ドラマでは現の物怪(うつつもののけ)こと白河院が76歳という長寿を以て、崩御されました![]()
天皇として14年
そして、堀河・鳥羽・崇徳三代の天皇の時代である43年間![]()
実に半世紀以上、治天の君(王家の家長)として君臨した文字通り、中世を切り開いた帝王でした![]()
加茂川の水・双六の賽の目・比叡山の山法師![]()
上記は、白河院が生前自らの思い通りにならないと嘆いた、『三大不如意』として有名ですが、専制君主であった院の権力の絶大さを物語る逸話ですね![]()
白河院が創設した院政の引き継いだのは、孫の鳥羽院でした![]()
鳥羽院(即位前は宗仁《むねひと》は、白河院と院の最愛の女性であった中宮藤原賢子との間に生まれた堀河天皇の第1皇子として、康和5年(1103)に誕生しました![]()
誕生してから1年以内に、親王宣下・立太子(皇太子)を済ませ、嘉承2年(1107)に崩御した父堀河帝の後を受けて、4歳で即位しました
(祖父白河院の強力な後押しがあった事は言うまでもありません
)
まだ幼年での受禅であったので、当然ながら自らの判断で政治を行う事は不可能だった為、祖父白河院が依然として院政の名の下、実権を握り続けていました![]()
14歳になった永久5年(1117)に、祖父白河院の養女藤原璋子を女御として迎えました![]()
元永2年(1119)に両者の間に第1皇子顕仁(あきひと)が誕生しましたが、4年後の保安4年(1123)に白河院は、とんでもない挙に出てしまいます![]()
4歳になったばかりの曾孫顕仁を鳥羽帝の皇太子に立てた即日、鳥羽院を譲位させ、顕仁を践祚させたのです![]()
父君であった鳥羽院はこの時、まだ20歳でした
いくら何でも退位するには些か、若過ぎであった事は否めません![]()
何故、白河院は孫の鳥羽院を退位させ、曾孫でまだ幼子に過ぎない顕仁を即位させたのでしょうか![]()
顕仁が白河院の子供であるという噂(風評。ドラマでは公然の事実と扱われていますが・・・タケ海舟は顕仁親王は鳥羽院の子供だと思っています
)は考慮に入れずに推測しますと・・・
鳥羽院が、自分で政治を執る事が可能な20歳になった事が大きな理由だったのではないかと思われます![]()
実は院政という政治システムの重要な要素の1つとして、天皇が幼年または、病弱で政治を行えない(若しくは政治に無関心)状態である事が望ましかったのです![]()
白河院はその長い政治キャリアにおける2つの経験から、その重要性を実によく認識していました![]()
最初の経験は、わが子堀河天皇との問題でした![]()
白河天皇は応徳3年(1087)、34歳の壮年で皇太子善仁(たるひと)親王に譲位しました![]()
善仁親王(即ち堀河天皇)は、この時8歳でした![]()
上皇となった白河院は、摂関家師実(堀河天皇外戚)と協調して若き天皇を後見していたのですが、やがて20代を迎えた天皇は、次第に政治への意欲を見せ始めました![]()
同時に摂関家でも師実が引退
嫡男の師通が関白を引き継ぎました
若い天皇と新関白による政治刷新の風が吹く中、白河院の政治的影響力は減退しつつあったのです![]()
この状況に変化を起こしたのが、康和元年(1099)の師通の急死でした![]()
摂関家の後継者忠実はまだ20代そこそこの若年、若い天皇を補佐するにはあまりにも、経験不足でした![]()
そこで、父院である白河院の復権という道が開かれたのです![]()
但し、既に成人に達していた堀河天皇と院との関係は微妙な物になっていました![]()
その様な情勢が8年ほど続いた嘉承2年(1107)に病弱だった堀河帝は、28歳で崩御されてしまいました![]()
堀河帝は、鐘愛の第1皇女郁芳門院(いくほうもんいん)とともに、中宮賢子出生の白河院愛息でありました![]()
白河院の悲しみは深かったと思いますが、既に嫡孫の宗仁親王が誕生していました![]()
確かに院にとって、堀河帝の早世は、悲しみに包まれた痛恨の出来事であった筈ですが、別の側面から見つめ直してみると、成人した天皇との対立が今後、更に深まる事も十分考えられたと思われます![]()
その面では、わが子の死は皮肉にも、院政を継続させる上での懸念材料がなくなった事を意味していました![]()
(今も昔も、政治の世界は残酷ですね
)
院政という変則的な政治システムを継続していく為には、政治に対して意欲旺盛な天皇の存在は却って、障害物になる危険を孕んでいたのです![]()
この問題を解決するには、幼帝を即位させその後見として院政を行い、天皇が成年に達した時には退位させ、新たな幼帝を即位させるという、天皇位の自転車操業を繰り返す事が不可欠になります・・・
(自転車操業とは失礼な言葉を使ってしまいました・・・
)
そして、この時に白河院が経験した教訓が、20歳を迎えた孫鳥羽帝の半ば強制的な譲位と、4歳になったばかりの顕仁親王の即位という強硬手段を採らせたのではないのでしょうか![]()
しかし、タケ海舟は白河院が鳥羽院を退位させた理由はもう1つあったと思っています![]()
それは、堀河帝の前例と同じ、摂関家と鳥羽帝との急速な接近でありました![]()
次回は、そのお話をさせて頂きます![]()
タケ海舟
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