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September 2011

江(秀忠の長男について)

秀忠長男 長丸sign01

ドラマでは江が次々と秀忠との間に娘を儲けていますね・・・coldsweats01

ところで・・・

「江~姫たちの戦国~」が放映される1年前に、福田千鶴さんという著名な研究者が「江の生涯」という本を世に出しましたdanger

タケ海舟はこの本を大河ドラマが始まる前に読んだのですが、その中に描かれていた衝撃的な内容に愕然としてしまいましたshock

既にこの本を読まれた歴史愛好家の方も、沢山いらっしゃると思いますが、秀忠の子供二男五女の生母について驚くべき話が出ていたのですnew

定説によれば、先に挙げた秀忠の七人の子女の生母は、全て正室の江であるとされていましたok

福田氏はこの見解を丹念な史料調査によって否定し、江の子供は長女千姫、四女初姫、そして、次男忠長のみであるという新説を発表されたのですnew

つまり、次女珠姫(子々姫)、三女勝姫、長男家光、五女和子は、江の子供ではないと断言されていますimpact

女性の出産サイクル等の関系や、江や秀忠が離れていた時期に、妊娠したのではないかという子供がいて、江出生では、辻褄が合わないというのが理由みたいですdash

真実は果たして如何にsign02

タケ海舟は最初この新説にお目にかかった時、本当にびっくりしましたcoldsweats02

もし、この福田説が事実であったら、江の現在のドラマ設定は根本から覆ってしまいますshock

しかし、あくまでもドラマなので今年一杯は、秀忠の二男五女は皆、江の産んだ子供として考え、真実はドラマ放映が終了してから調べてみようと思っていますdelicious(ひとまず、一方的に結論付けてしまいますcoldsweats01

 さて、秀忠には、前述した江との間に儲けた七人の子女の他に、二人の男子がいましたok(長男と四男が該当しますねhappy01

秀忠の四男は、後の会津藩祖として、著名な保科正之ですok彼の生母は小田原北条氏に仕えていた武士神尾某の娘であったお静という女性でした。happy01彼女がどの様な経緯で江戸城に上がったのかは不明ですが、秀忠の乳母大姥局(加賀まり子さんですねsmile)に仕えていた折に、秀忠に見初められ、正之を身籠りましたnew

秀忠は江に遠慮したのか(ドラマではもう側室は持たないと誓っていましたけどね・・・gawk)身重のお静を江戸城から出し、見性院(武田信玄次女・穴山梅雪の正室だった女性です)に元に預けましたshine

彼女は慶長16年(1611)に正之を出産しましたscissors

残る長男ですが、生母の名前は伝えられていませんdespair

徳川幕府の公式史料であった「徳川実紀」には、唯、家女としか記されていませんnew

この子供は、慶長6年(1601)に江戸城内で誕生していますが、同じ城内に住んでいた江は、他の女性から産んだ秀忠の最初の息子の顔を果たして、見る機会があったのでしょうかsign02(ドラマでは対面していましたが・・・)

子供は長丸または長松丸と名付けられましたscissors一説よると、長丸(長松丸)は秀忠の幼名であったと云われていますshine

関ヶ原の戦後処理が一段落した後、秀忠は江戸に帰って来ていましたdash初めての息子を抱いた(恐らく)彼の心境は如何ばかりだったのでしょうsign02

ひとまず、徳川家(庶腹ではありますが・・・)の跡取りが誕生したという事で、江の気持はともかくとして、徳川家の人々はほっとした筈ですpaper

しかし、長丸は翌慶長7年(1602)にわずか一歳で忽然とこの世を去ってしまいましたweep

祖父の家康は、依然として京都・大坂に滞在していましたdespair(家康は関ヶ原の合戦終了後も、征夷大将軍就任が確定するまで、江戸に戻っていませんnew従って、家康は初めての男孫の顔を見る事は無かったのでしたweep

長松の死を知らされた家康の落胆ぶりも、大きかったと思われますthink

この上は何としても江に、徳川家の後継ぎを産んでほしいsign03

周囲の江にかかる期待は、ますます高まる一方でしたscissorsscissors

娘ばかり立て続けに生んでいるわけですから、そろそろ男子を出生する頃だろうと思われていたのでしょうねok

しかし、慶長9年(1604)の家光誕生までには、もう少し年月が必要でありましたthink

次回は江と秀忠の次女珠姫について、お話をさせて頂きますsoon

[ 2011年09月30日15時33分16秒 ]

江(石田三成の最期についての一考察その2)

実は、お互いを認め合っていた三成と家康sign03

捕えられた三成は、大津で家康父子と謁見しましたdespair

関ヶ原の合戦は、一方を勝者sign01もう一方を敗者sign01という残酷な結末をもたらしていましたweep

家康は縛られていた三成の縄を解かせ、床几を勧めましたok

三成の方も決して、悪びれることなく家康の好意を受けたのでしたok

敗軍の将とはいえ、この時の三成の態度は実に立派で、同席した東軍(徳川方)の諸将達の中には深い感銘を受けた者も少なくなかったといわれていますdiamond

少しお話は逸れますが、織田信長という人物は、自分に敵対した人物を許す事は極めて稀であった云われていますbanほとんどは、打ち首、それも本人のみならず、妻子一族皆殺しが当たり前だったのですshock

更には、首をはねられた敵将に向かって、侮蔑の言葉を浴びせる事も珍しくありませんでしたbearing

信長と比べると、家康は敗軍の将を遇する道を心得ていましたgood

その事を裏付ける意味で、次の逸話をご紹介したいと思いますscissors

捕えられた三成を預けられたのは、家康の家臣 鳥居成次(とりいなりつぐ)でありましたnew

成次の父の鳥居元忠は、家康が上杉景勝征伐の為に、東国に出兵した時、伏見城の留守居を務めていましたdanger

家康不在を狙って、三成は挙兵しました。真っ先の攻撃目標は、家康の京都での居所となっていた伏見城でありましたcoldsweats02

周囲からの援軍が全く望めない状況の中、鳥居元忠は数千の兵とともに籠城戦の末、壮絶な討ち死を遂げましたcrying

元忠は家康が竹千代と名乗っていた幼年期から、苦労を共にした股耾の臣でありましたthink

伏見の守将として元忠を残す事を決めた時点で、家康はこのかけがえのない忠臣との今生の別れを覚悟した筈ですweep(そして、その通りになりました・・・crying

そして家康は、元忠の息子成次に敢えて、三成を預けたのですok

成次にとって三成は父を殺した仇でありますthunder恨み骨髄の心境であった事は、察するに余りありますban

しかし、成次は『父の事はあくまでも私怨であり、主命で身柄を預かった三成は、いくら亡父の仇であろうとも、客人である事には変わりはないsign03』と言って、三成を辱める事なく、礼節を以て遇したのでしたok

家康が常日頃、家臣達の薫陶に意を用いていたのかが窺われますねscissors

(ちなみに、この鳥居成次は後年、江と秀忠の次男忠長の側近として仕える事になりますnew

お話を三成に戻しますhappy01

ご存じの通り、家康との会見後間もなく、三成は京都で斬首されるのですが、彼の一族は全て抹殺されたわけではありませんでしたnew

三成の父正継と兄正澄を始め、一族の多くは佐和山落城とともに、自刃して果てたのですが、彼の子供達の多くは助命され、その後の生涯を全うしていますdanger

特に彼の二人の男子が生き長らえたという点では、極めて寛大な戦後処置であると思えますok

三成の嫡男重家(しげいえ)は、関ヶ原合戦時には大坂城内に滞在していましたthink父の敗退後、彼は京都の妙心寺にて出家剃髪しましたdespair

仏門に入ったならば敵将の子供とはいえ、命は奪わないpaper家康は重家の処罰しようとはしませんでしたok

一方、次男の重成(しげなり)は、妹辰姫の嫁ぎ先であった、陸奥国大浦城主の津軽家に逃れましたdanger

辰姫は津軽為信(ためのぶ)の三男信牧(のぶひら)に嫁いでいましたok三成と津軽家との関係は深く、為信長男の信建(のぶたけ)元服の烏帽子親を、三成が務めていますscissors

更に後年、辰姫の生んだ信義(のぶよし)が、父の後を継いで弘前藩主になっていますhappy01(彼は三成の孫にあたり、三成の血筋が津軽家を通して残された事になりますsign03

家康も津軽家が重成を匿っている事は知っていたと思われますが、敢えて黙認をした様に思えますdanger

(ちなみに、重成は苗字を杉山に変更し、子孫は代々弘前藩重臣として存続していますshine

ところで・・・

家康が何故、ここまで三成や彼の子供達に寛大だったのでしょうかsign02

タケ海舟の私見ではありますが、家康は三成という人物を非常に高く評価していたのではと考えていますdanger

五奉行筆頭として、豊臣政権の内政全般を切り盛りした彼の手腕を、家康はつぶさに観察していたと思いますhappy01

彼の卓越した行政手腕は他者の追随を許さず、国の政事を十分に担える人物であると見込んでいたのでしょうnew

しかし、家康が三成を評価していた最大の美点は、主君秀吉に対しての愚直なまでの忠誠心ではなかったのかsign02とタケ海舟は考えていますnew

主君への忠義の厚さと言えば、家康家臣団の中核を占めた三河武士達がよく知られていますconfident

彼らは『主君に仕えること犬の如しsign03』といわれる位、主人思いで、尚且、合戦あれば、主の馬前で討死する事を誇りとしていたのですscissors

三成は武勇の士ではなかったのですが、明晰な頭脳を秀吉や秀頼への篤き忠誠心で覆い、統一政権の運営と豊臣家の未来永劫の存続に尽力していましたconfident(当然、私腹を肥やす事はまったく無く、佐和山城には何の貯えもなかったといわれています・・・)

恐らく、家康は三成の豊臣家に対する赤心を、自身の配下であった三河武士のそれとダブらせていたのではないのでしょうかsign02

それ故、敵対した総大将の子供たちの命を助けるという極めて温情的な仕置きを実行したと思われますok

これから家康は豊臣家に取って代わって、天下を掌握していく事になりますscissors

その過程で、自分の前に立ち塞がった僅か19万石の中級大名に過ぎない石田三成こそが、豊臣家を想う真の武士であると思った筈ですnew

その証拠に、家康は関ヶ原の戦場で、石田方から徳川方に寝返った武将達の寝返り過程を精査し、著しく打算的であると見なされた者については、領地を取り上げるという厳しさをみせていますshock

(東軍勝利の立役者だった小早川秀秋も、この2年後に急死しましたが、家康は彼に子供がない事を理由に小早川家を取り潰していますsad彼には複数の兄弟達が生存していたにも拘らずの処断でしたsign03)

彼等に比べて、遙かに人格高潔だった三成を、家康は本心では助けたかったのかもしれませんdanger

しかし、彼の助命は到底不可能でしたban

それ故、家康は三成の子供たちを不問に付す事によって、サムライ三成に報いたのではないかと思えてなりませんpaper

三成も家康のそうした配慮を直接、或いは間接的に聞かされていたと思われますthink

恐らく、一人の父親として家康の配慮に感謝した事でしょうflair

男としての進むべき道が異なり、明暗を分けた両人ではあったのですが、最後の会見ではお互いを認め合う事が出来たのではないかと、タケ海舟は推測していますhappy01

刑場で最期を迎えるに際して、三成の心の中には『自分が出来る事は果たしたsign01この上は、全てを天に委ねて泉下の太閤殿下に相まみえようsign03』という穏やかな気持ちで、死出の旅路に就いたと確信していますthink

三成のお話は以上で終わりたいと思いますhappy01

次回は、関ヶ原合戦直後に誕生した、秀忠の長男(江出生の子供ではない)についてお話しますsoon

 

 

 

[ 2011年09月29日16時07分11秒 ]

江(石田三成の最期についての一考察その1)

さて、本日は・・・

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、西軍の事実上の総大将として、海道一の弓取りと謳われた徳川家康相手に互角以上の戦いぶりを見せた石田三成の最期についてお話をさせて頂きますhappy01

明治に入って、陸軍兵学教官として来日したプロシアのクレメンス・メッケル(坂の上の雲にも出ていました)が、関ヶ原合戦の東軍(徳川方)と西軍(石田方)の布陣図を見て、『この戦いは西軍の勝ちであるsign03』と即断した話はよく知られていますok

もちろん、この軍人さんは合戦の結果を知らず、軍事専門家の目による陣形だけで勝敗を論じた訳ですが、プロの目を唸らせた、総大将三成の陣張りはかなりの物であったのでしょうok

もっとも三成は武将というよりは、吏僚と言った方が相応しい人物だったと思いますconfident

実際の布陣図については、彼の側近で勇名を馳せた島左近勝猛(しまさこんかつたけ)の献策があったと思われますscissors他に、三成の側近には以前、蒲生氏郷に仕えていた武将達も多く仕えており、乾坤一擲の大いくさに臨む主君三成を補佐していたのですnew

家康にしても、戦闘経験はおろか、大将としての経験が乏しい三成が寄せ集めとはいえ、8万余の軍勢を集めた事については正直驚いたと思われますdanger

家康同様、三成もこの決戦に勝つ為にあらゆる努力と犠牲を惜しみませんでしたsign01

戦の結果は家康の謀略戦術が三成のそれを上回り、わずか半日余りで東軍に軍配が上がったのですhappy01

三成の盟友大谷吉継は、寝返った小早川秀秋の大軍をまともに迎え撃つ事になり、奮戦の末に壮絶な最期を遂げましたweep

小西幸長や宇喜多秀家も戦線離脱した中、三成の軍勢は最後まで踏みとどまっていましたが、遂に支えきれずに総崩れとなってしまいましたweep

この時三成は、吉継のように自害をせず、僅かな近従を連れて戦場を離れましたdanger

『最早これまでsign03』と潔く自刃をしなかった理由は、あくまでも再起を期する為でありましたok

大坂城には名目上総大将だった毛利輝元が詰めていましたnew難攻不落の大坂に籠城して、秀頼の名を以て諸将を糾合できれば、まだまだ態勢の挽回が図れるsign03と考えていたと思いますok

『大志を抱く者は、軽々しく死を選んではならないsign03』三成は常日頃この言葉を座右の銘にしていたのかもしれませんok

三成主従は伊吹山中に逃れ、更に自らが治める近江国佐和山領内に入りましたdanger

そのまま、自身の居城の佐和山に入る機会を探っていたのですが、既に佐和山城は、小早川秀秋等寝返り組を中心とした徳川軍の攻撃を受けて落城していましたweep(三成の父・兄を始め石田一族の多くが城と運命を共にしていますcrying

帰る場所を失った三成は、大坂城に入る道を模索しましたthinkしかし、体の不調を訴えたのか身動きのとれない状況に陥ってしまいましたshock

佐和山領主としての三成は善政を敷いていたらしく、お尋ね者となっていた彼を、領民達は秘かに匿っていましたnew

しかし三成は自らの為に領民達が危険な目に遭う事を潔しとせず、彼等に自分の潜伏先を捕吏に報せる様に伝えて、縛に付いたのですdespair

大津に引き立てられた三成は、数日間陣舎前に繋がれていましたthink

この時、晒されていた三成の前を徳川方の武将達が馬で通過して行きましたnew

妻のガラシャを死に追いやられた細川忠興は無視sign01(本当は八つ裂きにしたい心境だった筈ですthunder

三成を憎んでいた福島正則は案の定、『この不忠者めsign03』と散々罵りましたが、三成は少しも臆する事なく『お前こそ善悪の見分けも付かず、家康に味方した誠の不忠者だsign03あの世に行ったら、太閤殿下に真先に貴様の事を報告してやるから覚悟いたせannoy』とやり返したので、正則は無言で立ち去ったと言われていますdash

正則と対照的だったのが、同じく三成批判の急先鋒だった黒田長政(官兵衛の息子)で、彼は三成の側に来ると馬から降り、関ヶ原合戦での三成の奮闘を讃えた後に、着用していた陣羽織を脱いで彼に着せたと言われていますok

三成許さずという気持ちでは、正則と長政は同じだったと思いますが、絶えず死と背中合わせにあった戦場に身を置く武将としての礼節に関しては、両者の間に大きな温度差があったみたいですnew

長政は流石に、黒田官兵衛の後継者だけの事はありますねok彼の心遣いに三成は、心から感謝の言葉を述べたみたいですshine

しかし、小早川秀秋がやって来た時、三成は鬼の形相で彼を睨みつけましたannoy(当然ですが・・・)

秀秋もよせばよかったのですが、わざわざ三成の側に近寄って、『愚か者の末路は斯くの如くだsmile』なんてちょっかいを掛けたのが、更に悪かったsad

『金吾《秀秋は金互中納言と呼ばれていました》sign03お主は太閤殿下の甥で尚且、一時は養子だったにもかかわらず、家康に寝返るとは、なんたる恩知らずだthunder犬畜生にも劣る奴めsign03私は譬え、死に果てようと鬼となって貴様を成敗してやるから覚悟するが良いannoyannoy』と三成は言い放ちましたimpact

あまりの凄まじさに、秀秋は顔面蒼白となって、その場から退散しましたsad

この事からもわかるように三成という人物は、太閤秀吉とその遺児で唯一の後継者だった秀頼、その生母だった淀に対して、無私の忠誠を誓っていたのですok実際、彼は豊臣政権の安定と恒久化に為に身命を賭けて尽力した人物である事は、心ある誰もが認めていたのですsign01その為には自らの手を汚す事も厭いませんでしたthink

その気持ちがあまりにも強すぎた故、協調と妥協が出来ず、却って多くの敵を作ってしまったのでしょうweep

しかし、三成は恩と義に生きる誠のサムライでありましたscissors

そして、その事を他の誰よりも高く評価していたのが、不倶戴天の敵となった、徳川家康であったのですdanger

次回はその辺りについてお話したいと思いますsoon

[ 2011年09月28日15時28分39秒 ]

江(秀忠大遅参の理由その5)

遅刻は秀忠にとって、最大の教訓となったsign03

関ヶ原合戦における秀忠の遅参は果たして、家康との打ち合わせ済みの行動だったのかsign02

この事に関しての明確な解答は、同時代の史料や記録には残っておらず、はっきりわからないのが、正直な所ですdespair

そこで、今回はタケ海舟の私見をお話させて頂きますdelicious

結論から言うと、家康と秀忠との間には、『わざと遅れて進軍して参れsign01』という様な事前のやり取りは、なかったと思いますscissors

家康の頭の中には、恐らくこの戦いの勝敗は、主力部隊同士での短期決戦で決まるだろうdangerそれ故、秀忠の軍勢約四万余を決戦用兵力として、活用したいという考えがあったと思いますnew

これはあくまでも、数次的な優位が勝敗を決する、野戦を念頭に置いた考え方であり、秀忠軍が到着して初めて、その優位が確立する訳ですok

従って、家康は秀忠の軍勢がやって来るまで戦端を開くつもりはなかったと思いますthink

よく巷では、家康は関ヶ原の合戦で敗北(若しくは著しく不利になる)する事を想定して、徳川譜代を主力として構成された秀忠軍を温存したのだと言われていますが(つまり、家康は長期戦を見込んでいた)、タケ海舟は大変な見当違いであると思っていますthink

なぜなら、戦いを長引かせる事は、家康に極めて不利であったからですnew

実際、東海道を西に向かって進軍していたのは、福島正則・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明(よしあき)を中核とした

豊臣恩顧の大名達であり、家康は総大将として自らの家臣ではない武将達の軍勢を率いて、三成軍と対峙していたのですbearing

今後の状況によっては、(たとえば大阪から、豊臣秀頼または毛利輝元が出馬して来た等)恩顧の武将達は徳川から三成へ寝返る可能性は十分あったのですsad 

また、三成と呼応した会津の上杉景勝は未だ、無傷のままでしたdanger家康は西上に際して、次男結城秀康を押さえとして小山に駐屯させ、上杉軍の南下に備えましたok同時に、上杉と国境を接する伊達政宗や最上義光(もがみよしあき)に指示して、景勝や執政直江兼続の動きを封じ込めようとしましたsign01

家康の用意周到さを窺い知る事ができますが、反面中央での戦いが長引いた場合、奥羽戦線における徳川有利のバランスが崩れるケースも十分考えられましたdanger

お膝元であった関東でも、指呼の間にあった常陸国に幡踞(ばんきょ)していた、佐竹義宣(さたけよしのぶ)の動向がはっきりとしていませんでしたng

佐竹氏は三成と昵懇の間柄でしたが、関ヶ原合戦の折は何故か、中立を決め込んでいましたthink

目の前に、去就の定まらない有力大名がいた事は、徳川にとっては無気味であった筈ですban 

こうして見てもわかる様に、家康は戦いの長期化によって、自陣営に属していた大名達の心変わりや、中立を守っていた勢力が、戦局の変転に応じて三成方に回る様な事態を、大変恐れていた事がわかりますshock

家康が徳川軍の精鋭部隊であった秀忠軍をギリギリまで待っていた理由は、秀忠軍が到着して始めて戦を有利に運べると踏んでいたからなのですok

ところが、予定された合流日程を過ぎても、秀忠はまだやって来ない・・・annoy

家康は心底焦ったと思いますgawk

秀忠軍がまだ信濃路を彷徨っていると聞いた家康は、作戦計画の変更を余儀なくされましたnew

そして、三成の居城佐和山城を強襲すると見せかけて、大垣城を中心に防衛線を敷いていた三成軍を関ヶ原に誘い出すという戦略を採ったのですup

関ヶ原の決戦はわずか半日余りで、徳川方の大勝利で終わったのですが、最大の勝因は家康が三成方の武将に対して、実に巧妙かつ大胆な調略戦術を仕掛けた事にあったと思いますbleah

関ヶ原で布陣していた三成軍の中で、実際に戦闘行為を行った大名は、総大将の石田三成と、彼と盟友関係にあった、小西行長と大谷吉継、そして、秀吉の猶子であった五大老の宇喜多秀家等、ほんの一部に過ぎませんでしたgawk

三成方の中で最も、大きな兵力を擁していた毛利軍は、補佐役吉川広家の内応で戦に参加する事が出来ず、家康と

三成両陣営から調略を受け、去就が注目されていた小早川秀秋(かって秀吉の養子だった人物です)は、最終的に

徳川に味方し、この戦いの行方を決定づけたのでしたrock

孫子の兵法書の中に、『戦わずして勝つ。これ兵法の極意なりsign03』という件がありますが、天下分け目の決戦を前にした家康の事前工作のもの凄さには改めて、敬服してしまいますねhappy01

こうして見てみると、関ヶ原の戦いは、息子の大失敗を父親が、見事にカバーするという結果をもたらしたわけですok

仮に、この戦に徳川方が負けていれば、秀忠は一番の戦犯として、諸将からの糾弾を避けられなかったと思いますdespair場合によっては、廃嫡も考えられた筈ですshock

ある意味、秀忠にとって最大の幸運は、徳川家康という偉大な父親を持った事でありましたhappy01

加えて、このコッドファーザーがすこぶる長命であったお蔭で、その庇護の下、徳川二代将軍として必要な研鑽を積む時間を十分過す事が出来たのですからねok

関ヶ原での大失敗は、秀忠自身にとっては苦い出来事として記憶されたと思われますが、多くの家臣の命を預かる、大将としての心構え(秀忠の場合、政事を総覧する為政者としての心構えだと思いますが)を学ぶ契機となったのではないかと確信していますscissors(高い授業料にはなりましたが・・・coldsweats01

次回のお話ですが、ドラマでは既に、あの世に行ってしまった石田三成の最期について触れたいと思いますsoon

 

 

[ 2011年09月25日12時22分41秒 ]

江(秀忠大遅参の理由その4)

秀忠の為に奔走した榊原康政sign03

家康への対面が叶わない秀忠の為に、家臣達が懸命に取りなしを行ったと思われますthink

大失敗の中味が、遅刻で戦場に間に合わなかったという全くお話にならない物であったので、事と場合によっては廃嫡または、切腹という沙汰が下される可能性もあったのですshock(常識的にはですが・・・)

ドラマ江では描かれていなかったのですが、秀忠軍に軍監として付けられていた、徳川三傑の一人榊原康政(さかきばらやすまさ)は、伏見にいる家康を訪れ、秀忠宥免を願い出ましたnew

康政は自分の一命に替えても、秀忠の失敗を赦して頂きたいsign03全ては補佐役として付属されていた自分の責任であると訴えましたdash

一方で、大軍の指揮は初めてだった秀忠の不首尾は、十分折込済みであった筈なのに、たった一度の失敗で厳罰に処しては、それこそ家康の任命責任が問われる様な状況になりかねないsadと、秀忠遅参には、主君家康にも責任の一端がある事を、暗に指摘したのですban

この康政の諌言は、家康には頭が痛かったとは思いますが、同時に秀忠を許す(家康は最初から今回の秀忠の失策を、譴責処分で済ませようと考えていたと思いますが)口実を、康政が考えてくれたと秘かに喜んだと思われますconfident

家康は決戦場と目された美濃方面で秀忠軍と合流の上、兵力面で三成方との差をつけてから、決戦に臨もうと考えていましたokところが、秀忠軍が予想外に遅れた(家康は上田城攻めの許可を与えていたと思われますが、軍の一部で真田軍の動きを抑えた後、速やかに合流する事を指示していた筈です)ばかりか、合戦に間に合わなくなるとは、正直予想外だったと考えられますsad

『最早、秀忠軍は当てにならずsign03』家康は見切りをつけ、関ヶ原に三成軍をおびき寄せ、事前に行っていたあの手この手の調略の成果によって、勝利を収める事が出来たのでしたok

確かに、勝ったから良かったのですが、嫡男秀忠の大失態に対しては、関ヶ原で死力を尽くして徳川方の勝利に貢献した諸将(特に豊臣方)の手前、何らかの形で厳しい態度を取る必要性があった訳ですnew

その態度の表れが、秀忠との対面禁止であったのですdanger

しかし、先述した通り、秀忠にお灸を据えた後に不問に付すという方針だったので、康政の嘆願はまさに、渡りに船であったと思われるのですok

家康は康政の諫言を受け入れ、翌日伏見城に秀忠を呼び、ここまでの辛苦を労った上で、彼への勘気を解いたのでしたwink(予定通りだったと思いますがdelicious

タケ海舟は、今回の合戦を、家康が秀忠を自分の後継者として、そして、天下に号令をかけるに相応しい器を持った人物へと成長させるための、第一段階と見なしていたのではと推測していますnew

それ故、秀忠が引き起こした結果については、余程の失態(例えば敗戦に直結するような)を犯さない限り、問題にはしない意向であったのでしょうok

ところが、まさかの合戦不参加という事態を招いてしまいましたcoldsweats02戦には勝ったものの、秀忠の不首尾に対して、諸将から(特に豊臣恩顧の大名達)批判の声が上がる事は必至でしたthunder

家康は先手を打って、秀忠を対面禁止にする事によって、こうした諸将からの厳しい目からわが子を守ったと考えられますok

総大将である家康が、わが子である秀忠の怠慢を厳しく咎めたという事実を目の当たりにした諸将達は、それ以上何も言えなかった筈ですgood

こうした所からも家康の秀忠に対する深い愛情を窺い知る事が出来ますねconfident

そして、そうした家康の気持ちをしっかりと把握して、絶妙のタイミングで助け舟を出した榊原康政の働きは、合戦の一番手柄に匹敵する物であったと言っても過言ではないでしょうscissors

後日、家康はこの時の康政の働きを賞し、『榊原家は徳川家中では格別の家である。康政の働きが徳川家と自分を救ってくれたsign03』という起請文を康政に渡したとされていますscissors

同じく、苦しい局面を脱する事ができた秀忠も、『今後徳川家がある限りは、謀反は格別。それ以外のどんな問題が起きようとも、未来永劫榊原家を決して見捨てはしないsign03』という起請文を榊原家に授けたのでしたwink

更に、榊原康政はこの度の功によって、常陸国(現茨城県)水戸への加増転封を打診されたのですが、『自分には戦での手柄は何もないsign01恩賞どころか、秀忠補佐不行届故の切腹が当然なので、加増等とんでもない』と恩賞を辞退したばかりか、所領の上野国館林(現群馬県館林市)に引きこもり、以後第一線から退いたのでしたbearing

ここからはタケ海舟の私見になるのですが、康政は表舞台から身を引く事によって、関ヶ原における秀忠の失敗の責任を自ら引き受けたのではないのでしょうかsign02

同じ、徳川三傑の本多忠勝と井伊直政は、合戦後それぞれ加増転封を受けていましたが、康政だけは加増もなく城地も館林のままでしたdanger

康政は自らのこれからのキャリアを犠牲にする事によって、徳川家の天下を盤石たらしめよう考えたのでしょうshine

家康も秀忠も、康政の忠義に報いる為に、上記の起請文を授けたのでしょうok

榊原康政については、後日談として別の機会に触れてみたいと思っていますconfident

次回は歴史愛好家達の中でも、根強く噂されている、『秀忠大遅参は家康からの指示を受けた予定通りの行動であったsign03』という狂言説について、タケ海舟の意見を述べさせて頂きますsoon

[ 2011年09月22日14時32分22秒 ]

江(秀忠大遅参の理由その3)

気負いが裏目に出てしまった秀忠weep

怒り心頭の秀忠は、真田昌幸の長男信幸を先鋒として差し向けましたdanger

上田城の支城を守っていた弟幸村は、兄と戦う事を避け城を脱出、昌幸のいる上田城に撤退しましたok

たとえ、敵味方に分かれようとも、同士討ちだけは避けたいという真田家暗黙の了解があったと思われますthink

空になった支城を占拠した信幸は、一番手柄を立て、引き続き城の警備を命じられ、上田攻めには参加しませんでしたsign01

上田城に侵攻した約四万の秀忠軍は、早期に決着をつけるべく、刈田作戦を採用しますnew

作戦の概要は、囮の兵に城外の稲を刈り取らせる事によって、籠城している真田軍をおびき寄せ、予め潜ませていた伏兵とともにこれを要撃sign03更に、逃げる敵に乗じて、城内に突入、一気に城を落とすimpactという物でしたgood

しかし、昌幸はこれを察知し、敵の逆手を取った作戦を採りますgood

作戦通り真田軍は刈田中の徳川囮軍を攻撃、わざと追撃されると見せかけて、城に退却しましたdelicious

そして、徳川軍城門付近迄、十分に引きつけた後、鉄砲・弓の雨を降らせましたthunder

不意を突かれた徳川軍は、たちまち大混乱に陥り、退却しようとしましたが、真田軍の逆襲を受け、大損害を受けてしまいましたweep

同時に秀忠の本陣も奇襲を受け、秀忠は単身馬で小諸に脱出したといいわれていますbearing

この後、付近のせき止めていた川を決壊させて、徳川軍を水浸しにする等、第二次上田合戦は真田の大勝利に終わりましたhappy01

大敗した秀忠軍は、最初に上田城から出て来た兵が、囮である事を見抜けずに追撃、敗北の原因を作った部隊の責任者を軍令に照らして処断しましたweep

この時処断された者の中に、大久保忠隣の家臣がいましたdanger

この処罰は、本多正信が強硬に主張しましたsign01忠隣は家臣の命を助けようとしたのですが、主人に累が及ぶ事を恐れた家臣は、潔く自刃を遂げましたweep

忠隣の怒りと悲しみは深く、『正信を恨む事甚だしannoy』であったといわれていますng

後年の幕府を二分した正信と忠隣の対立の発端は、この出来事にあったと思われますdanger

大敗に暫し茫然自失の態だった秀忠は、上田城攻略を断念、抑えの兵を残したまま中山道の西に向かいましたdash

ところが、あいにくの悪天候が重なってしまい、9月15日の関ヶ原合戦があった時点で、秀忠軍はまだ妻籠を彷徨っている有様でしたwobbly

決戦は家康の戦略と調略と幸運sign02(敢えて、幸運と書きます・・・)よって、徳川軍(東軍)の勝利に終わりましたが、中山道から合流して来る段取りだった秀忠軍が、全く戦力にならず、家康はまさに、薄氷を踏む思いであったに違いなかったでしょうcoldsweats01

その後、家康軍は関ヶ原で秀忠軍を待つ事なく西へ進軍sign01石田三成の居城佐和山城を落としましたsign05

秀忠は9月20日に至って、漸く大津にて家康と合流しましたsad(偶然ですが京極高次が籠城戦を戦った大津城のあった所ですねthink

大決戦に嫡男が間に合わなかったという大失態に対して、家康は流石にカンカンに怒っていたのでしょうannoy

秀忠の対面の願いを聞き入れませんでしたthunder

秀忠は3日間、大津の宿舎で謹慎を余儀なくされますweep 

同時にこの3日間は、家康の怒りを解くべく、家臣達が奔走した期間でもありますnew

一連の周旋が功を奏したのか、秀忠は家康との対面を許されますconfident

この続きは次回とさせて頂きますsoon

[ 2011年09月21日12時14分53秒 ]

秀忠(秀忠大遅参の真相その2)

徳川の天敵であった真田一族despair

秀忠が関ヶ原に間に合わなかった直接の原因は、真田昌幸・幸村父子の籠った上田城攻撃の不手際にありましたdespair

上田合戦と呼ばれるこの戦いですが、実は2回行われたのですdanger

第一次合戦は天正13年(1585)に行われましたsign01

この頃、信濃・上野両国は、徳川と北条・上杉三家との間で、領有を巡ってのつばぜり合いが、繰り広げられていましたnew

信濃と上野に所領を持っていた真田昌幸は、この強国三家に挟まれながらも、巧な外交折衝によって、自領を守っていましたhappy01

当時、真田家は徳川家に臣従していましたが、上野沼田領を北条家に明け渡せという家康の命令を拒否して、上杉と同盟を結びましたdash

この命令は、先年結ばれた、徳川家と北条家との和睦の条件に基づいて出されたのですが、真田昌幸としては折角、苦労して手に入れた沼田領を簡単に、北条家に渡したくはなかったのでしょうthink

面目丸潰れの家康は、配下の武将に上田城を攻めさせたのですが、昌幸の機略の前に多くの死傷者を出して、撤退を余儀なくされましたdespair

この戦の後、真田昌幸は、豊臣秀吉に臣従を誓ったのですが、家康は真田の実力侮りがたしと思ったのでしょう・・・new

徳川四天王本多忠勝の娘である、小松姫を自らの養女として、昌幸の長男信幸に嫁がせ、懐柔を図ったのですok

関ヶ原の合戦の折り、真田父子は下野国小山で対策を協議しましたdanger

後背常ならぬ、真田家の出した結論は・・・

昌幸と次男幸村は、三成方にgood

長男の信幸は、徳川方に味方するという物でしたrock

家康の養女を正室に貰っていた信幸同様、弟の幸村は、秀吉配下の俊才で石田三成の盟友でもあった、大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を正室に配していましたnew

昌幸は長男を徳川、次男を豊臣の縁者にして、将来起こり得る、天下大乱を見越した布石を打っていたのですok

言うまでもなく、この選択は、戦の結果がどうなっても、どちらかが生き残る事を目指したものでしたsign03

中小大名真田家を後世に残す為には、致し方なかったのでしょうthink

昌幸・幸村父子は小山の陣地を離脱、上田城に戻りましたok

さて・・・

家康と打ち合わせて中山道を西に向かってた秀忠軍でしたが、道筋にある上田城に開城を勧告しましたthink

昌幸の戦略はずばり、秀忠軍を美濃路で行われると見られた、主力決戦に間に合わせない事でしたgood

したがって、上田城にできるだけ長く足止めさせる事が最優先でしたok

まず、徳川軍からの開城勧告に対して、『数日後に城を明け渡すので、暫く猶予をsign03』と答えて時間を稼ぎ、数日後にしびれを切らした使者に、『考えが変わったsmileこの城落とせるものなら、落としてみるがよいpunchお相手仕るsign01』と

いきなり、掌を返した様に、宣戦布告を行ったのですimpact

無為に数日間待たされた挙句の、開城拒否に徳川軍は激怒しましたthunder

総大将の秀忠は周知の通り、今回が初陣であり、冷静さを欠いていたのかもしれません・・・think

秀忠の補佐役として付属されていた、本多正信や榊原康政等は、上田には抑えの兵を配置して中山道を先に急ぐべきであると進言したと思われますok

しかし、タケ海舟が思うには、秀忠側近には、『真田断固攻めるべしsign03』と強硬に主張した人物がいたと思っていますnew

それは誰か・・・sign02

秀忠側近の最有力者であった大久保忠隣(おおくぼただちか)でありましたdelicious

第一次上田合戦で、徳川軍は真田昌幸に苦杯を喫したのですが、この時、徳川軍の総大将だったのが、忠隣の父忠世(ただよ)でしたdespair

この戦いは、家康自ら戦闘指揮を執っていた訳ではなかったのですが、徳川軍にとって屈辱的な敗北でしたban

忠隣はこの機会に、先の合戦のリベンジを果たすとともに、父の汚名をも一気に晴らそうと意気込んだのかもしれませんnew

秀忠も真田に適当にあしらわれて、怒り心頭に達していたと思われますannoy

こうして、『真田如き、簡単に踏みつぶしてやるimpact』というイケイケドンドン的な勢いの中、上田城攻めが始まったのですdash

しかし、既に秀忠は真田の術中に、完全にはまっていたのですshock

このお話の続きは次回に致しますsoon

[ 2011年09月20日11時08分01秒 ]

江(秀忠大遅参の真相・・・その1)

なぜ関ヶ原に間に合わなかったのかsign02

関ヶ原の戦いは、徳川秀忠にとっては、一軍の総大将として初めて迎える大いくさでありましたsign03

天正7年(1579)生まれの秀忠は、既に21歳になっていましたが、この年齢まで実戦経験を全く、積んでいませんでしたdespair(小田原北条征伐には参陣していますが、実際の戦闘には参加していませんでしたthink

父家康にとって、今回の戦は豊臣恩顧の武将達を主力とした云わば、混成軍を率いるという大変、舵取りが難しい物でしたdespair

巧みな政略によって、石田三成憎しで凝り固まっていた彼らを味方にしていたのですが、大坂城に入った三成の戦略によっては、彼らが三成方に寝返る恐れは十分、考えられたのですthink

想定された可能性としては・・・

①大坂屋敷に残っていた家康に味方する諸将の妻子を、大坂城内に監禁して人質にするsign01

この作戦は実行されたのですが、細川忠興正室ガラシャがこれを拒否の上、自害するという事件が勃発した為、同じ様な事件が起きる事を恐れた三成は、以後人質を取る事を躊躇してしまいましたdanger

②秀頼が三成方の総大将として大坂城より出馬して、戦場に出てくるsign01

家康はこれを一番、恐れたと考えられますgood豊臣家当主秀頼が出て来たら、家康に従っている豊臣恩顧の武将達はたちまち、家康を離れて秀頼の元に参じてしまう確率は極めて高かったからですup

しかし、まだ10歳に満たない秀頼の出馬を生母の淀が認める訳がありませんでしたng

三成も淀の拒絶を振り切ってまで、秀頼を戦場へ伴って行く事は出来ませんでしたbearing

家康はその辺りの事情も読んでいたと思われますscissors

とは言っても、混成部隊を率いての、不安要素が満載の戦である事には変わりありませんでしたcoldsweats01

そこで、家康は三成挙兵を知って、下野国小山まで戻って来た時、次の様な決断を下しましたhappy01

①豊臣恩顧の武将達を先鋒として東海道を西上させるsign01

②自身は江戸に戻って、彼らの去就を見極めた後、後続部隊を引連れて西へ向かうsign01

③秀忠は別動軍を率いて、中山道を進み、美濃国赤坂宿で本隊と合流するsign01

美濃国での合流を企図している所以は、決戦場は美濃近江近辺であると読んでいたからだと思われますok

この時、家康が指揮した後続部隊は、実に僅かな兵力でありましたhappy01一方の先鋒部隊は福島正則、浅野幸長、細川忠興、黒田長政等の豊臣恩顧の武将達が主力を構成していましたdanger

家康は彼らの動向を監視する意味を込めて、徳川三傑の井伊直政と本多忠勝を軍艦として同行させていたのですnew

問題の秀忠軍の陣容ですが、徳川軍団の主力がほとんど全てといっていい位、編入されていましたwink

家康は戦経験の無い秀忠の補佐役として、三傑今一人の人物である榊原康政(さかきばらやすまさ)を付属させていましたok康政はこの前後から秀忠付きになっていたみたいですgood

この他、秀忠には家康腹臣の本多正信と、以前から秀忠側近であった大久保忠隣(おおくぼただちか)が脇を固めていましたhappy01後年秀忠が二代将軍に就任した折、両翼となった2名でありますdanger(この2人が後年、徳川幕府初期最大の権力争いを繰り広げる事になります・・・dangerdanger

家康は不安材料が残る秀忠補佐の人材に、最大の配慮を払ったと思われますdelicious

こうして、家康は先鋒軍の奮起を促し、彼らに一定の戦果を収めさせた後、江戸を出発して彼らと合流しましたok

そして美濃国大垣城に本営を置く三成方を無視して、一気に三成の居城佐和山城を攻撃すると見せかけて、彼らを関ヶ原に誘い出す事に成功しましたok

ここまでは家康の計画通りであったと思われますが、どんでもない誤算が発生していたのでしたimpact

徳川主力軍を率いていて既に、合流していなければならない筈の秀忠が未だ、到着していなかったのですshock

秀忠は一体、何をしていたのかsign02

彼は関ヶ原から遠い、信濃国上田城攻めに難渋していたのでしたng

なぜ、そんな事になっていたのでしょうかsign02

ひと言では説明できない状況が、背後にあったのではと思われますthink

このお話の続きは次回に致しますsoon

 

[ 2011年09月17日10時50分27秒 ]

家康の諱名について

久々に歴史豆知識のコーナーですhappy01

今回は徳川家康の名前について見て行きたいと思いますhappy01

家康の祖父は清康(きよやす)・父は広忠(ひろただ)と名乗っていましたhappy01

家康以前の松平家歴代を眺めると・・・

親氏ー泰親ー信光ー親忠ー長親ー信忠ー清康ー広忠ー家康

名乗りの字に、親とか忠を用いられていますねok

さて、家康の幼名はご存じ竹千代でしたが、駿河今川家に人質として滞在していた頃に元服をしましたconfident

その時、今川義元の一字を貰って、元信(もとのぶ)と名乗りましたhappy01

武家や公家の間では、主君または、自分が今後、庇護を受けなければならないと思われる人物の、名乗りの一字を賜るという習慣がありましたwink

これを一字拝領といいますnew

当時の徳川家(この時は松平家)は今川家の従属下に置かれていましたthink

竹千代が保護者である今川義元の一字を賜るのは当然の事だったと思われますgood

また、諱名を賜る場合、拝領した人物の一字を、名前の最初に持って行くかそれとも、後に持って行くのかで、与える側と受ける側の力関係も、自ずと見えて来ますdanger

元信の場合は、元の字が最初に来ていますから、今川義元に対する従属性の強さが窺われますsign01

その後、元信は元康と改名しましたokこの改名の真相は、信の字が織田信長の信を取ったのではsign02

という嫌疑を今川家中より受けた故の防衛策と見られていますgood

康の字は松平家最盛期を築いた祖父清康の一字から取った物でしたok

桶狭間合戦で今川義元が討ち死した後、元康は信長との同盟を結び、今川家の決別を宣言しましたsign03

同家との絶縁を公に示したのが、元康から家康への2度目の改名でしたnew

家という字をどこから取ったのかはわかりませんが、独立して、松平家という家を背負う決意を示す目的で、家の字を用いたと思われますgood

更に、家康は苗字も変えてしまいましたconfident

松平家は、清和源氏の支流である新田氏庶家の一つ、得川(とくがわ)氏の流れ汲む由緒ある家筋であるという理由から姓を徳川に改めたのですhappy01

この時、何故得川を名乗らなかったのかはよくわかりませんが、家康は後年の征夷大将軍就任工作の過程でも、自らを源氏の子孫である事を証明する切り札として、新田源氏の支流得川氏後胤(子孫)である事を持ち出していますshine

(武家政権の枠組みである幕府を開く為には、朝廷から征夷大将軍に任ぜられなければなりませんでしたdanger源頼朝以来、征夷大将軍には源氏出身者しか就任できない事になっていましたdanger)←例外はありますが・・・

家康の名前についての遍歴は以上の通りですhappy01

次は家康の子供達について見て行きたいと思いますsoon

[ 2011年09月16日17時24分49秒 ]

江(大軍師黒田官兵衛誕生秘話)

半兵衛は自分の夢と理想を官兵衛に託したsign03

竹中半兵衛は死に臨んで、自らの後継者を秀吉の為に遺しておいたsign03

結論を端的にいえば、以上の通りになりますhappy01

半兵衛は自分の命が間もなく尽きる事を悟っていましたdespair

彼は単なる戦略・軍略・用兵ばかりに精通していのではなく、外交や内政面でも、高度な能力を有していましたok

更に、踏み込んだ物言いをすれば、自らの確固たる、理念、信条、倫理を有しており、それを念頭に政治・軍略方針を秀吉に諸々献策していたのですnew

彼の究極の理念は、戦国の世を一刻も早く終焉させ、平和な時代を作り上げるsign03という物でしたhappy01

半兵衛は最初、美濃国斎藤家に仕えていましたが、当主斉藤龍興(たつおき)に見切りをつけて織田家に随身しましたhappy01

『美濃一国どころが天下を制するといわれていた半兵衛を味方に引き入れよsign03』という織田信長の命令を受けた木下秀吉(当時)の説得に応じたものでしたgood

ところで、面白いことに、半兵衛は信長には仕えず、秀吉の配下になる事を希望したのでしたnew

なぜかsign02といえば、難しいのですが、彼は戦国の時代を終わらせる為には、まず第一に、強大な力による統一が必要であると考えていましたgood

しかし、その強大な力には、徳という人を心服させるソフトな要素が、加味されなくてはならないdanger

半兵衛が見るに、信長は強大な力と世の行く末を見通した先見性に富む、傑出した人物でありましたが、残念な事に新しい世を治めるのに不可欠な徳が、致命的に欠如していましたdespair(天下布武というスローガン達成の為とはいえ、余りのも、人の命を粗末にし過ぎるgawk

半兵衛は、信長によって天下はある程度、統一されるだろうと予想していましたが、その雄図半ばで、その致命的な欠陥(苛烈・無慈悲・酷薄という)によって、命を失うであろうdangerとも見越していたのかもしれませんnew

その場合、彼が信長の代わり(若しくは実質的な後継者候補)として、白羽の矢を立てたのが、木下秀吉であったsign03

タケ海舟はそう思っていますup

秀吉は別名、人たらしの名人と言われ、人心掌握に長けていましたok

半兵衛も彼の人たらしぶりに根負けして、秀吉配下になったのですが、反面、彼の短所も的確に見抜いていましたnew

秀吉の短所を、ひと言で表現するならば、厳格な倫理観・・・つまり生き方を制御する価値観や、人が先天的に有している品性に欠けていたという事でしょうかban

殺すか殺されるかの戦国の世に倫理も信義もあるかsign03といわれるかもしれませんが、この時代でも仏教的な裏付けによる道徳倫理観は厳然と、存在していましたok

同時に武士には礼節に生きる人間でしたok身分の高い武将や武家の家に生きる人たちが、生まれながらに持っていたのが品格(品性)でありましたgood

秀吉には元来、武士ではなく、そうした倫理的な自己抑制という束縛には無縁でした・・・gawk

そこが、お市や柴田勝家、そして千利休と秀吉が相容れなかった遠因であったのかもしれませんdanger

しかし、数ある欠点をさておいても、秀吉は信長と異なり、人には好かれるhappy01無節操だけれども、無慈悲ではないhappy01

半兵衛はしっかりとした補佐役が付いていれば、秀吉は戦乱を収束させて、新しい秩序の下、平和な世の中を運営出来得る人物であると見抜いていましたbleah(しっかりとした補佐役とは、半兵衛自身であることは言うまでもありませんsign01

そうした天下構想に基づいて、秀吉を補佐して来た半兵衛でしたが、自分の病を克服する術がありませんでしたcrying

一刻も早く、自分に代わる補佐役を、秀吉の為に作っておかなければならないdash

自分の寿命とにらめっこしながら、その事を考えていた彼の前に現れたのが、黒田(この時は小寺)官兵衛でしたdiamond

短期間の内に、播磨国衆の織田方に帰属せしめた手腕sign01危険を顧みずに、荒木村重の説得に単身で有岡城に赴く等の使命感sign01

前者を能力とすれば、後者は心と表現すべきでしょうかsign02

天下人になる(少なくとも半兵衛は秀吉をそのように想定していましたnew)べき人物の補佐役に必須の資質とは・・・

天下国家の行く末を見据えて、総合的視野を持って、物事を考えられる知能とok

命を危険にさらしても、自己の使命を遂行するという、不断の努力と勤勉さに裏付けされた精神でしたok

竹中半兵衛は、2つのうち、特に精神面を優先していたと思われますgood

不断の努力と勤勉さに武装された精神は、味方にはもちろん、敵にさえも、共感と尊敬を与える事ができるhappy01

そのような人間的に深みのある人物こそ、天下人の補佐役(つまり自分の後継者)が勤まるdiamond

半兵衛はその資質を、官兵衛に見出していたのでしょうok

彼は有岡城に行ったまま帰って来ない官兵衛は、必ず生きていると確信していたのでしょうgood

『自ら亡き後の軍師として活躍してもらわなければならない男の心を壊す様な(松寿丸を殺すという)愚かな事を、信長の命令だからと言って、実行する訳にはいかないsign03

『秀吉は正面切って、信長に抗命する事はできないので、自分が松寿丸処刑を引き受けるかに見せかけ、秘かに彼を保護する事にしよう』

『もし、信長に工作がばれたとしても、恐らくその時まで自分は生きてはいまいgood秀吉には死んだ半兵衛が勝手にやった事だといわせれば大丈夫だろうok

半兵衛はそこまで考えていたのかもしれませんnew秀吉にも一連のカラクリを伝え、彼の許可を得ていた可能性は極めて高いと思われますok

恐らく、秀吉もこの芝居を承認した事でしょうscissorsもし、官兵衛が生きていて松寿丸が無事である事を知れば、音信不通になって、裏切り者の烙印を押されても致し方のなかった自分を信じてくれたばかりか、信長の命令に背くという危険まで冒しても、わが子を守ってくれたおのれに、以後、絶対の忠誠を誓う事は自明の理であったからですhappy01

結果的に、その後の成り行きは、半兵衛と秀吉の考えたシナリオ通りに進みましたhappy01

官兵衛は無事、有岡城から救い出され、秀吉と信長から絶対の信頼を勝ち得る事になったのですok

もちろん、その時点では半兵衛はこの世を去っていましたが、官兵衛は自分を最後まで信じ、庇ってくれた半兵衛に感謝の気持ちを忘れませんでしたgood

自分が彼に報いる道は何かsign02

『秀吉を助けて、彼を天下人に押し上げ、徳によって治める国造りに邁進するsign03

黒田官兵衛の頭の中には、これ以外には考えられなかったのでしょうok

竹中半兵衛重治こそ、後の大軍師黒田官兵衛を作り上げた大人物であったsign03

と言えるでしょうok

気がついてみると、めちゃくちゃ長い文章になっていましたshock

次回は軍師官兵衛と秀吉の関係について眺めて行きたいと思いますsoon

 

補足delicious

信長は官兵衛が救出された事を知った時、色を失ったといわれていますshock

彼が裏切ったと判断して、松寿丸殺害を命じていたからですthink

当然、命令は実行されたと思っていましたから、官兵衛に合わせる顔がないと思った筈ですgood

半兵衛の計らいで松寿丸が生きていた事を知った信長は、命令違反を咎めるどころか狂喜したと伝えられていますok

終わり良ければ、すべて良しというのは、この様な事をいうのですねcoldsweats01(半兵衛は本当に偉いshine

[ 2011年09月14日11時22分43秒 ]

江(高次と初の関ヶ原その2)

地獄の籠城戦の果てに待っていたものは・・・sign02

高次が大津城に立て籠もったという急報を受けて、慌てたのは石田三成でしたcoldsweats02

三成は、これより先に、徳川方に味方した諸大名の妻子を人質として、大坂城で拘束しようとしたのですが、細川忠興夫人ガラシャに自害をされてしまうという失策を犯していましたsad

彼女の死によって、第二・第三のガラシャが現れないという可能性も否定できない情勢下、以後三成は人質を取る事が出来なくなってしまったのですweep

そればかりではなく、『卑劣な手段を取る三成めsign01許すまじannoy』という風に、徳川方諸将の自分に対する憎しみを更に倍加させる結果を引き起こしていましたshock

この辺りが三成の戦略家としての甘さであったのかもしれませんgood

京極高次の両天秤に関しても三成は、『高次は淀の方の妹初を正室にしているので、裏切る事はまずあり得ないだろうdelicious』と高をくくっていたのでしょうかsign02見事に、騙されてしまいましたweep

東海道・北陸道に通じる大津城が徳川方になったら、大坂城と美濃方面に展開しようとしていた自軍主力が分断される事になりますcoldsweats02

怒り狂った三成は、大津城付近にいた毛利元康(元就の八男)と立花宗茂(たちばなむねしげ)(秀吉・家康から真の武士といわれた人物です)に大津城を攻撃させましたimpact

攻囲軍は1万または2万以上ともいわれましたが、対する京極軍は僅かの兵で必死の防戦に努めましたrock

攻防戦は、9月7日から始まり、13日にはいよいよ本丸のみを残す状況までに追い詰められてしまいましたweep

この時、大津城内には高次正室の初や姉の龍子も立て籠もっていましたsign03彼女達も、城兵たちに握り飯等の炊き出しをしたり、女中達を督励する等して、懸命に高次の籠城戦を助けましたdanger

初にとっては生まれて3度目の籠城でしたweep(最初は小谷城、二度目は北之庄城)この時、京極家正室であった初の内助の功は、実に見事な物であったと伝えられていますscissors

恐らく、彼女は夫と命運を共にする覚悟を固めていたと思われますthink

14日を迎え、遂に総攻撃が始まると思われた寸前、大坂城の淀と京都の高台寺に隠棲していた北政所(既に落飾して高台院と名乗っていました)からの和睦を勧める使者が到着しましたnew

淀も高台院も初や龍子たちの身を案じて、なんとか最悪の事態だけは避けたいという気持があったと思われますsad

高台院側近の孝蔵主(こうぞうす)の説得を、高次は一度は拒否impact討ち死の決意を固めたのですが、近臣達の説得を受けて遂に城を明け渡す事を決断しましたweep

翌日の15日、高次は剃髪して、高野山に入りましたthink

彼にしてみれば、家康の要請を受けて、大津城に籠城して三成方の兵を分断の上、兵力の分散を謀るという役目を引き受けたにもかかわらず、結局落城の憂き目を見てしまったweep役目も十分に果たせず、家康にも会わす顔がない・・・

しかも、三成方と敵対した事は、大恩ある豊臣家に背いたのも同然・・・最早自分の大名生命は終わったcrying

弟の高知が家康に従軍しているので、徳川方が勝った場合は、彼の下で京極家は存続できるかもしれないが、自分は、二度と陽の目を見る事はあり得ないだろう・・・despair

かっては室町幕府四職(ししき)とまで謳われた名門京極家の再興を目指し、懸命に努力を続け、ようやく家運を盛り返したかに見えた矢先に、一番肝心な時に運命の選択を誤ってしまったbearing

この時の、高次の無念を思うと察するに余りありますweep

しかし、彼の大津城退去の日は、奇しくも天下分け目の関ヶ原大戦が始まったその日でもあったのですnew

そして、三成方の小早川秀秋達の裏切りによって、わずか半日で徳川方の勝利に帰したのでしたok

結果的に大津城を攻めていた約2万の軍勢は、決戦に間に合わなかった訳ですng

単純に兵の数だけで判断しますと、徳川方に寝返った小早川軍他の兵力がおそよ2万弱であったので、仮に大津攻城軍が関ヶ原に到着していたら、勝敗の帰趨は1日では決まらなかったかもしれませんねthink

合戦が終わってから判明したと思われますが、大津城で8日間に亘って、敵の有力な軍勢を釘付けにした高次の働きは、徳川の勝利に大変な貢献をもたらした事になったのですdiamond

当然、家康もその事はわかっていたので、戦後早速、高野山に使者送り、高次に山を下りる様に説得しましたscissors

当初、高次は応じなかったのですが、弟の高知が高野山に赴き、直接説得に当たった為、山を下りる事を決意しましたconfident

家康は高次の功績を高く賞し、彼に若狭国一国8万5千石を恩賞として与えましたok

己の危険を顧みず、かつ、豊臣家と縁深い関係にもかかわらず、自分に合力する道を選んだ彼に対して、厚く報いたのですflair

もちろん、高次の正室初が、家康の嫡男秀忠の正室江の姉であった事も、考慮されたと思われますが、高次は自らの力で若狭国を手に入れたと言っても、過言ではない位の働きをしたのですscissors

京極高次は、以前姉を秀吉の側室に差し出したので、出世したと陰口をたたかれていたのですが、実際の彼は戦国武将としての覇気と資質に富んだ気骨ある人物であったのでしょうhappy01(決して、蛍大名なんかではありませんでしたsign03

高次のお話はひとまず、ここまでにしたいと思いますsoon

[ 2011年09月13日15時44分59秒 ]

江(高次と初の関ヶ原その1)

京極高次と初の決断sign03

昨日の放送でいよいよ関ヶ原に突入しましたねhappy01

実は、この天下分け目の大戦は、美濃国にあった交通上の要衝で、東西両軍約20万以上の大軍が雌雄を決したのですか、実際はこの戦と前後して、全国各地で徳川方と石田方(豊臣方ではなく敢えてこう書かせて頂きますsign01)の戦が行われましたdanger

いくつかあった局地戦で、最も激しい戦だったのは、初の夫 京極高次が籠城した大津城攻防戦でしたsign03

大津は、京都から近江国、更には北陸道や東海道に出る交通上の要地でしたok

石田三成率いる西軍は大坂や京都を制圧後、軍を東海道・北陸道・伊勢方面の3か所に進めようとしましたgood

この時、大津を抑えていた京極家は、最初は西軍に味方する事を表明したのですが、軍を突然返し、居城の大津城に立て籠もりましたdash

ところで、これより前、家康は会津の上杉征伐に向かう折に、大津城に立ち寄っていましたnewこの時、家康とどんな密談があったのかはわかりませんが、『東海道への出口である大津城で、西軍を食い止めて貰いたいsign01』という依頼を受けていた可能性は極めて高かったと思われますthink

タケ海舟は高次は家康・三成どちらに付くべきか、かなり迷っていたのではと考えていますgood

ドラマで触れられていなかったのですが、彼には姉の龍子(秀吉の側室)の他に高知(たかとも)という同母弟がいましたdanger

この高知も秀吉に仕え、信濃国飯田10万石の城主となっていましたhappy01(ちなみに兄の高次は大津6万石でした。武将としては兄より優れていたのかもしれませんね)

家康から援軍の懇望を受けた高次は、この弟の高知を家康軍に同行させましたok

ところが、間もなく、関東に下った家康を討つべく、三成が軍勢を率いて大津城に入城しましたng

高次は三成方に同心する証しとして、嫡男の熊麿(後の忠高《ただたか》江の四女の婿になる人物ですscissors)を人質として大坂に送りましたthink

その一方で、徳川方には弟を従軍させていたのですから、ギリギリまで躊躇していたのですねdespair

彼女の姉龍子は秀吉の寵愛深かった側室sign01正室初の姉淀は豊臣家当主秀頼のご生母様sign01

同時に、妹の江は徳川秀忠の正室でありましたgawk

関ヶ原合戦の折り、徳川・石田どちらが勝っても、家を存続出来る様に、父子または兄弟が敵味方に分かれて戦った諸大名達がかなりいましたdanger

よく知られているのが、秀忠が世紀の失態を演じる直接の原因を作った、信濃国上田城主真田家が挙げられますgood

真田家は父昌幸(まさゆき)と次男幸村(ゆきむら)が石田方に、長男信幸(のぶゆき)は徳川方に属していましたconfident

運命の岐路に立たされていた武将達は、悪い目が出ても家だけは残そうweepという生き残り戦略に四苦八苦していたのですね・・・(大変な時代ですweep

お話を京極家に戻しますが・・・wobbly

先ほども述べた通り、豊臣と徳川どちらとも深い関係を持っていたた為、どちらに味方しても角が立つという複雑な立場に高次と初は置かれていたのですweep

しかし、高次は思い切った行動に出ましたnew

合流していた石田軍からいきなり離脱sign01大津城に戻り、籠城の準備を始めたのですthunder

なぜ、彼がこのような決断を下したのかは、よくわからないのですが、京極高次は一世一代の大勝負を挑んだ事になりますねok

次回は高次の大バクチの顛末について見て行きたいと思いますsoon

[ 2011年09月12日18時06分14秒 ]

江(秀吉の二兵衛)

秀吉の軍師の両輪 竹中半兵衛と黒田官兵衛sign03

さて・・・confident

黒田官兵衛が裏切ったと判断した信長は、彼の嫡男松寿丸を処刑する命令を秀吉に下しましたthunder

正直秀吉は困惑したと思います・・・確かな証拠もなく松寿丸を殺害する事に躊躇した筈ですthink

しかし、信長の命令は絶対でありましたimpact逆らうと、今度は自分の身が危うくなる事は明白でしたweep

ましてや、この数年前の天正5年(1577)には、秀吉は上杉謙信と対陣していた柴田勝家軍の援軍として、北陸に赴いた折、軍議の席上で勝家と口論となり、勝手に戦場離脱したという軍紀違反をしでかしていましたshock

この時は、大和国で起きた謀反を鎮圧した手柄で、何とか信長の許しを得る事ができたのですが、これ以上の失点や抗命は許されない立場にあったと思われますweep

結局泣く泣く、松寿丸処断を受け入れたのですが、この時、秀吉に松寿丸殺害を思いとどまる事を進言した人物がいましたnew

その人物とは、秀吉の懐刀であった竹中半兵衛重治(たけなかはんべいしげはる)でありましたdanger

ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、『智謀泉の如し』といわれ、秀吉の出世物語の前半を彩った大軍師でありましたok

美濃攻め・近江浅井攻め、そして、今回の中国攻めと文字通り、秀吉の帷幕には常に、半兵衛の姿がありましたshine

しかし、元来病弱であった半兵衛は、以前から患っていた労咳を中国遠征の頃には、極度に悪化させていましたweep

陣中で療養しながら、軍議では様々な献策を秀吉に行うという日々を送っていたのですが、半兵衛の命があまり、長くない事は、誰の目にも明らかでしたbearing

ちょうどこの様な時に、黒田官兵衛は秀吉の知遇を得る事になり、次第に頭角を現して来ていましたok

秀吉の播磨国平定期の数年間は、『秀吉の二兵衛』と言われた半兵衛と官兵衛が並立していた事になりますsign03

官兵衛より少し年長だった半兵衛は、才気煥発で自信家の年下の男をどう見ていたのでしょうかsign02

はっきりとした事はわかりませんが、才能が顔に出て独り歩きをしている官兵衛の前途を危ぶんでいたのかもしれませんthink

一方の官兵衛から見た先輩軍師(秀吉配下の竹中半兵衛の名声は既に知れ渡っていた筈です)の姿は、どういう風に映ったのでしょうかsign02

病魔に蝕まれ、最早先が長くはない彼に代わって、自分が秀吉の軍師となって、思う存分腕を振るおうと秘かに機を窺がっていた事も否定できないでしょうnew

しかし、『軍師は軍師の心の内を知り得る』という譬え話もある通り、軍議の席で作戦を戦わせながら、お互いに尊敬の念を持ち、短い期間の内に友誼を重ねる関係を築いていたのかもしれませんnew

タケ海舟は、半兵衛が官兵衛の子松寿丸の命を助ける様に、秀吉に勧めたのは、両者の間に確固たる信頼関係があった所以ではないかと確信していますgood

では、半兵衛は如何にして松寿丸を守ろうと考えていたのでしょうかsign02

その辺りのお話は次回にさせて頂きますsoon

[ 2011年09月09日17時07分23秒 ]

江(高野山にある江のお墓について)

ブログの4月16日投稿に記事について、高野山にある江のお墓の事について、ある方からコメントを頂きましたhappy01

タケ海舟の始めたブログで実に2人目のコメント投稿者であり、しかも、今年に入って初めてのコメントを頂いたので、嬉しくて少々、舞い上がっていますhappy02

ブログは更新を続ける事。次に、訪問者を増やす事。そして、コメントを貰える様な内容にする事sign03

昨年からこのサイトを始めて、上記の3点を心がけてやっていましたconfident

今年に入って、最初の2つはほぼ、軌道に乗ってきたのかなと思ってますが、最後のコメントを頻繁に頂くという目標については、まだまだ達成には程遠い状態ですgawk

しかし、頂いた以上はご返信をしなければと思っているのですが、コメント返信機能がよくわからず、使いこなせないので、このページに投稿という形でご返信させて頂きますgood(ご容赦願います)

 

前にも書いたと思いますが、歴史上の人物のお墓は、ひとつではなく、複数あるみたいですhappy01

タケ海舟はあまり詳しくはないのですが、お墓には埋葬者のお骨が納められている本来のお墓とは別に、供養塔という物もあるみたいですthink

時代を過ぎると、本当のお墓のあったお寺が、火災で焼失したり、立ち退き工事等で他に移ったりしてお墓の場所を特定出来なくなって、供養塔だけが残っているという事も少なくないみたいですnew

ところで、高野山には前述の歴史上人物のお墓ばかりではなく、会社や企業法人の従業員や社員の供養を目的とした塔が実にたくさん建立されていますnew

実際にタケ海舟も、高野山の奥之院に足を運んだのですが、大手企業や個人会社等の供養塔の多さに、目を見張りましたcoldsweats02

仕事に従事中の事故での殉職や、戦争に召集されて戦地に赴いて戦死した社員や従業員そして、その家族の為に建立された物であるという説明を現地ガイドがしていましたgood

問題の江のお墓ですが、徳川将軍家の菩提寺である増上寺に正式なお墓がありますsign01

(ちなみに、ご主人の秀忠も同じ場所に葬られていますgood

そして、高野山にある江の墓は、正しくは供養塔であると思われますok

周知の通り、高野山は弘法大師空海が建立した真言宗総本山ですが、歴史が進むに連れて、時の権力者の厚い信仰と庇護を受けるようになりましたhappy01

戦国時代でも、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・上杉謙信・武田信玄・明智光秀・石田三成等、多くの武将達の供養塔が置かれていますscissors

彼らの進行する宗派は必ずしも真言宗ではなかった筈ですが、『全ての人間は死を迎えたら平等である』という宗旨宗派を問わない仏教的な観念が、当時からあったと思われますnew(前世での敵味方は関係ないという事ですね・・・)

江のお墓は、墓碑の中でも最も大きく、一番石とも呼ばれていますhappy01

ちなみに、二番石は広島浅野家・三番石は加賀前田家でありますnew

浅野家には、江の最初の子供完子の孫娘が正室・継室として浅野綱晟に嫁いでおり、彼女達を通して江の血が浅野家に入っていたのですねsign03(綱晟は家康の三女振姫の息子光晟の嫡男)

また、前田家には江と秀忠の次女珠姫が前田利光(後利常)に嫁いでいましたscissors珠姫は利光嫡男の光高を生んでいますので、江の血筋の入った家が高野山の墓石のトップ3を独占していた訳でありますdiamond

お墓を通して歴史上の人物を足跡を眺めてみるのも、新しい発見に出会えるきっかけに繋がるかもしれませんねsoon

[ 2011年09月08日08時43分58秒 ]

江(官兵衛の受難)

毛利に寝返った有岡城の荒木村重の説得に向かった官兵衛ですが、一向に播磨国に戻ってくる気配はありませんでしたdespair

村重との交渉の経過報告もなく、そのまま音信不通となってしまったのですcoldsweats02

実はこの時、官兵衛は村重の説得に失敗したばかりか、反対に有岡城内の土牢に閉じ込められてしまっていたのですban(連絡ができる訳がありませんねweep

彼自身、説得に自信をもっていたみたいですが、既に、彼の主家である小寺氏も、別所長治とともに村重との共闘を決めていましたwobbly

そればかりか、村重に書状を送り、官兵衛が城に赴いたら躊躇なく、始末してほしいという依頼までしていたのですthunder

つまり、官兵衛は主君にさえも裏切られていたのですweep(諺に、灯台下暗しとはよく言ったものですね・・・)

村重に捕えられた官兵衛はそのまま1年以上の長き間、有岡城内の牢で幽閉生活を送る事になりますshock

村重はなぜ、官兵衛を殺さなかったのは不明ですが、環境の劣悪な土牢に1年以上も置いておかれれば、健康も害する事になりますbearing平たく言えば、そのまま牢内で自然死する事を願っていたのかもしれませんcrying

しかし、官兵衛は味方との連絡がままならない絶望的な状況の中でも、必死に生き続けていましたshock

官兵衛は結局、1年後の天正7年(1579)に有岡城を攻め落としたと秀吉軍に従軍していた、家臣によって救出されたのですが、この時の彼の容貌は、髪も髭も伸びるに任せ、皮膚は青白くむくれる等の変わり果てた物になっていましたshock『その姿、まさに幽鬼の如しであった』と当時の史料で伝えられていますdespair

更に、狭い牢内での不自然な寝起きや仰臥によって、左膝関節に障害が残ってしまいましたdespair後に、官兵衛は有馬湯で療養に努めたのですが、この障害は完治せず、以後は足を引きずって歩かざる負えない状態になってしまいましたthink

タケ海舟は1年以上の牢獄での艱難辛苦に見事に耐え抜いた官兵衛の精神力の強さに、正直感動してますgood

この時の彼の心情はどのようなものだったのかsign02よくわかりませんが、恐らく、『調略失敗という汚名を被ったまま死に果てるわけにはいかないsign01どんな状況下になろうとも、絶対生き延びて見せるsign03』という決意を秘めていたと思われますthink

ところで、お話を少し前に戻しますが・・・

官兵衛がいつまで経っても帰って来ないという状況の中、羽柴軍中では『あいつは裏切ったに違いないannoy』という声が充満していましたsign01

そして、官兵衛裏切り(若しくは逐電)の噂を信じた信長より、秀吉に非情な命令が下されたのですcoldsweats02

その命令とは・・・

『官兵衛の子供 松寿丸《しょうじゅまる》を殺せthunder』という物でしたshock

恐らく、秀吉は官兵衛の裏切りを信じていなかった筈です。『あいつは、謀略を得意とするが信義には厚い男だgood有岡城で何があったのかはわからないが、少なくとも裏切りだけは考えられないsign03

しかし、生来酷薄な信長は、『播磨国人衆が織田方に味方する為の調略を自分に任せてほしいsign01』と豪語した官兵衛の謀略活動が失敗したと(別所長治等播磨国の大部分の大名が毛利方に寝返った事実)見なしていましたimpact

しかも、毛利と頑強に信長に抵抗する石山本願寺との楔として摂津国一円を任せていた荒木村重までもが、動揺して毛利方に寝返ってしまったannoy

信長の天下計略は大きな危機を迎えていたのですdanger

全ての原因は、官兵衛の自信過剰な自惚れによる隙だらけの調略にある(彼ひとりに責任を押し付けるのは酷と思いますが・・・)と信長は断定し、官兵衛嫡男の松寿丸の処刑を秀吉に命じたものと思われますdanger

秀吉は信長と異なり、極力人命を尊重する方針を取って来ましたdangerしかし、絶対君主である第六天魔王信長の命令に逆らう事は、そのまま秀吉の破滅に繋がりましたshock

タケ海舟は秀吉は、断腸の思いで松寿丸の殺害を承諾するという返事を、信長に対して行ったと考えられますweep

しかし、ここである人物が秀吉に、奇想天外な献策を行ったのですnew

その献策を行った人物につきましては、次回にお話させて頂きますsoon

 

[ 2011年09月07日16時42分00秒 ]

江(黒田官兵衛という男)

若かりし頃の官兵衛sign03

前田利家の事をこのブログで書いている最中に、『次は誰をテーマにしようかなsign02』と考えながら、ドラマ江を視ていましたhappy01

その中で、石田三成が黒田官兵衛に家康打倒の為、協力を要請する場面が出て来ましたthink

柴俊夫さんの演じる黒田官兵衛(この時は既に出家していて如水《じょすい》と名乗っていました)はこの時、三成に対して『貴殿は志の高い人物だが、残念ながら人の心がわからない方のようだ。徳川殿と事を構えて勝算があるとはとても思えない。危ない橋を渡る気持はこざらんpunch』といって、助力を拒絶しましたweep

三成にはとても耳の痛い言葉であったと思われますが、彼自身には官兵衛の忠告を聞ける度量があまりなかったみたいですねdespair

このシーンは大変興味あるシーンでありましたhappy01

今回のドラマでは官兵衛の出番はあまり多くなく、ご紹介の場面は実に2か月ぶりの登場でしたdespair

柴俊夫さんが、天下第一の軍師(タケ海舟は間違いなくそう確信していますgood)で志の高い官兵衛を、控え目ながらも実にいい味を出して好演していたので、もっと登場させてほしいと思っていましたhappy01

そこで、これから暫くは、この黒田官兵衛について、徒然お話をさせて頂こうと思いますscissors

官兵衛の生家の黒田家は元々、近江国伊香郡黒田村の出身であったみたいですshineこの地名は現在の滋賀県長浜市木之本町黒田に相当するみたいで、これが事実なら黒田家は、秀吉が最初に城持ち大名となった長浜と極めて、関係が深い武家という事になりますgood

後年、毛利征伐の前進基地とすべく、秀吉は播磨に進出した折、同地の有力大名小寺氏に仕えていた官兵衛が秀吉に接近した事が、両者を結びつけるきっかけとなったのですが、或いは、黒田家の近江国における地縁を通じて、二人は既に、知己であったのかもしれませんnew

織田家と毛利家との係争地帯となっていた播磨国の大名達は、生き残る為にどちらに味方すべきかsign02

苦渋の選択を強いられたと思われますが、官兵衛には近い将来、織田信長の天下が訪れるという確かな確信があったみたいですhappy02主家である小寺氏の他、播磨国三木城主別所長治(べっしょながはる)をも説得して、織田家に随身させる事に成功しましたhappy01

この後、官兵衛は織田方に味方する播磨国人衆のシンボルとして、毛利征伐軍総大将羽柴秀吉の参謀として、彼の中国経略に参画する事になりますokこの時、官兵衛をまだ信頼していなかった信長の命で、長男の松寿丸(後の黒田長政)が、人質として岐阜に送り込まれています・・・(戦国の常ですねweep

官兵衛は自らの居城姫路城を中国遠征の根拠地として、秀吉に提供しましたscissorsとにかく秀吉やその背後にいる信長の疑心を解く為に、文字通り粉骨砕身の働きを見せましたdash

順調に行くかにみえた官兵衛に、大きな試錬が降りかかって来たのは、天正6年(1578)の事でしたcoldsweats02

官兵衛の主君小寺氏とともに、織田方に臣従した別所長治が突如、三木城に籠り、反織田の兵を挙げましたshock

別所氏裏切りの背後には、毛利家の調略があったと思われますban更には、播磨国と畿内諸国を結ぶ入口である摂津国を治めていた、織田家重臣荒木村重(あらきむらしげ)も毛利に呼応しましたimpact

親織田方で一枚岩となっていた播磨国人衆の突然の離脱は、秀吉率いる中国遠征軍にとって、寝耳に水であったと思われますangryしかも、京都への帰路に必ず通過しなければならない摂津国が毛利方になってしまい、秀吉軍は敵中に孤立状態の危機に陥ったのですshock

全ての発端は、播磨国人衆の離反からでしたban自らが調略を一手に引き受けた官兵衛としては、痛恨の極みであったと思われますng

とにかく、前後から敵を受ける最悪の状況を何とかしなければならないsign03

まずは、後方の安全だけでも確保する事が、当座の一手であるという結論に達したのでしょうかsign02

官兵衛は自ら、荒木村重に謀反を思いとどまる為の説得の使者として、彼が立て籠もっていた摂津国有岡城に赴きましたsign01

自らの調略の甘さがこの様な危機を招いてしまったng恐らく、官兵衛は深く責任を感じていた筈ですbanこの当時の彼はまだまだ若く、後年の大軍師といわれる様な読みの深さや、人の心の奥底までも見抜ける様な、懐の深さをまだ持ち合わせていなかったのでしょうthink(この当時彼はまだ、32歳の壮年でありましたdanger

そればかりか、失策は更なる働きで取り戻してみせるという自信過剰な一面が目立っていたのかもしれませんgood

半分自信・半分焦り(この時の官兵衛の胸中を考えるとこの言葉が当てはまるのかも・・・)という心境で、彼は有岡城を目指したのでしょうdanger

ところが、待てぞ暮らせぞ、官兵衛はなかなか播磨国に戻って来ませんでしたcoldsweats02

『あいつはきっと裏切ったに違いないsign03

秀吉軍の諸将達の中には新参者(まだ、この時点では官兵衛は小寺氏の家臣でありますが・・・)の彼を裏切り者と見なしていた者もいましたthink

秀吉は流石に、『そのような事は絶対有り得ぬsign03』と、官兵衛を弁護していましたが、元来が猜疑心の塊と言われていた信長は、そんな寛大な人物ではありませんでしたimpact

梨の礫状態になった官兵衛に怒りを爆発させた信長は、遂に酷薄な命令を下しますthunder

その命令と官兵衛の消息については、次回に致しますsoon

[ 2011年09月05日17時35分01秒 ]

歴史上の人名に関する一考察(通字)

本日は少し話の視点を変えまして・・・

江に登場して来る、人物たちの名前について、お話をさせて頂きますhappy01

公家や武家にはその家代々、人物の名前に用いる通字という物がありましたnew

たとえばwink

織田家は信の字が通字でした。信長→嫡男信忠・次男信雄・三男信孝

豊臣家は秀の字が通字でした。秀吉→弟秀長・嫡男秀頼・甥秀次・秀勝・秀保

この様に、武家や公家の名前には子々孫々用いられている通字が存在していますok

ちなみに、江の生家であった浅井家の通字は、政でありましたok

浅井三代:亮政(すけまさ)→久政→長政

もうひとつお話をするとその家の通字は必ずしも一字という訳ではなく、複数字ある場合もありましたdanger

来年の大河ドラマで取り上げられる平清盛の拠る家である桓武平氏の通字としては、盛(もり)の字が知られていますが、この他には衡(ひら)や度(のり)等が使われていましたgood

清盛周辺で、これらの文字を名前に用いた人物を見渡しますと、彼の五男重衡(しげひら)と末弟で忠度(ただのり)がいますhappy01

ちなみにライバルの清和源氏ですが、皆さんご存じの通り、義(よし)や頼(より)を通字として用いていますねok

源義朝(よしとも)→嫡男頼朝(よりとも)・九男義経(よしつね)等々 (もちろん例外もありますが・・・)

更に、もうひとつdanger

通字が二つ以上ある家には、ある一定の法則という物があったと考えられますnew

同じく来年の清盛絡みで、藤原摂関家(嫡流)を例に採るとgood

藤原頼通(よりみち)→師実(もろざね)→師通(もろざね)→忠実(ただざね)→忠通(ただみち)→基実(もとざね)→基通(もとみち)→家実(いえざね)→家通(いえみち)

こんな感じでありますshine

お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、隔代ごとに、通(みち)と実(さね・ざね)の字を交互に使っていますhappy01

もちろん藤原摂関家の、それも、ごく一時期の代しか見ていないので、一概には決めつけられませんが、公家には通字に用いる上での法則みたいな物があったのかもしれませんねhappy01(もう少し他の家を調べてみないといけませんが・・・)

やはり、人の名前はいい加減には付けられていないなsign03

という事を感じた次第でありますok

それでは、江の嫁ぎ先であった徳川家の通字の法則は果たして、どうだったのでしょうかsign02

次回は徳川家に通字について見て行きたいと思いますsoon

[ 2011年09月03日12時32分35秒 ]

江(利家の究極の選択)

末期の病床で利家が決断した方針転換とはsign02

 利家のお話の最後に、一つの仮説を検証してみたいと思いますhappy01

もし、前田利家が健康で長生きをしたら、果たして天下の情勢はどう推移したでしょうかsign02

タケ海舟の主観のみでお話をしますが・・・

結論から言えば、関ヶ原の戦いという天下分け目の決戦は、慶長5年(1600)より遅く、もしかしたら起きなかったかもしれないsign03と考えていますgood

なぜなら、利家という人物そのものが、戦争や争い事を防ぐ抑止力であったからだと思いますnew

秀吉はその辺りの所を良く熟知していましたwink

最大実力者であった家康を牽制する事ができる唯一人の人物は、戦という要素を持ち合わせていない利家しか考えられませんでしたok

戦にならない具体的な要素というのは、中立的な姿勢や、対立する双方(家康派と反家康派)どちらにも人望があったり尊敬を集めているという事でしたdelicious

家康の太閤遺命違反に端を発した一連の騒動で、利家の側に参集した大名は相当数に上りましたnew

この事は彼に対する諸大名の期待の表れでありましたscissors

家康も利家の実力は十分熟知していましたので、拙速に彼と正面切って雌雄を決する事は、極力避けていましたgood

このまま利家の健康状態が良好であったら、秀頼を真ん中にして伏見で家康、大坂で利家の静かなる対峙が数年は続いていた筈ですdanger

しかもこの場合、玉である秀頼を擁していた利家の方が、有利に駆け引きを展開できた可能性が高かったと考えられますok

同じく故秀吉の正室おねや秀頼生母淀も、豊臣家後継者秀頼を守ってくれる存在はやはり、家康より利家であるという認識で一致していた筈ですshine前にも言った通り、目に入れても痛くはないといわれるわが子を託せる人物こそが、信頼に足る訳です。

こうして二頭政治がしばらく継続、家康は尚暫く、我慢の日々を強いられたと思いますthink

それのみならず、秀頼を擁していた利家が彼の成人まで天下に号令を掛ける立場になっていたのかもしれませんnew

但し、この場合は、自ら取って代わるのではなく、諸大名や豊臣家中枢メンバーによる推薦ですねhappy01

(しかしながら、家康の力は無視できないので事実上、連立政権でしょうgood

以上のように、短期の暫定政権にはなったと思いますが、前田政権が日本史上に誕生した可能性は極めて高かったと思っていますhappy01

さて、ここからお話を現実に戻しますpaper

ご存じの通り、利家には健康問題があったbearingしかも、長くは生きられなかったweep

利家の病状については、恐らく前田家に出入りしていた医師によって、家康は正確な情報を得ていたと思いますsmile

近い将来間違いなく死ぬのならば、その時までゆっくり待てばよいok家康は静観を決め込んでいましたthink

余裕のヨッチャンという心境でしたが、自ら薬を調剤する程の健康オタクであった家康ですok

利家は健康にどれだけ留意していたのかはわかりませんが、家康は長生きという点では、時間が他のライバル達よりもたっぷりあったのですsign03この差が、家康と利家の明暗を分けたといっても過言ではありませんでしたimpact

余命を悟った利家は家康を討つかどうか・・・ぎりぎりまで熟慮しましたが、わが子利長に重荷を背負わせてはいけないという判断から、家康の殺害を諦めましたthink

そして、死の床で、自分が死んだ後の前田家の行く道を、次の様に考えたと思いますflair

『家康が天下を取る日は遠からずやって来るだろうdanger石田三成が家康に挑むと思われるが、最終的には家康が勝利を収めるだろうgood

『利長には自分と同じ様に、家康相手に互角にわたり合う事は出来ないだろうthinkしかし、天下の動静がどのように変化しようとも、前田家を守る事に専念させれば、十分な力を発揮出来るに違いないok

利家は息子と前田家の将来を考え、自分の死後の前田家の方針を、徳川の時代になっても絶対生き残れる様に努力するという、サバイバル最優先主義に転換させたと思っていますnew

利家の後を継いだ利長は、亡父の遺言を忠実に守りましたok

家康の追及を避ける為、母芳春院(ほしゅういん・落飾したまつの法名)を江戸への人質に差し出し、更に徳川家との関係を親密にする為、関ヶ原合戦の翌年には、江と徳川秀忠の次女珠(たま)姫を、自身の養子(異母弟)利光(としみつ)の正室に迎えましたsign01

利長は慶長10年(1605)、家督を11歳の利光に譲り、43歳の壮年で隠居しましたok

全ては、前田家の安泰を大前提とした苦肉の政界遊泳術でありましたweep

利長の忍従と芳春院の犠牲的な献身が、最大の外様大名前田家の安泰を決定付けたのでしょうsign03

この点、利家の読みと判断は正鵠を得ていたのでしょうscissors

利家は恩と義に篤い戦国武将でしたが、半面、現実的な思考の持ち主でもありましたnew

賤ヶ岳での変節もその片鱗でありましたsign01

彼としては自分一代の意地を貫くよりも、自分が生涯賭けて築き上げた前田家を、如何に子孫に残すべきかsign02

こちらの方が、遙かに重要案件でありましたrock

主家である豊臣家を見限って、徳川に屈した日和見の現実主義者sign03

見方によってはそう思えるかもしれませんが、豊臣か徳川かsign02どちらに付くべきかで、多くの大名達がその去就を誤り、辛酸をなめさせられて来ましたdanger

そうした中、100万石以上の大封を領し、加賀金沢の地に絢爛豪華な武家文化を花開かせた前田家は、天下取りレースからは脱落こそしたものも、見事に藩祖利家の想いを後世に伝える事に成功したと思われますok

 前田利家は天下に君臨する事は出来ませんでしたが、歴史に立派な大輪の花を咲かせた武将だったと言えるでしょうhappy01

次回からは、ドラマ江で柴俊夫さんが演じている黒田官兵衛(如水)についてお話したいと思いますsoon

[ 2011年09月02日12時00分37秒 ]

江(利家最後の戦い)

利家対家康最終章sign03

結構前に「利家とまつ」という大河ドラマが放送されていましたhappy01

タイトル通り、前田利家とその妻まつを主人公にしており、利家を唐沢寿明、まつを松嶋菜々子が演じていましたconfident

この夫婦が文字通り二人三脚で戦国の世を生き抜き、見事、加賀百万石の礎を築いて行く過程を描いたのが件のドラマだったのですが、物語の終盤で秀吉亡き後の天下を狙う家康とのつばぜり合いがありましたdanger

利家は秀頼の為または、自身の天下取りの為に障害となる家康を討つべきかどうか、最後まで悩むのですが、夫の生涯を賭けた望みが、戦のない平和な世を築く事であったのを熟知していたまつが、利家を翻意させるシーンがありましたthink

ドラマなので正直、脚色もあると思いますが、病が悪化した死の床で家康の来訪を受ける事になった利家の胸中には、どんな思いがあったのでしょうかsign02タケ海舟は大いに気になっていますconfident

家康は先日利家の訪問を受けた返礼として、今度は自らわずかの供周りで大坂の利家屋敷を訪ねましたgood

この前お話しましたが、利家は家康を討つのなら次回が最後の機会と考えていた筈ですsign01その機会が、今回の家康訪問でありましたdash

前田家では利家・利長父子を中心に対策が協議されたと思われますnew

家康の太閤遺言の違約は意外な程、諸大名達の家康に対する反感を生じさせていましたdanger

この事は、利家が豊臣政権内において家康と匹敵する力と声望を持っていた証左でありましたscissors

独力で家康の力を制御できなかった石田三成が、利家を表に立てて家康を詰問しようとした理由は、ここにあったと考えられますok

情勢不利と判断した家康は一旦、矛を収めたのですが、更に利家が自身を捨て石にして仕掛けたワナ(どうぞ殺して下さいと言わんばかりの伏見家康訪問)を巧みにかわし、付けいる隙を与えませんでしたok

そして、今度は家康の方が利家を訪ねて来るのですsign01それも、病気見舞いというれきっとした名分があったのですup

自分の余命が僅かで有る事を十分認識していた利家は、この最後の機会に家康を討たなければならないと思っていた筈ですsign03自分亡き後、家康の独走を阻むの者は、諸大名の中には最早見受けられないbearing

残酷な政治の現実がここにあったのですthink

しかし、見舞いに来た家康を討つ事は、早い話、騙し討ちになってしまうdespair(たとえ、どんな正当な理由があろうともですban

しかも、家康には先に、騙し討ちの機会があったにも拘わらず、敢えてそれを実行しなかった(この点、家康にはまだ余裕があった訳ですgood)という美点がありましたhappy01

今回、自分が命を引き替えにして家康を倒したとしたら、最大の大名である徳川家を一手に引き受けて戦をしなければならない(仮に自分が、家康と相討ちになったとしたら、嫡男の利長が矢面に立たされる事になるimpact

既に家康は有事の事を念頭に置いていたのか、秀吉亡き直後に嫡男の秀忠を江戸に返してしまっているthink

つまり、江戸には秀忠と無傷の徳川軍が残っている訳で、その軍勢と前田家独力で干戈を交えるのは、あまりにも

リスクが大きいdespair

さらに、利家の味方をしていた諸大名が、家康の殺害という事実に直面した場合、果たして彼らは前田家を(利長)支援してくれるのだろうかsign02

この辺りが、大勝負に出ようとした利家を逡巡させた理由でありましたsad

ここからは、タケ海舟の私見なのですが・・・

家康を迎える直前、利家は 息子の利長に、こう問い質したのではないかと考えていますnew

『利長、わしは家康を討つsign01覚悟はよいかsign02

その時、利長の顔に驚きと困惑の色が出ていたのを利家は見逃さなかったと思いますnew

この時点で、利家は家康の殺害を断念したのでは確信していますok

一方の家康・・・

彼はおそらく、利家が自分を殺そうと計画している事は察知していたと思われますthink

しかし、この前、利家を討つチャンスを自分は見送った

そんな自分を利家は本当に平気で討てるのだろうかsign02

諸大名の間でとりわけ、律儀で思慮ある人物として人望のあった利家が、人生の最後に自らの評判を奈落の底に突き落とすような愚は、けっして犯さないだろうgood

仮にそのような事を起こして、もし前田家に火の粉が降ってきた場合、それらを振り払う事は、嫡男利長には荷が重過ぎるし、何よりも息子をよく知る父親が、そのような危ない橋を息子に渡らせる筈はないsign03

家康はそこまで考慮していたと思われますthink

そして、家康の予測通り、家康を迎えた前田屋敷では、案ぜられた事は起きませんでしたhappy01

死を前にした利家と彼の気持ちを十分に察していた家康は、最後の対面時、何を話していたのでしょうかsign02

一説には、利長の将来を頼んだという話もありますが、利家死後の前田家に謀反有りという家康の厳しい詮索ぶりを見ると、事実ではなかったと思いますweep

それでも、お互いを知る者同士、思い出話に終始したのではないのでしょうかdanger

家康の見舞いを受けて間もなくの、慶長4年(1599)閏3月3日、秀吉の盟友前田利家は奇しくも、その盟友の享年と同じ62歳を以て、その生涯を閉じましたweep

妻まつや利長達家族が見守る臨終の際、利家の胸には何が去来していたのでしょうかsign02

次回は利家編の総括として、彼の最後の気持ちにタケ海舟が迫って参りたいと思いますsoon

[ 2011年09月01日14時46分48秒 ]

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