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February 2012

日宋貿易と伊勢平氏(その2)

西国の平氏good

さて、巷ではよく・・・

『東の源氏に西の平氏sign01』と言われていましたが、実情はやや異なる物でありましたnew

桓武平氏は、もともと東国(当時は坂東《ばんどう》と呼ばれていました)を地盤にしていましたhappy01

子孫達の多くは、坂東八平氏と言われていた通り、東国の各地に土着して、独自の基盤を築いていきましたok

坂東に根を下ろした一族とは別に、伊勢・伊賀(現在の三重県)に新たな拠点を置いたグループがありましたnew

この一団こそが、清盛が出た伊勢平氏でありますok

ちなみに、ライバルの源氏は当初、京都近辺の摂津・大和・河内国に本拠を置いていましたgood

その中の河内源氏が、東国地方や奥羽地方の反乱を制圧する等の功績を挙げた結果、平氏に代わって、坂東における優位性を確立しましたhappy01

白河院の治世初期では、朝廷の武力を代表する存在は、河内源氏でしたが、相次ぐ内紛によって源氏は、その勢力を徐々に漸減させてしまいましたcrying

源氏退潮の間隙を塗って出て来たのが、伊勢平氏でありましたhappy01

清盛の祖父正盛は、西国で反乱を起した源義親(為義の父)を討伐した功績で、但馬守に任ぜられ、河内源氏に変わる朝廷の守護の座を獲得しましたscissors

正盛は、根拠地であった伊賀国の所領を荘園として、白河院に寄進した事によって、院とのパイプを築いたのですが、以後、院近臣達が受領を務める国の管理者(預所《あずかりどころ》といいます)に任じられたのを皮切りに、西国諸国の受領を歴任する事になりますdanger

正盛の受領経歴は、承徳元年(1097)の隠岐守任官から始まりますhappy01

以後、若狭守(二期連続・ちなみに一期は四年ですscissors)を経て、嘉祥2年(1107)には、山陰地方の因幡守(現鳥取県)に転じましたsign01前掲の義親の乱は、因幡守在職中に起こりましたdash

乱鎮圧の功により、但馬守になった事は既にお話しましたが、この但馬国は、正盛が今まで受領を務めていた他の国々よりも、ランクが数段上で、いわば上国・大国といわれていましたhappy01

更に、丹後守・備前守を歴任した正盛は、永久5年(1119)には従五位下に叙され、ここに貴族の末席を占める事となったのですsign01

元永2年(1119)に平安京内の盗賊追捕遂行の報奨として、正五位下に位階を進めましたok

翌年の保安元年(1120)、従下四位下に昇進して、官位も備前守から讃岐守に変わりましたdanger

残念ながら正盛は、次の年の同2年(1121)に亡くなった為、彼の官暦はここで停まったのですが、彼の任官履歴を見ていくと、検非違使に任じられていた時期を除いて、その殆どを受領生活に費やしている事が判りますhappy01

次に、彼が任命された国を見ていくと、全て海に面している事が注目されますnew

詳しく見てみると・・・

隠岐・若狭・因幡・但馬・丹後が日本海にsign01

備前・讃岐が瀬戸内sign01

彼の息子忠盛や孫清盛も同様なのですが、伊勢平氏が受領に任ぜられた諸国の多くは、西国それも、海に面した港や当時最大の交通手段であった船(水軍)を、沢山有していましたpaper

伊勢平氏は、中興の祖正盛の時代より、西国との関係を深め、中国(宋)との私貿易が行われた要衝の港をいくつか押さえていたと思われますdanger(受領という地位を利用していた事は、いうまでもありませんねhappy01

また、海賊討伐を通じて、船を自在に操る事が出来る船乗り達(元海賊だと思いますが・・・)を、自己の家人に組み入れ、強力な水軍を組織するのに成功しましたhappy01

『西国に、そして海に平氏ありsign03

この言葉は、正盛の代より始まったといえますhappy01

更に、強力な軍事力と貿易を行う港を影響下に置いた、正盛の遺産を引き継いだ新棟梁忠盛は、伊勢平氏の画期的な雄図を目指し、多角的な活動を展開していきますhappy01

続きは次回にしますsoon

[ 2012年02月29日16時41分06秒 ]

日宋貿易と伊勢平氏(その1)

前回の放送では、伊勢平氏を富み栄えさせた貿易に焦点が当てられていましたhappy01

そこで、本日は貿易について、タケ海舟なりの私見を交えながら、お話をさせて頂きますdelicious

有史以来長い期間、日本は国同士の貿易(交易といった方がいいかもしれませんがdelicious)を行っていませんでしたnew

日本史の授業で習った、邪馬台国の卑弥呼は、朝鮮半島にあった楽浪郡を経由して、中国の魏(ぎ)に使節を送りましたhappy01

また、もう少し後の時代になりますが、倭の五王も中国の南朝の王朝に対して、使者を派遣していますnew

これらの使節派遣の目的は、あくまでも国同士の和親が第一義であり、中国の王朝の権威を自国を政権の安定に、利用しようという、思惑があったとされていますhappy01

従って、交渉の姿勢は、臣下の礼を取る朝貢外交でしたdanger

これに対して、推古天皇の摂政となった聖徳太子は、中国を統一した強大な隋(ずい)に対して、有名な『日の出る国から日の沈む国への手紙』を送り、対等な外交関係を構築しようと目論見ましたnew

(大王《おおきみ》を中心とする、中央集権的な政治体制を目指した太子の意気込みが窺われますねscissors

いわゆる、遣隋使とそれに続く遣唐使の嚆矢となった出来事でしたが、当時の大和・飛鳥朝廷の目的は、隋や唐の優れた政治体制や文化等を吸収し、強力な中央主権による統治国家を建設する事でありましたpaper

つまり、国と国との外交であり、大化の改新以後、様々な障害を乗り越え、遂には唐の都長安を真似た平城京・平安京を建設出来るまでになったわが国は、東アジアの国際社会の一員としての役割を十分果たしていたのですhappy01

しかし、平安時代中頃に、唐の衰退が顕著となった時点で、有名な菅原道真(すがわらのみちざね)の建議によって、遣唐使が廃止されましたsad

この出来事は国と国との交際を止めるという、重大な事を意味していましたnew

まもなく、唐は滅亡sign03更に、日本が誼を通じていた朝鮮半島の新羅(しらぎ)や旧満州・沿海地方を治めていた渤海(ぼっかい)もが、同じ運命を辿る事になった為かどうかはわかりませんが、わが国では・・・coldsweats02

『外国との交流は、異国の穢れ(けがれ)を国内に持ち込む事になり、結果、国の滅亡を招くimpact』という非常に内向きな外交方針に転換する事になったのですweep

それ故、近海の三国が滅亡してから、日本は新たに勃興した、中国の宋や朝鮮半島の高麗(こうらい)とも、国交を開こうとはしませんでしたrock

しかし、国同士の付き合いがなくても、個人(いわゆる私人)レベルでの交流は、遣唐使廃止後も引き続き、行われていたのですdanger

タケ海舟はこの時点より、貿易の性質が、外国の優れた制度や文化等を吸収する事を主目的とした、国家ブロジェクト的な物から、国双方の特産品を物同士または、貨幣で交換するという実利獲得が中心の物へと変貌を遂げたのではないかと考えてますsign03

ちなみに、後者の事を私貿易(しぼうえき)と呼びますnew

この実利を目指した私貿易を管理、更には独占したのが、平安中期に全盛を迎えた摂関家であり、後に取って代わった王家(院)でありましたnew

そして、伊勢平氏は清盛の祖父正盛が、王家の爪牙として台頭した頃より、西国にあった院の荘園地の管理や同方面の受領を任せられる事によって、私貿易に深く携わって行ったのですok

次回は、伊勢平氏が何故、豊かな経済的基盤を築いて行く事が出来た理由について、見て行きたいと思いますsoon

[ 2012年02月28日11時24分54秒 ]

悪左府頼長が一目置いた藤原宗輔

蜂飼大臣藤原宗輔とは・・・

昨日の放送で、いよいよ忠実次男、頼長が登場しましたdiamond

演じるのは、かって大河ドラマ『新撰組!』で鬼の副長土方歳三を好演した、山本耕史さんsign01

非常に個性が強く、博学・秀才・清廉・執拗・偏狭・異常性等々、多重人格者みたいな頼長を、如何に演じるのか乞うご期待ですねhappy01

彼の異名は、『悪左府』(あくさふ)といわれていますが、当時、悪という言葉は、非常に力が抜きんでいて、他の追随を許さないsign01また、決して妥協をせず、相手との諍いも辞さないsign01という意味で使われていましたdanger

ちなみに、河内源氏棟梁源義朝の長男義平(よしひら)も、『悪源太義平』と呼ばれていましたsign03武者としての力量が他を圧倒していたという意味では、前掲の頼長と同じ意味で、悪という言葉が用いられていますねhappy01

さて、頼長のお話はこれから、じっくりさせて頂くと思いますので、本日は、ドラマでの頼長初登場のシーンとなった、鳥羽院臨席による菊酒の会の主催者であった、権中納言藤原宗輔(ふじわらのむねすけ)についてお話をさせて頂きたいと思いますhappy01

宗輔は、藤原摂関家庶流の家であった、中御門流藤原宗俊(ふじわらのむねとし)の次男として、承暦元年(1077)に生まれましたgood

尚、彼の兄に、摂関家当主で頼長の父である忠実の側近として知られる、宗忠(むねただ)がいますsign01

父は権大納言、兄は右大臣まで昇ったのですが、彼自身の昇進スピードは割合遅く、公卿となったのは漸く、46歳の時で(参議)、更に、権中納言に任ぜられた時は、既に56歳になっていましたdanger

どうも、この宗輔という人物は、政治面での発言は控え目であったみたいですが、その代わり、趣味や芸術の世界ではかなり優れた達人として、貴族社会でも名が通っていたみたいですhappy01

今回のドラマのシーンの原型になったと思われますが、彼は、草花を自ら育てる事を趣味としていみたいで、自分で育てた菊や牡丹を、鳥羽院や頼長に献上したという逸話が知られていますok(ドラマでは見事な菊の花だと鳥羽院が宗輔を褒めるシーンがありましたねsign01実際は、鳥羽院寵妃であった藤原得子のリクエストだった様ですがshine

この他にも彼は琵琶・笛・笙(しょう)等の楽器の名手として知られていましたが、多芸多趣味であった彼の最大の趣味は、何と・・・

『蜂を飼い慣らす』という事でしたcoldsweats01coldsweats01

鎌倉時代に書かれた説話集『古事談』では、宮中で蜂が大量発生して、パニック状態になった時に、日頃から蜂の扱い方を熟知していた宗輔は、蜂の大好物でだった枇杷を用意して、蜂を静まらせたという話が掲載されていますok

また、同時代の別の説話集である『十訓抄』(じゅっきんしょう)では、飼育していた蜂一匹々々に名前を付け、気に入らない人物を刺す様、蜂をけしかけたという実に、物騒な話も紹介されていますcoldsweats02

この様に、趣味や芸の世界に大きな足跡を遺した宗輔は、通称『蜂飼大臣』(はちかいおとど)と呼ばれていましたが、上級貴族である公卿としての彼の運命は、晩年になるにつれて、上昇気流となって行きましたwink

その要因は、彼が権中納言となった時と、ほぼ同時期に同役となった頼長との交流でありましたnew

前にもご紹介したとおり、頼長という人物は秀才肌の切れ物といって良い存在であり、大変能力も高く、後年左大臣として執政の地位にも就く事からもわかる様に、政事を総攬する力量を十分に有していたのですが、反面、極端で理想主義的な政治手法をとった為、同僚・下役等に妥協を許さない、実に峻烈な政治姿勢を貫徹させましたbearing

それが故に、彼は宮廷社会内において、必要以上に多くの敵を作ってしまいましたsad(後年の彼の孤立と保元の乱での滅亡は、ここに原因があったと思われますdanger

しかし、権中納言宗輔は40年以上も年が離れていたこの同僚に対して、年長者として様々な事を指南したみたいですok

そのせいなのか、他人に対しては非常に厳しく、決して頭を下げる事が稀であった頼長が、この宗輔に対しては、終生敬意を払い続けたとされていますok

実際、頼長が内大臣・左大臣と昇進した後も、彼は政治的な相談を宗輔にしたり、次男師長(もろなが)の琵琶の指南を依頼する等、孤立がちだった自身の最大の協力者として、宗輔を遇していた事がわかりますhappy01

人事考課に厳しかった頼長も、経験豊富で人格的にも申し分ない宗輔が大臣に任命されない事は、摩訶不思議だsign03という事で、彼の大臣昇進を、何度も鳥羽院に奏上していたのですが、頼長の生前中には遂に実現しませんでしたdespair

こうしてみると、頼長にとって、宗輔は、自身の妻の実家であった閑院流徳大寺家(かんいんりゅうとくだいじけ)同様に頼りになる存在であったと考えられますhappy01

しかし、保元元年(1156)、頼長にとって運命の保元の乱が勃発し、彼は敗死の運命を辿る事になりますweep

頼長派の面々は、ほとんど中央政界から追放されたのですが、同派の筆頭と目されていたsign02宗輔は何の罪にも問われませんでしたnew

既に80歳という高齢だった宗輔が、崇徳院と頼長の謀反に(後白河帝や美福門院得子サイドから見ればの話ですが)同調する等、考えられないとみなされたのでしょうnew)(最も、宗輔は頼長の敗北は避けられないという考え、中立を守ったのかもしれませんthink実際、保元の乱において、藤原摂関家以外の貴族達の多くは、中立を決め込んでいましたsign03

さて、人の運命はわからないもので、頼長死後、宗輔は何と、右大臣に任ぜられましたshine

更に翌年には、従一位太政大臣の最高位に上り詰めたのです(81歳の事ですup

こうして大臣就任の最高齢記録を作った宗輔は、続く平治の乱の政治危機も太政大臣として乗り切り、応保元年(1161)に84歳で辞職するまで、その政治生命をまっとうしましたhappy01(翌年の応保2年《1162》に85歳で大往生を遂げましたok

政治的にはやや遅咲きでありましたが、大器晩成政治家の典型的な人物であったと思われますhappy01

趣味の面でも多彩かつ珍しい才能に恵まれ、満ち足りた人生を送った数少ない貴族だったのでないのでしょうかscissors

ところで、泉下の頼長は自分があれ程、推挙したにも拘わらず大臣就任が実現しなかった宗輔が、自らの死後まさか、太政大臣にまでなるとは夢にも思わなかったでしょうねpaperそれとも敬愛していた年長の好人物の栄達を、草葉の陰にて喜んでいたのでしょうかsign02

頼長の不本意な死が、宗輔の栄達のきっかけとなったのが何とも皮肉ではありますが・・・think

本日はここまでにしますsoon

[ 2012年02月27日18時00分48秒 ]

泰子入内に対する待賢門院の心情

摂関家嫡女である泰子が鳥羽院に入内した事は、それまで、待賢門院昇璋子を唯一の后としていた、鳥羽院後宮内のバランスが崩れるきっかけとなりましたdanger

長承3年(1133)の入内から僅か1年で、泰子は女御そして、皇后という地位に上り詰めていましたhappy01

摂関家嫡女という出自が物を言ったとは思いますが、更に、皇后立后より五年後の保延5年(1139)には、なんと、院号宣下を受け、高陽院(かやのいん)を称する事になったのですshine

高陽院という院号名は、彼女が御所としていた高陽御所(かやのごしょ)から採られましたsign01摂関家全盛期に君臨した藤原頼通の邸宅であり、以後は、天皇が内裏以外に居住する里内裏(さとだいり)として活用されていましたdiamond

泰子も鳥羽院入内後も、この実家の由緒ある邸宅を自らの御所にしていたのですok

さて、ここに、鳥羽院の後宮には二人にの女院が並立する事になったのですgood

白河院在世時には考えられなかった事態に、待賢門院派の面々(取り分け彼女の実家であった藤原閑院流)も動揺と憤りを隠せなかったと考えられますdanger

ただ、冷静に考えてみると、高陽院は既に40代半ばを迎えており、年齢的にも鳥羽院の子供を生むことは不可能でありましたthink

彼女の父藤原忠実が望んだのは、高陽院が鳥羽院の皇子の生母になる事ではなくて、鳥羽院(王家)と摂関家との良好的な関係を維持する、大切な架け橋の役割を果たす事だったのですnew

ちなみに、皇子の件について、忠実は、嫡男の関白忠通の娘で、崇徳帝の中宮だった聖子が出産すれば、万々歳と考えていたと思われますcatface(但し、肝心の聖子に、皇子はおろか皇女さえも誕生しなかったので、摂関家の描いた青写真は、修正を余儀なくされる事になりますdespair

高陽院入内が、その様な政治的な思惑を露骨に秘めた物であったので、彼女より若かった待賢門院にとっては、鳥羽院の寵愛を巡って、高陽院と火花を散らす事もなく、比較的安心していたと思われますdanger

また、高陽院を迎えた鳥羽院自身も、待賢門院に対して、『今回の件は、忠実がしつこく迫るので、致し方なかったのだdespair』と苦しい弁解をしたといわれていますcoldsweats01

しかし、だからといって、故白河院の養女として、ただ一人の鳥羽院后であった彼女の立場に立ってみれば、相手が院の寵愛を受ける事は、まず考えられないとはいえ、摂関家という大きな後ろ盾を得ているという事は、大きな脅威であったに違いありませんthink

(増してや、待賢門院は白河院という後ろ盾を、既に失っていたのですから尚更ですねok

さて、その待賢門院璋子ですが、一連の高陽院入内について、一言も感想等を残してはいませんsign01

(仮に文句を言ったとしても、その様な言動は、天皇国母としては厳に慎まなければならなかった事ですから、残っていないのも当然ですが・・・coldsweats01

しかし、彼女は、自身に仕えていた女房を妻としていた、村上源氏の権中納言師時(もろとき)に対しては、日頃の親しさから来る安心感からか、自らの憤懣遣る方ない気持ちを率直に伝えていましたnew

師時が残した「長秋記」という日記には、その事に関する記事が遺されていますdanger

その中に記されていた待賢門院の心情は・・・sign02

それは次回にさせて頂きますsoon

 

[ 2012年02月26日20時11分02秒 ]

清盛の妻達 その実家について(高階明子の巻後編)

さて、忠盛が息子清盛の嫁に、自家より身分の低い高階基章の娘明子を選んだ理由ですが・・・

実は明子の父基章は、貴族筆頭の家であった藤原摂関家の家司(けいし)を務めていましたnew

この時代の上級貴族には、家に関する私的な家政を統括する家司が仕えていましたhappy01

家政といっても、その家の人事面・経済面(例えば、荘園等の所領からの年貢の取立てや、その家に仕える家人達の統括や、人事に関する事等広範囲に亘ります)等、その仕事内容は実に多く、いわば、その家の主人の信任の下、家全体の切り盛りを任せられているといって良い存在が、家司でありましたdanger

更に、摂関家程の大貴族になると、複数の家司を擁していましたnew(一人では賄えないですからね・・・coldsweats01

また、家司を務める者の多くは、位の低い下級貴族達でありましたok

早い段階で、藤原摂関家を出した北家藤原氏から分かれた庶流の家で、朝廷では高い官職に就く事が難しく、かろうじて、下級貴族として貴族社会の末端に留まっていた者達も、この家司に任命されるケースが多かったみたいですhappy01

例えば、摂関家の長、忠実の次男頼長の生母の家は、忠実の家司を勤めており、その娘が忠実の寵愛を受けて、生まれたのが、かの『悪左府』頼長でしたhappy01

ちなみに頼長の生母の藤原氏は、勧修寺流藤原家の庶流に当たりますが、同流の本家筋も、摂関家に家司として近侍していましたdanger

ただ、この本家は、家司という地位には安住せず、雇用主の摂関家の推挙を受けて、地方の国の長官である受領等を務め、任地で搾取した富を駆使して、摂関家への奉仕に努めるとともに、朝廷での弁官(法律や文書等の事務を統括する部署)の高官を務める迄に躍進して行きましたgood

更に、この家の中興の祖とでもいうべき存在であった藤原為房(ふじわらのためふさ)が、白河院の近臣として台頭した事を契機に、彼の息子顕隆(あきたか)に至っては、白河院近臣の代表的な存在として、院の政治決裁の補佐を務める存在にまで上り詰めましたhappy02

当時、専制君主白河院の政治上の問題について、直接諮問を受け、かつ、意見具申が出来た唯一の人物が、この顕隆だったのですdanger

彼の事を昼の関白である摂関家と比較して、『夜の関白』と呼んで、密かに畏怖する人達も多かったみたいですup

昼と夜・・・どちらの関白が院に信頼され、政治的に大きな力を持っていたのかは、論を待ちませんねdelicious

ちなみに彼の息子顕頼(あきより)も亡父の地位をそのまま受け継ぎ、鳥羽院の政治決裁を補佐する役割を担っていましたok

この様に、有力貴族の家司を務めていた家の中には、前述の勧修寺流藤原氏の様に、政治面で大きな勢力を持つに至った面々も、見受けられたのですが、清盛の最初の妻明子の父の高階基章は、藤原家出身でなかった事と、院近臣有力家高階氏のメンバーとはいえ、庶流であった為、正六位左近将監という低い官位に甘んじていましたdespair

しかしながら、忠盛が彼の娘を、清盛の妻にした最大の理由は(恐らくは)、彼を通して、摂関家と繋がりを持つ事ができるというメリットを考慮したからだと考えられますnew(たとえ、身分の低さというデメリットを差し引いてもflair

以前、このブログで清盛の兄弟達の出自を見て来ましたが、彼の弟達であった経盛と教盛の生母は、どちらも摂関家の左大臣頼長と深い関係で結ばれていますnew

伊勢平氏の宮中戦略は、白河院・鳥羽院等、王家一辺倒では決してなく、貴族社会の頂点に立ち、王家の潜在的な競合者であった摂関家とも、繋がりを幾重にも持っていたのですdanger(まさに全方位外交だったのですsign01正盛・忠盛の深謀遠慮の程が窺い知れますねconfident

ちなみに、この時、基章が仕えていた摂関家の直接の主人は、かの頼長でしたscissors

もう少し後に触れる事になりますが、摂関家も忠実後の氏長者問題を巡って、長男忠通と父忠実の後押しを受けていた次男頼長が反目、やがて、同家は修復不能な分裂状態に陥ってしまいますimpact

忠盛は、摂関家の最高権力者忠実の後見を受けていた頼長(当時はまだ内大臣でした)の将来性(兄関白忠通には、この時点で男子が生まれておらず、頼長が兄の養子となっていました)を見越して、彼との繋がりを深めた方が得策だと考えていたと思われますscissors(但し、少なくとも鳥羽院政前半期の1130年代の段階であり、忠盛が後年の摂関家の内紛を予測していたとは到底、考えられませんsign01

伊勢平氏で初めて殿上人となり、新興勢力として更なる飛躍を目指していた忠盛にしてみれば、様々な利害関係が複雑に絡んでいた宮廷社会の中において、出世する可能性があるコネクションは出来るだけ多く、獲得しておきたいというのが、偽らざる心境だったのでしょうpaper

そして、その一環が、清盛と高階基章娘明子との結婚だったのでしょうscissors

本日はここまでにしますsoon

[ 2012年02月23日15時13分47秒 ]

清盛の妻達 その実家について(高階明子の巻前編)

先週の放送から、清盛の妻となる二人の女性が登場して来ましたhappy01

最初の妻となる高階基章(たかしなのもとあき)の娘明子(あきこ)は、後に清盛の長男重盛(しげもり)と次男基盛(もともり)の生母となりますok

劇中では明子という名前が付けられていますが、彼女の本当の名前については、判然としていないみたいですdespair

彼女の実家高階氏は、天武天皇皇子で太政大臣を務めた高市皇子(たけちのみこ)の子である、長屋王(ながやおう)から始まったといわれていますok

周知の通り、長屋王は謀反の疑いを受けて、一族と共に自害を遂げたのですが、生き残った子弟達が高階姓を賜り、臣籍に降下しましたnew

以後、高階氏は、奈良・平安の時代を生き抜いてく事になるのですが、平安中期に成忠(なりただ)娘貴子(きし)が、関白藤原道隆(ふじわらのみちたか)の妻となって、一条天皇中宮になった定子(ていし)や伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟の母となった事で、一時期、隠然たる力を持つ事になりますsign01(外戚の外戚ですねdanger

しかし、道隆の死によって権力は、彼の異母弟道長に移り、権力争いの結果、伊周兄弟は失脚bearingそれと共に、彼等を支えていた成忠の子供達も没落して行きますcrying

宮廷社会より大きく後退した高階氏ですが、成忠弟の敏忠(としただ)の子供業遠(なりとう)が最大権力者道長の近臣となり、再び勢力を回復しますhappy01

業遠の子供成章(なりあき)、息子為家(ためいえ)、孫為章(ためあき)の三代は、白河院政期に上国または大国の受領を歴任、院の有力な近臣としてよく知られていますhappy01

中でも、為家・為章父子は、白河院の御願寺法勝寺(ほっしょうじ)の造営を一手に引き受け、院の宗教文化事業に大きく貢献しましたok

この時代の高階氏は、藤原顕季・長実・家保・家成等を出した、院近臣家の善勝寺流と同様、院との特別な関係を基に経済的な奉仕を務めて、台頭して来たと推察されますhappy01

しかし、残念ながら、為章以後の高階氏は、あまり有力な人物が出て来なかったみたいで、特に鳥羽院政時代における同氏の勢力は、一時停滞してしまいますdespair

ただ、為章子である宗章(むねあき)の娘が、先程も触れました藤原家成の妻となって、後白河院政期の院近臣だった隆季(たかすえ)・家明(いえあき)兄弟の母となっており、婚姻を通した院近臣同士の連携を見る事ができますdanger

ちなみに、『誰でもよ~いsign03』で有名なcoldsweats01通憲(みちのり後の信西《しんぜい》)は、もとは藤原南家の(摂関家を出した北家とは奈良時代に分かれた家です)貞嗣(さだつぐ)流の出身でしたが、父が早世した為、妻の実家である高階の姓を名乗りましたnew

但し、通憲が養子に入った高階氏は、先にご紹介した成章の家ではなく、彼の兄弟の系統になりますnew

さて、清盛の最初の妻となった高階明子の父基章ですが、彼は醍醐源氏源家実(みなもとのいえざね)と高階為家の娘との間に生まれましたが、母方の伯父為章の養子として高階姓を名乗っていましたdanger

劇中で少しだけ触れられていましたが、為家の母は紫式部の母賢子(けんし)(白河院中宮の賢子とは別人です)で、彼は式部の孫という事になりますnew

基章は伯父の養子となりましたが、養父には既に、宗章という男子がおり、彼が後継者という事ではなかったみたいですgawk

そのせいかどうかわかりませんが、娘明子が清盛の妻となった頃、基章の官位は正六位右近将監でしたthink

院近臣として羽振りが良かった高階氏としては(養子ですが)、些か身分が低く、当時従四位下中務大輔だった清盛の方が、位階・官職の面で、大きく先行していましたhappy01

両者がどの様な関係で知り合ったかどうかは不明ですが、中務大輔は宮中の総務的な仕事を担う一方、右近将監は近衛府の警備体制等を組立てる事務官僚でありましたので、職柄の上で交流する様になった事がきっかけで、明子と清盛との結婚に発展したとも思われますnew

当時は家格や身分で交際関係や婚姻も厳しく限定されており、正四位下だった清盛父忠盛と、同六位の明子父基章とは身分が違い過ぎて、婚姻の話しが持ち上がる事自体、有り得なかった筈ですdanger

ところが、この結婚は執り行われ、明子が数年後に亡くなったにも拘らず、彼女が産んだ長男重盛が、清盛の後継者として世間に認められる事になるのですdanger(明子は清盛最初の正室という事になりますnew

従って、清盛後妻として入った平時子が、明子実家より身分の高かった公卿平氏(先祖を遡れば、清盛と同じ桓武天皇を祖とします)出身で、宗盛以下多くの子女を産み、一族内で大きな勢力を保持していたのですが、重盛の優位は揺るぎませんでしたscissors

実際、後年の高倉帝との関係の濃淡による力関係の変化と、重盛自身の早世がなかったら、彼が後継者になったと思われますdanger

では、本来妻ではなく、妾(めかけ)として位置付けても良い位の(伊勢平氏の立場から見れば)身分であった明子を、何故、伊勢平氏棟梁忠盛は息子清盛の正妻としたのでしょうかsign02

この続きは次回にしたいと思いますsoon

[ 2012年02月22日15時00分44秒 ]

鳥羽院と忠実。それぞれの深謀遠慮

さて、鳥羽院は摂関家大殿(前当主)忠実の懇願を受けて、彼の嫡女勲子を自らの後宮に迎える事を決断しましたhappy01

鳥羽院と勲子との縁談話はこれまで、三回持ち上がっていましたが、様々な政治的状況の中、実現する事はありませんでしたdespair

しかし、四度目にして遂に、勲子は鳥羽院に入内する事が決まったのですdiamond

ただし、この時、鳥羽院は既に皇位を崇徳帝に譲り、治天の君(すなわち上皇)として、事実上の国王とでもいえる地位に君臨していましたok

本来、王家に入内するとは、帝の后になる事を指していましたhappy01ところが、勲子の入内の相手は、最高権力者とはいっても、前天皇という前代未聞の話だったのですthink

前天皇である治天の君に、自らの最愛の娘を入内させるという、常識では考えられない事を敢えて行う所に、忠実の執念が推察されますnew

摂関家の栄光の復活を自らの使命と受け止めていた忠実は、現役の帝である崇徳天皇ばかりではなく、真の王家の家長である鳥羽院とも、姻戚関係を結ぶ必要性を感じていたのでしょうnew

しかし、入内させるといっても、摂関家内には年頃の女性は既にいなく、残っていたのは、かって鳥羽院と三度の縁談話がありながらも、何れも不首尾に終わり、挙句の果てに、婚期を逃してしまった39歳の勲子だけでしたcoldsweats02

(ちなみに嫡男忠通の娘聖子は既に、崇徳帝中宮になっていましたsign01

しかし、忠実は、鳥羽院と因縁浅からぬ勲子の入内を院に懇望し、鳥羽院もこれを承諾しましたok

何故でしょうかsign02

やはり、鳥羽院には、三度目の入内話が原因でもたらされた、忠実の失脚と勲子の逼塞について良心の呵責に苛まれていたのではないかsign02とタケ海舟は考えていますgood

璋子入内によって、自身の戦略に大幅な狂いが生じた忠実が、頽勢挽回の一策に打った手が、鳥羽帝(当時)に直接打診した勲子の三度目の入内話でしたdanger

白河院の政治的な束縛から離れたいと願っていた鳥羽帝にとって、忠実の申し出は渡りに船であったと思われますpaper

ところが、熊野詣に行っていた自身の不在中、勝手に進められた入内話の報に接した白河院は、『以前自分が勧めた時は断っておいて、今度は勝手に進めるとは何事だannoy』と激怒thunder結果、忠実は関白解任の上、10年余の蟄居を余儀なくされ、勲子も他家に嫁ぐ事もままならず、適齢期を逸してしまったのでしたweep

当時、鳥羽帝は忠実の申し出に前向きな返答を出していましたnew

自分の意思を政治に反映させようとした孫帝の変貌の兆しに、祖父院は素早く反応sign03

かくして、数年後の鳥羽帝譲位sign01、顕仁(あきひと)即位という皇位の交代が断行されたのでしたthunder

したがって、自身が入内を了承した言質を与えた事が、忠実・勲子親子に、長き雌伏の時代を過ごさせてしまったという気持ちが、鳥羽院にあったのでしょうnew

忠実も、そういう鳥羽院の内面的な心の揺れを十分に察知していたのでしょうsign01

いわば、『上皇様sign01あなた様のお陰で婚期を逸した、不憫な我が娘に対して、責任を取って下されcrying』という泣き落としに近い状態で迫ったのかもしれませんcoldsweats01

鳥羽院も結局、この泣き落としsign02に屈したのかどうかわかりませんが、実はこの入内は、院と摂関家にとって政治的メリットが多い物でありましたnew

鳥羽院は院政を運営して行く当初、白河院政のそれを概ね踏襲していく考えを表明していましたが、前時代の些か行き過ぎの感があった弊害については、修正する事を躊躇しませんでしたhappy01

摂関家当主忠実の関白罷免は、後者に該当するbanと、鳥羽院は考えていたのでしょうthink

治天の君である院が、専制的な権力を持つ政治機構には変化はなかったのですが、院や帝を支える貴族達のトップであった藤原摂関家とは、協調関係を維持する事が、院政運営の面では不可欠であると判断したのでしょうok

その上で、まず忠実の蟄居を赦して内覧に復職させ、更に、自らが摂関家と縁戚関係を結ぶ事で、政局の融和と安定化を図ろうとしたのではないのでしょうかsign03

王家と摂関家との共存共栄(つまり潜在的な競合者であった両者の結合による現状維持)こそが、この時点での鳥羽院と忠実(王家同様、摂関家の真の家長は、関白だった忠通ではなく、大殿忠実でしたdanger)の一致した思惑だったのですねsign03(白河院の政事姿勢が如何に、極端な物であった事が窺われますpaper

こうして、様々な波乱を乗り越え、39歳の勲子は、長承2年(1133)に鳥羽院への入内を果たしましたdiamond

入内当日、忠実は愛娘を伴って参内したとの事ですthink

自らの失脚に巻き込まれ、不運にも適齢期を無為に過ごす事を強いられた、娘の晴れ姿を目の当たりにした彼と生母師子の心中は、如何ばかりであったでしょうかsign02

摂関家の復権が懸かった、濃厚な政略結婚である事は、覆い様もない事実でしたが、摂関家嫡女である『后がねの姫君』に相応しい王家(それも治天の君)の妻になった事は、彼女とって最大の栄誉であったのではないかと確信できますok(彼女自身、自分の運命をどの様に受け止めていたのかはわかりませんが・・・)

さて、鳥羽院後宮に入った彼女は、摂関家を後ろ盾に、異例の昇進を果たして行きますup

後宮入りの翌年の長承3年(1134)3月には、上皇の妃ながら異例の女御宣下を受けますsign03

更に同月中には、皇后に立后されましたsign03

天皇でなく、院(上皇)の妃が皇后になるという事は、もちろん前例がなく、空前絶後の出来事でありましたshine

摂関家嫡女という類なき家柄の出身というのが、大きな意味を持っていたのでしょうok

(当然、忠実の強い後押しがあった事は言うまでもありませんが・・・)

そして、この時勲子は、名前を「泰子」(たいし)と改めましたdiamond

この後、彼女は鳥羽院と忠実(同じく彼女の同母弟忠通・異母弟頼長達)を結ぶ架け橋として、重要な役割を、生涯果たす事になりますscissors

これ以後鳥羽院の後宮には、待賢門院璋子と皇后泰子という二人の后が並立する事になるのですdanger

泰子の皇后冊立は、宮中に大きな波紋を巻き起こす事になりましたcloud

特に、故白河院の後見を失ったとはいえ、依然として揺るぎない権勢を振るっていた待賢門院に、微妙な心理的動揺を与えていたのですdown

次回は、待賢門院の動きについてお話をしてみたいと思いますsoon

 

[ 2012年02月21日10時24分46秒 ]

清盛講演会!

いきなりですが・・・

本日私、タケ海舟はなんと、地元法人会の歴史講演会の講師を務める事になってしまいましたcoldsweats01

とはいっても、16時スタートで、開始まで2時間と少ししかありませんが…

実に・・・

実に・・・

緊張しておりますcoldsweats02

3週間前位から、なぜか体調不良・・・

前夜は、ほとんど熟睡できませんでしたwobbly

昨年も「江」をテーマにお話をさせて頂き、経験値はある程度、あるのですが

やはり、ドキドキしてしまいますcoldsweats01

法人会の研修会なので、清盛の人生を振り返りながら、伊勢平氏棟梁であった彼を、現在の経営者に見立てて、その経営戦略について、参加者の方とご一緒に、勉強して行きたいと思っていますhappy01

そうこうしているうちに、集合時間が迫って参りましたので、これから会場へ向かいますrun

講演会のお話はまた、改めてさせて頂きたいと思いますsoon

[ 2012年02月20日13時47分23秒 ]

勲子入内を巡る背景

さて、忠実は白河院政時代の失敗を教訓にしたと申し上げましたが・・・

忠実は白河院に関白職を罷免されて、宇治での蟄居生活を余儀なくされた事は、良く知られていますが、院による関白罷免という未曾有の事件が起きた原因は、忠実が白河院への従属路線から、対抗路線に舵を切った事が挙げられますok

若くして摂関家の当主となった忠実は、政務の経験不足から、父が勤めていた関白職を即座に継承する事はできませんでしたwobbly(白河院の意向があった事は言うまでもありません)

その後、堀河帝の関白、更に鳥羽帝の摂政・関白に就任したのですが、政治上の最終決断は殆ど、治天の君であった白河院の手に握られていましたbearing

その間、忠実は、お膝元の興福寺の人事問題や強訴に対しても、適切な対応を取る事が出来ず、院の叱責を受ける事は一度や二度ではありませんでしたdespair

また鳥羽帝即位時の摂政人事を巡っては、帝の外戚であった藤原閑院流の公実に危うく、摂政位を奪われる事態をも経験していましたthink

斜陽の摂関家の勢威を回復する為には、白河院からの政治的独立を目指さなければならないsign03、と忠実は考えたのでしょうnew

まずは、王家に対抗する為の財政基盤再構築を目指し、全国各地で摂関家荘園の新規開拓を、強く推進しましたsign01

しかし、この事は、同じ大荘園領主だった王家(白河院)の利害と真っ向からぶつかる事に他なりませんでしたsign03

忠実の摂関家荘園強化政策は、院からの横槍が入った結果、頓挫する事になりましたgawk

更に悪い事に、院の経済基盤を確保する為に、荘園立荘に躍起となっていた院近臣勢力層とも、荘園政策を巡って、利害が対立sign03結果、彼らを庇護する白河院との軋轢はますます、激しくなりましたangry

こうして見ると、王家と摂関家は共に、大荘園領主であった事からも、潜在的な競合者同士ともいえるかもしれませんnew

そして、忠実は養女璋子を嫡男忠通の正室にという白河院の勧告を固辞、同じく、院からの政治的独立を目指していた鳥羽帝に、自らの娘勲子を入内させようと画策しますが、院の怒りに触れて、蟄居に至った経緯については、既にお話した通りでありますhappy01

こうして見ると、忠実は白河院には全く、歯が立たなかったという事になりますねpunch

院に対する対決姿勢に転じた事が裏目に出た結果となった訳ですが、鳥羽院による政界復帰が許された段階で、忠実は、従属路線でも、対決路線でもない、第三の政治手法を採る事になりますnew

それが、白河院政時代とは180度方針転換した、鳥羽院と摂関家との良好な関係を維持する目的の下に推進する、協調路線でしたsign03

そして、その最大の戦略が、自身の失脚で婚期を逸してしまった勲子を、帝の位を譲って久しい治天の君鳥羽院に入内させる事でしたdanger

この時、泰子は39歳となっていましたcoldsweats01当時としては、婚期を些かどころか、相当過ぎてしまっている・・・といわざるを得ませんcoldsweats02

しかしながら、鳥羽院は忠実の懇望による(なかば無理強いだったかも・・・coldsweats01)勲子の入内を承認したのですdanger

そのあたりの事情については次回にお話しますsoon

[ 2012年02月15日10時03分02秒 ]

前代未聞の上皇への入内!

振り返りますと、忠実嫡女勲子の鳥羽院(当時は天皇)入内話は、これまで三回ありましたok

最初が、天仁元年(1108)で勲子が13歳の時(鳥羽帝5歳)happy01

二回目が、永久元年(1113)で、勲子が18歳の時(鳥羽帝10歳)happy01

そして三度目が、保安元年(1120)で、忠実が関白を罷免されたきっかけとなった事として知られていますng

三度目の入内話が(勲子25歳・鳥羽帝17歳)打診された時、鳥羽帝は忠実に対して前向きな返事をしましたok

成長した鳥羽帝にしてみれば、このまま祖父白河院の傀儡に甘んじる事に対して、潔しとしない意思が強くなっていたのかもしれませんnew

熊野参詣に行って、都を留守にしていた白河院の隙を衝いた政治工作でありましたが、激怒した院の鉄槌が炸裂thunder

忠実は、10年近くの政治的謹慎を余儀なくされたのでしたweep(中宮璋子のライバルとなる可能性のある女性の入内自体を、白河院が許すわけはありませんでしたannoy

さて、当事者であった勲子はその間、嫁ぐ事もなく、女性としての盛りを無為に過ごしてしまいましたweep

当時、摂関家嫡女は、別名『后がねの姫君』と呼ばれていましたnew

文字通り、帝の后である中宮(皇后)になるべくして生まれた姫君の事であり、これに代わる嫁ぎ先は、なかなか見つかりませんでしたng

しかも、白河院の逆鱗に触れた関白の娘という事もあり、彼女の同母弟であった関白忠通を始め、摂関家周辺の面々も、彼女の行く末のついては何ら、有効な方策を採る事が出来なかったと思われますdespair

父同様、不遇な時期を過ごしていた勲子に転機が訪れたのは、白河院の崩御でありましたhappy01

鳥羽院の協調政策によって、政界復帰を果たした忠実は、鳥羽院個人との強いパイプを作る必要性を痛感してましたnew

強いパイプを作る具体的な方法とは、即ち、王家に自分の娘を入内させる事に他なりませんok

実は、これより以前、摂関家は、忠通の娘聖子(せいし)を崇徳帝に入内させていましたhappy01

忠通は父の失敗を教訓にしていたのか、自らの娘の入内については生前の白河院の承諾を受けていましたok

彼女が入内したのは、白河院没年の大治4年(1129)の事で、更に翌5年には中宮に冊立されましたhappy01

忠実が復権したのは、中宮聖子が誕生した数年後でありましたが、忠通が築いた崇徳帝との姻戚関係のみでは、摂関家の勢力回復には不十分と考えたのでしょうかsign02彼は、崇徳帝の父院であった鳥羽に自らの最愛の娘勲子を入内させようと考えたのですsign03(何と、四度目の入内話ですねcoldsweats01

とは、いっても、現役の帝ではなく、既に皇位を譲った上皇(治天の君)に娘を入内させるなど、前代未聞の出来事でしたsign01

忠実がなぜ、前例のない院への入内を考え付いたのかsign02

それは、白河院時代の失敗の反省からではなかったのかsign01とタケ海舟は考えていますnew

彼がそういう考えに至った経緯については、次回にお話したいと思いますsoon

[ 2012年02月14日12時07分42秒 ]

鳥羽院と摂関家(忠実復権)

半世紀近く治天の君として、君臨していた白河院が、大治4年(1129)に崩御した後、院政は、孫の鳥羽院によって継承されましたok

白河院は、自身が異母弟の輔仁親王(すけひとしんのう)との皇位を巡る確執で苦労した教訓からか、堀河帝以外の皇子を皆、仏門に入れるという方針を採っていましたsign01皇位継承で争いが起きる事を、未然に防ぐ狙いがあったものと思われますok

堀河帝は白河院に先立って亡くなりましたが、父院は第一皇子だった孫の鳥羽院以外の二人の皇子迄も、仏門に入れてしまい、世俗への希望を断ち切らせましたsign01

将来孫の鳥羽院の競争者となる可能性の芽を、根こそぎ摘み取る意図であったのでしょうthink

鳥羽院が待賢門院璋子との間に儲けた顕仁親王へ皇位を譲る事に同意したのは、半分は祖父院の指示であったことは否めませんでしたが、高齢の白河院の崩御を待てば、強大な権力はそっくりそのまま、自分の手に渡るだろうsign01、という思惑もあった筈ですsmile

『とにかく、今は祖父院様のお言葉には逆らわない様にしようgood

鳥羽院は我慢して、その時を待つ事にしたのでしょうthink

そして、白河院の崩御時、いまだ20代後半の若き青年上皇は、いよいよ念願の治天の君の座に就く事になったのですhappy01

とはいっても、鳥羽院は、白河院政を頭から否定する様な過激な施策を執った訳ではありませんでしたpunch

亡き祖父とは、譲位を巡っての確執や、中宮であった璋子を押し付けられた(タケ海舟は、崇徳院が白河院の種であるという事は別にして、鳥羽院入内前から、璋子は白河院と関係を持っていた可能性が高いと考えていますdanger)云々等、様々な葛藤もあった筈ですが、父帝である堀河帝の崩御後、幼い自分を後見人として支えてくれた恩は決して忘れていなかったと思われますok

従って、院政初期の鳥羽院の政治手法は、白河院政時代の方針を極力踏襲しながら、徐々に自分の色を出していく物であったのでしょうhappy01

それ故、既に待賢門院号(上皇に准じた待遇)を宣下されていた璋子との関係はすぐに、破綻しませんでしたconfident

白河院在世中は、鳥羽院と女院を誘って、熊野権現に参詣した事も何度かありましたが、祖父院亡き後も、鳥羽院は女院と共に、熊野へ足を運んでいましたので、両者の仲は引き続き緊密であったというのが、妥当だと思いますok

但し、先程も触れましたが、鳥羽院は自分の個性を徐々に、政事や後院に浸透させようとしつつありましたpaper

特に、後院の方では、白河院の監視の目から解放されたからでしょうか。宮中の多くの女性と関係を結ぶ様になりましたwobbly(さすが、白河院の孫だけの事はありますsmile

唯一の正妻であった待賢門院の女房であった、三条局や美濃局にもそれぞれ、皇子と皇女を産ませていますdelicious

なかなかお盛んだった鳥羽院でしたが、政治向きでは、白河院の方針を完全に覆す、大きな決断を実行に移す事になりますthink

それは、以前、娘を鳥羽院の後宮に入れようとして、白河院の逆鱗に触れて、関白を解任された藤原忠実の復権でしたimpact

忠実は関白・内覧を嫡男の忠通(ただみち)に譲った後、別荘のある宇治に引籠もり、10年程の隠遁生活を送ってましたdespair

しかし、彼自身は、世をはかなんで出家する事は決してしませんでしたnew

忠通の子供で、「愚管抄(ぐかんしょう)」という著名な歴史書を著した慈円(じえん)は、祖父の事を、『執念深い人sign01』と評していますnew

どんな逆境に遭っても、将来の念願であった、摂関家復活を諦めなかったsign03、彼の一貫した政治姿勢を的確に表現した言葉であると思いますscissors

その忠実を鳥羽院は、徐々に復権させるべく、段階的に手続きを踏んで行き、院政開始3年目の天承2年(1132)に忠実は、再度内覧に任じられ、遂に政界復帰を果たしましたhappy01

鳥羽院が忠実を復権させた背景には、白河院政時代の些かの行き過ぎ(前代未聞であった関白罷免を断行した事)を修正するという目的があったのでしょうpaperかなり専制的だった祖父院の政治手法は、度が過ぎて、恣意的な一面があった為、不満に思ってた既存貴族層達も多かった筈ですthink

それらの旗頭的な存在だった摂関家の前当主(大殿)を表舞台に再度、立たせる事は、不満分子の懐柔と貴族社会の身分秩序に平穏さを取り戻す狙いも、垣間見えるのですhappy01

こうして、忠実は、引き続き関白を務める息子忠通と共に、鳥羽院政の下、廟堂に参画する事になるのですshine

復帰を果たした忠実は、鳥羽院との関係を親密にする為、次なる一手を放ちますnew

この一手こそ、忠実がかって、失脚の憂き目を見る事になった、禁断の封じ手でしたsign03

この続きは次回とさせて頂きますsoon

[ 2012年02月13日13時42分01秒 ]

藤原得子と父長実

以前このブログでも触れさせて頂いたのですが、藤原得子の生家は、白河院乳母子であった顕季(あきすえ)を初代とした善勝寺流という藤原北家の庶流でしたok

顕季には多くの子女がおり、何れも有力貴族と縁組した結果、善勝寺流は院近臣の代表的な地位を占めるに至りましたhappy01

彼の長男は長実(ながざね)といい、大国の受領を歴任後、白河院最晩年の大治4年(1129)に正三位参議に昇り、父でさえ果たせなかった公卿の列に加わりましたok

更に、院死後の翌年には、権中納言に任ぜられという周囲が驚嘆する様な昇進ぶりを見せていましたflair

ところが、この長実という人、政治力の面ではあまり、冴えない人物だったみたいで、政治の重要事項を審議する公卿会議にもほとんど、出席する事はありませんでしたdash

当然、同僚公卿からは批判と軽蔑の目で見られており、中でも、長実より先に参議になっていた、藤原摂関家庶家の伊通(これみち)は、長実の権中納言昇進に(自分より先に就任した事への不満)抗議して、出仕拒否をした挙句、官職を除かれたと言われていますwobbly(最も伊通は、3年後に亡くなった長実の後に復帰、権中納言に任命されていますgood

長実の昇進はやはり、父以来の白河院との密接な関係からもたらされた物である事は、否定できないと思われますnew伊通の抗議のサポタージュは、院の極端な贔屓人事のへの周囲の反発を反映していますねok

しかし、あまり力量のなかった長実の昇進は、白河院崩御後の権中納言昇進を最後に停滞してしまいますwobbly

善勝寺流の主役は、彼の次兄家保(いえやす)とその嫡男家成(いえなり)の方に移ってきますok

嫡男でなかった家保は、父顕季の物心両面の遺産を継続した兄長実と比べて、自らの実力で家を興し、宮中内での地位を築かなければなりませんでしたpunch

家保は兄同様に白河院の院近臣として仕え、次の鳥羽院の時代においても、引き続き側近として勢力を維持していましたconfident

彼と兄長実との大きな相違は、本人自身の政治的な能力と、後継者(家の跡継ぎ)の差であったと思われますhappy01

家保の息子の家成は、『鳥羽院最大の権臣』と呼ばれ、大きな権勢を振るう事になりますok

反対に長実の息子達は、公卿になった長輔(ながすけ)等多くの息子がいたのですが、家成に迫る様な存在にはなれませんでしたbearing

ただ、村上源氏源俊房(みなもとのとしふさ)の女との間に儲けた一人の娘が、鳥羽院の寵愛を受け、宮中の政治闘争において、大きなうねりを巻き起す事になりますsign01(言うまでもなく、得子の事ですok

(彼女が仮に男子として生まれ、長実の後を継いでいたとしたら、従兄弟の家成と切磋琢磨しながら鳥羽院政内での有力近臣として活躍したと思われますnewしかし女子として生まれ、鳥羽院皇后となって近衛帝の母となり、皇位継承に関しても大きな発言力を有していた実際の美福門院《びふくもんいん》の振るった権勢と比較すると、影響力は小さかったのではと言わざるを得ませんgood従兄弟同士だった得子と家成は、各自の思惑は違っていたかもしれませんが、鳥羽院政時の主導権を掌握する共通の目的の為、提携したと考えられますnew

さて、一転して不遇となった、長実は間もなく、重病の床に伏せる事になりますbearing

彼は、『得子を鍾愛する事、この上なし』だったみたいで、『並みの人には嫁がせる積もりはなりsign03』と常日頃から語っていたのですが、然るべき嫁ぎ先が見つからぬうちに、再起不能の病にかかってしまいましたdespair

実際、彼の姉妹の子で甥に当たる藤原公教(ふじわらのきんのり)や、後三条帝の皇子(白河院異母弟)輔仁親王の子で源姓を与えられ、臣籍に下った源有仁(みなもとのありひと)との縁組を打診していましたが、何れも具体化する事はありませんでしたwobbly

臨終の床で、長実は妻の弟源師時(みなもとのもろとき)に、『本来なら、来世を願って念仏を唱えるのが筋だと思うが、得子の将来を考えると、とてもそんな気持ちになれない。早く、娘の相手を決めておくべきだったweep』と言って、泣きはらしたみたいですthink

さどかし、心残りだったと思われますが、彼は長承2年(1133)に59歳でこの世を去りましたcrying

結局、遺された得子は未婚のまま、父の所有していた二条万里小路亭に住んでいたのですが、父死後の翌年、この屋敷にとても、やんごとなき高貴な人物が、足繁く通う様になったのですdanger

その人物こそが・・・鳥羽院だったのですnew

鳥羽院が父を失った得子を、いつから寵愛する様になったのかsign02

明確な経緯はわかりませんが、少なくとも、長実死去の翌長承3年(1134)頃からであったと思われますdanger

先程にもご紹介した得子の母の弟であった源師時は、『長秋記』という日記を遺しているのですが、その中の長承3年8月の段に、得子の母が弟に『得子が院の寵愛を受けているheart01』と語ったという記事があるのですsign03

では、誰が得子と鳥羽院を結びつけたのかsign02sign02

真相は不明なのですが、得子が院の並々ならぬ寵愛を受ける女性になった事は、父を失い天涯孤独という身の上だった彼女の運命を、大きく転換させるきっかけとなったsign03そして、彼女を軸として、平安末期の混沌とした政局が動いていった事は、動かし難い事実だと断言できますok

次回は、得子が寵愛の受け始めた当時の宮中の状況について考えてみたいと思いますsoon

もうひと言happy01

ドラマでは病を押して、長実が得子を鳥羽院に仕えさせる仲介を、なんと待賢門院に懇願している場面がありましたsign03

鳥羽院に仕えさせる事は、そのまま院の寵愛を受ける可能性に繋がる事を意味してましたok

鳥羽院は、なかなか女性の道は祖父白河院譲りだったみたいで、実際待賢門院周辺の女房にも、数多く手を出していますcoldsweats01

門院は比較的大らかな女性であったみたいですが、この話が仮に事実だったとしても、最初から娘を院の寵后にする事をあからさまに目指した長実の申し出を承諾する事は考えられないと思いますpunch(いくら長実が白河院の信任厚かった近臣だったとしてもですthunder

まして、鳥羽院が得子を寵愛する様になったのは、少なくとも長実が死んでからの事ですdanger

両者が関係を結んだ時期や月下氷人の存在が、はっきりしないという面もあるのかもしれませんが、これでは『軒先を貸して、母屋迄奪われたsign03』という諺のたとえ話同様、待賢門院があまりにも愚かな女性という事になってしまいますban(後年の両者の争いの伏線にしたいという、製作者側の思惑は理解できますが・・・)

個人的には、あまり納得がいかない設定だと感じられましたthink

[ 2012年02月10日09時26分11秒 ]

白河院崩御後の鳥羽院と待賢門院の関係

いよいよ先週の放送で、松雪泰子さん演じる藤原得子(ふじわらのなりこ)(とくしとも読みます)が登場しましたnew

鳥羽院の寵愛を受けた彼女が、後の近衛天皇(このえてんのう)となる体仁(なりひと)親王を産んだ事が、保元の乱が起こるきっかけになったimpactといえるかもしれませんnew

ところで、鳥羽院は祖父白河院の命によって、皇位を待賢門院璋子出生の崇徳帝に譲りましたdespair

まだ20代になったばかりの若さで玉座を明け渡した事は、鳥羽院にとって大変、不本意な出来事であった筈ですが、絶対権力者であった祖父院に抗うことは不可能でしたdespair

しかも、鳥羽院は皇位を追われたのみばかりではなく、璋子以外の女性と関係を持つ事をも、白河院より厳しく禁じられていましたdespair

白河院の生前中、鳥羽院の後宮には中宮璋子以外の女性はいませんでしたnew

少なくとも、表向きはそうだったのですが、鳥羽院も大層な漁食家だった白河院の孫であったので、何人かの女性と(宮中に仕えていた女房等と)交渉を持ってはいましたdanger

しかし、すぐに白河院の知る所となり、相手の女性には直ちに、宮中を追われる運命が待ち受けていたのですweep

同時に鳥羽院の下には、璋子以外の女性が新たに入内する事もありませんでしたgawk(白河院生前ですが・・・)

『最愛の娘(愛人かどうか・・・)のライバルになり得る様な者の入内などもっての他じゃannoy

白河院の心の内を推察する事は、容易だと思われますok

その心中を察する事が出来ずに、娘勲子を鳥羽院に入内させようと画策した関白藤原忠実は、敢え無く隠居謹慎の憂き目を見たのでしたshock

皇位に就いた崇徳以外にも、璋子は鳥羽院との間に、四人の皇子と二人の皇女を得ていましたhappy01

(その中の第四皇子こそが、後に清盛最大のライバルとなる後白河院ですdanger

こうして、鳥羽院唯一の后(中宮)・国母(こくも)として不動の地位を築いた璋子は、白河院より女院(にょいん)宣下を受け、待賢門院を名乗ったのですsign03

当時、天皇の妻は中宮(または皇后)、天皇の母が皇太后、天皇の祖母が太皇太后(たいこうたいごう)と呼ばれていましたhappy01天皇に入内する時は、最初は女御とか更衣という身分で後宮に入り、天皇の子供(皇子)を産んだ後に、中宮(皇后)に立后されるというコースを辿りますok

更に、天皇が譲位して太上天皇(上皇)となる例に準拠して、后にも上皇に准ずる待遇を与えるという目的から、女院という地位が創設されたのですhappy01

中宮から国母sign01遂には女性最高の栄誉とされる女院号を与えられた待賢門院璋子は、まさに得意の絶頂にあったのでしたshine

しかし、彼女最大の庇護者であった白河院が大治4年(1129)に崩御し、院政は孫の鳥羽院によって引き継がれましたgood

大きな重石(白河院の存在)が取れた鳥羽院は、自らの意思を思う存分反映させた政事を行う事になりますhappy01

ところで、誤解がないように申し上げるのですが、白河院が亡くなって直ちに、鳥羽院と待賢門院の関係が険悪化したという訳ではなかったのですdanger

白河院亡き後も、鳥羽院と待賢門院の関係は、暫くは良好でしたhappy01

入内当初は、鳥羽院にとって彼女は、祖父院から無理やり押し付けられた年上の妻であったのかもしれませんが、崇徳帝を含めて七人の子供を儲けたという事実から分かる様に、夫婦仲は概ね良かったと考えられますok

その両者の関係に隙間風が吹き始めたのは果たして、いつだったのかsign02

言うまでもなく、鳥羽院が藤原得子を寵愛し始めた時からでしたimpact

続きは次回に致しますsoon

 

 

[ 2012年02月09日15時32分40秒 ]

清盛の弟達(教盛編)

本日は清盛の弟達シリーズ第3弾として、教盛を取り上げますsign01

平教盛は忠盛の四男として、大治3年(1128)に誕生しましたhappy01

(彼が生まれた時期は、白河院政の最晩期に当たりますok

生母は、藤原御堂流(摂関家)師通の三男家隆(いえたか)の娘でしたnew

家隆の長兄が関白忠実ですので、出自の良さを考えると、彼自身も高位高官に昇っても不思議ではなかったのですが、何故か正四位下左京太夫という低い官職で終わってしまいましたweep(公卿になれなかったdespair

家隆の資質に問題があったのかもしれせんが、不遇の公的生活を送っていた訳ですng

ただ、彼の娘が鳥羽院中宮の待賢門院璋子に女房として仕えていましたnew

この女房と忠盛がいつ頃から関係を持ったのかは不明ですが、両者の間に生まれたのが教盛だったのですhappy01

白河院の養女として鳥羽院に入内し、更に崇徳帝の生母(国母)となった待賢門院は、宮中において絶大なる権勢を振るっていましたdanger

多くの貴族達が、出世の糸口を求めて、待賢門院とのコネクションを作ろうと躍起になっていましたok

正盛以来、白河院の厚い信頼を得ていた伊勢平氏も、白河院後の治天の君と目されていた鳥羽院との関係を作るべく、彼女の周辺に接近していたのかもしれませんねok

ところで、忠盛の岳父だった家隆の妻は、院近臣勧修寺流(がしゅうじりゅう)藤原氏の庶流である盛実(もりざね)の娘でしたnew

盛実は一介の受領である土佐守に留まった官暦の持ち主でしたが、面白い事に彼の別の娘は家隆の兄である忠実の妾となり、両者の間に生まれたのが、藤原頼長だったのですdanger

(盛実の一族は頼長の外戚家でしたが、如何せん朝廷内での力は弱く、頼長の強力な後見にはなり得ませんでしたdespair

つまり、忠実と家隆兄弟は、相婿同士という事になりますdanger(もっとも家隆自身は保元の乱のかなり以前に死没していますが・・・)

こうして、教盛の母方出自を辿っていくと、摂関家に繋がる事がわかりますsign01

更に、前に見て来た経盛同様、教盛のそれも、忠実の次男で左大臣内覧という要職にあった頼長と、密接な関係を有していたのですnew

伊勢平氏は、白河・鳥羽両院(王家)との関係を重視して、複雑な宮廷社会において自己の勢力を拡大していたと思われがちですが、実際は最大の貴族勢力である摂関家や、それに次ぐ存在であった村上源氏とも関係を築こうとしていたのだと考えられますok経盛と教盛を通じての人脈はまさに、その布石というべき物でありましたscissors

仮に、忠盛が保元の乱の3年前に亡くなっていなかったら、これらのコネクションは効果的に機能したのかもしれませんsign01(伊勢平氏が崇徳・頼長陣営に加わって、戦闘の帰趨が混沌とした可能性も否定出来なかったでしょうdash

しかし、摂関家・村上源氏何れも傍流主体の繋がりであった為、政治的な影響力は少なく、しかも肝心の忠盛自身が既に、この世を去っていては、多くを期待するのは無理だったsign03と言えるのではないのでしょうかok

3回に亘って、忠盛子供達の母方の出自と姻戚関係を見て来ましたが、平安末期(院政)の混沌とした政局の中で、貴族達は、婚姻関係を諸方面または、幾重にも張り巡らせる事によって、自家の栄達や生き残りに汲々としていた事がうかがい知れますok

その事は、源氏・平氏等軍事力を有した中下級貴族達も、直面していた政治課題であったのでしょうhappy01

本日はここまでにしますsoon

 

 

[ 2012年02月08日08時24分48秒 ]

清盛の弟達(経盛編)

清盛の弟達シリーズの第二弾ですhappy01

忠盛が宗子以外の女性に産ませていた息子(清盛は別として)は、3人いましたhappy01

(平家物語を読まれた事がある方は、ご存知かもしれませんがpaper

清盛と6歳違いの経盛happy01

10歳違いの教盛happy01

そして、なんと26歳違いの忠度(ただのり)happy01

末弟の忠度が生まれた頃、既に清盛は長男重盛(しげもり)を儲けていましたsmile

忠度は、自分の息子より年下の弟だった訳ですねhappy02現在ではあまり見かけられないケースですが、一夫多妻多妾制が定着していたこの時代では、珍しい事ではありませんでしたhappy01

さて、忠盛三男経盛ですが、彼の生母は村上源氏の右大臣顕房(あきふさ)の六男信雅(のぶまさ)でしたhappy01

村上源氏は、実に子沢山の一門で、特に源顕房は、娘賢子が関白藤原師実の養女として白河帝に入内して、堀河帝を儲けたのを始め、別の娘の師子は、師実の孫である忠実の正室となり、忠通と勲子の母となっており、政界において大きな勢力を有していましたhappy01

(ちなみに師子は、忠実に嫁ぐ以前、白河院の後宮に入って覚法法親王を産んでいますdanger

岳父であった信雅は、最高位が正四位下陸奥守で公卿、大臣を輩出した村上源氏の中では傍流の道を歩んだのですが、関白忠実の家司(公卿の家の家政を司る役目。現代風に言えば執事ですかねcoldsweats01)務めていましたhappy01

忠盛と信雅がどの様な繋がりを持っていたのかどうか、良くわかりませんが、摂関家当主の家政を統括する人物と縁戚になった事は、信雅の背後にいる摂関家とのコネクションを作るのには効果的であったと思われますnew

また、信雅の別の娘は、忠実自慢の息子に嫁ぎましたdanger

この息子こそ、有名な悪左府こと藤原頼長(ふじわらのよりなが)でありますsign03

保元の乱の一方の首魁となった頼長の事については、追々お話をしますが、なんと、忠盛と頼長は相婿同士だったという訳ですねimpact

若し、保元の乱の三年前に忠盛が死なず、乱勃発時に存命していたとしたら・・・

同じ信雅の婿同士であった忠盛に対して、頼長が加勢を要請する可能性は、かなり高かった筈ですgood

信雅娘との間に、経盛を儲けていた忠盛同様に、頼長も同じ信雅娘との間に、次男師長(もろなが)を得ていましたnew

あくまでも仮説ですが、信雅(彼は保元の乱かなり以前に逝去していましたが・・・)を巡る姻戚関係は、保元の乱の勝敗の帰趨に影響を与えた可能性はあったかもしれませんsign01(場合によっては経盛単独で頼長と合流する事も有り得たでしょうnew正室出生の弟頼盛の去就が取り沙汰されていた事からも十分、考えられますthink

経盛周辺のお話はひとまず、ここまでにして、この次は、教盛の周囲を見てみたいと思いますsoon

[ 2012年02月07日10時43分31秒 ]

清盛の弟達(家盛と頼盛)

昨日の「清盛」の放送冒頭で、清盛の弟『平五郎』(へいごろう)が誕生していましたねhappy01

家盛が、平五郎という名前を聞いて、『何故、三と四はいないのかsign02』と母親の宗子に尋ねたら・・・

『三と四は別の所にいるcoldsweats01・・・』という返答が帰って来ましたdash

この年、長承2年(1133)時点で、伊勢平氏棟梁平忠盛は、5人の男子の父親でありましたnew

忠盛は、この後誕生する平六郎(おそらく幼名はこうなると思われますがcoldsweats01)を含め、6人の息子を儲けていましたhappy01

6人の子供を順次、紹介しますとgood

①長男清盛(平太)元永元年(1118)生まれ。生母:祇園女御妹若しくは、その縁者(実父は白河院の可能性大)

②次男家盛(平次)保安4年(1123)生まれ?生母:藤原宗子(池禅尼)

③三男経盛(つねもり)(平三郎)天治元年(1124)生まれ。生母:源信雅(みなもとののぶまさ)娘

④四男教盛(のりもり)(平四郎)大治3年(1128)生まれ。生母:藤原家隆(ふじわらのいえたか)娘

⑤五男頼盛(よりもり)(平五郎)長承2年(1133)生まれ。生母:家盛と同じ藤原宗子

⑥六男忠度(ただのり)(平六郎)天養元年(1144)生まれ。生母諸説あり。

こうして見るとよく分かると思いますが、家盛と頼盛は忠盛正室であった宗子出生の子供でありましたhappy01

ドラマでは、白河院のご落胤として、数奇な運命を持って誕生した清盛を、平氏に災いを及ぼす者として激しく忌避する平忠正(たいらのただまさ)の姿が描写されていますnew

清盛が果たして、白河院の種であったのかsign02それとも忠盛の長男だったのかsign02

真相はわかりませんgood彼が白河院の子供だったという噂は、彼の生前より宮中に広まっていたのですが、正妻と認められていた宗子の子供であった家盛・頼盛との関係は、微妙な物であったと思われますthink

清盛と5歳年下だった家盛は、清盛の有力な対抗馬であったと思われますok

事実、久安3年(1147)に兄清盛が祇園闘乱事件によって、一時期謹慎状態になった時、その間隙を塗って、従四位下右馬頭に任官され、正四位下安芸守だった清盛に肉薄しましたsign01

家盛がこのまま、順調に出世を重ねたら、或いは伊勢平氏跡取りの座は、彼にもたらされた可能性は濃厚だったのではないかsign02とタケ海舟は考えていますdanger

というのも、当時の鳥羽院第一の権臣だった藤原家成は、宗子の従兄妹でありましたhappy01

忠盛も代々の家成の家(善勝寺流)との提携関係を考慮に入れるとしたら、彼等と関係が深い家盛を後継者にする事も視野に入れてたかもしれませんnew

しかし、家盛は久安5年(1149)に鳥羽院の熊野詣に供をした帰りに病を得て、20歳半ばで亡くなってしまいましたweep

忠盛と宗子夫妻には、痛恨の出来事でありましたが、嫡男の座が危うくなっていた清盛にとって、有力なライバルであった次弟の死は、正直救われたという気持ちになったのではないのでしょうかthink

結果的に、清盛の伊勢平氏次期棟梁の座は安泰となりましたhappy01

宗子は家盛の他に、もう一人、頼盛という子供を生んでいましたok彼も正室出生の子供でしたので、清盛の有力な対抗馬となり得る資格はあった筈ですが、如何せん、長兄清盛との年齢差が15歳もあり、更に、仁安3年(1153)に父忠盛が亡くなった事も重なり、清盛との後継者争いの相手となる事はできませんでしたsign01

しかし、正室の子供という彼の貴種性は、新棟梁清盛の下、新たな体制となった伊勢平氏のナンバー2という地位を頼盛に占めさせる事になりますnew

まして、落飾したとはいえ、忠盛未亡人池禅尼は健在で、伊勢平氏家長代理として清盛の行動にも、様々な制約を加える事になりますsad

実際、鳥羽院死後に勃発した保元の乱の折、伊勢平氏は崇徳院側、後白河帝側のどちらかに付くかsign02究極の選択を迫られており、崇徳院との関係が深かった池禅尼が、頼盛に対して、旧縁を断ち切って清盛とともに後白河帝側に味方する事を命じた為、平氏は一族分裂の危機を免れたのですok

池禅尼は続く平治の乱の時にも、河内源氏の嫡男頼朝助命を清盛に嘆願した事がよく、知られてますsign03

この嘆願と清盛の温情が結果として、平氏を滅亡させる遠因となったのですbearing

清盛の大きな影響力を与え続けた池禅尼は、この後間もなくこの世を去ったみたいですが、頼盛はその後も、二条帝(後白河院第一皇子)や八条院(鳥羽院と美福門院の皇女)との独自の関係を築き、後白河院との提携を目指す清盛に事あるごとに楯突く事になるのですshock(伊勢平氏の党内野党みたいな存在ですね・・・)

そして、清盛は、この正妻の子であった弟の対応に苦慮するのですdespair

次回は忠盛が他所で育てていたとされるsign02(宗子に遠慮したのですかねcoldsweats01)三男経盛と四男教盛の出自についてお話をさせて頂きたいと思いますsoon

[ 2012年02月06日12時10分17秒 ]

源氏の共食い(終わらない内紛)

さて、河内源氏棟梁の座を巡っての義家・義綱兄弟の争いは、延暦寺強訴に端を発した関白師通の急死という思わぬ展開によって、義家のタナボタ勝利で決着を見ました。

強訴の為に京都に押し寄せた僧兵達を、師通の命を受けて実力で排除したのが、他ならぬ義綱でした。もともと義綱が受領を務めていた、美濃国の延暦寺荘園の帰趨を巡っての諍いが騒動の発端でありましたので、庇護者の師通を失った義綱の凋落は当然の事と云えます。彼は以後、二度と受領となる事はありませんでした。

反対に、白河院の後ろ盾を得ていた義家は、源氏初の院昇殿人に任命されましたok

先の後三年の役時に、義家が陸奥守として滞らせていた朝廷への貢納もこの頃、漸く完了していました。

こうして、後三年の役以後の長き雌伏時代を遂に、脱する事に成功したかに見えた義家したが、彼を待ち受けていたのは、将来を嘱望していた息子たちの問題でした・・・

ご存知の通り、嫡男として目されていた義親は任国の対馬国で暴力沙汰を起し、朝廷の召還使を殺害するという暴挙までもやってのけていました。

更に、次男の義国(よしくに)も生来、粗暴な性質だったみたいで、早い段階で河内源氏の後継者レースから脱落、都から遠く離れた常陸国に追いやられていました。

ところが、常陸国には義家の三弟義光が既に、地盤を築いており、程なく叔父と甥は同国の主導権を巡って、戦闘を始める事になります・・・

長男と次男が相次いで、地方で騒動を巻き起こす様な事態に直面し、義家は自らの死の直前に、三男の義忠を後継者と定めたのでしたthink

義家死後に隠岐国に流されていた義親が反乱を超したのも、異母弟の棟梁就任に激怒したという事も理由として考えられます。

その義親を征伐したのが、伊勢平氏中興の祖と呼ばれた平正盛でありましたが、義忠は正盛と婿舅の関係を結んでいました。

正盛の娘を自らの妻(正室と思われます)に迎えたのですが、同じ武士の旗頭としてのライバル同士だった伊勢平氏と河内源氏の婚姻という大変、稀有な出来事として注目されますnew

正盛と義綱との関係はすこぶる良好で、正盛嫡男の忠盛元服の烏帽子親は、義綱が務めていますnew

後年、激しく鎬を削る事となる源氏と平氏と間に、こうした有効的な時期が一時的にもあったというのは、驚きですねdanger

タケ海舟は、源氏と平氏との和合を意図した縁組を主導したのは、白河院だったのではと推測していますnew

もちろん、確証はないのですが、既に正盛が棟梁である伊勢平氏を自己の武力として掌握していた院は、正盛と義綱との縁組をまとめる事で、伊勢平氏のみならず、跡目争い等で分裂状態に陥っていた河内源氏をも、自己の武力とし再編成しようと考えていたかもしれません。

つまり、若き河内源氏棟梁の義綱を、老練な伊勢平氏棟梁正盛に後見させ、白河院は二大軍事勢力を自己の武力行使の象牙として活用する事を意図していたのではsign02

とタケ海舟は、仮説を立てているのですが、如何な物でしょうかsign02

この関係が何事もなく、円滑に継続していたのならば、専制君主白河院の下、源氏と平氏の並立状態が演出された可能性は極めて、高かったかもしれませんok

しかし、事態は院の思惑通りに進みませんでしたweep

父・兄達よりも政治力に富み、院の覚えも目出度かった義忠が、何者かに突然、暗殺されてしまったのですshock

そして、彼の横死は河内源氏の流血の内紛を招いたのですimpact

続きは次回とさせて頂きますsoon

[ 2012年02月04日11時30分52秒 ]

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