清盛の弟達シリーズの第二弾です![]()
忠盛が宗子以外の女性に産ませていた息子(清盛は別として)は、3人いました![]()
(平家物語を読まれた事がある方は、ご存知かもしれませんが
)
清盛と6歳違いの経盛![]()
10歳違いの教盛![]()
そして、なんと26歳違いの忠度(ただのり)![]()
末弟の忠度が生まれた頃、既に清盛は長男重盛(しげもり)を儲けていました![]()
忠度は、自分の息子より年下の弟だった訳ですね
現在ではあまり見かけられないケースですが、一夫多妻多妾制が定着していたこの時代では、珍しい事ではありませんでした![]()
さて、忠盛三男経盛ですが、彼の生母は村上源氏の右大臣顕房(あきふさ)の六男信雅(のぶまさ)でした![]()
村上源氏は、実に子沢山の一門で、特に源顕房は、娘賢子が関白藤原師実の養女として白河帝に入内して、堀河帝を儲けたのを始め、別の娘の師子は、師実の孫である忠実の正室となり、忠通と勲子の母となっており、政界において大きな勢力を有していました![]()
(ちなみに師子は、忠実に嫁ぐ以前、白河院の後宮に入って覚法法親王を産んでいます
)
岳父であった信雅は、最高位が正四位下陸奥守で公卿、大臣を輩出した村上源氏の中では傍流の道を歩んだのですが、関白忠実の家司(公卿の家の家政を司る役目。現代風に言えば執事ですかね
)務めていました![]()
忠盛と信雅がどの様な繋がりを持っていたのかどうか、良くわかりませんが、摂関家当主の家政を統括する人物と縁戚になった事は、信雅の背後にいる摂関家とのコネクションを作るのには効果的であったと思われます![]()
また、信雅の別の娘は、忠実自慢の息子に嫁ぎました![]()
この息子こそ、有名な悪左府こと藤原頼長(ふじわらのよりなが)であります![]()
保元の乱の一方の首魁となった頼長の事については、追々お話をしますが、なんと、忠盛と頼長は相婿同士だったという訳ですね![]()
若し、保元の乱の三年前に忠盛が死なず、乱勃発時に存命していたとしたら・・・
同じ信雅の婿同士であった忠盛に対して、頼長が加勢を要請する可能性は、かなり高かった筈です![]()
信雅娘との間に、経盛を儲けていた忠盛同様に、頼長も同じ信雅娘との間に、次男師長(もろなが)を得ていました![]()
あくまでも仮説ですが、信雅(彼は保元の乱かなり以前に逝去していましたが・・・)を巡る姻戚関係は、保元の乱の勝敗の帰趨に影響を与えた可能性はあったかもしれません
(場合によっては経盛単独で頼長と合流する事も有り得たでしょう
正室出生の弟頼盛の去就が取り沙汰されていた事からも十分、考えられます
)
経盛周辺のお話はひとまず、ここまでにして、この次は、教盛の周囲を見てみたいと思います![]()
タケ海舟
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