January 2012
殿上闇討ち事件の背景
前回の放送では、忠盛の昇殿を巡る、様々な人間模様が描かれていました![]()
昇殿とは、帝の日常の住居である清涼殿(せいりょうでん)への出入が、許される事を意味していました![]()
そして、昇殿を許された人達は、殿上人(でんじょうびと)と呼ばれました![]()
帝が日常居住している御殿に自由に入れる事は、そのまま、直接帝に拝謁できる事でもあり、大変な名誉であると共に、多くの貴族たちが目指す目標でもあったのです![]()
また、朝廷の上級貴族である公卿(1位~3位)には、公卿の特権として昇殿が認められていました![]()
つまり、公卿になると自動的に昇殿が認められる訳です![]()
貴族たちのステータスは、まず公卿(朝廷の政治に参加できる議政官
今でいう内閣閣僚みたいな物でしょうか
)になる事を目標とする![]()
それが叶わなければ、殿上人として、王家と私的な主従関係を結ぶ事によって、出世の道を開く![]()
もう少し、簡単な言い方をするならば、貴族にとって、公卿は公的なステータスであるのに対して、殿上人は私的なそれに当たるといえるのではないのでしょうか![]()
ちなみに、殿上人になる為のもう一つの窓口として、治天の君(院)の居住する院御所への昇殿がありました![]()
源氏と平氏の中で、最初に昇殿が許されたのは、源氏の方で、八幡太郎義家(為義の祖父)が白河院の御所に出入りを認められた院殿上人に任命されました
(彼は本来の殿上人とされる、清涼殿の昇殿は認められませんでした
)
義家の推挙から数十年後、平忠盛が、伊勢平氏としては勿論、武士として初めて清涼殿への昇殿を認められたのです![]()
摂関政治全盛期から院政期にかけて、貴族の家格が次第に固定化されて来ていました![]()
藤原道長の御堂流が代々、摂政と関白を出す摂関家としての家格を確定させたのも、この時期でした![]()
従って、政治に直接参加できる公卿になれる家(3位まで)とか、諸大夫(しょたいふ4位~5位)までしかなれない家等という様に、中央政界に身を置く貴族達の家格(つまり、どれくらいの位階や官職に就けるかという事
)が、固定化傾向にあったのです![]()
源氏や平氏に代表される、当時の武士(侍)階級は、上手くいっても5位、普通なら6位以下が相場でした![]()
上級貴族たちは、院や摂関家の侍(さむらい)として奉仕する彼等を、『侍品(さぶらいほん)』といって軽蔑していました![]()
その侍品といわれていた武士であった伊勢平氏の忠盛が、なんと正四位下の位階を有しながら、清涼殿の殿上人となったのです![]()
鳥羽院の大抜擢であった事は言うまでもありません
父正盛以来親子二代に亘る、王家への忠節少なからず
と認められた訳です![]()
伊勢平氏は、受領任命や海賊退治等の結果、獲得した権益や莫大な富を駆使して、院への奉仕に専心しました![]()
忠盛が鳥羽院の為に建立した、得長寿院(とくちょうじゅいん)観音堂は、その代表的な経済的奉仕でありました![]()
天承2年(1132)、その功績によって、彼は武士最初の殿上人という栄誉を得る事ができました![]()
この時の忠盛の位階は、前述したとおり、正四位下でした
最大の目標である公卿になる為のラインと言われていた従三位までには、まだ大きな壁があったのです![]()
実は、正四位下のすぐ上の位階は、正四位上でありました
しかし、この正四位上は通常飛び越され、公卿になる場合は、正四位下から一気に、従三位になる事が慣例となっていました![]()
(もっとも、公卿の定員がいっぱいの為、公卿目前の人物を待機させるという控えの位階として稀に、正四位上に任命される事もありましたが
)
武士(彼等も厳密に云えば貴族であり、軍事貴族という歴史用語が用いられています)が公卿になるには、まだ少しの時が必要でしたが、忠盛は武士の昇殿という新たな道を、堂々と切り開いたのです![]()
当然ながら、特権階級であった既存の公卿や貴族たちの反感は強いものでした![]()
殿上闇討ち事件は平家物語でも冒頭で取り上げられていますが、闇討ちといっても、本当に相手の命を奪うものではなく、新参者に対する先輩連中の冷やかしまたは、嫌がらせといった方が当てはまるかもしれません![]()
この時代にはよくある事だったみたいですが、軍事貴族初めての殿上人という事で、周りの反感も強かったのでしょう![]()
そこで、忠盛は木刀に銀箔を張り付けて、真刀を抜いた様に見せかけて、嫌がらせをしようとした先輩達を威嚇したのでしょう
(殿中では抜刀禁止でしたからね
)
平家物語でお馴染みの場面でありますが、当時の固定された貴族社会に敢然と挑戦しようとした忠盛を代表とする軍事貴族と、彼等を押さえつけようとする既存貴族達とのせめぎ合いといって良いかもしれません![]()
こうして、院の武力としての第一人者の地位を築き上げた伊勢平氏に対して、源為義を棟梁とする河内源氏は全く、精彩を欠いていました![]()
為義は白河・鳥羽両院に頻りに取り入ろうとしていたのですが、河内源氏内部の内紛や彼自身の政治的過失が原因で、伊勢平氏との差はますます広がるばかりでした![]()
数々の不手際で、鳥羽院から見放され、失意のどん底にいた為義に対して、救いの手を差し伸べた人物がいました![]()
その人物とは、藤原摂関家の大殿(おおとの)忠実でした![]()
このお話の続きは次回にします![]()
[ 2012年01月31日15時13分37秒 ]
源氏の内紛(義家と義綱)
ゴタゴタ続きで、勢力を失っていった河内源氏
源義親の乱は、伊勢平氏の未来の発展をもたらした嚆矢となったのですが、逆説的に言えば、それまで武士の最有力者であった河内源氏が、身内同士の内紛や不祥事によって、自滅的な凋落をしてしまった事を意味していました![]()
振り返ってみると、義家の後三年の役鎮圧の不手際から、河内源氏の勢いは下り坂になったと考えられます![]()
義家が陸奥守として反乱鎮圧に悪戦苦闘していた頃、彼の次弟の義綱は、京都で摂関家に近侍しており、関白師実・師通父子の第一の側近としての地位を固めつつありました![]()
乱の鎮圧したにも拘わらず、陸奥守を罷免されて都に帰って来た義家は、自分が陸奥で苦闘していた隙に、いつの間にか摂関家に取り入っていた同母弟に対して、怒りを覚えていたかもしれません![]()
彼が陸奥で戦っている時、朝廷はこの奥羽地方の反乱を、義家と清原氏との私戦と見なしていました![]()
勝手に戦線を拡大した義家(朝廷やそう考えていました)に対して、朝廷は援軍を送る事をしませんでした![]()
のみならずか、陸奥に救援に赴く事を禁じたのです![]()
義家の三弟だった義光は、この時官位を投げ打って、兄の救援に赴きました![]()
彼の行動が果たして純粋に兄を思う気持ちであったどうかはわかりませんが、この時義家は涙を流して喜んだといわれています![]()
それに引き換え、もう一人の弟の義綱は、義家への援軍派遣を認めなかった摂関家に接近していたのです![]()
当然、戻ってきた義家と義綱兄弟は反目する事になります![]()
義家の方はどちらかというと、王家の武の側近として仕えていました
しかし、前述した通り陸奥守として現地豪族の内紛を調停できなかったばかりか、却って大きな戦を引き起こしてしまい、挙句の果てに国司の最大の任務であった朝廷への貢物を上納を、長期間延滞させてしまった義家の能力を問題視する声が、宮中には広まっていました![]()
流石の白河院も表だって、義家を庇えず、暫く彼は、不遇の立場に置かれる事になります![]()
反対に義綱の方は、王家と潜在的な競合関係にあった摂関家の庇護を受けていました![]()
当時は堀河天皇の下、実父であった白河院の政治介入さえも峻拒した、実力関白師通の引き立てもあり、義綱は寛治7年(1093)、義家が以前、任官していた陸奥守に任命されました
そして、現地で反乱鎮圧に成功した(兄とはえらい違いだ・・・)功績で、従四位上となり、位階の上では兄義家に並びました
更に、嘉保2年(1095)には陸奥守より上席の美濃守に任命されました
元陸奥守であった義家を遂に、官位でも凌駕したのです![]()
そのまま、平穏に推移したら、河内源氏の棟梁の座はまず、間違いなく義綱の物となった筈でした![]()
ところが、比叡山延暦寺の強訴に対して、断固たる態度を示した師通が急死した事により、政治情勢は大きく変転しました![]()
その余波は、対立していた源氏兄弟にも及んだのでした![]()
摂関家の側近だった、義綱はこの出来事を境に、権威を失墜させてしまいます![]()
延暦寺強訴の直接の原因は、美濃国内にあった同寺の荘園を巡って、同地の受領であった義綱との争いが端緒でした
しかも義綱は、強訴の僧兵たちを直接、撃退した当事者でもあり、その事が彼の主君師通を頓死させたのだと信じられたからです
(当時は迷信が固く信じられていました
この事が義綱にとって致命傷となりました
)
対照的に、鳴りを潜めてい義家が、政治の主導権を取り戻した白河院の庇護によって、復権を果たしていったのです![]()
![]()
この続きは、次回にお話しさせて頂きます![]()
[ 2012年01月27日17時39分56秒 ]
躍進する平氏。凋落する源氏。
康和4年(1102)、任国の対馬国で乱暴を働いた罪で、源義親は、隠岐国に配流処分となりました![]()
父義家の嘆願による赦免を期待していたのでしょうか
義親は、一応隠岐島に向かいました![]()
ところが、肝心の義家が嘉承元年(1106)に病死してしまったのです![]()
義家の死は義親にとって大変な打撃となりました
最早、彼の減刑の為に奔走してくれる人物は中央政界にはいませんでした![]()
のみならず、義家は死去直前に河内源氏の後継者を弟の義忠(よしただ)にするという遺言を残していました![]()
赦免の道は閉ざされたのみならず、源氏の棟梁たる道をも断たれた義親は半ば、自暴自棄状態に陥ってしまいました![]()
義家の死の翌年、義親は海を渡って対岸の出雲国に上陸
あろうことか、現地の目代(国司に代わって現地の行政に当たっている役人)を殺害してしまったのです![]()
国衙を占拠した義親は、公然と朝廷に反旗を翻しました
更に、国内並びに周辺の国においても彼に与党する勢力が出て来た為、事は深刻さを増していました![]()
義親は、対馬守時代にも召喚命令を奉じて来た官使を殺害しており、今回更なる罪状を起こしては最早、情状酌量の余地等ありませんでした![]()
朝廷は即座に義親追討を決定しました
最初に追討命令を受けたのは義家に代わって河内源氏の棟梁となった義忠でしたが、彼は兄を討つ事を躊躇した為、当時出雲国の隣国の因幡守であった平正盛に義親討伐を命じました![]()
実はあまり知られていないのですが、義忠の妻はこの正盛の娘でありました
つまり、正盛は義忠の舅に当たる訳です
(源氏と平氏との棟梁同士の婚姻で非常に注目されますが、義忠が早世した為か、歴史的にはあまり大きな効果をもたらす事はありませんでした
)
正盛が追討使に選ばれた理由は、隣国の国司で、討伐軍の動員が速やかに行える利点もあったからと考えられますが、源氏棟梁義忠が本来果たすべきの任務を、舅である平氏棟梁の正盛が果たしたという事も言えるかと思われます![]()
義親が反乱を起こした嘉承2年(1107)の末、正盛は出雲国に乗り込み、翌年1月には早くも義親の首を挙げたという報告が朝廷に入りました![]()
『八幡太郎義家の嫡男で、しかもあの勇猛かつ乱暴者だったあの義親が、討伐を受けてわずか1か月で打ち取られるとは・・・とても信じられない
』
都の公卿たちの多くは、情報の真偽を疑ったみたいですが、白河院は正盛の功績を認め、直ちに彼を因幡守から1ランク上の大国但馬守に昇任させました![]()
間もなく、義親の首を携えた正盛の軍勢が都に凱旋しました![]()
源氏随一の武者であった義親を一撃の下に葬った伊勢平氏の棟梁正盛の勇名は、たちまちの内に広がりました![]()
しかも、当時『最下品』という低い身分(5位程度という身分)であった正盛が、受領国司の中でも上国となる但馬守に選任された事は、大変な抜擢人事でありました![]()
白河院はこうした先例を無視した人事を、その治世中(特に院政期)に、しばしば断行 しており、関白藤原忠実の側近だった藤原宗忠は、その日記『中右記』の中で、この前代未聞の人事を酷評しています![]()
それはともかく、源義親の乱は、朝廷の象牙として武の中核をなしていた河内源氏の衰退を決定的な物にしました![]()
それに対して、平正盛を棟梁として推戴した伊勢平氏は、白河院の信頼を得て、源氏に代わって、武門の主役の座に就いた事を世間に証明して見せたのでした![]()
既に正盛は白河院近臣の藤原為房(ふじわらのためふさ)(勧修寺流)や院の乳母子であった藤原顕季に接近、彼等の仲介や後援を受けて、伊賀国の自領を荘園として白河院に奇進
院の信頼を得る事に成功していました![]()
この荘園の奇進先は、白河院の愛娘で20歳で亡くなった郁芳門院の菩提寺六条院でした![]()
彼女の死の悲しみの余り、院は出家したといわれていますので、娘の思い出の残った六条院への荘園奇進は、実に効果的でありました![]()
その報酬として彼は若狭守(現福井県)に任じられ、更に都の検非違使等を務めるなど、院への奉仕に努めていました![]()
その様な地道な努力を重ねた正盛にとっては、義親の乱はまさに僥倖であったと言えるのではないのでしょうか![]()
さて、一方で、衰退を始めた河内源氏のその後ですが、次回にお話しさせて頂きます![]()
[ 2012年01月26日15時28分40秒 ]
院政下における源氏と平氏
ドラマでは清盛と義朝が初めて、相まみえるシーンが出て来ましたね![]()
まだ、二人は共に、御曹司という立場であり、棟梁は彼等のそれぞれの父親達でありました![]()
白河院が崩御して鳥羽院の新たな院政がスタートを切ったのですが、この時期の源氏と平氏の力関係は圧倒的に平氏が有利に展開していました![]()
本日はその前史ともいうべき、源氏と平氏の角逐についてお話したいと思います![]()
摂関政治全盛期の11世紀前半から中盤にかけて、摂関家の用人棒として仕えていたのは源氏の方でした![]()
源満仲(みなもとのみつなか)は藤原摂関家が政敵打倒の為に仕掛けたとされる安和の変では、火付け役の密告役を務めました
彼の子供達の頼光(よりみつ)・頼親(よりちか)・頼信(よりのぶ)兄弟達も藤原道長・頼通親子に仕え、武力のみの奉仕ばかりではなく、経済的な奉仕も頻繁に行い、彼等の信頼を得る事に成功していました![]()
一方の桓武平氏は、源氏より早く東国に進出
地盤を広げて行きました
一族同士の内紛より端を発した10世紀の平将門(たいらのまさかど)の乱が勃発したりしましたが、同族の貞盛(さだもり・彼が伊勢平氏の祖となります)がこれを鎮圧しました![]()
以後平氏は東国に加えて、伊勢国・伊賀国にも新たな拠点を作っていました![]()
さて、源氏も前述した摂関家とのコネクションを活かし、頼光は摂津源氏、頼親は大和源氏、頼信は河内源氏のそれぞれ祖となりました
彼等は何れも京都近郊の国に地盤を有しており、中央政界との密接な関係を維持していました![]()
義朝が属していた家は、頼信の河内源氏でした![]()
頼信とその嫡男であった頼義は、11世紀初頭に東国で起きた平忠常(たいらのただつね)の鎮圧に成功(忠常はこの乱をおこす前より頼信と主従関係を結んでいました
主君自らが鎮圧に出向いてきた事を知った彼は、鎮圧先任者に激しく抵抗していた従来の姿勢を180度転換
直ちに降服したのです
)
東国に3年以上に亘って起きた大乱で、主戦場となった房総半島は荒れ地と化したと言われています![]()
その大きな反乱を戦闘を交えずに終結させた頼信の名声は、当然の事ながら高まりました![]()
これに対して、従来東国に基盤を築いていた平氏は、乱を起こした忠常を一族の直方(なおかた)が朝廷の命を受けて討伐に当たったのですが、利害関係のあった忠常の抵抗は凄まじく結局、平定に失敗してしまいます![]()
乱後東国における平氏の権威失墜を恐れた直方は、自分の娘の婿に頼信嫡男の頼義を迎え、自身の鎌倉の屋敷を与え、平氏が代々培っていた地盤と権威を頼義に譲渡しました![]()
ちなみに、この娘と頼義との間に生まれたの嫡男が、有名な八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)です![]()
またこの直方の系統は平氏の嫡流的な存在でしたが、この反乱の鎮圧失敗の為か、以後平氏は東国の地盤から撤退していきます・・・
代わりに有力な存在となるのが、伊勢伊賀を本拠とした伊勢平氏(清盛の祖)であります![]()
東国進出の足がかりをつかんだ源氏は、11世紀半ばと後半に、奥羽で起きた前九年・後三年の役を現地地方官である陸奥守として、それぞれ鎮圧する事に成功しました
しかし後三年の合戦は、地元の豪族清原氏の内紛に陸奥守義家が勝手に介入した云わば、私戦であると朝廷に判断されました![]()
更に、在任中に朝廷に送る年貢(奥羽地方の名産は砂金ですね)を滞らせたという科を受け、義家は陸奥守を事実上、解任されてしまいました![]()
頼信・頼義・義家三代に亘って、東国や奥羽に勢力を広げようという河内源氏の努力は、こうして水泡に帰してしまったのです![]()
失意のうちに帰京した義家でしたが、同母弟義綱(よしつな)との棟梁の座を巡っての争いが勃発![]()
兄弟が都であわや合戦に及ぶという危機もあったのです![]()
義家が白河院の院殿上人として王家の支援を受けていたのに対して、義綱は摂関家に奉仕していました![]()
白河院政が未だ確立しない状況下、当時の摂関家は強力な政治力を発揮していた師通が関白を務めており、当時の堀河天皇を挟んだ対立関係の中に源氏兄弟が組み込まれていたのです![]()
さて、その頃の平氏なのですが、伊勢伊賀国の所領を巡って、一族間で内紛を繰り返し、すっかり勢力を失っていました![]()
同時期の源頼義や義家が位階で正四位上または正四位下に、官位においても反乱の恐れがある陸奥や出羽国の国司や軍事的色彩の強い鎮守府将軍を務めているのに比べ、平氏の歴代はせいぜい従四位・五位止まりで、都で検非違使や衛門府等の武官や、良くても小国の国司またはその郎従として現地に赴任する位が関の山でした![]()
その中で、伊勢平氏の庶流だった清盛の流れが、次第に台頭していきます![]()
同時に、平氏には追い風が吹いていました![]()
中央政界で先頭ランナーとして走っていた源氏が義家と義綱との棟梁争い
更には、義家嫡男の義親(よしちか)の西国における乱暴・狼藉等ですっかり朝廷の信頼を失っていたのです・・・![]()
白河院はあくまでも、源氏を擁護する姿勢を変えず、任国対馬で問題を起こしていた義親を父義家に命じて召還させようと試みました![]()
ところが、親の心または院の温情等全く、関知せずだったのか、義親は説得に赴いた義家家臣と一緒に、なんと朝廷からの召喚使を殺害してしまったのです![]()
温情が裏切られた形となった白河院は、義親を解任
直ちに、隠岐島配流を決定しました![]()
義親は反抗の姿勢を見せたのですが、老父義家の懸命な説得もあったのでしょうか![]()
大人しく隠岐に赴く事を承知しました![]()
非は義親自身にある事は言うまでもありません
ただ、乱暴で知られた義親が沙汰に従ったのは、恐らく父義家の奔走によって、短期間のうちに自らが赦免されると予測した故かもしれません![]()
ところが、事態は義親に最悪の目と与え、尚且、破滅の選択を採らせてしまいます![]()
そして、それこそが、伊勢平氏興隆の端緒となったのです![]()
続きは次回とさせて頂きます![]()
[ 2012年01月25日11時25分22秒 ]
摂関家の敗北
一敗地にまみれた摂関家
娘勲子の鳥羽院入内計画を、白河院と藤原璋子に出し抜かれた格好となった関白忠実は、計画の大幅な修正を余儀なくされました![]()
既に白河院は60半ばを超えていましたが、今だ健在ぶりを誇示していました![]()
忠実は当初期待していた院の寿命が尽きる
(崩御されるのを待っていた)事を期待していたのですが、その時期は一向に訪れませんでした![]()
その内に、忠実が毛嫌いしていた閑院流家出身の璋子は、入内間もなく、天皇の正室たる中宮となっていました![]()
更に2年後には、鳥羽院(白河院説もあり)との間に顕仁親王が誕生し、白河院を後見とした璋子とその実家の閑院流の勢力は宮廷内に確固たる地盤を築き上げつつありました![]()
この間、忠実は身の振り方が定まらない勲子の将来の幸福を願い、元永元年(1118)に伊勢大神宮に祈祷をさせたりしていましたが、事態が刻々と摂関家に不利になっていく状況に対して、何らかの行動を起こさなければならない必要に迫られていました![]()
『最早、白河院の崩御を待っている様な猶予はない
』
こうして、忠実は乾坤一擲の政治工作を開始します![]()
保安元年(1120)、彼は白河院が熊野行幸に出かけて不在の時を見計らい、鳥羽帝に娘勲子入内の話を、直接打診しました![]()
忠実は院は都を留守にしていたこのタイミングで鳥羽帝への工作を行った理由は、院が勲子入内に難色を示す事を十分知悉していからだと思われます![]()
白河院の後押しで先に入内した璋子は中宮となったばかりか、皇太子顕仁を産んでいました
近いうちの皇太子即位を念頭に入れていた院にしてみれば、今更勲子の入内を認める筈はなかったのです![]()
(先に院から勲子を鳥羽帝に入内させる様にという打診を固辞したのは、他ならぬ忠実でした
)
何故なら、摂関家出身の彼女が鳥羽院後宮に入る事は、中宮璋子の強力なライバルを誕生させる事になるからです![]()
摂関家嫡室出の娘の格式は高く、いくら璋子が院の後ろ盾を得ていたとしても、仮に勲子が皇子を出産したら、皇位を巡る深刻な対立を誘発する事が予測されたのです![]()
白河院の怒りを買う事は忠実もわかっていた筈です
しかし、ここで行動を起こさなければ、摂関家の政治的地位は完全に失墜してしまう![]()
忠実はそれだけの危機感を抱いていたのでしょう![]()
一方の打診された鳥羽院の方も、白河院からの政治的な掣肘を受け続ける事に、ある種の息苦しさを禁じ得なかったと思われます![]()
そろそろ院からの自立を企図していた矢先に、忠実から勲子入内の話が持ち掛けられたのです![]()
鳥羽院は渡りに船
といった心境で、摂関家嫡女との縁組に前向きな意思表示をしました![]()
こうして、水面下の交渉で鳥羽院と勲子の縁組は、当事者間での内定をみたのですが、この様な政治的均衡を崩しかねない入内話が白河院に漏れない訳はありませんでした![]()
当然ながら、忠実の画策を知った(通報者は反摂関家側の恐らく、璋子に近い筋からだと思われます)白河院は烈火の如く、怒りました![]()
諺の逆鱗に触れるという事はまさに、この時の忠実に対する白河院の怒りを指す言葉だと思います![]()
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熊野詣でから帰ってきた院は、即日忠実の内覧(ないらん)の職を停止してしまったのです![]()
この内覧とは、院や天皇に上奏される政治向きの書類を、やんごとなき貴人の目に触れる前に、事前に目を通す役割を指していました![]()
天皇・院に上奏される書類を見る事は、他の公卿達には許されず、一人、内覧に任じられている者のみに認められていました![]()
摂関政治における関白職は、成人した天皇の政務補佐役という立場でありました![]()
政務の補佐というのは、公卿会議で議論された議題の結論を参考に、天皇の最終決断の諮問に与り、協同して決裁に当たるという性質の物でした![]()
当然ながら、決裁を進める若しくは天皇親裁を補佐する為には、事前に上がってくる重要書類には絶対目を通さなければ内覧の役割はもちろん、関白の職務も務められなかったのです
(関白と内覧は同一人物が兼帯するのが原則でした
)
したがって、内覧をはく奪された忠実は、最早、関白を務める資格を失ったも同然でした![]()
これは白河院の事実上の不信任
関白辞職勧告でした![]()
白河院の怒りの凄まじさは、忠実の想定を遙かに超えるものだったのです![]()
ところで、忠実腹臣の公卿で、摂関家庶流中御門流(なかみかどりゅう)の藤原宗忠(ふじわらのむねただ)は、忠実の内覧罷免の急報を聞き、驚いて駆けつけました![]()
宗忠と対面した忠実は、ただひと言・・・
『運は尽きた
』と語ったと宗忠の日記『中右記』(ちゅうゆうき)には記されています![]()
一か八かの、勲子入内計画が見事に失敗した事を受けての言葉だったのでしょうか
それとも、白河院の心の内を読み違えた(仮に反対されても、粘り強く交渉を続けば入内は実現するだろうと忠実は見越していたかもしれません
)事に対する後悔であったのでしょうか
真相はわかりません![]()
ただ、忠実はこれ以上摂関家の政治的立場を悪化させてはならないと思ったのでしょう
直ちに摂関当主である氏長者(うじのちょうじゃ)の地位を嫡男忠通に譲り、自身は祖先頼通所縁の地である宇治の地にて、謹慎生活に入りました![]()
仮にも摂政・関白を経験した人物が罷免されたとはいえ(王家による関白更迭自体前代未聞でした
)、平安京内での生活が出来なかったのです
(白河院の無言の圧力もあった筈です)
この忠実解任によって、白河院の専制体制は、完成したと見て間違いないでしょう![]()
もっとも、院は後任の関白を忠通ではなく、摂関家傍流藤原家忠(ふじわらのいえただ)(師実次男。忠実叔父)を任命しようとしたのですが、院近臣で『夜の関白』という異名を取った藤原顕隆(ふじわらのあきたか)の諫言によって、忠通の関白継承を認めました
院の摂関家御堂流に対する根強い不信感が垣間見られますね![]()
こうして、失脚の憂き目を見た忠実は、宇治での閑居生活に入る事になりました![]()
彼の謹慎生活は、約10年もの長期に亘りました![]()
大治4年(1129)の白河院の崩御まで、遂に赦免される事はなかったのでした![]()
一説によると、院は『忠実を政界に復帰させてはならない
勲子の鳥羽帝への入内は絶対許さない
』と厳命したといわれています
(物凄い怒りですね・・・
)
さて、忠実ですが・・・
本来なら政治生命を断たれた訳ですので、出家して俗世と縁を切る事も選択肢の中にはあった筈です![]()
しかし、忠実は幽居中、遂に出家をしませんでした![]()
それどころか、都にいる忠通に様々な指示を送り、裏側から新米関白を後見していました![]()
白河院も怪物ですが、忠実もなかなかの強者(つわもの)ですね![]()
『余は決してあきらめない
摂関家の権威を再興させる日を迎える迄は
』
こうして、忠実は長い雌伏の時期を宇治で過ごす事になります![]()
しかし、運はまだ忠実を見捨ててはいませんでした![]()
白河院崩御後、鳥羽院新体制が始まったからです![]()
忠実と白河院との確執のお話はひとまず、ここで終わります![]()
次回からは鳥羽院を巡る王家の確執についてお話していきたいと思います![]()
[ 2012年01月24日10時38分24秒 ]
白河院から鳥羽院へ
ドラマでは現の物怪(うつつもののけ)こと白河院が76歳という長寿を以て、崩御されました![]()
天皇として14年
そして、堀河・鳥羽・崇徳三代の天皇の時代である43年間![]()
実に半世紀以上、治天の君(王家の家長)として君臨した文字通り、中世を切り開いた帝王でした![]()
加茂川の水・双六の賽の目・比叡山の山法師![]()
上記は、白河院が生前自らの思い通りにならないと嘆いた、『三大不如意』として有名ですが、専制君主であった院の権力の絶大さを物語る逸話ですね![]()
白河院が創設した院政の引き継いだのは、孫の鳥羽院でした![]()
鳥羽院(即位前は宗仁《むねひと》は、白河院と院の最愛の女性であった中宮藤原賢子との間に生まれた堀河天皇の第1皇子として、康和5年(1103)に誕生しました![]()
誕生してから1年以内に、親王宣下・立太子(皇太子)を済ませ、嘉承2年(1107)に崩御した父堀河帝の後を受けて、4歳で即位しました
(祖父白河院の強力な後押しがあった事は言うまでもありません
)
まだ幼年での受禅であったので、当然ながら自らの判断で政治を行う事は不可能だった為、祖父白河院が依然として院政の名の下、実権を握り続けていました![]()
14歳になった永久5年(1117)に、祖父白河院の養女藤原璋子を女御として迎えました![]()
元永2年(1119)に両者の間に第1皇子顕仁(あきひと)が誕生しましたが、4年後の保安4年(1123)に白河院は、とんでもない挙に出てしまいます![]()
4歳になったばかりの曾孫顕仁を鳥羽帝の皇太子に立てた即日、鳥羽院を譲位させ、顕仁を践祚させたのです![]()
父君であった鳥羽院はこの時、まだ20歳でした
いくら何でも退位するには些か、若過ぎであった事は否めません![]()
何故、白河院は孫の鳥羽院を退位させ、曾孫でまだ幼子に過ぎない顕仁を即位させたのでしょうか![]()
顕仁が白河院の子供であるという噂(風評。ドラマでは公然の事実と扱われていますが・・・タケ海舟は顕仁親王は鳥羽院の子供だと思っています
)は考慮に入れずに推測しますと・・・
鳥羽院が、自分で政治を執る事が可能な20歳になった事が大きな理由だったのではないかと思われます![]()
実は院政という政治システムの重要な要素の1つとして、天皇が幼年または、病弱で政治を行えない(若しくは政治に無関心)状態である事が望ましかったのです![]()
白河院はその長い政治キャリアにおける2つの経験から、その重要性を実によく認識していました![]()
最初の経験は、わが子堀河天皇との問題でした![]()
白河天皇は応徳3年(1087)、34歳の壮年で皇太子善仁(たるひと)親王に譲位しました![]()
善仁親王(即ち堀河天皇)は、この時8歳でした![]()
上皇となった白河院は、摂関家師実(堀河天皇外戚)と協調して若き天皇を後見していたのですが、やがて20代を迎えた天皇は、次第に政治への意欲を見せ始めました![]()
同時に摂関家でも師実が引退
嫡男の師通が関白を引き継ぎました
若い天皇と新関白による政治刷新の風が吹く中、白河院の政治的影響力は減退しつつあったのです![]()
この状況に変化を起こしたのが、康和元年(1099)の師通の急死でした![]()
摂関家の後継者忠実はまだ20代そこそこの若年、若い天皇を補佐するにはあまりにも、経験不足でした![]()
そこで、父院である白河院の復権という道が開かれたのです![]()
但し、既に成人に達していた堀河天皇と院との関係は微妙な物になっていました![]()
その様な情勢が8年ほど続いた嘉承2年(1107)に病弱だった堀河帝は、28歳で崩御されてしまいました![]()
堀河帝は、鐘愛の第1皇女郁芳門院(いくほうもんいん)とともに、中宮賢子出生の白河院愛息でありました![]()
白河院の悲しみは深かったと思いますが、既に嫡孫の宗仁親王が誕生していました![]()
確かに院にとって、堀河帝の早世は、悲しみに包まれた痛恨の出来事であった筈ですが、別の側面から見つめ直してみると、成人した天皇との対立が今後、更に深まる事も十分考えられたと思われます![]()
その面では、わが子の死は皮肉にも、院政を継続させる上での懸念材料がなくなった事を意味していました![]()
(今も昔も、政治の世界は残酷ですね
)
院政という変則的な政治システムを継続していく為には、政治に対して意欲旺盛な天皇の存在は却って、障害物になる危険を孕んでいたのです![]()
この問題を解決するには、幼帝を即位させその後見として院政を行い、天皇が成年に達した時には退位させ、新たな幼帝を即位させるという、天皇位の自転車操業を繰り返す事が不可欠になります・・・
(自転車操業とは失礼な言葉を使ってしまいました・・・
)
そして、この時に白河院が経験した教訓が、20歳を迎えた孫鳥羽帝の半ば強制的な譲位と、4歳になったばかりの顕仁親王の即位という強硬手段を採らせたのではないのでしょうか![]()
しかし、タケ海舟は白河院が鳥羽院を退位させた理由はもう1つあったと思っています![]()
それは、堀河帝の前例と同じ、摂関家と鳥羽帝との急速な接近でありました![]()
次回は、そのお話をさせて頂きます![]()
[ 2012年01月23日14時35分56秒 ]
院政期最大のスキャンダル!
当初から取り沙汰された白河院と璋子の関係
さて・・・
忠実が日記にて言及していた璋子の噂についてお話します![]()
実は白河院の養女となっていた藤原璋子に関しては、以前より風評めいた噂が巡っていました![]()
噂の内容をひと言で表現すれば、彼女の奔放な異性関係でありました![]()
璋子の最初の嫁ぎ先候補として挙がったのは、摂関家嫡男忠通であったのですが、実はこのお話が表面化する前より、彼女の異性関係が既に、取り沙汰されていたのです![]()
この頃、璋子は複数の男性と恋愛交渉を持っていたみたいです![]()
具体的には、摂関家傍流公卿の息子や白河院の信任を受けていた僧侶の縁者だったみたいですが、程なく、その関係は消滅してしまいました![]()
璋子の奔放な恋愛関係を察知した養父白河院が、彼女と彼らとの仲を強引に引き裂いたのです![]()
璋子と関係を持った件の男性達は、中央政界からの左遷を余儀なくされました![]()
専制君主白河院の逆鱗に触れた故である事は言うまでもありません![]()
院にとっては関白嫡男に嫁ぐ事が決まっていた璋子の身辺を整理する必要性から、大ナタを振るったのでしょう![]()
ただ、当時の平安宮廷社会における男女の恋愛は近代・現在と比べて、かなり大らかでした![]()
一人の女性が同じ時期に、複数の男性と恋愛関係を持っていても、倫理的な問題にはありませんでした![]()
皆さんよくご存じの『源氏物語』でも、主人公光源氏は複数の女性と交渉を持っています![]()
当然、正室やその他の妻(妾)が既にいたとしても、恋愛の自由は保証されていました![]()
この恋愛の自由は、もちろん女性にも与えられていました![]()
従って、当時の空気から考えてみても、璋子の派手な恋愛事情についてそれ程、目くじらを立てる必要はなかった筈です![]()
白河院が璋子と恋仲になった男たちを罰した理由は、摂関家との婚姻に先立ったリスク撲滅策と考えれば、納得がいきます![]()
婿となる忠通の父忠実にとっては院の配慮に感謝するべきだったと考えられますが、周知の通り、彼はこの輿入れ話を固辞してしまいます![]()
なぜだったのでしょうか![]()
実は璋子の異性関係に纏わる噂は、まだ他にもあったのです![]()
その噂こそが、忠実が縁談を断った最大の理由だったのです![]()
白河院と藤原璋子は、義理の親子関係であったが、二人は密通している![]()
つまり、璋子は院の愛人であり、その関係は今尚、続いている![]()
この噂は、当時から宮廷社会に広まっていました![]()
信じられない話だと思われますが、この噂を知らない貴族たちはいなかったとされています![]()
(公然の秘密状態だったのでしょうか・・・
)
幼い時に実父閑院流藤原公実を失った璋子は、すぐ白河院と院の愛人祇園女御に引き取られ、養女として育てられました![]()
院にとっては、この幼子がとても愛おしかったのでしょう
『鐘愛する事甚だしき
』と伝えられてます![]()
やがて、璋子も美しく成長して行くにつれて、白河院の彼女への愛情は、娘への物から次第に一人の女性への物に変化していったのではないか![]()
その結果、いつしかこの義理の親子は、禁断の関係を結ぶようになった![]()
おそらく、当時出回っていた話は上記の様な物であったのでしょう![]()
もちろん、この話が本当であったかどうか・・・決定的な証拠は何一つありません![]()
しかし、いくらこの時代が恋愛に対して、大らかであったとしても、親と子(たとえ、血の繋がらない養子縁組であったとしても・・・)の間で、そのさまな関係を持つこと等、言語道断
とても容認される事ではありませんでした![]()
この醜聞は、後の時代である鎌倉期の説話集『古事談』に実に詳しく、かつ、赤裸々に描かれています![]()
更に、現在において、平安時代の有力な研究者(既に故人となられましたが)が詳細な調査によって
『璋子は白河院の愛人であった事は間違いない
』という見解を発表され、学界で大変な波紋を呼んだみたいです![]()
ところで、『古事談』には、忠実との縁談が破談となり、鳥羽帝(白河院孫)の女御として入内した璋子は、なおも白河院との関係を続けており、鳥羽帝との間に生まれた最初の皇子(顕仁《あきひと》)の誠の父親は、白河院で、彼等の周辺は真相を知っていたけれども、誰もが皆、黙して語らなかった![]()
更に、璋子の夫だった鳥羽帝は、何時からともなく、自身の妻と祖父院との不純な関係を知悉しており、生まれた顕仁親王の事を『あれは叔父子だ
私の子供ではない
』と近臣に吐き捨る様に言ったという記事が残されてます![]()
この顕仁親王こそ、後に悲劇の王といわれた崇徳院(すとくいん)でした![]()
『古事談』自体が、当事者がこの世を去ってしまった後の時代に書かれた文献である為、そのまま鵜呑みにする事はできないと思いますが、忠実の他に同時代を生きた公卿たちの日記にも、白河院と璋子との風聞に触れた記述が見受けられます
崇徳帝出生の秘密も併せて、事の真相は今となっては闇の中なのですが、この噂が白河院後の、院政を総覧する王家の内紛を引起す火種となった事は、厳然たる事実であったのです![]()
さて、関白忠実が院と璋子との噂を入手したのがいつ頃だったのかはわかりませんが、少なくとも嫡子忠通を璋子の婿にという話を受けた時点で状況を把握していたのでしょう![]()
風評が事実かどうかは別として、その様ないわく付きの女性を、自家の嫁(将来の摂関正室)として迎えてしまう事自体、とんでもない災いを摂関家に招いてしまう
と危惧したと思われます![]()
『冗談じゃない
院と関係が切れていないあんなとんでもない女を押し付けられてはたまらない
』
忠実はこの縁談を、百難あって一利無しと判断
婉曲に断りを入れたのでした![]()
(白河院が忠実に悪感情を持った事はおわかりでしょう
)
その璋子が、自分の娘勲子の結婚相手として想定していた鳥羽帝の女御に決定してしまった![]()
![]()
忠実はやり場のない怒りを(軽蔑していた女に鳥羽院妃の座をさらわれてしまった・・・
)自らの日記に書きつづるより他に自分を落ち着かせる術がなかったのでしょう![]()
『このままでは終われない・・・』
忠実は直ちに巻き返しを図る事を決断します![]()
それは保留状態にしていた娘勲子を、鳥羽帝の後宮に入れる計画を実現させる事でした![]()
しかし、焦りからなのか、忠実はある重要な事実を完全に見落としていました![]()
彼は、彼自身に対する白河院の恨みの深さを、考慮していませんでした![]()
次回はそのお話をさせて頂きます![]()
[ 2012年01月21日10時11分21秒 ]
璋子入内が巻き起こした波紋
日記に遺された璋子の良からぬ噂
永久5年(1117)、かねてより白河院と祇園女御に養われていた藤原璋子(後の待賢門院)が、鳥羽帝の女御として入内する事が決定しました![]()
この入内話は、当時の宮廷社会に大きな波紋を引き起こしました![]()
関白忠実は、娘の勲子を鳥羽帝に嫁がせる事を考えていました
(ただし、白河院崩御後《恐らく》を想定していた筈です
)
ところが、白河院は忠実の頭越しに璋子を鳥羽帝の后とする事を、独断で決めてしまいました![]()
この重要事項に関して、関白忠実は事前に諮問を受けていたかどうか分かりませんが、タケ海舟は専制君主白河院が天皇の最初の妻の選定に関して、忠実に相談した可能性は極めて薄いと考えています![]()
何故かといいますと、この時期白河院は、忠実に対して著しく感情を害していたからだと思われます![]()
白河院も摂関家の立場を院なりに重視していました
それ故、璋子を忠実の嫡男で将来の摂関と目されていた忠通に配そうと考えていました![]()
同じく、忠実嫡女の勲子を、孫である鳥羽帝の女御にしようとしたのも、王家と摂関家との紐帯を深めたいという意向の表れに他なりませんでした![]()
勿論、独裁者白河院でありますから、忠実同様に忠通迄も引き続き、自己のコントロール下に置こうと考えていた節は強かったと思いますが、摂関家との関係を円滑にする目的で持ち掛けた、2つの縁談であった筈です![]()
ところが、院の気持ちの内面を知ってか知らずか、忠実はこの2つの縁談を固辞してしまったのです
(当然忠実側には、固辞の理由があったのですが・・・)
君主の心、臣知らず![]()
自らの意図を察しない忠実に対する院の失望は、大きかったのではないのでしょうか![]()
何れにしても、件の2つの縁談について、院と摂関家双方で異なる思惑を有していた事が、後の忠実の関白罷免に繋がったと思われます![]()
さて、璋子入内を知らされた忠実ですが、かなり動揺した事は容易に窺い知れます![]()
実は、この辺りの事情について、他ならぬ忠実自身が自らの日記に書き残していました![]()
璋子入内が決まった年の永久5年12月付けの日記で、彼は璋子の事を悪しざまに罵っています![]()
『あの婦人は兎角、良くない噂が多く有り、それが恐れ多くも帝の女御とは世も末である
』
当時、王朝時代の貴族達には、日記を付ける習慣がありました![]()
その日にあった事を振り返るという意味で付けていた訳ではなく、朝廷で執り行われる政治向きの儀式についての覚書的な色彩を帯びていました![]()
当時の宮廷社会では、諸行事=政治でありました![]()
従って、様々な年中行事での段取りや所作等を覚える事が、宮廷政治家(貴族)の必須項目であったのです![]()
時によっては、諸行事は天皇臨席の許で行われる事もありましたので、御前で失態を演じたとしたら、本人自身の昇進または、その家の浮沈に直結したのでした
(事実、不首尾の為に天皇の不興を買い、官職を罷免された例も少なからずありました
)
そこで貴族たちは(特に上級貴族であった公卿)、朝廷で行われる複雑極まりない諸事儀式についてマニュアルを作成する必要に迫られ、その為の苦労の賜物が、それぞれの家に残された日記でありました![]()
つまり、貴族の日記は、自身が経験した宮中での公事(政治問題)や陣定(公卿会議)、除目(人事考課)や毎年行われる年中行事において、覚えておかなければならない重要項目を記録し、後に同じ様な局面に出くわした家の子孫達が困らない様にいう配慮から作成された教科書といってもよいかもしれません![]()
当然、貴族の頂点を占める藤原摂関家の歴代も、子孫の為に日記を遺していました![]()
忠実の偉大なる先祖だった道長の日記は、『御堂関白日記』と呼ばれています![]()
同じく父親の師通も『後二条師通記』という日記を遺していました![]()
そして、忠実の日記は『殿暦』と呼ばれています![]()
日記のお話で少々、脱線してしまいましたが、貴族の家におけるマニュアルまたは教科書(自習用といっていいかもしれませんね)でありますから、あまり長々とした記述はなく、どんな事があってその時こうしたとか云々といった具合で、極めて簡潔な書き方に終始していました
そこには、筆者自身の感想等が描かれる事はあまりなく、あったとしても、実に稀であったのです![]()
ところが、忠実はその様な性格を帯びていた日記『殿暦』に、鳥羽帝の女御となった藤原璋子に対する誹謗中傷を書き立てていたのです![]()
勲子入内の先を越されたという口惜しさもあったと思われますが、冷静な公卿政治家と言われた忠実にしてみれば些か、常軌を逸していました![]()
忠実が日記で触れていた璋子の良くない噂とは、果たして何を指していたのでしょうか![]()
この噂こそが、白河院崩御後の王家の分裂
更にはその結果、勃発した保元の乱の潜在的な要因でありました![]()
噂の真相については次回にさせて頂きます![]()
[ 2012年01月20日11時41分30秒 ]
摂関家再興の悲願
勲子入内話が引き起こしたボタンの掛け違い
さて・・・
忠実の方も頭から、勲子の鳥羽帝への入内を断る意向ではなかったと思われます![]()
そもそも、摂関家では藤原頼通娘の寛子(かんし)と彼の弟だった教通(のりみち)娘歓子(かんし)が当時の御冷泉天皇にそれぞれ入内して以来、生え抜きの女子の王家への輿入れが絶えて久しかったのです![]()
摂関政治が機能する要素として、次の3つが挙げられます![]()
①摂関家に多くの子女を置いておくこと
(王家に入内させる為)
②子女を王家に入内させて、皇子が生まれること![]()
③生まれた皇子を皇太子に立て、やがて即位させる![]()
一連のシステムが円滑かつ常時、機能したからこそ、道長の有名な『望月の歌』の逸話が生まれたのです![]()
しかし、このシステムはある重大な欠陥を有していました![]()
それは、①の要素が確立しないと、摂関政治は全く機能しなくなるという事でした![]()
摂関家に王家へ嫁がせる娘がいないと、いくら外戚関係を結ぼうとしてもどうにもならない訳ですね![]()
そのほころびは、道長死後にたちまちにして、訪れました![]()
道長子であった頼通・教通兄弟達を中心とした摂関家次世代には、切り札となる子女がほとんどいませんでした![]()
冒頭にもご紹介しましたが、両兄弟に一人ずつ娘がいて、同じ後冷泉天皇に嫁ぎやがて、中宮・皇后になったのですが、肝心の皇子が遂に誕生しませんでした![]()
慌てた摂関家は、本家ばかりではなく、摂関家庶流の娘も可能な限り入内させたのですが、成果は芳しくありませんでした![]()
結局、摂関家と外戚関係を有さない後三条天皇が即位する結果となり、摂関政治の全盛期は終わりを告げました![]()
新たに関白となった頼通の子師実は、後三条帝の後を継いだ白河院(生母は摂関家庶流の閑院流出身)との協調路線を目指し、自身の正妻麗子実家である村上源氏出身の賢子(麗子の姪)を養女として、院に入内させました![]()
彼女は摂関家出生の子供でなかったのですが、堀河帝を始め多くの子女を院との間に儲け、一時的とはいえ摂関家と王家との蜜月関係を復活させる事に大いに貢献を果たしました![]()
しかし、養女縁組をしたとはいえ、賢子は摂関家出生の娘ではありませんでした・・・![]()
白河院から譲位を受けた堀河帝の后は、閑院流家出身で、誕生したのが鳥羽帝でした
(師実嫡子師通には娘がいませんでした
)
師通子息の忠実には、幸い、正室師子出生の勲子がいたのです![]()
彼女を鳥羽帝の女御として入内させて、皇子を産ませ、その子が皇太子やがて皇位に就けば、忠実は晴れて、新天皇の外祖父として君臨
摂関政治を名実ともに復活させる事が出来るのです![]()
したがって、勲子入内の話は忠実並びに摂関家にとって、渡りに船的な魅力ある話だった筈です![]()
しかし、この話の依頼主が白河院だったのが、忠実の頭を悩ませました![]()
なぜか・・・![]()
忠実は勲子の入内話を、白河院主導ではなく、自らの主導で進めたいという願望がありました![]()
白河院が王家のオーナーとして政治の実権を掌握して以来、忠実は摂政・関白位を占めていたものの、実権はことごとく院に帰しており、忠実は名目上の存在でしかありませんでした![]()
院の政治介入は本来、摂関家の専決事項であった氏寺興福寺(こうふくじ)の首脳人事迄にも及んでいたのです![]()
忠実及び摂関家の面目は丸潰れでした![]()
なんとかして、院の巣窟から逃れて、政治的な自立を模索していた忠実にとっては、今回の鳥羽帝入内話は自らの、勢威挽回のチャンスになる可能性がありました![]()
しかし、目の上のたんこぶであった白河院の指示で入内を進めては、結局は院の政治的な束縛を引き続き受けなければならなくなる事を意味していました![]()
その様な輿入れでは、何の意味も持たなかったのです![]()
勲子を将来的に入内させる事は、摂関家の中期的な戦略として腹中に温めておき、忠実は彼女を嫁がせるに相応しい時節の到来を待つという方法を選択したのです![]()
その時期とは・・・![]()
①60代半ばに差し掛かった白河院の崩御または、高齢で王家のオーナーとして君臨出来なくなった時![]()
②まだ幼年の鳥羽帝が成長して自身で政治を行える年齢になった時![]()
であったと思われます![]()
こうして、忠実は白河院からの勲子入内話について明確な返事をしないまま放置しておいたのです![]()
その後、最初の打診から5年後の永久元年(1113)に、院より再度の入内の話があったのですが、これに対しても忠実は、前回同様に返事保留という煮え切らない態度に終始したのでした![]()
鳥羽帝は13歳になっており、忠実としては、もう少し時間が欲しいというのが正直な所だったのでしょうが・・・![]()
ところが![]()
事態は忠実の頭を殴りつける様な、とんでもない急展開をみせたのでした![]()
勲子2度目の入内話から5年が経過した永久5年(1117)、白河院養女の藤原璋子が鳥羽院女御として入内する事が決定したのです![]()
忠実にとっては、まさに青天の霹靂というべき出来事でした![]()
これには、冷静な現実政治家の忠実も、流石に理性を失ってしまいました![]()
その辺りのお話は次回にさせて頂きます![]()
[ 2012年01月18日11時51分32秒 ]
白河院と忠実との暗闘
さて、若き日の藤原忠実の恋の大一番に行方について・・・![]()
この時期、忠実はなんと、13歳でした![]()
![]()
当時は、祖父で摂関家大殿(摂関家の当主)の師実(もろざね)と、父で関白師通(もろみち)は、共に健在でした![]()
若き日の熱情が爆発した物と思われますが、相手は何と言っても、最高権力者の白河院の女御であり、迂闊な行動は憚られた筈です![]()
考えた挙句、忠実は祖母(師実正室)の麗子(れいし)に、白河院への斡旋を依頼したのでした![]()
麗子は村上源氏初代師房(もろふさ)と藤原道長娘の尊子(そんし)と間に生まれた嫡室出の娘で、従弟に当たる師実と結婚していました![]()
彼女の実兄顕房の娘が白河院の中宮賢子(けんし)であり、彼女は麗子の養女でもあったのです![]()
従って、白河院の義理の母親という立場にもあった訳で、彼女の力を借りて、自らの想いを遂げようとしたのです・・・![]()
義母に頼まれては流石の白河院もいやとは言えなかったみたいで、寵愛を受けていた件の女御は、寛治5年(1091)に忠実に嫁ぐ事になったのです![]()
この時、彼女は既に院の子供を宿していました
彼女は、皇子を出産後忠実の正室となったとされていますが、一説では、妊娠中に輿入れしたという話も伝わっています
(果たして、どちらか真相か
)
白河院との間に生まれた皇子は、生まれてすぐ、院に引き取られました
後に出家して、覚法法親王(かくほうほっしんのう)となり、仏教界の重鎮として知られた人物です![]()
忠実が院から拝領したこの女御こそ、彼の正室師子(しし)であったのです![]()
彼女は忠実よりかなり年上だったと思われますが、夫婦仲は睦ましく、勲子と忠通の二子を儲けていました![]()
その後、忠実も摂関家御堂流の当主となり、白河院の掣肘を受けてはいましたが、何とか関白の重職を務めていました![]()
そうした矢先に持ち上がったのが、白河院からの勲子入内話でした![]()
勲子の嫁ぎ先は、今上の帝である鳥羽天皇でした
彼女にとっては中宮・国母が約束された破格の話だったのですが、父忠実はこの話を固辞したのです![]()
何故か・・・
巷間伝わる所によると、この入内に最も強い難色を示したのは、忠実の正室で勲子生母の師子であったといわれています![]()
表向き、鳥羽院への輿入れとなっていましたが、師子にしてみれば母子二代続いて、白河院の恩寵を受ける事に対して忸怩たる思いがあったのではないかと・・・タケ海舟は推測しています![]()
また、表向きという表現を用いましたが、これは何を意味するのか![]()
あくまでも仮定のお話でありますが・・・
『勲子を召しているのは、まだ幼年の鳥羽帝ではなく、祖父の白河院ではないか![]()
』
白河院は自らの女御だった師子を臣下である忠実に与えた(実は、白河院には後宮の女性を臣下に下げ渡した例が数多あります
)
(平清盛の母もその1つであった可能性があります
)
でも師子の事が忘れられず、『代わりに娘の勲子を我が者にしてしまおう
』という邪まな考えが浮かび、この度の入内話が出て来た![]()
師子は以前、白河院に仕えていた事もあり、院の艶福ぶりをよく知悉していました
(恐らく・・・)
『娘を白河院の毒牙に掛けられるのは、我慢ならない
』
彼女は以上のような事情から、夫である忠実に今回の入内話を婉曲に断ってくれる様、懇願したと思われます![]()
忠実も摂関位就任以来、白河院政という『鳥籠の中の鳥ならぬ関白』状態を何とかして脱したい気持ちが強かったと思います![]()
妻師子が反対する理由は、院に対する生理的な嫌悪からである事は理解できた筈です
(実際、白河院にはその様な類の噂が実に多かったのです
その最大の物と言えたスキャンダルが、養女としていた藤原璋子との不純な関係でした
この話は別の機会に触れたいと思います
)
しかし、現実的な公卿政治家であった忠実は、娘を鳥羽帝に入内させる事のメリットを、的確に察知していました![]()
そのメリットについては次回にさせて頂きます![]()
[ 2012年01月17日10時44分33秒 ]
清盛と藤原家成
鳥羽院第一の寵臣藤原家成
跳ねっ返りの平太君も、昨日の放送で元服をしましたね![]()
さて、前回の放送では、清盛のこれからの人生に関わって来る人物が何人か登場して来ました![]()
その中で、本日は忠盛・清盛親子と深い関係を結ぶ事になる、藤原家成(ふじわらのいえなり)についてお話させて頂きたいと思います![]()
このブログでも、何回か触れていますが、家成の生家は、藤原北家の流れを汲む善勝寺流(ぜんしょうじりゅう)でありました![]()
言うまでもなく、藤原北家の嫡流は、忠実・忠通父子の御堂流(摂関家)であり、清盛が誕生した12世紀前半に至って、実に多くの分家(庶流)を輩出していました![]()
その中でも善勝寺流は、北家初代戻前(ふささき)の一子であった魚名(うおな)の子である、末茂(すえしげ)を祖とした一流でありました![]()
かなり、早い時期に北家嫡流から分かれた家であった為、平安王朝期にはなかなか出世の道筋が開けなかったのですが、院政黎明期の当主だった藤原隆経(ふじわらのたかつね)の妻親子(しんし)が白河天皇の乳母となった事が、この家に大きな転機をもたらしたのです![]()
隆経と親子の間に生まれた顕季(あきすえ)は白河院の乳母子(乳兄弟)という立場から、院の篤い信任を受ける様になりました![]()
彼は若年から多くの国司(受領)を歴任して、院に対する経済的な奉仕に努めました![]()
院政期には多くの御願寺院(上皇や天皇・女院・内親王等の発意による)や御殿等の邸宅がたくさん造営されたのですが、それらにかかる一連の経済的な負担は、全て受領国司が負担していました![]()
彼等は、多くの神社仏閣を建立した功績によって、受領の再任や転任、または位階や官位を上昇させるという恩恵に浴していました![]()
顕季は乳母子という院との身近な関係と、受領によって得られる財力を活かした経済的な院への奉仕を土台として、善勝寺流を院近臣家の代表的な一家へと押し上げる事に成功しました![]()
長治元年(1104)には従三位に任じられ、約200年ぶりに善勝寺流に公卿の座をもたらしました![]()
彼は保安4年(1123)、乳母兄弟白河院に先立って、68歳で亡くなりましたが、彼の勢力は彼の息子達の長実(ながざね)・家保(いえやす)達に受け継がれました![]()
長男の長実は父同様、白河院側近として近侍
大国受領(伊予・播磨国)を歴任後、白河院死後の大治5年(1130)には正三位権大納言に任じられました
(清盛第1回の放送で国広富之さんが演じていた人物です
)
彼の掌中の珠こそが、後の鳥羽院皇后美福門院得子(びふくもんいんとくし)であります![]()
次男の家保も豊富な受領経験を経て、長承3年(1134)に従三位参議に就任
兄長実共々公卿昇任を果たしました![]()
また、白河院庁別当として院近臣の中で重きを為し、長承2年(1133)の長実の死後は、善勝寺嫡流の地位を得る事になり、鳥羽院政期においてもその勢威は止まる事を知りませんでした![]()
その家保の嫡男が、家成でありました![]()
劇中で、家成が清盛の烏帽子親の役割を果たしていました
実際に、家成が伊勢平氏嫡男の加冠の役を務めたかどうかは不明ですが、そういう事があっても不思議がない程、伊勢平氏と藤原善勝寺流との関係は親密になっていました![]()
清盛の祖父正盛は、自身の本拠地にあった伊賀国靹田荘を荘園として、白河院に寄進した事によって、院とのパイプを作った話を、以前させて頂いたのですが、この時、正盛と院との間を仲介した人物が、家成の祖父顕季と祇園女御であったといわれています![]()
当時、院(白河・鳥羽院共通ですが)は、自身の経済的な基盤を強化する為に、多くの私有地(荘園)を集積していました![]()
強大な財政基盤を形成する為に、全国津々浦々から荘園が寄進されたのですが、院近臣としてこの荘園立荘と集積に大きな役割を果たした人物こそが、藤原家成でした![]()
また、院の広大な荘園を管理、またはその地の治安を維持する警察組織として武士の存在が注目されてました![]()
白河院初期の頃、正盛は伊賀国における自身の地位を盤石なものにする目的で、自領を院荘園として拠出するとともに、その地の現地の役人(荘官)という立場を中央より保障して貰っていたのです
(当然、現地の治安部隊という役割も請け負った事は言うまでもありませんね
)
こうして出来た院とのパイプ作りに多大なる援助を行ったと思われる祇園女御と、善勝寺流家との連携は伊勢平氏が『王家の守護人』しての不動の信頼を得る上で、大きな意味を持っていました![]()
何故大きな意味か
といいますと・・・
実は清盛の継母宗子(池の禅尼)の父は、院近臣藤原宗兼(ふじわらのむねかね)の娘でしたが、彼女の叔母(この女性の名前も宗子?というみたいですが詳細は不明)に、堀河天皇の後宮に入った後に藤原家保と再婚した女性がいました![]()
この女性と家保との間に生まれたのが、家成であり、忠盛正妻の宗子と家成は従兄妹同士という事になる訳です![]()
したがって、宗子が後妻に入った伊勢平氏と善勝寺流家は姻戚関係を結んでおり、若い頃の清盛は頻繁に家成の邸宅に出入りしていたのではと考えられます![]()
ところで、家成は嘉承2年(1107)生まれ、清盛は元永元年(1118)生まれですので、両者には11年程の年の開きがありました
兄のいなかった清盛にとっては、家成は頼れる兄さん的存在だったかもしれませんね![]()
更に、この後両家で結ばる事になる、清盛の子供たちと家成との子供たちとの間に幾重にも結ばれる閨閥は、平氏政権の重要な布石となるのです![]()
お話が少し先走りましたが・・・![]()
鳥羽院が本格的に院政を開始した数年後の長承3年(1134)、家成の従兄妹に当たる藤原得子が、鳥羽院の寵愛を受け、後宮に一大勢力を形成した時、家成は彼女の実家善勝寺流を代表する得子陣営の参謀として、その采配を振るう事になるのです![]()
この事は、白河院という大きな後ろ盾を失った待賢門院璋子勢力との軋轢を惹起させ、白河院によって逼塞せしめられていた前関白忠実の復権とともに、王家を二分するドロ沼の怨念の争いが始まるのでした![]()
忠盛を棟梁とする伊勢平氏は、難しい政界遊泳を迫られる事になるのです![]()
今回はここまでにします![]()
[ 2012年01月16日12時19分13秒 ]
関白忠実の恋物語
もう1つの王家と摂関家との縁談話
璋子の摂関家への輿入れ話は、関白忠実の消極的な対応によって、自然消滅的な成り行きを呈していました![]()
さて、ここでいきなり、突然なのですが・・・
実は王家と摂関家との輿入れ話は、璋子関連以外にも持ち上がっていたのです![]()
実は、璋子の話が表面化する以前の天仁元年(1108)、白河院より忠実に、彼の長女勲子(たいし)を孫鳥羽天皇へ入内させる様にという打診があったのです![]()
勲子は忠実と正室師子(しし)との間に生まれた忠通と同母の娘で、摂関家の嫡女という大変な箱入り娘でありました
その彼女に鳥羽帝との縁談話が舞い込んだのです![]()
摂関家嫡女が王家、しかも今上であられる鳥羽帝に入内すれば、皇子を産んだら即、中宮・国母(こくも)という至高の地位に昇る事に他なりません![]()
摂関家にとっても、勲子自身にとっても、この上ない誉になる筈の縁談話を、なぜか父忠実は固辞したのです![]()
嘉保2年(1095)生まれの勲子はこの時、13歳でした
お相手の鳥羽帝は康和5年(1103)生まれなので、まだ5歳でした
なんと、勲子の方が8歳も年上だったのですが、当時としてはこれくらいの年の差結婚(女性の方が年上)は珍しい事ではありませんでした![]()
鳥羽帝がまだ幼過ぎると言えば、縁談固辞の理由もわかりますが、実際にはあまり口外出来ない難しい事情があったのです![]()
その事情の背景には、白河院の奔放な女性遍歴があったのでした![]()
以前このブログでもお話しましたが、白河院は生涯に亘って、実に多くの女性と関係を結びました![]()
最愛の女性だった中宮賢子を失って以来、その傾向は常軌を逸した感があり、院自身も間違いなく自分の種であると確信出来ない子供も、何人かいたみたいです
(信じられないですが・・・
)
多くの後宮の女性達の中に、院の第4皇子を産んだ女御がいました![]()
この女性は、村上源氏の重鎮だった源顕房(あきふさ)の娘で、藤原道長の娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)に女房として仕えていたのですが、白河院の目に止まり、寵愛を受けて懐妊したのでした![]()
当然ながらこの女性は、白河院の後宮に迎えられたのですが、この女性に猛然と求愛する1人の公卿が現れました![]()
その公卿の名は、若き日の摂関家御曹司藤原忠実でありました![]()
忠実の恋の大一番の行方については、次回にお話させて頂きます![]()
[ 2012年01月13日09時44分04秒 ]
辛うじて摂政位を死守した忠実
摂政位に自らの母や、孫帝鳥羽院生母実家であった、藤原閑院流の公実を任命しようかと本気で考えていた白河院に敢然として、異論を展開した人物がいました![]()
その人物は、大納言源俊明(みなもとのとしあきら)という院側近の有力公卿でした![]()
俊明は醍醐天皇皇子だった高明(たかあきら)が祖の醍醐源氏の出身でした![]()
高明は平安中期の政争であった、安和の変で失脚した人物として知られています![]()
勢力を退潮させた醍醐源氏でしたが、高明娘明子(めいし)が藤原道長の妻(第2夫人)となった事で、御堂関白家と縁戚となり、家運を回復させる足がかりを掴みました![]()
道長・頼通親子の時代には、彼等御堂流との協調姿勢をとっていましたが、その後は宇多源氏出身で道長第1夫人であった倫子(りんし)出生の頼通達とは一定の距離を取りながら、自家出身の明子系の道長子供たちとの関係強化にも努めていました![]()
特に、明子腹の藤原能信が後ろ盾となっていた尊仁親王(後の後三条天皇)の側近として、隆俊(たかとし)・隆綱(たかつな)、俊明(としあきら)の三兄弟が揃って、近侍していました![]()
醍醐源氏は、実務にも精通した公卿だったみたいで、彼等三兄弟は後三条帝の政治改革の補佐役として、その実力をいかんなく、発揮しました![]()
帝の施策の目玉であった、延久の荘園整理令においては、基準に達しなかった荘園の認可を認めないという方針が打ち出されましたが、一連の作業を行う目的で設置された記録荘園券契所の実務または、宣旨枡の設定等に大きな役割を果たしたとされています![]()
特に末弟の俊明は優れた能吏として知られていたみたいで、後三条帝と次代の白河院2代に亘り、側近として仕えました![]()
しかし、彼の特長は、必要とあらば最高権力者であった院への直諌をも辞さないという剛直な姿勢であったと考えられます![]()
白河院は、人の好き嫌いの感情が著しく激しかったみたいで、朝廷の人事である叙任(じょにん)・除目(じもく)についても、前例に拘らないサプライズ人事を敢行したケースが少なからずありました![]()
有能な人物ならいいのですが、自らが寵愛した人物を高位や地方官である受領等に任命していた為、朝廷の公卿の序列や実務面での混乱が噴出していました![]()
自ら院のご意見番という自負をもっていた(恐らく・・・)俊明から見れば、今回の摂政人事は見過ごせなかった問題であった事は容易に想像がつきます![]()
彼は、縁戚の閑院流藤原公実に傾いていた白河院の御前に参上
決然と自説を展開します![]()
『御堂流は、道長・頼通・師実(もろざね)・師通(もろみち)と4代に亘って、摂関として廟堂の安定に寄与した
』
『しかるに、その嫡流である忠実を差し置いて、御堂流から分かれ既に5代を数えている閑院流家に摂政位を与えるのは道理に反している
』
俊明は、白河院の不興を覚悟の上で、正論を吐いたのでした![]()
院も、心情的には自身の生母の実家で、数代続けて王家と外戚関係を結んでいた閑院流当主の公実に摂政を任せたいという気持ちはあったと思いましたが、政務経験を積み漸く、摂関の重責に耐えられるようになった忠実から摂政位を奪うまでの思い切りは、この時点ではまだ、なかったみたいです![]()
結局、朝野の注目の的だった鳥羽天皇の摂政人事は、忠実が前の御世より引き続いて務める事になったのです![]()
まさに、忠実にとって、俊明は大恩人に当たりますね![]()
当然ながら、忠実は閑院流家並びにその出身であった璋子に対して、ある種の嫌悪感を抱く事になります![]()
そして、この出来事は、一つの大きな前例を作る事になりました![]()
それは、摂関と外戚の完全な切り離しと、摂関職は藤原御堂流のみが受け継ぐという所謂、摂関家という公卿第一の家を誕生させたという事実でありました![]()
一方、摂政就任を目前と阻まれた藤原公実は、ショックを受けたのか、この出来事のあった同じ年である嘉承2年(1107)に亡くなってしまいました![]()
ただ、摂関就任の機会を永久に失ったとはいえ、代々王家との外戚関係を強めていた閑院流家の勢いは、弱まる所か、公実の子供達の代には最盛期を迎える事になるのです![]()
(もうお分かりだと思いますが、この公実の末娘が璋子ですね
)
次回は忠実が璋子を自家の嫁に迎える事を拒んだ今一つの理由について、お話させて頂きます![]()
[ 2012年01月12日11時48分09秒 ]
専制君主白河院の純愛物語
今回は、清盛の父と噂されていた白河法皇について、ドラマで触れられていなかったお話をさせて頂きます![]()
摂関家御堂流を外戚に持たなかった後三条天皇の第1皇子として誕生した院は、延久5年(1073)に父帝からの譲位を受けて、即位しました![]()
ドラマでは晩年の院の姿が描かれていますが、判明しているだけでも15人の女性の間に、男子が8人・女子が6人の総勢14人もの子供を儲けました
(清盛を含めると15人になりますが・・・
)
この白河院が天皇時代に、最も寵愛していたのが、中宮位に昇った源賢子(みなもとのけんし)でした![]()
彼女は、村上源氏源顕房(みなもとのあきふさ)の娘でしたが、関白藤原師実(ふじわらのもろざね)の養女として、当時、東宮(とうぐう)(皇太子の別名)だった貞仁(さだひと)親王に入内しました![]()
彼女は延久3年(1071)に入内したのですが、この婚姻の背景には、自らの妻麗子(れいし)の姪であった賢子を通して、外戚関係の再構築を画策した師実の思惑があったのです![]()
厳密にいえば、御堂流の血統ではなかった賢子でしたが、4歳年長の白河院の寵愛を一心に受ける事になります![]()
院は彼女との間に、2男・3女を儲けました
第1皇子敦文(あつぶみ)親王出産後、中宮に立后されたのですが、残念ながら、敦文は3歳で夭絶してしまいました![]()
しかし、院の賢子に対する殊遇は変わらず、2年後に第2皇子の善仁(たるひと)親王が誕生します![]()
(この善仁親王が後の堀河天皇で、鳥羽院の父となる人物です
)
若き頃の白河院は、この中宮賢子の他に、御堂流傍流の藤原能長(よしなが)娘の道子(どうし)や、藤原小野宮流経平(つねひら)娘の経子(けいし)を女御に迎えていましたが、賢子の寵愛度合いは、著しく他を圧していたのです![]()
しかし、突然の悲劇が賢子を襲います![]()
応徳元年(1084)、俄かに病を得た賢子は、重態に陥ってしまいました![]()
当時の宮中の慣例として、重病となった后妃は退出して、里内裏等に移る事が仕来りとなっていました![]()
天皇は死後の穢れに触れる事は許されないというのがその理由でありましたが、白河院は最早絶望的な病状であった賢子の退出を許さず、彼女の臨終に立ち会いました
そして、冷たくなった彼女の亡骸を抱きしめて号泣したと言われています![]()
院のあまりの悲嘆ぶりを見かねた、院側近源俊明(みなもとのとしあきら)は、『帝は穢れ触れてはいけませぬ
』と忠告し、屋敷を移る事を勧めたのですが、院は・・・
『例は此よりこそ始まらめ
』と言って聞き入れなかったと
れています
悲しみの余り、院は暫く食事すらも摂る事が出来なかったといわれています![]()
『天皇が后妃の死に立ち会う先例は自らが作る
』という趣旨の発言だったと思われますが、若き日の白河院の激情がほとばしる逸話として、よく知られてます![]()
時に賢子、享年27歳![]()
未だ、春秋に富んだ佳人の惜しまれた逝去でありました![]()
最愛の女性であった賢子を失った白河院は以後、60歳近くになる迄、多くの女性と見境なく関係を結ぶ事になるのです![]()
そして、前述した通り、晩年の寵姫として知られる祇園女御を見初める事になります![]()
白河院の若き日における、純愛物語でした![]()
[ 2012年01月11日15時45分11秒 ]
清盛の母についての一考察
清盛の母親についてですが、こちらは父親以上に判別が難しいと思われます![]()
今までの説を簡単に眺めてみますと・・・![]()
①祇園女御生母説
白河院の晩年の寵姫だった祇園女御については、生没年とも全くの不祥であります![]()
元は、身分の卑しい白拍子上がりだったと言われていますが、確かな事はわからないみたいです![]()
しかしながら、どの様なルートを辿ったのかは不明ですが、白河院の側に侍った折に、その美貌に魅かれた院の寵愛を受ける様になったのだと考えられます![]()
一躍、時代の寵児となった彼女の周りには、院の御贔屓にあやかりたいという貴族達が群れを為す様になりました![]()
彼女の歓心を買う事はそのまま、白河院への覚えが目出度くなり、早い話、出世への糸口を掴む事になる訳です![]()
平正盛も、祇園女御の仲介によって自領の荘園を院に寄進しており、院との大きなパイプを作ったのです![]()
この祇園女御こそが、清盛の生母であるのではという説は、かなり以前から専門研究者近辺では囁かれていました![]()
巷説によると、祇園女御はお腹に院の子供を宿した時に、平忠盛に下げ渡された(拝領妻ですね
)といわれていますが、彼女の推定される年齢に落とし込むと、譲り受けた忠盛よりも遙かな年上女房になってしまいます![]()
それ故、彼女を清盛の母親とする説には無理ありとの事で、現在ではあまり有力視されていないみたいです![]()
②祇園女御妹もしくは縁者説
近年ではこの説が定説化しつつあります
白拍子出身だったとされる女御の妹や縁者達も、同じ仕事を生業としていた可能性は大いにあり得ると思われます
また、この時代、姉妹で同じ人物の侍妾になるケースもいくつかあったみたいです![]()
好例として、白河院の後宮には、うれしき・いわいを(人の名前です)という姉妹の女御が院に仕えていました
(2人は共に加茂女御と呼ばれていました
)
この様な実例が存在する事から考えても、祇園女御の妹または、その縁者が女御と同じ時期に白河院に近侍していても何の不思議もなかったのではないかと考えられます![]()
その彼女の妹か縁者に院の手が付いた結果、身籠ってしまい、始末に困った院は祇園女御と相談して彼女を平忠盛に身重のままで下げ渡したのではないか
とタケ海舟は推測しています![]()
ところで、祇園女御は晩年の白河院に最も愛された女性であったのですが、彼女は遂に院の子供を産む事は出来ませんでした![]()
仮にもし、女御が院の皇子を産んだとしたら、白河院政末期の大きな波乱を巻き起こしていた可能性は、甚大だったと言えるのではないのでしょうか![]()
(あくまでも仮説ですが・・・)
ここで、タケ海舟の素朴な疑問ですが、何故祇園女御は妹または自分の縁者が生んだ男の子(これこそ清盛
)を自分の養子(猶子)として引き取らなかったのでしょうか![]()
正盛以来、女御と伊勢平氏との関係は極めて良好だったと思われます、引き取った経緯をも十分熟知していた正盛・忠盛父子に因果を含んでおけば、男子誕生後に自身で養育する事もできた筈です![]()
男児だった故、皇位継承争いの火種になる事を恐れて、伊勢平氏の子供として育てさせようと考えたのでしょうか
それとも女児だったら引き取る意向だったのでしょうか
(白河院も了承していたのでしょうか
)
真相は不明です![]()
最も、祇園女御は清盛が生まれる以前、白河院と相談の上で、藤原閑院流家公実の末娘、璋子を2人の猶子として養っていました
(既に鳥羽天皇に入内していました
)
璋子を鳥羽院中宮へと押し上げるという一連の作業を済ませていた女御は、これ以上自らの猶子を必要とする政治的な必要性を感じていなかったのかもしれません
(璋子の皇子出産こそが白河院と女御の宿願でありました
)
自身の母は果たして、誰か![]()
成長するに連れて、清盛の疑問は大きくなったかと思われますが、義父(タケ海舟は実父同然と見なしていますが・・・)忠盛や義母宗子(心の中ではいろいろな葛藤もあったと思いますが・・・)の愛情を受けて、平氏の男児として生きて行く事になります![]()
(ただ、伊勢平氏棟梁の座を引き継げるかどうかは、この時点では白紙状態だったと思われます
正妻となった宗子のは平二(家盛)が生まれており、他にも母の違う弟達が、次々と誕生する訳ですから
)
本日はここまでにします![]()
[ 2012年01月10日15時56分51秒 ]
清盛の父親について一考察
清盛の出生と稀有な出世との因果関係は
いよいよ、大河ドラマ「平清盛」が始まりました![]()
初回視聴率は、17.3%
一昨年の龍馬伝や江の初回時と比較して低かったみたいですが、1年通して見てみたいなという気持ちになった方も多いのでは思いました![]()
ところで・・・
清盛の両親については、いろいろな諸説があるみたいです・・・![]()
ドラマでは清盛の生みの親は白河法皇![]()
育ての親は平忠盛という設定になっています![]()
従って、清盛は最初から王家の血を引き継ぐ皇胤(こういん)という設定になっていますので、ドラマ上では議論の余地等はないのですが、彼の両親について推測を交えながらお話をしてみたいと思います![]()
まず、父親の方ですが、清盛の父は、実は白河院であるという噂は、彼の在世時から出ていました![]()
王家の守護の役割を務めながらも、貴族社会の最下層に属し、五位が相当とされていた伊勢平氏の棟梁清盛は、確かに若年の頃から異例の出世を遂げていました![]()
特に久安2年(1146)、29歳の時に任命された安芸守という受領職は、播磨守や伊予守と並んで、有力院近臣しか任命されない重職でした
この時、父忠盛はまだ棟梁として健在で、しかも播磨守を務めていました![]()
親子2代にわたる大国受領職の拝命は、清盛が王家の血を受け継ぐ人物であるという証左とも考えられますが、客観的には別の見方も考えられます![]()
白河院、更に次代の治天の君だった鳥羽院の時代、伊勢平氏は清盛の祖父正盛と父忠盛の2代にわたる地道な努力によって、王家から絶大な信頼を得ていました![]()
白河院はそもそも、王家の用心棒として、伊勢平氏や河内・摂津源氏を召し使っていました![]()
院は、両勢力を競わせながら、京都の治安維持や謀反人討伐の象牙として活用していたのですが、貴族社会になかなか、馴染めなかった源氏に比べて、正盛・忠盛親子が棟梁だった伊勢平氏は、院の忠実な武士としての地位を築くことに専念しました![]()
正盛は源義親(みなもとよしちか)討伐に成功した功績として、大国但馬守に任命![]()
以後、大国の受領を歴任しながら、本拠地伊賀国にある所領を院に荘園として寄進等を行い、院に対する経済的な奉仕活動を行いました![]()
父の後を継いだ忠盛も、同じく大国受領を務める傍ら、海賊退治の功績、院御願の寺院建立に関する奉仕等で、遂に伊勢平氏初の殿上人に任じられました
(天皇の私的な場所である清涼殿に参上して、天皇に会う事が許されたのです
)
人脈ネットワークにおいても正盛は、白河院の寵姫だった祇園女御や院の乳母の子供であった藤原顕季(ふじわらのあきすえ)、院の政務補佐を務めた藤原為房(ふじわらのためふさ)等の院近臣の有力者との連携を深め、院との密接な関係を築きました![]()
忠盛も、鳥羽院中宮の待賢門院や皇后美福門院の政所別当を務め、更には鳥羽院の執事別当に任じられる等、今や伊勢平氏は院近臣(王家)の重鎮的存在になっていました![]()
おまけに、受領時代に蓄えた富や、海賊征伐によって瀬戸内海や西国との交通・貿易ルートを統御していた事によって、財力的にも侮れない力を有していました![]()
こうして見ると、清盛の異例の出世の背景には、祖父・父の賢明なる先見性に基づいた布石が大いに物をいったのではないのでしょうか![]()
最大の武力を有した伊勢平氏の実力を、無視する訳にはいかなかった![]()
この頃は、鳥羽院後を巡る王家・摂関家の内紛が次第に尖鋭化していた時期に当たり、伊勢平氏を自陣営に引き込もうという動きが、保元の乱の前からあったのでしょう![]()
前述したとおり、清盛が白河院の皇胤ではないか
という噂はかなり前からありました![]()
彼の異常とも思われたスピード昇進は、この噂がもたらした影響と、伊勢平氏の政治的な地位上昇という2つの側面から実現されたのではと考えています![]()
そして、清盛自身も自身に囁かれ続けていた皇胤という噂を、自己の地位向上の為、最大限活用したのではないのでしょうか![]()
何れにしても、父親が誰か
という事については決定的な証拠が出て来ない以上、断定できないのですが、自身の政治的地位を有利に導く目的で、誰かが(清盛本人か平家一門やその親藩勢力か)意図的に落胤説を喧伝したかもしれません![]()
結果として、初の公卿補任や大納言、内大臣、太政大臣という階段をあっという間に駆け上がった姿を概観すると、巷に流れていた噂を真実として、認めさせてしまったという凄味すら感じさせられます![]()
タケ海舟は、白河院側近に侍り、院の子を宿したある女性が、信任厚かった平正盛・忠盛父子に下げ渡され、その後清盛が誕生したというのが一番、自然ではないかと考えています![]()
(異論反論一杯あるとは思いますが・・・
)
母親については次回に致したいと思います![]()
[ 2012年01月10日12時02分18秒 ]
璋子との縁談を忌避した藤原忠実の思惑
関白藤原忠実は、何故、嫡男忠通と璋子との結婚を固辞したのでしょうか![]()
タケ海舟は、3つの理由があったのではないかと推測しています![]()
第1の理由は・・・
忠実自身が璋子の実家である閑院流家を嫌ってた![]()
この理由は、普通に考えると成程と肯けます![]()
以前もご紹介しましたが、閑院流家は一族の女子が白河・鳥羽両帝の生母となっており、一時代前には藤原御堂流の既得権益であった王家の外戚という地位を、代々占める様になっていました![]()
王家に入内した、藤原頼通・教通(のりみち)兄弟の娘たちに皇子が遂に誕生しなかった結果、御堂流は摂関政治の拠り所とも云うべき外戚という立場を喪失してしまいました![]()
御堂流と縁のなかった後三条帝に后を入内させたのが、閑院流家でした
(生まれたのが白河院です
)
父帝の後を継いだ白河院は御堂流の血筋を引いておらず、危機感を覚えた頼通の嫡男師実(もろざね)は、道長以来濃い縁戚関係を結んでいた村上源氏(村上帝の孫師《もろふさ》を祖とする公卿源氏)顕房(あきふさ)の娘賢子(けんし)を自身の養女として、院に入内させました![]()
養女とはいえ、御堂流の外戚が復活したのです
院と賢子との間に生まれたのが堀河帝です![]()
白河院は程なく堀河帝へ譲位したのですが、自己の血統による王位の継承を願い、堀河帝の后として生母の実家であった閑院家の子女を迎えました![]()
この時、御堂流には堀河帝に入内させるべき女子がいませんでした
師実後に関白を継承した嫡男の師通(もろみち)は早死してしまい、彼の子であった忠実が御堂流当主の座に就いたのですが、内覧のみの継承しか認められず、関白職はその後暫く、空席という状態が続いたのです![]()
白河院が政治の指導権を掌握したのはまさしく、この時期からであったと考えられます![]()
院の前に隠忍自重を強いられた忠実でしたが、数年後に漸く関白職を取り戻す事が出来ました![]()
(しかし、この任命は他ならぬ白河院の任命であり、忠実の死命は院に握られているといっても過言ではありませんでした
)
更に、忠実を震撼させる事件が、堀河帝の崩御直後に勃発しました![]()
堀河帝は生前、閑院流出身の苡子(いし)との間に鳥羽院を儲けており、即位自体は円滑に進んだのですが、新帝の摂政人事を巡って、大きな問題が発生したのです![]()
それは、鳥羽院の外戚であった閑院流家当主公実(きんざね)が、新帝の摂政になる事を希望したのです![]()
公実はこの時、正二位権大納言という地位にあったのですが、王家外戚という立場と院近臣家や御堂流庶家との婚姻関係を背景に、朝野において隠然たる勢力を扶植していました![]()
公実は鳥羽帝即位を好機に、外戚と摂関職を手中に入れて、名実共に御堂流に取って代わる事を目論んだのでしょう![]()
しかも、彼の言い分が実に的を得ていたのでした![]()
彼の白河院に次の様に奏上しました![]()
『古来より、摂政に就任した者で、王家と縁戚関係になかった者は一人もおりませぬ
』
摂政は、聖徳大師が任命されたのが嚆矢でありましたが、以後、藤原北家から何人かの摂政が輩出されていましたが、王家と縁戚関係になかった人物は皆無でした
(帝が幼いという事もあり、母の実家等の身内の補佐が不可欠だったのでしょう
これに関して、成人した帝を輔弼する関白職には、王家の縁戚以外の人物が任命される場合もありました
)
貴族政治の最大判断基準とされていた先例を持ち出した、公実の意見に(自分を売り込んでるから凄い人ですね
)さしもの白河院も、現職関白だった忠実を差し置いて、公実の摂政任命に傾いたと思われます![]()
先に外戚も奪われ、今また摂関位を失うという、御堂流当主として忠実は最大の危機を迎えていたのです![]()
ところが、忠実に救いの神が現れたのでした![]()
白河院の側近として、院の政治上の補佐役を務めていた源俊明(みなもとのとしあきら)という人物が、決断を躊躇していた院に対して、速やかな摂政位任命を要請したのでした![]()
この続きは次回とさせて頂きます![]()
[ 2012年01月06日09時30分43秒 ]
大河ドラマ50の歴史展
正月休みの1月3日に、JR高島屋名古屋駅店で開催されていた「大河ドラマ50の歴史展」を見て来ました![]()
第1回の「花の生涯」から昨年放映された「江~姫たちの戦国~」までの50作品の内容と、当時俳優さんが実際に使用していた衣装(甲冑または打掛け)や、名場面の写真・VTR等が展示・上映されていました![]()
タケ海舟が歴史の世界に魅了されたきっかけとなった「風と雲と虹と」
(うわー懐かしい
)
初の鎌倉時代をテーマにした「草燃える」
(北条政子を岩下志麻さんが演じていました
)
『おかか!おかか!』が流行語となった「おんな太閤記」![]()
そこには、タケ海舟が子供の頃に胸ときめかせていた世界が、その頃のままに再現されていました![]()
全ての展示を見終わるまで、何と2時間以上も要していました
(時間の経過さえも忘れていました
)
大河ドラマも、松山ケンイチさんが演じる「平清盛」で51作目を数える事になります![]()
1月8日の第1回が今から楽しみです![]()
このブログにおける清盛のお話もいよいよ、本格的に進めて行きたいと思います![]()
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[ 2012年01月05日12時07分18秒 ]
2012年度を迎えて
明けましておめでとうございます![]()
一昨年より始めさせて頂いたこのブログですが、昨年より漸く軌道に乗ったみたいです![]()
昨年は江を題材に記事を書かせて頂いた事が多かったのですが、今年は清盛について書く事が多くなると思います![]()
自分なりに、一層勉強をして、少しでも皆様に詳しくかつ、わかりやすくご説明をさせて頂ければと願っておりますので、今年もタケ海舟のブログをよろしくお願い申し上げます![]()
このブログをご覧頂いて、気が付かれた事やご不明な点等ございましたら、是非、お問い合わせ頂けたらと思っております![]()
タケ海舟の今年の目標は、今まで、文献や著書やネット等で調べた事を自分自身で咀嚼しながら、記事を書いていたのですが、今年はこの勉強方法を踏襲しながらも、自分なりの歴史観を織り交ぜながらお話をさせて頂けたらいいなと思っています![]()
また、歴史史跡や現場にも、出来るだけ足を延ばしてみたいなと考えています
(時間がなくてなかなか行けないかもしれませんが・・・東海地方の源平合戦の古戦場には行ってみたいですね
)
今年が皆さまにとっていい年になる事を願っています![]()
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[ 2012年01月01日19時38分48秒 ]
タケ海舟