さて、若き日の藤原忠実の恋の大一番に行方について・・・![]()
この時期、忠実はなんと、13歳でした![]()
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当時は、祖父で摂関家大殿(摂関家の当主)の師実(もろざね)と、父で関白師通(もろみち)は、共に健在でした![]()
若き日の熱情が爆発した物と思われますが、相手は何と言っても、最高権力者の白河院の女御であり、迂闊な行動は憚られた筈です![]()
考えた挙句、忠実は祖母(師実正室)の麗子(れいし)に、白河院への斡旋を依頼したのでした![]()
麗子は村上源氏初代師房(もろふさ)と藤原道長娘の尊子(そんし)と間に生まれた嫡室出の娘で、従弟に当たる師実と結婚していました![]()
彼女の実兄顕房の娘が白河院の中宮賢子(けんし)であり、彼女は麗子の養女でもあったのです![]()
従って、白河院の義理の母親という立場にもあった訳で、彼女の力を借りて、自らの想いを遂げようとしたのです・・・![]()
義母に頼まれては流石の白河院もいやとは言えなかったみたいで、寵愛を受けていた件の女御は、寛治5年(1091)に忠実に嫁ぐ事になったのです![]()
この時、彼女は既に院の子供を宿していました
彼女は、皇子を出産後忠実の正室となったとされていますが、一説では、妊娠中に輿入れしたという話も伝わっています
(果たして、どちらか真相か
)
白河院との間に生まれた皇子は、生まれてすぐ、院に引き取られました
後に出家して、覚法法親王(かくほうほっしんのう)となり、仏教界の重鎮として知られた人物です![]()
忠実が院から拝領したこの女御こそ、彼の正室師子(しし)であったのです![]()
彼女は忠実よりかなり年上だったと思われますが、夫婦仲は睦ましく、勲子と忠通の二子を儲けていました![]()
その後、忠実も摂関家御堂流の当主となり、白河院の掣肘を受けてはいましたが、何とか関白の重職を務めていました![]()
そうした矢先に持ち上がったのが、白河院からの勲子入内話でした![]()
勲子の嫁ぎ先は、今上の帝である鳥羽天皇でした
彼女にとっては中宮・国母が約束された破格の話だったのですが、父忠実はこの話を固辞したのです![]()
何故か・・・
巷間伝わる所によると、この入内に最も強い難色を示したのは、忠実の正室で勲子生母の師子であったといわれています![]()
表向き、鳥羽院への輿入れとなっていましたが、師子にしてみれば母子二代続いて、白河院の恩寵を受ける事に対して忸怩たる思いがあったのではないかと・・・タケ海舟は推測しています![]()
また、表向きという表現を用いましたが、これは何を意味するのか![]()
あくまでも仮定のお話でありますが・・・
『勲子を召しているのは、まだ幼年の鳥羽帝ではなく、祖父の白河院ではないか![]()
』
白河院は自らの女御だった師子を臣下である忠実に与えた(実は、白河院には後宮の女性を臣下に下げ渡した例が数多あります
)
(平清盛の母もその1つであった可能性があります
)
でも師子の事が忘れられず、『代わりに娘の勲子を我が者にしてしまおう
』という邪まな考えが浮かび、この度の入内話が出て来た![]()
師子は以前、白河院に仕えていた事もあり、院の艶福ぶりをよく知悉していました
(恐らく・・・)
『娘を白河院の毒牙に掛けられるのは、我慢ならない
』
彼女は以上のような事情から、夫である忠実に今回の入内話を婉曲に断ってくれる様、懇願したと思われます![]()
忠実も摂関位就任以来、白河院政という『鳥籠の中の鳥ならぬ関白』状態を何とかして脱したい気持ちが強かったと思います![]()
妻師子が反対する理由は、院に対する生理的な嫌悪からである事は理解できた筈です
(実際、白河院にはその様な類の噂が実に多かったのです
その最大の物と言えたスキャンダルが、養女としていた藤原璋子との不純な関係でした
この話は別の機会に触れたいと思います
)
しかし、現実的な公卿政治家であった忠実は、娘を鳥羽帝に入内させる事のメリットを、的確に察知していました![]()
そのメリットについては次回にさせて頂きます![]()
タケ海舟
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