捨て身の利家・余裕の家康
徳川家康が、大名間の無許可婚姻禁止条項を違反した事を巡り、これに抗議した前田利家・石田三成陣営と家康陣営との間に、『いよいよ戦か
』という雰囲気が漂い始めました![]()
家康・利家の屋敷には、それぞれに味方しようとする諸大名達が軍勢を率いて駆けつけました![]()
家康は予め、伏見や大坂で戦になる事を想定していたのでしょうか
既に、徳川四天王の一人、榊原康政(さかきばらやすまさ)の率いる、二万余の軍兵を関東より呼び寄せていました![]()
実のところ、康政は確かに軍勢を引率して上洛を目指していたのですが、兵力二万というのはあくまでも誇張でありました
(実際は五千人程だったみたいです・・・)
康政は京都への入口にあたる近江国瀬田辺りに駐屯して、『徳川軍二万が上洛するぞ
』という偽情報を流して、反家康派に心理的プレッシャーを与えました![]()
一方の利家側も、領国加賀から軍勢を呼び寄せていました
両者は臨戦態勢を完了させていました![]()
ところで、双方の屋敷に集結した諸大名を眺めていますと・・・
家康の方には問題の婚姻相手であった伊達政宗や福島正則、またこの頃から家康との接近が顕著になる藤堂高虎等が詰めていました![]()
これに対して利家の方を見ると、同じ五大老の毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家、五奉行筆頭石田三成、そして武断派代表格の加藤清正、細川忠興、加藤嘉明(かとうよしあき)、浅野幸長(あさのよしなが)らが駆けつけていました![]()
力関係的にみると、今回の問題の発端は家康の一方的なご法度違反だった為、家康に分が悪かったみたいですね![]()
家康もこれ以上のゴリ押しは不利と考えたのか、慶長4年(1599)2月初めに四大老と五奉行と誓書を交換する事によっての和解が図られました![]()
両者の間を仲介した人物がいた事が窺えます
こういう周旋が得意なのは、藤堂高虎辺りだと考えられるのですが実際誰が和解に向けて奔走したのか
不明であります![]()
この時、利家は病にも拘わらず、伏見にある家康の屋敷を訪れています![]()
ここからはタケ海舟の個人的な見解ですが・・・
余命いくばくもない事を悟っていた利家は、仮にこの時点で戦になったとしたら、勝てる可能性があると読んでいたのかもしれません![]()
その戦になるきっかけとは・・・![]()
端的に言えば、自らが家康の手に掛かって命を落とす事です![]()
自分が討たれたとなったら、前田に味方した諸大名や秀頼に心を寄せている日和見の人たちも、必ず家康打倒に立ち上がるだろう
自分の命と引き換えに家康と刺し違えるのなら本望である
秀頼と豊臣家を守るという秀吉との約束も果たす事ができる![]()
彼はそう考えたのではないのでしょうか
今回の政争の正邪を吟味すると、家康の道義的不利は覆い隠すべくもないくらい、明らかでした![]()
しかし、家康は利家の意図を察していたと思われます![]()
わずかな人数のみを連れて死地に飛び込んできた利家を、家康は丁重に迎え、しかも大いにもてなしたのでした![]()
この辺がタヌキオヤジ家康の真骨頂ですね![]()
利家も家康という人物の深味という物を、今更ながら思い知らされたのではないのでしょうか![]()
しかし、利家ははっきりと察していた筈です![]()
家康が天下を狙っているという野望をいよいよ露わにしようとしている事に![]()
そして、自分が間もなく死ぬという近未来的事実を、家康が知っていて、尚且、その時を待っている事も![]()
家康との決着を自らの命のある内につけなければならない![]()
利家は全てを次に訪れるであろう、最後の機会に賭ける事を決意しました![]()
次回はイヌとタヌキとの最終決戦についてお話させて頂きます![]()
補足:イヌとは前田利家の幼名が犬千代であった為、信長はよく彼の事を『イヌ
』と呼んでいました![]()
ちなみに秀吉はよく知られている通り『サル
』と呼ばれていました![]()
とすると、家康はいつから『タヌキおやじ
』と言われていたのでしょうね![]()
タケ海舟
コメントを書く