井伊直弼
井伊直弼さんと松平容敬さん(その1)
実に久しぶりに井伊直弼さんの登場です![]()
この前より、徳川慶勝さんの実家である、高須藩のお話をしていたのですが、その中で、水戸徳川家より高須藩を継いだ松平義和さんの3男が会津藩に引き取られた事について言及しました![]()
会津藩主の子供として育てられたこの子供が、後に8代藩主松平容敬さんになるのですが、この容敬さんは井伊直弼さんの江戸世子時代における後見人的な存在でした![]()
直弼さんは弘化3年(1846)に兄であり、彦根藩世子だった直元さんの死によって、新たな世子として、江戸に出府する事になりました
江戸にいる藩主直亮(なおあき)さんの下で、藩主見習いの日々を送っていたのですが、前にもこのブログでお話をした様に、直亮さんは直弼さんにとっては、非常にありがたくない養父であり、兄でありました![]()
直弼さんが江戸での生活に慣れてきた頃、直亮さんは、国許の彦根に帰国したのですが、藩主不在中の江戸における彦根藩の実質的な責任者は、世子である直弼さんでした![]()
井伊家は、徳川譜代大名の筆頭で、35万石の大封を領していました。当然ながら格式も高く、江戸城内での序列を示す控えの席は、江戸城黒書院の溜間(たまりのま)でした。この席に伺候する大名は幕政の問題について、諮問に与ったり、将軍に対して直接、意見具申をする事ができ、序列は幕府の政治を総覧する老中より上位でした![]()
また、井伊家は常時、幕府の役職を務める事はありませんでしたが、老中の上に臨時に置かれる大老職に就任する事が定められていました
井伊家では、後に就任する直弼さん以外には4人の歴代藩主が大老を務めていました![]()
直弼さんが世子として江戸にいた頃は、井伊家は大老でなく、通常の地位である溜間詰として、幕府への奉公を行っていました
実は、この溜間詰の大名は何家かいたのですが、代々この席を占める大名は上席として、最も高い格式を有していました![]()
彼らの事を常溜(つねのたまり。または、じょうだまり)といいます![]()
(溜まり醤油ではありません・・・念の為
)
この常溜席の大名は、以下の3家だけでした![]()
直弼さんの実家、彦根井伊家![]()
水戸徳川家の連枝で、讃岐国高松松平家(藩祖は水戸黄門さんの長兄、頼重〔よりしげ〕さん)![]()
そして、容敬さんが藩主を務める会津松平家でした![]()
実は、譜代大名は、その家格によって、相応の務めを幕府や将軍に対して行わなければいけませんでした![]()
この事は、現役の藩主だけではなく、見習いである世子も同様でした![]()
経験の少ない大名達は、必然的に同役や同席の大名達に、指導を受けなければならなかったのです![]()
常溜席の上席である直弼さんが指導を受けるべき相手は、同じ常溜の高松松平頼胤(よりたね)さんであり、会津松平容敬さんでした![]()
その中でも、直弼さんが特に信頼を寄せていた人物が、容敬さんでした![]()
この続きは次回にさせていただきます![]()
[ 2011年05月21日10時10分40秒 ]
水と油だった異母兄弟
めでたく彦根藩後継者の地位に就いた直弼さんですが、なおも藩主の座に居座っていた養父直亮さんから、あの手この手の嫌がらせを受ける事になります![]()
前回にも説明しましたが、直亮さんは当時としては進歩的な考えを持った殿様ではありましたが、性格が極めて執拗で人に対する好悪の感情が極端に激しい人だったようです。
そんな「気難しき殿様」であった直亮さんにとって、直弼さんはどうやら気に入らない養子だったみたいです![]()
以前、歴史上の人物の兄弟姉妹についてスポットを当てた本を読んだ事がありましたが、直弼さんのページの中に、次のような逸話が掲載されていました
(よく知られているエピソードみたいですね・・・)
直亮さんは、直弼さんが世子になっても、その存在を無視したばかりか、江戸における直弼さんの公的生活についても様々な干渉をしたみたいです。そのやり方も非常に執拗で、家老の木俣土佐という人物を使って、意図的に直弼さんを苦しめるという手の込んだものでした![]()
木俣家は代々、井伊家の家老職を務める家柄で当代の土佐は、11代藩主直中さんの十男(直亮さんの弟。直弼さんの兄)である中守(なかもり?)さんを養子としていました。彦根家中の重鎮として直亮さんの意向を受けて直弼さんに意地悪をしていたのかもしれませんね![]()
こんな話があります![]()
直弼さんが、世子となった翌弘化4年(1847)、彼が、上野寛永寺(このお寺は芝増上寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺)で行われた将軍家の法会に出席できなかった事件がありました![]()
譜代筆頭である井伊家の後継者が(この時、直亮さんは彦根に戻っていたのかも)将軍家の法会に参加しなかった事自体、前代未聞と言わなければいけませんが、この理由がまた、とんでもない![]()
なんと、お兄さんの直亮さんが、「経費多過だから」と言って、直弼さんが着用する官服を調達しなかった事が原因らしいのです![]()
仕方なく、使い古した服を着用しようとしたのですが、今度は、「そんな古い服を着て法会に出席しては、井伊家の面目は丸つぶれだ
」と言い出す始末。まさに、ああ言えばこう言う状態![]()
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結局、進退に窮した直弼さんは、仮病を使って、法会を欠席する羽目に陥ってしまいました![]()
藩主である自分は、大量に洋書を購入したり、反射望遠鏡の開発に経費を使う等して、お金を湯水の如く使ったにもかかわらず、幕府の威信に直結する沿岸警備や、譜代大名の必須の役目である幕府行事への参加に必要な最低限の支出をケチるのは、大老までも務めた人物にしては、あまりに器が小さくかんじますね![]()
直弼さんへの露骨な嫌がらせとしか言いようがありません![]()
結局、この「気難しき殿様」は、嘉永3年(1850)に57歳で亡くなるまで藩主の座を直弼さんに譲る事はありませんでした![]()
直弼さんにとっては、本当に困った兄ちゃんだったみたいですね・・・・
直弼さんが藩主になって3年後。アメリカ太平洋艦隊司令長官ペリー率いる黒船が浦賀に来航します![]()
運命は直弼さんを時代の荒波に引き寄せて行きます![]()
続きは次回にいたします![]()
[ 2011年02月17日11時31分45秒 ]
直弼さんと直亮さんとの確執
さて、思わぬ幸運によって彦根藩世子となった直弼さんですが、年齢的には、兄であり養父でもある直亮さんの譲りを受けて彦根藩主になってもおかしくなかったのですが、直亮さんはなかなか藩主の座を直弼さんに明け渡しませんでした![]()
どうもこの親子(実は兄弟ですが)の関係はあまり良好ではなかったみたいです![]()
直亮さんは13代藩主直中さんの三男で、母は直中さんの正室でした。(直亮さんのお母さんは盛岡藩主南部家出身)
したがって、正室出生である事を鼻にかけて、側室出生の直弼さんに事あるごとに尊大に接したといわれています・・・
直亮さんの藩主在職は、30年余に及び、その間、幕府大老職を6年程務めた事もありました。当時の幕府政局は
徳川11代将軍家斉さんが、将軍職を嫡子家慶さんに譲り大御所として実権を掌握していた次期でした![]()
ところが、家斉さんが天保12年(1841)に亡くなった時、直亮さんは大老を自ら辞職します![]()
家斉さん死後、将軍家慶さんを擁していた、老中筆頭の水野忠邦(ただくに)さん主導による、天保の改革が本格的にスタートしました。改革の手始めとして人事の刷新が図られ、家斉さん側近勢力が、幕府要職から外されました![]()
中には、在職期における不正等を咎められて、厳罰を受けた人もいたみたいです。直亮さんも巻き込まれる事を恐れて、自発的に辞任したのが真相だったのではないのでしょうか![]()
大老を辞任後、藩政に専念した直亮さんでしたが、当時としては結構、開明的な殿様だったみたいで、洋書を大量に購入したり、蘭学者を登用する等、独自路線を取りましたが、保守的な気風が強かった藩内の反発を買い、藩内の人間関係は上手くいっていなかったみたいです。また、気むずかしくて、わががまな性格の為か、世間から「むずかしき殿様」と呼ばれていたようです![]()
世の評判も芳しくなかったみたいで、弘化4年(1847)幕府から相模沿岸の警備を命じられた時、海防費用をけちったのか、軍備が同役の三藩(川越・忍・会津)(彦根を含めて、いづれも親藩・譜代大名が担当)に比べて見劣りした事を取り上げられ、「井伊の赤備え」ならぬ、「井伊のお祭り備え」とまで揶揄されました![]()
ここまでこき落とされたら彦根35万石も方かた無しですね・・・![]()
当時としては、開明的な考えを持ち先進技術の発明にも、理解を示していたにもかかわらず、悪評にまみれてしまったのは、たぶんに直亮さん本人の性格にもよるとは思いますが、少し気の毒な気もします![]()
ある意味、偏屈な直亮さんは、世子になったばかりの直弼さんにも文句を言い始めます![]()
続きは次回にさせて頂きます。お楽しみに![]()
[ 2011年02月09日08時31分21秒 ]
若き日の直弼さん
さて、直弼さんの事ですが![]()
生まれた状況から考えると、直弼さんは、大老はおろか、彦根藩主になる可能性すらほとんど考えられない立場でした![]()
直弼さんは彦根13代藩主直中(なおなか)さんの十四男として生まれました。お母さんはたくさんいた側室の1人でした。お父さんの直中さんは、実に15人の男子がいたみたいですが、この中で、正室出であった三男直亮(なおあき)さんが世子となり、他の子供達は、譜代大名や彦根藩家老達の養子として転出して行きました![]()
養子に行かなかったのは、十一男直元(なおもと)さんと十四男の直弼さん、そして、十五男の直恭(なおたか)でしたが、直元さんは、14代藩主を継いだ兄直亮さんの養嗣子となりました。残った直弼さんと直恭さんの養子の行き先を求めて、大名家との内々打ち合わせがあったみたいですが、決まったのは、弟の直恭だけでした![]()
実はこの養子先は、日向国延岡藩主内藤家でした。実は、かなり前に、タケ海舟は「続徳川家臣団」という本を読んだ事がありましたが、この中で兄であった直弼さんが内藤家の養子に選ばれなかった理由として、占いで、彼に剣難(けんなん)の相があると判明したからだという記述がありました
そのような危うい運命の人物を養子には迎えられないという判断だったみたいですが、この予言は後日、桜田門外の変という形で現実となりました![]()
あまりに出来過ぎている為、後世の作り話かもしれませんが・・・![]()
ただ1人、養子先が決まらなかった直弼さんは、彦根城下の埋木舎(うもれぎのや)という邸宅で、17歳から32歳までの15年間を過ごしました
一見、世捨て人同然の生活に見えますが、世子になっていた直元さんには子供がなく、彦根藩としては、直元さんにもしもの事があった場合の、控えの後継候補として直弼さんを残しておいたのではないのでしょうか![]()
実は、直元さんは直弼さんの同母兄であります。この事が大きかったと思います。つまり、直弼さんが彦根藩主になるという可能性はこの時期、わずかながら残されていたわけです![]()
直弼さんは、この埋木舎での生活の日々を、専ら、自己研鑽に費やします。石州流で学んだ茶道は、プロ級の腕前といわれていました。良く知られている、彼の座右の銘は一期一会ですが、この茶道修行の中で培われたものではないかと思われます。
他にも、和歌、禅、槍術、砲術、柔術、居合術等を学び、かなり高いレベルで、文武両道の域に達した人物に成長しました![]()
また、この時期には、後の腹心となる国学者長野主膳と出会い、師弟関係を結びました。愛人といわれている村山たか女との関係を持ったのもこの頃ですね![]()
このまま、平穏な状況が続けば、文字通り、埋木舎に埋もれて行くという人生を送ったと思われますが、歴史の運命は、直弼さんを表舞台に引っ張り出す事になります![]()
弘化3年(1846)に世子であった直元さんが病死。その後釜として、ただ1人井伊家に残っていた直弼さんが彦根藩世子として、兄直亮さんの養嗣子となりました![]()
まさに「果報は寝て待て
」を地で行ったという感じですね![]()
しかし、直弼さんにはまだ暫く、雌伏の時期が続きます![]()
それは・・・
兄であり、養父でもある藩主直亮さんとの確執でした![]()
続きは次回にします![]()
[ 2011年02月04日18時09分47秒 ]
井伊直弼さんの先祖は?
さて、前回お話しました、家定さんの強力な援軍となった井伊直弼さんについて![]()
まず先に、井伊家について![]()
実は、他の徳川譜代大名と比較して、徳川家に仕えた時期は意外と遅く、家康の代になって、徳川四天王の1人に数えられた直政(なおまさ)さんが、仕えたのは最初でした![]()
代々の譜代の家臣達と比べて、大きなハンディがあった事は否めませんでしたが、彼自身の努力と才能によって、たちまち家康に認められる様になりました
武田氏滅亡後、家康は武田旧臣を大量に召抱えたのですが、その中でも、最強部隊として恐れられていた赤備え隊がすべて、直政さんの配下として付属されました。以後、井伊軍団は、鎧兜、刀の鞘、旗指物に至るまで皆、赤一色の統一したビジュアルで戦場を疾駆
文字通り、徳川最強部隊としてその名を轟かせました![]()
徳川軍団の先鋒を務める事も多くなった直政さんは、家康さんの関東入部時に、徳川家臣団最大の石高を与えられます。関ヶ原での戦いでも娘婿であった家康四男の松平忠吉を助けて武勲を立てました![]()
戦後、石田三成の旧領である近江佐和山城18万石を与えられましたが、戦で受けた鉄砲傷がもとで、42歳という若さで亡くなりました![]()
直政さんの死後は、長男の直勝(なおかつ)さんが継ぎ、新たに、佐和山から彦根に城を新築しました。彦根は京都に近く、朝廷を守る押さえの地を任せる者として、南北朝時代に勤皇派で忠誠を尽した、井伊家の実績を考慮した起用であったと思われます![]()
大坂の陣には、病弱の直勝さんに代わり、弟の直孝(なおたか)さんが出陣し、武勲を挙げました。この後、家康さんは、彦根井伊家の家督を、直孝さんに交代させます。(直勝さんは、上野国安中藩3万石の藩主となります)
直孝さんの代で井伊家は、35万石という譜代大名の中では御家門を除いた最大の石高を得る事になります![]()
幕府の中では正式な職に就いた形跡はありませんでしたが、秀忠、家光、家綱の3代に亘り、幕政の顧問格の元老として、重要事項に参与しました![]()
生粋の三河譜代ではなかった(井伊家は遠江国出身)井伊家が徳川譜代筆頭という地位に昇り詰める事ができたのは、まさしく、直政さんと直孝さん親子の功績が認められたからだといっても過言ではありません![]()
なお、直孝さん以後の井伊家の歴代当主は、全員ではありませんでしたが、幕府の名誉職であった大老に就任する事が慣わしになりました![]()
直弼さんはその彦根井伊家の15代目の藩主でした![]()
続きは次回に![]()
[ 2011年02月03日08時32分20秒 ]
タケ海舟