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璋子入内が巻き起こした波紋

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2012年01月20日11時41分30秒 | コメントなし | トラックバックなし

日記に遺された璋子の良からぬ噂

永久5年(1117)、かねてより白河院と祇園女御に養われていた藤原璋子(後の待賢門院)が、鳥羽帝の女御として入内する事が決定しましたok

この入内話は、当時の宮廷社会に大きな波紋を引き起こしましたng

関白忠実は、娘の勲子を鳥羽帝に嫁がせる事を考えていましたthink(ただし、白河院崩御後《恐らく》を想定していた筈ですconfident

ところが、白河院は忠実の頭越しに璋子を鳥羽帝の后とする事を、独断で決めてしまいましたng

この重要事項に関して、関白忠実は事前に諮問を受けていたかどうか分かりませんが、タケ海舟は専制君主白河院が天皇の最初の妻の選定に関して、忠実に相談した可能性は極めて薄いと考えていますsign01

何故かといいますと、この時期白河院は、忠実に対して著しく感情を害していたからだと思われますimpact

白河院も摂関家の立場を院なりに重視していましたpaperそれ故、璋子を忠実の嫡男で将来の摂関と目されていた忠通に配そうと考えていましたsign01

同じく、忠実嫡女の勲子を、孫である鳥羽帝の女御にしようとしたのも、王家と摂関家との紐帯を深めたいという意向の表れに他なりませんでしたscissors

勿論、独裁者白河院でありますから、忠実同様に忠通迄も引き続き、自己のコントロール下に置こうと考えていた節は強かったと思いますが、摂関家との関係を円滑にする目的で持ち掛けた、2つの縁談であった筈ですpaper

ところが、院の気持ちの内面を知ってか知らずか、忠実はこの2つの縁談を固辞してしまったのですdespair(当然忠実側には、固辞の理由があったのですが・・・)

君主の心、臣知らずannoy

自らの意図を察しない忠実に対する院の失望は、大きかったのではないのでしょうかangry

何れにしても、件の2つの縁談について、院と摂関家双方で異なる思惑を有していた事が、後の忠実の関白罷免に繋がったと思われますcrying

さて、璋子入内を知らされた忠実ですが、かなり動揺した事は容易に窺い知れますshock

実は、この辺りの事情について、他ならぬ忠実自身が自らの日記に書き残していましたnew

璋子入内が決まった年の永久5年12月付けの日記で、彼は璋子の事を悪しざまに罵っていますannoy

『あの婦人は兎角、良くない噂が多く有り、それが恐れ多くも帝の女御とは世も末であるannoy

当時、王朝時代の貴族達には、日記を付ける習慣がありましたhappy01

その日にあった事を振り返るという意味で付けていた訳ではなく、朝廷で執り行われる政治向きの儀式についての覚書的な色彩を帯びていましたnew

当時の宮廷社会では、諸行事=政治でありましたok

従って、様々な年中行事での段取りや所作等を覚える事が、宮廷政治家(貴族)の必須項目であったのですdanger

時によっては、諸行事は天皇臨席の許で行われる事もありましたので、御前で失態を演じたとしたら、本人自身の昇進または、その家の浮沈に直結したのでしたshock(事実、不首尾の為に天皇の不興を買い、官職を罷免された例も少なからずありましたcrying

そこで貴族たちは(特に上級貴族であった公卿)、朝廷で行われる複雑極まりない諸事儀式についてマニュアルを作成する必要に迫られ、その為の苦労の賜物が、それぞれの家に残された日記でありましたok

つまり、貴族の日記は、自身が経験した宮中での公事(政治問題)や陣定(公卿会議)、除目(人事考課)や毎年行われる年中行事において、覚えておかなければならない重要項目を記録し、後に同じ様な局面に出くわした家の子孫達が困らない様にいう配慮から作成された教科書といってもよいかもしれませんhappy01

当然、貴族の頂点を占める藤原摂関家の歴代も、子孫の為に日記を遺していましたdanger

忠実の偉大なる先祖だった道長の日記は、『御堂関白日記』と呼ばれていますhappy01

同じく父親の師通も『後二条師通記』という日記を遺していましたok

そして、忠実の日記は『殿暦』と呼ばれていますwink

日記のお話で少々、脱線してしまいましたが、貴族の家におけるマニュアルまたは教科書(自習用といっていいかもしれませんね)でありますから、あまり長々とした記述はなく、どんな事があってその時こうしたとか云々といった具合で、極めて簡潔な書き方に終始していましたpaperそこには、筆者自身の感想等が描かれる事はあまりなく、あったとしても、実に稀であったのですdanger

ところが、忠実はその様な性格を帯びていた日記『殿暦』に、鳥羽帝の女御となった藤原璋子に対する誹謗中傷を書き立てていたのですthunder

勲子入内の先を越されたという口惜しさもあったと思われますが、冷静な公卿政治家と言われた忠実にしてみれば些か、常軌を逸していましたangry

忠実が日記で触れていた璋子の良くない噂とは、果たして何を指していたのでしょうかsign02

この噂こそが、白河院崩御後の王家の分裂sign01更にはその結果、勃発した保元の乱の潜在的な要因でありましたimpact

噂の真相については次回にさせて頂きますsoon

 

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