたのですが、家康が生まれた岡崎城を始め、西尾城、吉田城(現豊橋市)、田原城、刈谷城等、多くの城が存在していましたhappy01

一方で、一国を治めている大名(国持大名)の場合は、文字通り一つの城という原則が貫かれていましたsign01

例を挙げると、妻とのおしどり夫婦ぶりで知られていた山内一豊の場合は、関ヶ原合戦の戦功で、土佐国(現高知県)を拝領したのですが、一豊は土佐御国入り後に新しい城を(高知城)建造して、旧主長宗我部時代の城は全て、取り壊しをしたのですok

同じく、関ヶ原合戦で安芸国(現広島県)一国を与えられた福島正則も、旧領主毛利氏の本城広島城をそのまま、自己の居城として使用しましたpaper(後年、この城の石垣修理が原因で、福島家は改易の憂き目を見る事になります・・・crying

更に、領地が複数国にまたがっている場合は、一国につき一つの城の築城が認められていましたpaper

外様大名ながら家康の信任が篤かった藤堂高虎(とうどうたかとら)は、伊勢・伊賀両国(現三重県)の二ヶ国を領有していましたが、伊勢国には安濃津城、伊賀国には上野城という風に二つの城の築城が認められていましたok

実は他にも、こうした例外措置が取られていたみたいで、大名達が治める国の特殊な事情が反映されていたと思われますshine(結構、弾力的な法令だったみたいですねok

こうして、軍事上の拠点とされた大名達の城の保有数を激減させた後、家康は更に、武家を統制する為の基本法としての武家諸法度を元和元年(1615)に制定・発布しましたdanger

泰平の世における武家の心構えを示した物であり、武家の憲法といって良いかと思いますhappy01

全十三ヵ条から成っており、主な条項を挙げますと・・・

①武芸と学問を疎かにしてはならないsign01

②新たな城の築城の厳禁。既存の城で修理をする場合は、必ず事前に幕府に届け出る事(福島正則はこの条項に抵触して、所領没収と相成りましたdespair

③幕府の許可なく、勝手に大名同士で婚姻を結んではいけないng

でありますok

この法度の起草を行ったのは、方広寺大仏殿梵鐘碑文問題でも知られた金地院崇伝でありましたcatface

崇伝はこの他にも、朝廷との関係を明文化した禁中並公家諸法度の起草にも深く関わっており、徳川体制における学問・思想政策の分野で貢献した林羅山と共に、家康のブレーンとして辣腕を振いましたsign03

武家諸法度のお話に戻りますが、この法令は伏見城で将軍秀忠の名のもとに発布されましたpaper

幕府法として以後、重きをなした法度でしたが、将軍が交代する度に、その都度改定・発布されましたok

三代将軍家光の寛永令(秀忠の時は元和令)では、参勤交代が制度化され、条文も十九ヵ条に増強sign01四代将軍家綱の寛文令ではキリスト教禁令の明文化がなされていますok

以後、五代綱吉の天和令、六代家宣の正徳令と改訂武家諸法度は継続発布されていたのですが、八代将軍吉宗の時代に、武家諸法度は以後、綱吉時代の天和令を規範とするという決定を下した為、これより後の改定は行われませんでしたok(徳川体制も100年を過ぎ、武家諸法度が浸透していた事も理由として挙げられますwink

この武家諸法度に続き、先程も少しだけ触れた禁中並公家諸法度や、寺社統制を目的とした寺院諸法度もこの時期に相次いで発令・施工されましたdiamond

武家・公家・寺社(寺家)という三大勢力それぞれに対応した新時代の在り方を説いた法令の完成を以て、江戸幕府の理論武装は完成したとも言えますsmile

しかしながら、家康は一連の諸法度編纂事業の指揮こそ執っていましたが、肝心の諸方面への発令と公表については、万事将軍である秀忠に行わせたのですnew

秀忠の将軍としての権威を高める目的もあったと考えられますが、『法令の発布イコール戦乱の終結』を宣言する役目は、大御所である自分よりは将軍の方が相応しいと考えたのでしょうscissors

名実とともに将軍秀忠に箔が付いた事になりますshine

件の法令発布が一段落した後、家康は朝廷に奏請して、元号を慶長から元和(げんな)に変更しましたsign01

ドラマ江でも触れられていましたが、文字通り、平和な時代の到来を意味した元号ですねwink

聖徳太子の十七条憲法にも『和を以て貴しとなすsign01』という条項がありましたok太子の憲法の和は、人の和の大切さを説いている思われますが、家康が新元号元和に託した想いは、平和な世が永久に続く事にあったのでしょうhappy01

同じ言葉でも、解釈には微妙な違いはあるのですが、為政者としての想いに大差は無かった筈ですsign03

こうして、泰平の世の道筋を確立させた家康は、京都を発ち、駿府に帰還しましたhappy01

駿府では、表向きの政治の事とは一線を画し、専ら鷹狩り等を楽しみながら関東各地を回っていましたok

秀忠の将軍としての務めぶりもいよいよ、板に付いて来ており、最早一片の憂いも無かったと思われましたが、実は一つだけ大きな問題を積み残していたのですshock

その問題の解決に必要な決断を下す前に、家康は突如、体の不調を訴えたのでしたcoldsweats02

その問題については次回にさせて頂きますsoon

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