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清盛と藤原家成

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2012年01月16日12時19分13秒 | コメントなし | トラックバックなし

鳥羽院第一の寵臣藤原家成sign03

跳ねっ返りの平太君も、昨日の放送で元服をしましたねdelicious

さて、前回の放送では、清盛のこれからの人生に関わって来る人物が何人か登場して来ましたok

その中で、本日は忠盛・清盛親子と深い関係を結ぶ事になる、藤原家成(ふじわらのいえなり)についてお話させて頂きたいと思いますok

このブログでも、何回か触れていますが、家成の生家は、藤原北家の流れを汲む善勝寺流(ぜんしょうじりゅう)でありましたpaper

言うまでもなく、藤原北家の嫡流は、忠実・忠通父子の御堂流(摂関家)であり、清盛が誕生した12世紀前半に至って、実に多くの分家(庶流)を輩出していましたpaper

その中でも善勝寺流は、北家初代戻前(ふささき)の一子であった魚名(うおな)の子である、末茂(すえしげ)を祖とした一流でありましたhappy01

かなり、早い時期に北家嫡流から分かれた家であった為、平安王朝期にはなかなか出世の道筋が開けなかったのですが、院政黎明期の当主だった藤原隆経(ふじわらのたかつね)の妻親子(しんし)が白河天皇の乳母となった事が、この家に大きな転機をもたらしたのですnew

隆経と親子の間に生まれた顕季(あきすえ)は白河院の乳母子(乳兄弟)という立場から、院の篤い信任を受ける様になりましたok

彼は若年から多くの国司(受領)を歴任して、院に対する経済的な奉仕に努めましたpaper

院政期には多くの御願寺院(上皇や天皇・女院・内親王等の発意による)や御殿等の邸宅がたくさん造営されたのですが、それらにかかる一連の経済的な負担は、全て受領国司が負担していましたscissors

彼等は、多くの神社仏閣を建立した功績によって、受領の再任や転任、または位階や官位を上昇させるという恩恵に浴していましたgood

顕季は乳母子という院との身近な関係と、受領によって得られる財力を活かした経済的な院への奉仕を土台として、善勝寺流を院近臣家の代表的な一家へと押し上げる事に成功しましたscissors

長治元年(1104)には従三位に任じられ、約200年ぶりに善勝寺流に公卿の座をもたらしましたhappy01

彼は保安4年(1123)、乳母兄弟白河院に先立って、68歳で亡くなりましたが、彼の勢力は彼の息子達の長実(ながざね)・家保(いえやす)達に受け継がれましたhappy01

長男の長実は父同様、白河院側近として近侍sign01大国受領(伊予・播磨国)を歴任後、白河院死後の大治5年(1130)には正三位権大納言に任じられましたhappy01(清盛第1回の放送で国広富之さんが演じていた人物ですshine

彼の掌中の珠こそが、後の鳥羽院皇后美福門院得子(びふくもんいんとくし)でありますsign03

次男の家保も豊富な受領経験を経て、長承3年(1134)に従三位参議に就任sign01兄長実共々公卿昇任を果たしましたok

また、白河院庁別当として院近臣の中で重きを為し、長承2年(1133)の長実の死後は、善勝寺嫡流の地位を得る事になり、鳥羽院政期においてもその勢威は止まる事を知りませんでしたhappy01

その家保の嫡男が、家成でありましたdiamond

劇中で、家成が清盛の烏帽子親の役割を果たしていましたhappy01実際に、家成が伊勢平氏嫡男の加冠の役を務めたかどうかは不明ですが、そういう事があっても不思議がない程、伊勢平氏と藤原善勝寺流との関係は親密になっていましたpaper

清盛の祖父正盛は、自身の本拠地にあった伊賀国靹田荘を荘園として、白河院に寄進した事によって、院とのパイプを作った話を、以前させて頂いたのですが、この時、正盛と院との間を仲介した人物が、家成の祖父顕季と祇園女御であったといわれていますnew

当時、院(白河・鳥羽院共通ですが)は、自身の経済的な基盤を強化する為に、多くの私有地(荘園)を集積していましたhappy01

強大な財政基盤を形成する為に、全国津々浦々から荘園が寄進されたのですが、院近臣としてこの荘園立荘と集積に大きな役割を果たした人物こそが、藤原家成でしたok

また、院の広大な荘園を管理、またはその地の治安を維持する警察組織として武士の存在が注目されてましたhappy01

白河院初期の頃、正盛は伊賀国における自身の地位を盤石なものにする目的で、自領を院荘園として拠出するとともに、その地の現地の役人(荘官)という立場を中央より保障して貰っていたのですscissors(当然、現地の治安部隊という役割も請け負った事は言うまでもありませんねhappy01

こうして出来た院とのパイプ作りに多大なる援助を行ったと思われる祇園女御と、善勝寺流家との連携は伊勢平氏が『王家の守護人』しての不動の信頼を得る上で、大きな意味を持っていましたflair

何故大きな意味かsign02といいますと・・・

実は清盛の継母宗子(池の禅尼)の父は、院近臣藤原宗兼(ふじわらのむねかね)の娘でしたが、彼女の叔母(この女性の名前も宗子?というみたいですが詳細は不明)に、堀河天皇の後宮に入った後に藤原家保と再婚した女性がいましたnew

この女性と家保との間に生まれたのが、家成であり、忠盛正妻の宗子と家成は従兄妹同士という事になる訳ですshine

したがって、宗子が後妻に入った伊勢平氏と善勝寺流家は姻戚関係を結んでおり、若い頃の清盛は頻繁に家成の邸宅に出入りしていたのではと考えられますscissors

ところで、家成は嘉承2年(1107)生まれ、清盛は元永元年(1118)生まれですので、両者には11年程の年の開きがありましたdelicious兄のいなかった清盛にとっては、家成は頼れる兄さん的存在だったかもしれませんねhappy02

更に、この後両家で結ばる事になる、清盛の子供たちと家成との子供たちとの間に幾重にも結ばれる閨閥は、平氏政権の重要な布石となるのですgood

お話が少し先走りましたが・・・coldsweats01

鳥羽院が本格的に院政を開始した数年後の長承3年(1134)、家成の従兄妹に当たる藤原得子が、鳥羽院の寵愛を受け、後宮に一大勢力を形成した時、家成は彼女の実家善勝寺流を代表する得子陣営の参謀として、その采配を振るう事になるのですhappy01

この事は、白河院という大きな後ろ盾を失った待賢門院璋子勢力との軋轢を惹起させ、白河院によって逼塞せしめられていた前関白忠実の復権とともに、王家を二分するドロ沼の怨念の争いが始まるのでしたwobbly

忠盛を棟梁とする伊勢平氏は、難しい政界遊泳を迫られる事になるのですshock

今回はここまでにしますsoon

 

 

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