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摂関家の敗北

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2012年01月24日10時38分24秒 | コメントなし | トラックバックなし

一敗地にまみれた摂関家despair

娘勲子の鳥羽院入内計画を、白河院と藤原璋子に出し抜かれた格好となった関白忠実は、計画の大幅な修正を余儀なくされましたweep

既に白河院は60半ばを超えていましたが、今だ健在ぶりを誇示していましたsmile

忠実は当初期待していた院の寿命が尽きるsign02(崩御されるのを待っていた)事を期待していたのですが、その時期は一向に訪れませんでしたbearing

その内に、忠実が毛嫌いしていた閑院流家出身の璋子は、入内間もなく、天皇の正室たる中宮となっていましたbleah

更に2年後には、鳥羽院(白河院説もあり)との間に顕仁親王が誕生し、白河院を後見とした璋子とその実家の閑院流の勢力は宮廷内に確固たる地盤を築き上げつつありましたimpact

この間、忠実は身の振り方が定まらない勲子の将来の幸福を願い、元永元年(1118)に伊勢大神宮に祈祷をさせたりしていましたが、事態が刻々と摂関家に不利になっていく状況に対して、何らかの行動を起こさなければならない必要に迫られていましたdanger

『最早、白河院の崩御を待っている様な猶予はないsign03

こうして、忠実は乾坤一擲の政治工作を開始しますnew

保安元年(1120)、彼は白河院が熊野行幸に出かけて不在の時を見計らい、鳥羽帝に娘勲子入内の話を、直接打診しましたsign01

忠実は院は都を留守にしていたこのタイミングで鳥羽帝への工作を行った理由は、院が勲子入内に難色を示す事を十分知悉していからだと思われますok

白河院の後押しで先に入内した璋子は中宮となったばかりか、皇太子顕仁を産んでいましたhappy01近いうちの皇太子即位を念頭に入れていた院にしてみれば、今更勲子の入内を認める筈はなかったのですsign01

(先に院から勲子を鳥羽帝に入内させる様にという打診を固辞したのは、他ならぬ忠実でしたng

何故なら、摂関家出身の彼女が鳥羽院後宮に入る事は、中宮璋子の強力なライバルを誕生させる事になるからですgawk

摂関家嫡室出の娘の格式は高く、いくら璋子が院の後ろ盾を得ていたとしても、仮に勲子が皇子を出産したら、皇位を巡る深刻な対立を誘発する事が予測されたのですdanger

白河院の怒りを買う事は忠実もわかっていた筈ですbanしかし、ここで行動を起こさなければ、摂関家の政治的地位は完全に失墜してしまうpunch

忠実はそれだけの危機感を抱いていたのでしょうthink

一方の打診された鳥羽院の方も、白河院からの政治的な掣肘を受け続ける事に、ある種の息苦しさを禁じ得なかったと思われますgawk

そろそろ院からの自立を企図していた矢先に、忠実から勲子入内の話が持ち掛けられたのですpaper

鳥羽院は渡りに船sign01といった心境で、摂関家嫡女との縁組に前向きな意思表示をしましたsign01

こうして、水面下の交渉で鳥羽院と勲子の縁組は、当事者間での内定をみたのですが、この様な政治的均衡を崩しかねない入内話が白河院に漏れない訳はありませんでしたimpact

当然ながら、忠実の画策を知った(通報者は反摂関家側の恐らく、璋子に近い筋からだと思われます)白河院は烈火の如く、怒りましたthunder

諺の逆鱗に触れるという事はまさに、この時の忠実に対する白河院の怒りを指す言葉だと思いますannoyannoy

熊野詣でから帰ってきた院は、即日忠実の内覧(ないらん)の職を停止してしまったのですannoy

この内覧とは、院や天皇に上奏される政治向きの書類を、やんごとなき貴人の目に触れる前に、事前に目を通す役割を指していましたok

天皇・院に上奏される書類を見る事は、他の公卿達には許されず、一人、内覧に任じられている者のみに認められていましたhappy01

摂関政治における関白職は、成人した天皇の政務補佐役という立場でありましたok

政務の補佐というのは、公卿会議で議論された議題の結論を参考に、天皇の最終決断の諮問に与り、協同して決裁に当たるという性質の物でしたnew

当然ながら、決裁を進める若しくは天皇親裁を補佐する為には、事前に上がってくる重要書類には絶対目を通さなければ内覧の役割はもちろん、関白の職務も務められなかったのですsign03(関白と内覧は同一人物が兼帯するのが原則でしたdash

したがって、内覧をはく奪された忠実は、最早、関白を務める資格を失ったも同然でしたbearing

これは白河院の事実上の不信任impact関白辞職勧告でしたthunder

白河院の怒りの凄まじさは、忠実の想定を遙かに超えるものだったのですthunder

ところで、忠実腹臣の公卿で、摂関家庶流中御門流(なかみかどりゅう)の藤原宗忠(ふじわらのむねただ)は、忠実の内覧罷免の急報を聞き、驚いて駆けつけましたshock

宗忠と対面した忠実は、ただひと言・・・

『運は尽きたweep』と語ったと宗忠の日記『中右記』(ちゅうゆうき)には記されていますweep

一か八かの、勲子入内計画が見事に失敗した事を受けての言葉だったのでしょうかsign02それとも、白河院の心の内を読み違えた(仮に反対されても、粘り強く交渉を続けば入内は実現するだろうと忠実は見越していたかもしれませんdanger)事に対する後悔であったのでしょうかsign02真相はわかりませんshock

ただ、忠実はこれ以上摂関家の政治的立場を悪化させてはならないと思ったのでしょうsign01直ちに摂関当主である氏長者(うじのちょうじゃ)の地位を嫡男忠通に譲り、自身は祖先頼通所縁の地である宇治の地にて、謹慎生活に入りましたbearing

仮にも摂政・関白を経験した人物が罷免されたとはいえ(王家による関白更迭自体前代未聞でしたsad)、平安京内での生活が出来なかったのですcrying(白河院の無言の圧力もあった筈です)

この忠実解任によって、白河院の専制体制は、完成したと見て間違いないでしょうsign03

もっとも、院は後任の関白を忠通ではなく、摂関家傍流藤原家忠(ふじわらのいえただ)(師実次男。忠実叔父)を任命しようとしたのですが、院近臣で『夜の関白』という異名を取った藤原顕隆(ふじわらのあきたか)の諫言によって、忠通の関白継承を認めましたthink院の摂関家御堂流に対する根強い不信感が垣間見られますねdespair

こうして、失脚の憂き目を見た忠実は、宇治での閑居生活に入る事になりましたsad

彼の謹慎生活は、約10年もの長期に亘りましたdespair

大治4年(1129)の白河院の崩御まで、遂に赦免される事はなかったのでしたcrying

一説によると、院は『忠実を政界に復帰させてはならないsign03勲子の鳥羽帝への入内は絶対許さないsign03』と厳命したといわれていますban(物凄い怒りですね・・・coldsweats01

さて、忠実ですが・・・

本来なら政治生命を断たれた訳ですので、出家して俗世と縁を切る事も選択肢の中にはあった筈ですdespair

しかし、忠実は幽居中、遂に出家をしませんでしたcoldsweats02

それどころか、都にいる忠通に様々な指示を送り、裏側から新米関白を後見していましたsign01

白河院も怪物ですが、忠実もなかなかの強者(つわもの)ですねdelicious

『余は決してあきらめないsign01摂関家の権威を再興させる日を迎える迄はsign03

こうして、忠実は長い雌伏の時期を宇治で過ごす事になりますdespair

しかし、運はまだ忠実を見捨ててはいませんでしたhappy01

白河院崩御後、鳥羽院新体制が始まったからですsign01

忠実と白河院との確執のお話はひとまず、ここで終わりますscissors

次回からは鳥羽院を巡る王家の確執についてお話していきたいと思いますsoon

 

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