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幕末の徳川政権を担った人たち

慶勝さんの憂鬱(その4)

前回お話した通り、尾張藩には11代将軍家斉さんの実家である一橋家から斉朝さんが養子として入嗣しましたhappy01

一橋治済さんは、嫡男の家斉さんを将軍に、そして孫の斉朝さんを尾張家に入れる事に成功しましたhappy02

実は治済さんは、尾張家に斉朝さんを送り込んだ寛政8年(1796)に、自身の七男である亀之助さんを尾張藩分家の高須家に養子に出していましたsign01

亀之助さんの養子問題は、これが最初ではなく、1年前には御三卿清水家相続の話も持ちかけられていましたconfident

寛政7年(1785)清水家当主重好(しげよし)さんが、嗣子のないまま死亡した時、一橋治済さんは清水家の後継者に亀之助さんを送り込むべく画策しましたsign01

しかし治済さんの計画は、当時の幕閣(その中心は老中筆頭であった松平信明〔のぶあき〕さん)が反対した為、実現しませんでしたweep

その代わりだったのかはわかりませんが、翌年に高須藩主松平義当(よしまさ)さんの養子として、高須藩を相続する事になりましたhappy01この時より松平義居(よしすえ)と名乗り、高須松平家世子となりますhappy01

斉朝さんの尾張家相続と並行して行われた、この縁組の目的は果たして何だったのでしょうかsign02

タケ海舟は次のように考えますgood

治済さんは、尾張家とその有力連枝衆である高須家に、一橋家出身の当主を同時に送り込む事によって、義直系の血筋が絶えた尾張藩を自己の統制下に置こうと考えたのでは思いますhappy01

この背景には、将軍家斉さんの実父として、隠然たる影響力を行使を狙う治済さんと、治済さんの幕政への容喙を極力阻もうとした、寛政の遺老達(松平定信さんとともに、寛政の改革を担った老中達の事を総称した呼び名)との暗闘があったと思いますdanger

それでは、治済さんが仕掛けた尾張徳川一門植民地計画は、どんな成り行きを見せたのでしょうかsign02

続きは次回とさせて頂きますsoon

 

 

 

[ 2011年05月10日15時16分33秒 ]

龍馬暗殺犯と黒幕について(その2)

さて、龍馬暗殺の真相についてdanger

「龍馬史」の著者 磯田道史氏は、龍馬暗殺に謎は無しsign01

と断言されていますrock

彼ほどの大物が殺害されたのだから、背後に余程の黒幕が存在しているに違いないsign01

龍馬ファンはもちろん、多くの歴史愛好家はそう考えたくなるでしょうdespair

しかし、明治維新を経て、今日まで、龍馬暗殺について、様々な証言が残され、実行犯については、京都見廻組である事が確実視されていますnew

磯田先生は、オーソドックスに考えて、黒幕は見廻組を監督していた、京都守護職の会津藩であると結論付けていますcoldsweats02

実は、意外と知られていないのですが(少なくともタケ海舟は・・・)

見廻組頭の佐々木只三郎は、直参旗本なのですが、実は、会津藩士佐々木源八の三男でしたsign01

(付け加えますと、同じ会津藩支配の新撰組は、下級武士、若しくは武士階級でなかった者達が構成メンバー。これに対して、見廻組は、直参旗本が中心。両組織はともに京都の治安維持と不逞浪士達の摘発が任務でしたが、互いにライバル意識むき出しで、関係はよくありませんでしたdespair

つまり、佐々木はもともと会津松平肥後守家中だったわけです。(松平肥後守とは京都守護職松平容保さん。この方は、尾張藩主徳川慶勝さんの異母弟ですdelicious)

戊辰戦争で官軍に降伏して後、赦免された見廻組隊士で、龍馬暗殺を証言した実行犯2名が、「暗殺指令は会津藩から見廻組に下された」と一致した話を残していますup

この命令系統については実に自然であり、疑問の余地はないと考えてますcoldsweats01(直属の上司から命令が来るのと同じ様なものですからねgood)

そして、この命令系統の中で、ある重要な人物が浮かび上がって来ますsign03

先程来、佐々木只三郎さんは、会津藩出身であるとお話しましたが、彼の兄で京都会津藩の公用人という重職に就いていた人物で、手代木勝任(てしろぎかつとう)という人物がいましたdanger

この手代木さんが明治37年(1904)に亡くなった時、家族に龍馬暗殺について驚くべき真相を言い残しましたsign03

このお話については次回にいたしますsoon

 

 

[ 2011年03月02日11時44分32秒 ]

慶勝さんと開国問題

久しぶりに、慶勝さんのお話をしたいと思いますhappy01

嘉永6年(1853)、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる艦隊が、突如浦賀沖に来航。開国通商を要求する事件が勃発しましたdash

老中筆頭阿部正弘さんは、この未曽有の国難への対策を練るにあたって、従来の慣例を破って、朝廷や諸大名はもちろん、広く一般庶民にも意見を募りましたdanger(後の民主主義の始まりともいえるかもhappy01

御三家筆頭の慶勝さんは、このペリー来航について、事前に情報を得ていたみたいですhappy01

阿部老中は、長崎出島のオランダ商館長から近いうちに、ペリーが開国を求めて日本に来るという情報を入手していましたSmile

事態を憂慮した阿部さんは、海外事情に詳しい薩摩藩の島津斉彬さんや御家門筆頭越前藩の松平春嶽さん等に、あらかじめ情報をリークして、意見聴取をしました。慶勝さんは嘉永5年(1852)に斉彬さんからペリーに関する情報を入手、それを伯父である水戸の斉昭さんに伝えていましたhappy01

同時に、西洋事情について研究を重ね、領内沿岸の防備を充実する為、大砲の鋳造やお台場(砲台)の建設を始めましたhappy01

ペリーの持参したアメリカ大統領の国書への対応を打診された慶勝さんは、「開国については、幕府祖法である鎖国を破る事になるので、反対である」 「アメリカとの戦争は避けるようにして、開国通商交渉を出来るだけ長引かせて、その間に当方の砲台や軍艦を建造して軍備を整える」という開国反対避戦論を展開しましたsign01

多方面からの意見を吟味・分析した阿部正弘さんは、熟慮の末、開国やむなし・・・という結論に達しましたgood

(実際、長きにわたる泰平に慣れきってしまった武士たちに、まともな対応を求める自体、そもそも無理だった筈ですweep

こうして、翌年の安政元年(1854)、再び来航したペリーとの間に、日米和親条約が締結されましたsign03

この条約調印に対して、慶勝さんは、怒りを露わにしますannoyannoy

この辺りの話は次回にしたいと思いますsoon

[ 2011年03月01日16時59分34秒 ]

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