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August 2011

江(対峙する利家と家康)

捨て身の利家・余裕の家康sign01

徳川家康が、大名間の無許可婚姻禁止条項を違反した事を巡り、これに抗議した前田利家・石田三成陣営と家康陣営との間に、『いよいよ戦かsign02』という雰囲気が漂い始めましたshock

家康・利家の屋敷には、それぞれに味方しようとする諸大名達が軍勢を率いて駆けつけましたdash

家康は予め、伏見や大坂で戦になる事を想定していたのでしょうかsign02既に、徳川四天王の一人、榊原康政(さかきばらやすまさ)の率いる、二万余の軍兵を関東より呼び寄せていましたsign03

実のところ、康政は確かに軍勢を引率して上洛を目指していたのですが、兵力二万というのはあくまでも誇張でありましたcoldsweats01(実際は五千人程だったみたいです・・・)

康政は京都への入口にあたる近江国瀬田辺りに駐屯して、『徳川軍二万が上洛するぞsign03』という偽情報を流して、反家康派に心理的プレッシャーを与えましたpunch

一方の利家側も、領国加賀から軍勢を呼び寄せていましたdanger両者は臨戦態勢を完了させていましたthunder

ところで、双方の屋敷に集結した諸大名を眺めていますと・・・

家康の方には問題の婚姻相手であった伊達政宗や福島正則、またこの頃から家康との接近が顕著になる藤堂高虎等が詰めていましたup

これに対して利家の方を見ると、同じ五大老の毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家、五奉行筆頭石田三成、そして武断派代表格の加藤清正、細川忠興、加藤嘉明(かとうよしあき)、浅野幸長(あさのよしなが)らが駆けつけていましたhappy01

力関係的にみると、今回の問題の発端は家康の一方的なご法度違反だった為、家康に分が悪かったみたいですねcoldsweats01

家康もこれ以上のゴリ押しは不利と考えたのか、慶長4年(1599)2月初めに四大老と五奉行と誓書を交換する事によっての和解が図られましたhappy01

両者の間を仲介した人物がいた事が窺えますthink こういう周旋が得意なのは、藤堂高虎辺りだと考えられるのですが実際誰が和解に向けて奔走したのかsign02不明でありますthink

この時、利家は病にも拘わらず、伏見にある家康の屋敷を訪れていますgood

ここからはタケ海舟の個人的な見解ですが・・・

余命いくばくもない事を悟っていた利家は、仮にこの時点で戦になったとしたら、勝てる可能性があると読んでいたのかもしれませんsign01

その戦になるきっかけとは・・・sign02

端的に言えば、自らが家康の手に掛かって命を落とす事ですimpact

自分が討たれたとなったら、前田に味方した諸大名や秀頼に心を寄せている日和見の人たちも、必ず家康打倒に立ち上がるだろうnew自分の命と引き換えに家康と刺し違えるのなら本望であるsign01秀頼と豊臣家を守るという秀吉との約束も果たす事ができるpaper

彼はそう考えたのではないのでしょうかok今回の政争の正邪を吟味すると、家康の道義的不利は覆い隠すべくもないくらい、明らかでしたdanger

しかし、家康は利家の意図を察していたと思われますdelicious

わずかな人数のみを連れて死地に飛び込んできた利家を、家康は丁重に迎え、しかも大いにもてなしたのでしたshine

この辺がタヌキオヤジ家康の真骨頂ですねsmile

利家も家康という人物の深味という物を、今更ながら思い知らされたのではないのでしょうかbearing

しかし、利家ははっきりと察していた筈ですdanger

家康が天下を狙っているという野望をいよいよ露わにしようとしている事にnew

そして、自分が間もなく死ぬという近未来的事実を、家康が知っていて、尚且、その時を待っている事もimpact

家康との決着を自らの命のある内につけなければならないpunch

利家は全てを次に訪れるであろう、最後の機会に賭ける事を決意しましたnew

次回はイヌとタヌキとの最終決戦についてお話させて頂きますsoon

 

補足:イヌとは前田利家の幼名が犬千代であった為、信長はよく彼の事を『イヌsign03』と呼んでいましたbleah

ちなみに秀吉はよく知られている通り『サルsign03』と呼ばれていましたok

とすると、家康はいつから『タヌキおやじdash 』と言われていたのでしょうねdash

[ 2011年08月31日08時23分47秒 ]

江(家康対利家 男と男の対決)

家康でさえも一目置いていた加賀大納言利家sign03

実は・・・

意外と知られていないのですが、秀吉が死の床にあった慶長3年(1598)頃、盟友前田利家もまた、病を得ていたのですweep

利家は頑健な体であったみたいで、愛妻(糟糠の妻という方がいいかも)まつを始め、数人の側室との間に六男九女を儲ていましたok盟友秀吉とはここが大きな違いでしたcoldsweats01

若い頃は、信長の親衛隊であった赤母衣衆(あかほろしゅう)として勇猛ぶりを謳われ、槍の又左(またざ)とも呼ばれていた(ちなみに彼の通称名は又左衛門でありましたgood)利家も、60歳を過ぎて、体に変調を訴えるようになりましたdespair

問題の慶長3年に挙行された醍醐の花見に正室まつと出席した後、利家は家督を嫡男の利長(としなが)に譲りましたsign01

利長は永録5年(1562)の生まれ(母はまつ)でしたので、この年36歳になっていましたhappy01前田家の家督を継承する為に必要な経験と修養は十分に積んでいましたgood父利家も61歳になっていましたので、病気を理由に隠居してもおかしくなかったと思われますhappy01

しかし、利家は醍醐の花見後、病気療養の目的で有馬温泉へ湯治には行きましたが、政治の第一線を退く事はありませんでしたdanger

当主を引退した大名が、天下の政事に参与するという事は、極めて稀であると思いますnew

タケ海舟は病身の利家が完全なる隠居を許されなかった背景には、自らの死を目前に控えた秀吉の強い意向が働いた為と考えていますdanger 

前回お話した通り、予想された家康の独断専行を防ぐ事ができる人物は、前田利家以外には考えられなかったのですsign03(平たくいえば、利家に隠居されては困るという事ですねcoldsweats01

秀吉から秀頼への政権継承を望んでいた人々にとって、家康の存在は大変な脅威でありましたshock

独力で家康とわたり合う事が出来なかった彼ら(淀殿をシンボルとした近江派の面々)にとって、利家との連携は不可欠であった筈ですok

近江派の中心人物石田三成は、晩年の秀吉から家康の脅威について耳にタコができる程、聞かされていたと思いますcoldsweats01

利家もまた、刎頸の友秀吉から『利家殿、秀頼の事をくれぐれも頼み申し上げるsad』と懇願されていたと思いますgood

秀吉死去の時点において、利家と三成の政治路線は『家康に掣肘を加える』という面では一致していたと思われますdanger

しかし、家康は実にしたたかでありましたsmile

秀吉入滅の直後、遺命により禁止されていた諸大名同士の勝手な婚姻を、大々的に進めようとしましたsign01

この時に話を進めていた婚姻の相手先は、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政等、豊臣家と関係の深い、または、秀吉が常に警戒を怠らなかった危険人物と目されていた大名達でありましたimpact

五大老筆頭(利家も筆頭でした)の家康が一方的に秀吉の法度を破棄したのですsign03

三成はこの家康の違約行為に激怒annoy直ちに、利家以下四大老や同僚の五奉行達とともに、家康を詰問しましたsign03

家康の真意は、自分が太閤の遺約に背いた(実際にはまだ婚姻を取り交わしたわけではないので、未遂という事になると思いますが・・・)時、誰が自分に異を唱えて来るのかsign02

つまり、諸大名の誰が自分に敵対しようとするのかを確かめる目的で、一連の騒動を起こした様に見受けられるのですgood

利家もそして、彼を後ろ盾にして家康と対抗しようとしていた三成も、家康の思惑は見抜いていたと思いますgood

この際、家康から明確な謝罪を引き出さない限り、絶対に安易な妥協はしないsign03

利家は家康に豊臣家を蔑(ないがしろ)にするような今回の行為について、『徳川内府は謀反の志ありや如何にsign02』というかなり踏み込んだ問責を試みましたthunder

これに対して、家康も態度を硬化させましたimpact

『不注意で法度に抵触したのはこちらの落ち度ではあるが、秀頼君への謀反ありやとはなんという言いがかりsign03直ちに取り消されよannoy

かくして、両雄並び立たずとはよく言ったもので、家康と利家は一触即発状態となりましたshock

秀吉が亡くなって、半年が過ぎたばかりの慶長4年(1599)早々の出来事でありましたsign03

この緊迫した局面の続きは次回にさせて頂きますsoon

 

 

[ 2011年08月30日08時26分54秒 ]

江(秀頼を託された男 前田利家)

豊臣政権の元勲 前田利家sign03

昨日放送分で、ようやく前田利家が出て来ましたねhappy01

今回のドラマの中で、利家はそれ程、重要な役割を担っていなかったと思いますが、せめて秀吉臨終のシーンには登場させて欲しかったですねdespair(あくまで、タケ海舟の個人的な意見ですが・・・)

このブログで何度も述べて来ましたが、彼と秀吉は、生涯に亘って親密な関係を築き上げていましたconfident

タケ海舟は、諸大名の中で秀吉の死を最も悲しんだ人物を、1人だけ言えsign03といわれたら

間違いなく利家の名前を挙げると思いますthink

秀頼を支える五大老・五奉行制の実態は、実際の政事の執行を石田三成が中心に行い、最大の意思決定に関しては、徳川家康と前田利家がこれを統括していましたwink

秀吉は諸大名中、群抜けていた家康に匹敵する人物として、自らが最も信頼する利家を想定していましたdanger

両人はともに若い時より友誼を重ねており、互いの心の内を理解できたと考えられますhappy01

天下人となって、日に日に孤独となっていった秀吉が、諸大名の中で唯一腹を割って赤心を吐露する事が出来た人物が利家だったのでしょうdanger

五大老制は実質、二頭体制とも言われていましたok

すなわち、伏見城で政事を差配する家康と、大坂城で後見人という立場で秀頼を補佐する利家という図式で、権力の集中化を防ごうとした秀吉の深謀遠慮であったと考えられますok

官位官職の上でも、家康の内大臣就任と歩調を合わせるかのように、利家が権大納言に任ぜられていますgood

また、所領の面でも、利家の領国北陸は家康の領国関東と比較して、遙かに大坂や京都に近く、有事の時にいつでも大兵力を動員する事が可能であった筈ですup

当時の石高で比較すると、家康は200万石以上、対する利家は90万石程でありましたdash

徳川・前田家双方の兵力差があった事は否めませんが、地理的な優位性を有する事によって、兵力面での劣勢を十分、補完出来た物と推察出来ますok

秀吉は、利家を意識的に引き立てる事によって、家康に対抗し得る一方の雄を作り上げようと考えていたのでしょうgood

ところで・・・

秀吉は、自分亡き後の秀頼政権の命運を、家康と利家のどちらに託したかったのでしょうかsign02

タケ海舟は間違いなく、利家であったと確信していますnew

以前、中国の故事でこんな話を聞いた事がありますpaper(出典は忘れましたcoldsweats01

『自分が死を迎える時に、大切なわが子を託せる人物こそが、真の男児であるsign03

秀吉は死を迎えるに当たって、大切なわが子秀頼を実力第一の家康ではなく、利家に委ねましたsign03

この事だけを見ても、秀吉の本心が分かるといっても過言ではないでしょうsign03

自分の死後、家康と利家の並立によって、政治バランスの均衡が数年間は保たれるdanger

その間に秀頼も成長して、五大老・五奉行の補弼の下、政治を行う事が出来るであろうgood

当面は家康に政治を任せるしか術はないが、彼の政治的独走を制御する役割は石田三成にrockそして、秀頼を守る役割は前田利家に一任するshine

両者のチームワークによって家康の動きを封じ、秀頼成長の暁には、家康に政治の実権を返上させるok家康がこれに応じない時は、他の大老・奉行や諸大名を糾合して、速やかに討伐するimpact

おそらく、秀吉はこのようなシナリオを描いていたのではと思われますconfident

しかしながら、2つの想定外要素によって、この筋書きに狂いが生じますban

ひとつは、三成と諸大名・・・取り分け、秀吉子飼いの武断勢力(尾張派)との関係が決定的に破たんしていた事weep

もうひとつは、肝心要の利家が既に、病に侵されていたという事実でしたbearing

最早、余命幾ばくもない事を察していた利家は、最後の気力を振りしぼって家康と対決しますdanger

次回はその話をさせて頂きますsoon

 

[ 2011年08月29日16時30分34秒 ]

江(完子の子供たち)

豊臣・織田・浅井家の血筋を後世に伝えた完子sign03

ご存じのとおり、大坂の陣以後の結果、完子の実家であった豊臣家は滅亡しましたdespair

しかし九条家正室であった彼女の地位は、以後もいささかも陰ることはありませんでしたhappy01

なぜかsign02

やはり、彼女の生母江が徳川秀忠の御台所であった事が大きかったのでしょうok

徳川政権にとっても、江の娘である完子を通して、朝幕関係を良好にする事が急務でしたsign03

同じく江の娘であった和子(まさこ)の後水尾天皇入内に向けての準備が始まっていたからですconfident

この前のブログでも、和子が入内した時の関白は、完子夫の九条忠栄でありましたhappy01

忠栄は幕府に極めて近い立場から、和子(完子の異父妹)入内を成功に導いたのですsign03

さて・・・

ここからは、完子の家庭に目を向けてみたいと思いますok

彼女は、夫である九条忠栄との間に、三男二女の子供を儲けましたcatface

この辺りは母である江同様、多産型であったみたいですねdelicious

完子の子供たちの中で主だった面々を、順に見て行きますと・・・

嫡男の道房(みちふさ)は、父である忠栄(寛永8年に幸家と改名)の後を継いで九条家を継ぎましたhappy01

ちなみに、徳川幕府は完子の嫁ぎ先である九条家と婚姻関係を結ぶ事を望んだようで、江と秀忠の三女である勝姫の娘である鶴姫を、三代将軍家光の養女として道房の正室として嫁がせましたhappy01

少しややこしいでのですが、完子と勝姫は江の娘。そして、それぞれの子供である道房と鶴姫は江の孫という事になりますdanger(ちなみに鶴姫の父は越前家当主松平忠直でありますsign01

徳川家が完子の血筋を伝える九条家の存在を、如何に重視していたのかがわかりますconfident

ところで、道房の兄であった康道(やすみち)は、同じ五摂家である二条家昭実の養子となり、同家の当主となりましたhappy01

彼の実父忠栄の父であった兼孝は、元々二条家の出身でしたconfident子供がいなかった昭実の養子に迎えられた背景には養父昭実と祖父兼孝が、兄弟同士であったという事が挙げられますok

また、康道は、後陽成天皇皇女の貞子内親王を北政所として迎えましたwink(内親王は後水尾天皇の同母妹ですsign03

兄天皇には叔母に当たる和子が中宮として入内しており、江の血筋のネットワークが要所要所に張り巡らされていたのですok

もうひとりの男子道基(みちもと)は、摂関家の古来の名家であった松殿家を再興しましたhappy01(但し嗣子なく死亡した為、再び絶家)

残る二人の娘たちは、東西それぞれの本願寺の内室として嫁いでいますdanger

本願寺が、東西に分裂したのは徳川幕府の宗教政策の所以でしたthink

姉妹でそれぞれの法主の内室になったという事は、反目する両本願寺の融和を目指した、徳川幕府主導による婚姻政策であったと思われますhappy01

こうして見ると、完子の子供達は当時の政治・宗教分野において、徳川体制の安寧の為にそれぞれの役割を果たしたみたいですねscissors

そして・・・・

驚く事に、江と完子の血筋は現在の皇室に伝えられていますhappy01

幕末の九条家当主道孝(みちたか)の娘は、大正天皇妃の貞明皇后となり、昭和天皇を生みましたhappy01

そして言うまでもなく、今上天皇にその血筋が伝えられていますdanger

つまり、現在の皇室には浅井家・織田家・豊臣家の血が受け継がれているのですsign03

タケ海舟はこの事実を知った時、本当に驚きましたsign03

歴史の盲点ともいうべきでしょうかsign02

これまで、あまり人に知られていなかった江の最初の娘完子が、歴史上に遺した功績は実に大きい物であったnew

と確信しておりますgood

なぜなら、日本の歴史を動かした名家の血統を、現在の世に伝えてくれたのですからscissors

数奇な運命を懸命に生きた完子は、万治元年(1658)、67歳でこの世を去りましたdespair

実父の顔を知らずして生まれ、幼い時に生母江とも生き別れになってしまった完子think

更に、豊臣の娘から徳川の娘へと、拠るべき実家も途中で変わってしまいましたng

しかし、目まぐるしく変わる状況において、彼女は自身に与えられた環境の中で、逞しく生きたとも言えるでしょうok

その生涯は、三度の結婚を経て、自分の居場所を見つけた実母江の姿を追い求める旅であったのかもしれませんdiamond

完子のお話はここまでにしたいと思いますsoon

 

補足:完子の三男の道基が再興した松殿家は、12世紀平安末期に関白を務めた藤原基房(もとふさ)が興した家でありますok彼の生きた時代は来年の大河ドラマの主役 平清盛の最盛期と重なりますhappy01機会がありましたら、清盛のページで触れてみたいと思いますok

尚、明日からしばらくブログを執筆できませんdespair来週早々には復活しますので、お楽しみにscissors

[ 2011年08月23日15時33分45秒 ]

江(豊臣家滅亡後の完子)

さて、秀吉があの世へ行き、いよいよ天下の主を決める、ポスト秀吉を巡る戦いがスタートを切りましたsign03

伏見で政務を統括する立場となった家康と、大坂で秀頼を擁していた石田三成ら五奉行との対立が、深まっていく中、しばらく京都を空ける事ができなかった家康は、秀忠を江戸に下向させましたwink

ドラマでは江も秀忠とともに江戸に同行する設定になっていましたconfident

関ヶ原の戦まで2年あるのですが、この期間は江と秀忠夫妻にとって、徳川家の世継ぎの男児を得るための子作りに明け暮れた時期でもありましたcoldsweats01

実際、江がいつ頃江戸へ下ったのかsign02詳細な記録はない為、はっきりしないですが、秀忠との間に生まれた次女子々姫(ねねひめ)が慶長4年(1599)8月出生なので、少なくともそれ以前までには江戸に来ていた筈ですgood

〔ちなみに、この子々姫と慶長6年(1601)に誕生する勝姫は、江出生の子供でない説もあります・・・〕

家康は秀忠夫妻を江戸に行かせた理由としては、秀吉死後間もない京都での政争が、予断を許さない状況であり、万一、伏見と大坂で一触即発の事態になった場合の、父子共倒れを避けるための予防措置であったと考えられますconfident

ドラマの方では秀忠の乳母である、大姥局(おおうばのつぼね)も登場し、いよいよ江戸城での江の新たな生活が始まりますwink今後、家康の側室で秘書的な役割を果たしていた阿茶局(あちゃのつぼね)や、家光の乳母となる春日局(お福)等、手強いライバルが次々と登場して来ますbearing

彼女達(江戸城大奥の鬼とでもいっておきましょうcoldsweats01)を向こうに回して、江が今後、江戸における自らの居場所を如何に作っていくのかsign02楽しみでもありますsmile

さて、お話を完子に戻しますok

彼女と夫であった九条忠栄は、徳川・豊臣両家何れとも、縁戚関係にあり、朝廷における大きなパイプ役としての役割を果たしていましたhappy01

そんな完子にとって、自分の生みの親の嫁ぎ先である徳川家と、育ての親である淀の豊臣家との戦いは、悲しい出来事であったでしょうweep

大坂の陣の時に、完子がどのような対応をしたのかsign02詳しい事はわからないのですが、両家の和睦を心から願った筈ですdespair

この点、淀と江を姉と妹に持った、初(この時は落飾して常高院〔じょうこういん〕と名乗っていました)と同じような立場にあったと思われますnew

彼女の願いにも拘わらず、豊臣家は大坂城とともに滅亡・・・thunder養母淀と義弟秀頼は炎の中で、その生涯を閉じましたcrying

こうして、完子は実家を失ってしまいましたweep

しかしながら、彼女は実に幸運でありましたwink

豊臣家滅亡後の慶長20年(1615)、天涯孤独の境遇となった完子は、徳川二代将軍〔江の夫]秀忠の養女となりましたscissors徳川幕府に背いた豊臣家(徳川の立場から見ると)の娘のままでは、完子や夫である忠栄と立場が悪くなるという配慮もあったのでしょうthinkこの養子縁組は御台所江の願いでもあったのでしょうhappy01

この後、北政所九条完子は朝廷と幕府との繋ぐ、貴重な仲介役としての役割を果たしましたsign03

大御所家康の死後、江戸幕府は二代将軍秀忠と三代将軍家光治世による、元和・寛永時代を迎えるのですが、この時期の朝幕関係は、様々な問題を抱えていましたwobbly

家康在世中に既定方針となっていた、江と秀忠の末娘和子(まさこ)の入内(後水尾天皇女御)は、天皇と幕府との衝突が原因で、延び延びになっていましたdespair(天皇の女性問題が原因だったみたいですcoldsweats01

関係がギクシャクしていた両者の関係を修復すべく、元和5年(1619)に再度の関白職に就任していた忠栄と北政所完子は大いに尽力しましたsign03(和子は元和6年〔1620〕に入内を果たしてますok

異父弟家光の正室選びに関しても、完子は大きく関与したと思われますgood

家光の正室となった五摂家鷹司信房の娘孝子は、完子の夫忠栄の従兄妹でありましたhappy01

家光の御台所選びに関しては、母親であった江が積極的に関わったみたいですok

恐らく、弟の婿選びに、完子も母親と一緒に頭を捻っていたのでしょうhappy01

このように、江戸時代初期の幕府と朝廷の関係において、徳川家御台所江と関白北政所完子、そして後水尾天皇中宮和子(後の東福門院)の母娘ネットワークの絆が大きく、物を言ったのですねdiamond

次回は完子の子供たちについてお話したいと思いますsoon

[ 2011年08月22日16時09分49秒 ]

江(完子の立場)

豊臣・徳川両家にとって大事なパイプ役だった完子sign03

慶長9年(1604)完子は九条忠栄の正室として嫁ぐ事になりましたhappy01

九条家は摂政関白を輩出する由緒ある家柄である、五摂家の一家でありましたdelicious

秀吉が関白に任命された後、甥秀次がその地位を継承しましたconfidentこれによって、豊臣家は摂政と関白に任ぜられる第6番目の家という地位を確立しましたdelicious(つまり六摂家ですねscissors

摂関を出す家柄となった豊臣家の娘の嫁ぎ先として、同格の家筋の九条家はまたとない相手でありましたhappy01

忠栄の父兼孝は、豊臣・九条両家の婚姻の前年までは、関白の地位に就いていましたsign01豊臣家にとって完子の輿入れは摂政関白の家筋としての家格を、世間に顕示するデモンストレーション的意味合いがありましたhappy01

完子の養母である淀は、彼女の輿入れに半端でない財をつぎ込みましたnew九条家との関係を深めて、秀頼が将来摂関に就任する下地を作っておこうという意図もあった筈ですdelicious

完子結婚の翌年、秀頼は内大臣から右大臣に昇進しましたok前任の右大臣であった徳川家康の辞任の後を受けての人事でしたが、秀頼の関白就任への布石となったと考えられますhappy01

しかし、どういう理由があったのか、よくわかりませんが、慶長12年(1607)秀頼は右大臣を辞任してしまいましたgawk

実はこの前年、秀頼の舅で完子生母の夫であった秀忠も、内大臣を辞任していましたdanger

2年続けて、徳川・豊臣両家の当主の官職辞任があった背景に何があったのかsign02

残念ながらはっきりしませんが、秀忠の征夷大将軍就任に端を発したニアミス事件(前回ブログ参照)が影響していたのかもしれません(調べてみたいと思いますthink

ただ、秀頼辞任を受けた右大臣の後任には、完子の夫九条忠栄が就任しましたhappy01(右大臣は兼務のまま)

更に、翌年の慶長13年(1608)には藤原氏長者となり関白に就任しましたshine

この時、正室の完子は、関白正室である北政所となり、位階も従三位に昇りましたflair

ところで、北政所(きたのまんどころ)という名称について、ご記憶の方もいらっしゃると思いますdanger

秀吉の正室おねも北政所と呼ばれていましたgood前述した通り、北政所とは関白の正室の呼称であり、特定の個人を指す名前ではありませんでしたdanger

ところで・・・

なぜ、五摂家の他のライバル達を差し置いて、なぜ忠栄が関白に就任できたのでしょうかsign02

九条家当主である彼は当然、摂政関白の地位に就く資格を有しておりましたwinkしかし、他の特異な要素として正室の完子の存在が挙げられると思われますnew

豊臣家と朝廷との関係は、秀吉死後も良好でしたok後継者秀頼の官位昇進も、摂関家に准じたコースを順調に進んでいましたhappy01九条家との縁組もそうした蜜月関係を反映していましたok

淀殿は完子の夫忠栄を通して、朝廷内における豊臣家の影響力温存を願っていたのでしょうthink

これと同じく、徳川家も忠栄・完子夫妻に大きな期待を寄せていましたdiamond

豊臣家の娘完子の嫁ぎ先の九条家になぜsign02と思うかもしれませんが・・・

完子はご存じの通り、徳川将軍秀忠の御台所江の子供でありましたsign01(但し、父親が異なりますが)

徳川幕府にとって、朝廷との関係円滑化は急務の課題でしたdangerこの頃の朝廷は、当時の後陽成天皇の後継を巡って幕府と天皇との綱引きが水面下で続いていましたsign03

大御所家康や将軍秀忠は朝廷における親徳川勢力を植え付ける必要がありましたgood

そこで、白羽の矢が立ったのが、御台所江と前夫秀勝との間に生まれた完子の夫であった九条忠栄でしたok

徳川幕府は、後陽成天皇の次の帝として、天皇と秀吉の養女近衛前子(さきこ)(近衛前久娘)との間に生まれた政仁(ことひと)親王を擁立する事を決めていましたok即位して後水尾天皇となった新帝に、江と秀忠の末娘和子(まさこ)を入内させる事を画策するのですが(この計画は家康の生存中に決められていましたgood)、徳川家からの女御入内について反対の声も出ていましたthink

幕府としても目的達成の為、朝廷内に協力者を作っておかなければならず、九条忠栄・完子夫妻に頼む所も多かったのでしょうthink忠栄の朝廷での発言権を他の公卿達より強くする意味で、彼の関白就任を後押ししたのではと考えられますok

以上の様に、見て行きますと、江の最初の娘完子は豊臣家の娘でもありながら、徳川家とも実母江の縁を通して密接な繋がりをもっていましたhappy01

完子の嫁いだ九条家は、豊臣家と徳川家何れとも良好な関係を築いていたのでしょうok

江と完の母子は離ればなれにはなっていましたが、絆はけっして切れてはいなかったのですsign01

そればかりか、母は将軍家の御台所として、娘は関白北政所としてともに、武家と公家の最上位者の正室としての役割を果たしていたのですhappy01自らの尽力が遠く離れた母や娘の為になると信じながら・・・heart

次回は完子の子供たちと江・秀忠一家との関係について見て行きたいと思いますsoon

[ 2011年08月19日16時07分34秒 ]

江(慶長10年のニアミス)

さて、慶長8年(1603)2月に、徳川家康は朝廷より征夷大将軍に任ぜられましたconfident

名実ともに江戸時代の幕が開いたのですが、この時家康は秀吉生前中より、在任していた内大臣の官職を辞任して、右大臣に昇任しましたdanger

そして、家康辞任後に空位となった内大臣には、豊臣秀頼が就任しましたhappy01

江戸開府は、天下人の地位が豊臣から、徳川へ移動する第一段階の出来事でありましたgood

実は家康は関ヶ原合戦に勝利した後、江戸には戻らず、ずっと京都に滞在していましたconfident

徳川政権構築の為の下準備と征夷大将軍補任に備えた、朝廷対策に奔走していたと思われますが、豊臣家相続人である秀頼に対しても、十分な配慮を怠りませんでしたhappy01

その配慮の一環が、同年8月の秀頼と千姫との婚儀でしたok生前の秀吉との約束を履行する事によって、豊臣家をけっして粗略にはしないという意思を天下に示したと思われますdiamond

冒頭にご紹介した、家康の右大臣転任と秀頼の内大臣就任も、そうした家康の工作であったと考えられますgood

また、この2年後の慶長10年(1605)、家康が右大臣を辞任し、その後任に再び秀頼が任じられましたshine

ちなみに、秀頼後の内大臣には、秀頼の舅の徳川秀忠が任ぜられましたok

こうしてみると分かる様に、家康は自身が昇進する度に、秀頼を自身が就いていた前の官位の後任に推薦していますconfident関ヶ原戦役からまだ数年しか経過していない状況では、徳川政権は豊臣政権に代わる新しい統一政権であるという事を敢然とは示せなかったのでしょうthink

大坂城の秀頼の許には諸大名達は相変わらず、挨拶に参上していましたgood彼らは同時に京都にいた家康の所にも挨拶に訪れていたのですdanger

少なくともこの時期には名目上の天下人で、摂関家としての格式を有した豊臣秀頼と、実質上の天下人で征夷大将軍の徳川家康が並立していた事になりますねok

しかしながら、家康は天下の大権を豊臣家に返還する気持はありませんでしたban

その事をはっきりと世間に知らしめた出来事が、秀頼が右大臣に叙任した同年に断行された、秀忠の征夷大将軍就任でしたimpact

天下の政事は徳川家が幕府という枠組みを以て、世襲によって行うsign03

この親から子への征夷大将軍の移譲は、徳川家が今後も天下人として、日の本に君臨する事を天下万民に公表した事に他なりませんでしたthunder

当然、豊臣家のオーナーであった淀や、豊臣家に忠誠を持ち続けている秀吉恩顧の大名達の反発は多かった筈ですthink

官位によって、秀頼を優遇しつつ実質は、天下の政道から彼を遠ざけていこうという、家康の巧妙で老獪な意図が窺えますcatface

更に家康はこの機会に思いきった手を、もう一歩打ちますsign03

家康は秀頼の右大臣就任を機に、秀頼との会見を希望したのですdanger

秀頼はこの時点で12歳になってましたgood家康は秀忠の将軍就任(将軍宣下は京都で行われました)を名目に、孫婿の秀頼と会っておこうと考えていたのかもしれませんthink

彼がどのように育っているのかを、この目で確かめたいという気持ちも少なからずあった筈ですsign01

しかし、この会見は生母淀の反対で、不成立に終わりましたbearing

秀忠の将軍襲位が決まり、態度を硬化させた淀が、まだ年若い秀頼を京都に行かせる事を拒んだからですdespair

そればかりか、「どうしても上洛を強要するならば、秀頼とともに自害するsign03」と言い放ったのですimpact

彼女が、本気だったかどうかは不明ですが、家康もこの時点では無理強いをしませんでしたgawk

もし秀頼が会見に応じたとしたら、過程がどうであれ、徳川家に豊臣家が臣下の礼をとった事実を世間に知らしめる事ができるsign01仮に、今回不首尾だったとしても、豊臣家に時勢を見る目がなかった事が白日の下となり、徳川政権の屋台骨を更に堅固にする時間も稼げるdelicious次の会見時期までに両家の力の差をはっきりと示して、改めて臣従を迫っていけばよいsign03

家康はまだまだ、慌てていませんでしたwinkそればかりか、大坂城の秀頼の許へ自らの六男松平忠輝(ただてる)を代理として赴かせましたok(家康の余裕の譲歩だったのでしょうnew

こうして慶長10年の家康と秀頼との会見は、ニアミスに終わりましたscissors

天下が注視する両家の関係が次に大きく動くのは、6年後の慶長16年(1611)の事になりますsign03

このお話は後日にしたいと思いますthink

次回は九条家に嫁いだ完子の動静についてお話しますsoon

 

[ 2011年08月18日15時16分39秒 ]

江(秀吉の死際についての一考察)

秀頼が事、頼み申し候。名残惜しく候weep

この言葉・・・ご存じの方も多いと思いますが、太閤秀吉の遺言の一文でありますdanger

慶長3年(1598)、伏見城にて波乱の生涯を閉じた秀吉は・・・享年62歳でしたweep

死の直前に醍醐の花見を敢行しましたが、この宴が秀吉の生涯最後の大イベントとなりましたthink

恐らく、秀吉は自身の身体の衰えを感じていたと思いますdespair特に、慶長年間に入ってから、伏見大地震や朝鮮再出兵(慶長の役)等の内憂外患で、健康を害していたと思われます・・・

また、秀吉は万事に派手好みであり、天下人に相応しい豪華絢爛な生活を送りましたshineその私生活も多くの側室達に囲まれて、酒池肉林状態であったのかもしれませんdelicious

本人は楽しかったのかもしれませんが、天下を治める人物としては、もう少し健康に留意するべきだったと思いますgawk

当時は医療技術が漢方中心で根本的な外科治療等が普及していなかった為か、人の寿命は総じて短めでしたbearing

織田信長がよく、「人間50年」という謡曲を舞っていた事は知られていますが、せいぜい50歳まで生きられたら長生きしたよsign03といわれる時代でありましたgood

当時の尺度から考えると、秀吉の62歳は決して早死にではないと思いますok

しかし、死の床に就いた彼の心境を、端的に言うならば・・・

「幼い秀頼を遺して死ぬのが、返す返す心残りであり、死にとうないcrying

というのが偽らざる気持ちであったと確信しておりますdanger

残されている秀吉の遺言からもその想いがはっきりと読み取れますthink

タケ海舟は、秀吉の無念と後悔の念の内側を、次のように考えていますgood

晩年になって生まれた秀頼に、秀吉は自分が一生を賭けて築き上げてきたもの全てを、継承させようとしましたsign01

親としてはわかる気がしますok

しかし、その為に甥の秀次を抹殺してしまいましたimpact

身内の寿命に恵まれなかった秀吉にしてみれば、秀次は唯一の成人した親族でしたdespair

難しい面はあったのかもしれませんが、秀頼を支える藩塀として政権を支える存在には、十分成り得たと考えられますthink

秀次一族を抹殺した結果、秀頼を盛り立てる男系の豊臣一門は皆無となってしまいましたng

一族に頼る事が出来なくなった秀吉は、有力大名の取り込みを図りますdanger

従来の自らの独裁的な権力基盤を支えていた奉行衆(石田三成・浅野長政等)の上に徳川家康や前田利家等の諸侯で形成される五大老制度を置き、最高意思決定機関と位置づけましたok

自分に万一の事があった場合、重要事項は合議制で決済する仕組みは、特定の人物への権力集中を避ける意味合いもありましたgoodまた、大老と奉行間で双方を監視させる事も可能でしたdelicious

この突然の政治機構の変更の背後には、諸大名ナンバー1家康の独走をなんとか抑えたいという考えがありましたgawkなんとか家康の勢力を弱めようと画策しましたが、効果はなくむしろ、その実力を蓄えさせる結果となってしまいましたbearing

こうなったら、徳川家を豊臣政権側に取り込んで、家族ぐるみの付き合いで最も信頼している前田利家の前田家とともに秀頼体制を支えさせようsign03

秀吉はそう考え、命じた婚姻が件の江と徳川秀忠の縁組であり、更に両者の間に生まれた千姫と秀頼との婚約でありましたhappy01(徳川家を二重の縁組で縛り付けたわけですねok

ところでdanger

秀吉の本心・・・本当に秀頼政権を託したかった人物は、間違いなく利家だったでしょうdanger

五大老の筆頭を、家康と利家の2人と位置づけた事。政治向きの件は家康に、秀頼の養育は利家にそれぞれ任せた所からも、最大実力者家康の対抗馬として、利家を引き立てようとする秀吉の思惑が見え隠れしますthink

文禄4年(1595)の秀次事件以から、この世を去る慶長3年(1598)の3年間、秀吉ははっきりと自身の余命を悟っていたのかもしれません・・・

限られた時間の中で出来るだけの方法を取ったと思いますが、秀頼を護る為の体制固めのみに四苦八苦してしまい、豊臣政権の直面していた課題の根本的な解決には目が行き届かなかった様に思われますsad

特に2度にわたる朝鮮出兵によって、多くの諸大名が軍事的にも経済的にも大きな打撃を蒙りましたban

秀次事件は政権内部の尾張派と近江派との深刻な対立を、決定的にしてしまいましたshock

2つの出来事で辛酸をなめた者達(ほとんどが尾張派)は、秀吉の下で諸事万端の采配を振った近江派の筆頭石田三成を、激しく憎悪するようになりますdespair

この様な対立と争いの種を数々残したまま、この世を去ってしまった秀吉はやはり人生の締め括りの段階で、大きな失敗を犯してしまったと言わざる負えないと思いますshock

彼の残した負の遺産は、彼の愛児秀頼がそっくり背負う事になり、やがて豊臣家滅亡という悲しい結末を迎えますweep

日輪の子秀吉は、晩年に秀頼が生まれてから輝きを失ってしまったbearing

目先しか見えないただの老いた老人になってしまったのかもしれませんねng

不世出の英雄としては、あまりにも残念な終幕でありましたcrying

最後に・・・

「家康殿、秀頼を頼む!秀頼を頼む!何卒お願い申す・・・」

秀吉に必死の哀願をされた家康は、どんな気持ちで瀕死の太閤殿下と向き合っていたのでしょうかsign02

恐らく、「自分はこのような最期は迎えたくないsign03」という気持ちでいたのではと思われますok

秀吉の死から18年度の元和2年(1616)、家康は75歳の生涯を閉じるのですが、既に徳川幕府の基盤をほぼ固めていた彼は、安心してこの世を辞したと思われます(たぶん)confident

秀吉の死際を十分反面教師にした事は、言うまでもありませんok

本日はここまでにしますsoon

[ 2011年08月17日11時35分12秒 ]

江(完子輿入れ事情について)

武家関白豊臣家の娘として嫁いだ完子sign03

ドラマでは遂に岸谷秀吉が最期を迎えましたねcrying

岸谷五朗さんの演じた秀吉については、いろいろと賛否両論の意見が百出していましたねcoldsweats01

江にとっては人生を翻弄されたとんでもない人物(早い話、敵役)でしたが、それでも最後に、徳川家に嫁ぐきっかけを作ってくれたのですから、結果論で言えば、彼女にとっては福の神だったのかもしれませんconfident

秀吉の最期については別の機会にお話しさせて頂きますgood

さて、本題の完子の話ですnew

江の秀忠の長女千姫が、淀と秀吉の子秀頼に嫁いだ翌年の慶長9年(1604)、完子は五摂家の一家である、九条忠栄(くじょうただひで)の正室として嫁ぎましたshine

この縁組は、江の姉が諸事万端の采配を振ったといわれていますok完子の輿入れ時の行列は、大層豪華であったみたいで、豊臣家が如何に、この結婚を重要視していた事が窺われますscissors完子を自らの猶子として、実の娘同様に愛しんでいた淀にとっても、江戸にいる完子の実母江への責任を果たす、節目の出来事になったのでしょうok

江も、徳川に嫁いで以来ずっと気に掛けていた完子が、公卿最高位である五摂家の九条家正室になるという知らせを聞いた時は、さぞかし喜んだ事に違いないでしょうshine

さて、この完子輿入れについて、別の側面から見て行きたいと思いますnew

前述した通り、この結婚は豊臣家の威信と財力を動員した一大イベントでしたsign03

完子の嫁ぎ先である九条家の為に、秀頼(完子の義弟で従兄妹)名義で新邸が造営された程でしたdelicious

実はこの結婚の背景には、武家関白となった豊臣家の政略結婚という色彩がありましたdanger

平安時代より、摂政・関白は藤原家北家嫡流のみが就任する事になっていましたok

北家は鎌倉時代以降、五家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)に分かれたのですが、摂関職は引き続きこの五家から輩出されていましたwink

ところが、この仕組みがある人物によって、破られてしまいましたshock

誰あろうsign03豊臣秀吉でしたsmile

以前、このブログで触れましたが、秀吉は天下人となる自身の正当性を証明する為、誰もが納得する権威を必要としていましたsign01

彼の考えた結論が、関白になる事でしたimpact

ところが、秀吉は武家ではなく、もとは一介の百姓でありましたweep関白になる為には、摂関位に就ける五摂家の養子になる事が絶対条件でしたthink

しかし、高貴な方であった摂関家は身分卑しき秀吉を軽蔑し、容易に彼の望みを叶えませんでしたangry

そこで、秀吉は莫大なお金や贈答品を諸方面にばら撒き(賄賂ですね・・・)、遂に五摂家筆頭である近衛前久(このえさきひさ)の養子となる事に成功しましたdiamondこの前代未聞の出来事の見返りは、自分の後の関白職には前久の子供を推薦する事sign01もう一つは、前久の娘を自らの養女として、当時の後陽成天皇に入内させるという物でしたsign03

当時の朝廷の事実上の代表者であった、近衛前久の『名を捨て実を取る』という超政治的判断によって、秀吉は藤原秀吉として関白になる事ができたのですhappy01

ところが、秀吉は前久娘(後の中和門院)の入内には尽力したものも、関白職を近衛家(五摂家)には返還しませんでしたwobbly

周知の通り、秀吉は甥の秀次に関白を譲ったのですdash

文禄4年(1595)秀次が失脚した後、関白職は5年間空位となっていましたgawk

どうも秀吉には愛児秀頼が成人時に、彼を関白職に就かせる意図があったみたいですnew

しかし、関ヶ原の合戦後、天下の実験は豊臣から徳川に移り、関白職も再び、五摂家が代わる代わる就任する事になったのですok

その久々の五摂家からの関白が、九条兼孝(完子の夫忠栄の父)でありましたhappy01

一方の豊臣家はせっかくの武家関白の地位を、短期間の内に喪失してしまいましたdespair

豊臣秀頼は約束されていた、天下人と関白の地位何れも、就く事が出来なかったのですdespair

秀頼実母淀の心中如何ばかりであったのでしょうかweep

ここからがタケ海舟の私見になるのですが、淀はけっして秀頼を天下人にする事を諦めていなかったと思いますnew

しかし、江戸では家康が征夷大将軍に任ぜられ、新たな武家政権の枠組み作りに着手し始めていましたsign01

家康が将軍職を孫婿である秀頼に譲る可能性はまずない・・・

淀はそう考えたのかもしれませんpaper

それならば、武家関白豊臣家は既に五摂家と同格の地位にある(つまりは六摂家)danger

将軍が無理なら秀頼を父秀吉同様、関白にする為の布石を打っておこうsign01また、家康も若くはないので、次期将軍となる秀忠は妹江の夫で、秀頼の正室千姫の父であるconfident状況によっては、秀頼が将軍になる可能性も残されているし、仮に果たせずとも、関白職を出す摂関家の一家として、豊臣家と秀頼の権威は保たれるdanger

豊臣家の実質的オーナーの淀はそう考えたのかもしれませんok

その布石の第1弾が、完子の九条道栄への輿入れでしたhappy01

事実、この輿入れの翌年の慶長10年(1605)、秀頼は内大臣から右大臣に任じられましたok

完子の背景には摂関家(この時は間違いなく)豊臣家の用意周到な婚姻政策の思惑が見え隠れしますbleah

ちなみに、秀頼前任の右大臣は他ならぬ徳川家康でしたsign03

家康も、豊臣家が秀頼の代で、朝廷の公卿群を束ねる摂関家としての地位を確立する事ができたら、両家は共存できると考えていたのではないのでしょうかhappy01

徳川家が武家、豊臣家が公卿をそれぞれ統括して朝廷を守護出来たらこんな良い事はないconfident

家康は豊臣家(淀)の婚姻政策と秀頼官位上昇に積極的に協力したと考えられますhappy01

この一連の工作は、慶長10年の秀頼の右大臣任官までは順調でしたが、同年に大きな問題が持ち上がりましたsign03

それは何か・・・sign02

続きは次回にさせて頂きますsoon

[ 2011年08月16日11時22分06秒 ]

江と完子・・・その後

江と豊臣秀勝との間に生まれた完子は、実母江が徳川秀忠に嫁いだ折に、母の実家(江にとっては姉淀の嫁ぎ先こそが実家でした)豊臣家で養育される事になりましたweep

この時完子は3~4歳頃であったと思われますgood

完子の養育は、姉の淀が行う事になりましたok彼女は姪に当たる完子を自らの猶子にしましたhappy01

自身の子供である秀頼とともに彼女を豊臣家の子供として育てたのでしたshine

完子は秀吉の死後も淀と1歳年下の秀頼とともに、大坂城にいたと思われますconfidentこの数年後の慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が起こり、完子のいる豊臣家と生母江が嫁いだ徳川家の立場は逆転しますgawk

完子と江戸にいる生母江との音信は、はっきりしてませんが続いていたと思われますnew

しかしながら、二人が会う事は困難だったと思いますthink江は関ヶ原合戦前後より、寛永3年(1626)の逝去までただ1回の例外を除いて、徳川家の居城江戸を動いていないのですsign03

しかも、徳川と豊臣との関係はこれ以後、双方の努力にも拘わらず、悪化していきますdespair

完子も母の江も、政治的には複雑な立ち位置にいたのでしたng

そんな完子の周囲にも、いろいろな動きが出てきますdanger

慶長8年(1603)に江と秀忠の長女千姫が、秀頼の正室として輿入れして来ましたsign01

完子にとって、千姫は異父妹に当たります。(ちなみに、秀頼にとっては千姫と完子は従兄妹になりますhappy01

この時、二人の母親である江は身重(当時四女初姫を懐妊)のまま、千姫を伴って上洛していましたdanger

妊娠中という非常に危険な状態にも拘わらず、上洛を敢行した理由は、自分と姉の子供たちである千姫と秀頼の結婚が、徳川・豊臣両家の今後の行く末を決める重大事であると認識していたからだと考えられますsign03(この認識は実質的な豊臣家の当主となっていた淀も同じだった筈です)

江としては今回は自身が上洛して姉に直接、千姫を託したいという気持ちが強かったのでしょうthink

さて、この時・・・

同じく江の娘である完子は11歳になっていましたhappy01彼女も翌年の慶長9年(1604)に五摂家の一つである九条家に嫁ぐ事になるのですが、当時はまだ大坂城にいたのでしたcatface

タケ海舟は次のように考えていますgood

千姫輿入れの時、諸事万端の打ち合わせは京都で行われ、千姫は豊臣家によって大坂に引き取られ、婚儀が執り行われた事になっていますsign01つまり、江は京都までは千姫に同行したのですが、大坂には赴かなかったという説がありますdanger(実際彼女は臨月でもありました)

しかし、彼女は千姫の輿入れ後も暫く、京都に滞在し、伏見城で四女初姫を生んでいますscissors

ちなみに、この江の娘初姫は、江のすぐ上の姉初(名前が同じでややこしいですねcoldsweats01)の養女として生まれてすぐ京極家に引き取られますwink(この時、江が産んだ子供が娘だったら、自身の子供がいない初の養女とする約束が交わされていたという説もあります・・・)

上記のとおり、これだけ長期間京都にいたわけですnew

大坂と京都との距離を考えても、公式にはともかく、淀と江がどこかで秘密裡にあったとしても不思議ではありませんok(当然、次姉の初も養女縁組の関係上同席していた筈です・・・)

だとしたらdanger

大坂にいた完子も当然、養母淀に伴われて実母の江と対面している可能性が高いのではないのかsign02

そう考えない方がむしろ、不自然であるsign03

と、タケ海舟は考えていますconfident

実際、史料的には何の裏付けもありませんcoldsweats02しかし、普通に考えると京・大坂間という、会いに行こうと思えばいつでも行けるという近距離に実の母が滞在している事を知っていて、会いにいかないのはどうしても不自然に思えて仕方がないのですshinenew

ドラマではこの辺りの話をどのように構成するのかなと思っていますが、やはり慶長8年の千姫輿入れ前後に、江と完子は対面を果たすという設定になるのではと推測していますhappy01(素人構成作家が勝手に喋ってますcoldsweats01

次回は完子が九条家に嫁いだ件について、その背景を眺めてみたいと思いますsoon

 

[ 2011年08月14日08時42分16秒 ]

江(なぜ身1つで秀忠へ嫁いだのか)

豊臣家の子として育てられた完子sign01

江は結局、秀勝との間に生まれた娘の完子を豊臣家に残して、徳川秀忠の許に嫁ぐ事になりましたdespair

彼女の心中を考えると、本当に辛い選択であったと思いますが、客観的な判断をすれば、この決断(江自身より豊臣家としての決断ですが・・・)は当然の物であったと思いますthink

豊臣家には、淀が生んだ秀頼以外、秀吉直系の血筋を引く子供がいませんでしたsign01

この先、秀吉に子供が出来る可能性はどう見ても考えられませんでしたdelicious

もし、秀頼が亡兄鶴松同様に夭絶した場合、天下人豊臣家は、秀吉の死後は後継者のいない家になってしまうわけですshock(つまり断絶・・・)

そうなると、後を継ぐべき男子がいなくなる事を想定して、一族の娘を養女に迎え、これに婿を取らせて家を存続させるという、所謂リスクマネジメントが必要になりますgood

幸いにも、豊臣家には傍流ではありましたが、秀吉の甥秀勝と江の間に生まれた完子がいましたnew

秀吉と淀は、上記のような万一の事態を視野に入れて、完子を豊臣家に残す事を決めたのだと思われますok

江自身は母親として、後ろ髪を引かれるような思いがあったと思われますが、養父秀吉や姉淀の意向に逆らう事もできず、完子を淀に託して、徳川家に赴く事になりましたweep(完子は淀の猶子となり、豊臣家の娘として養育される事になりますok

ところで、この時代の武家の娘は(公家も当てはまるかもしれませんが)、家同士の利害の一致と、家の長(家長)の意向によって、嫁がされていましたsign01(これを政略結婚といいます・・・)

本編の主役である江は、まさに秀吉の思惑によって翻弄され、三度も政略的な結婚を強いられたわけですdespair

そして、彼女の場合、二番目の夫だった秀勝との間に完子がいたにも関わらず、その子を嫁ぎ先(豊臣家)に残して、新たな家(徳川家)に嫁いだのですcloud

一見すると異様な結婚に見えるかもしれませんが、この時代の常識では、前の結婚相手との間に生まれた子供を、嫁ぎ先や自身の実家に置いたまま、他の家に嫁ぎ、またそこで子供を生むというケースは決して少なく無かったのですdanger

似た様な事例を、江が嫁いだ徳川家の娘でご紹介したいと思いますconfident

徳川家康三女振姫(ふりひめ)(秀忠の1年違いの異母妹に当たります)は秀吉の命で文禄4年(1594)に蒲生秀行と婚約し、慶長3年(1598)に正式に輿入れしましたsign03秀行は名将の誉れが高かった蒲生氏郷(うじさと)の嫡男でしたが、幼小という事もあって、家康が岳父として彼の後見に当たりましたconfident

秀行と振姫の間には、2人の男子が生まれたのですが、慶長17年(1612)にその秀行が急死するという悲劇に見舞われますdespair

蒲生家は振姫の生んだ忠郷(たださと)が継いだのですが、後見人となった振姫と蒲生家の重臣たちの間で内紛が勃発しましたimpact

娘の訴えを聞いた家康は、重臣グループを処断する事で事態の収拾を図りましたが、騒動の一方の原因となった振姫をこれ以上蒲生家に残しては、新たな問題が発生する恐れがあると判断したのでしょうかsign02think

元和元年(1515)に家康は思いきった手を打ちますsign03

なんと、振姫を蒲生家から退去させ、紀州和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の正室として再嫁させる事を決めたのでしたdangerこの時、振姫は35歳でしたflair

死を直前に控えた家康にとっては、蒲生家の騒動をこれ以上深刻化させる事は避けたかったと思われますpaper

同時に自身の九男義直(初代尾張藩主)の正室の実家であった浅野家との、新たな縁組を結ぶ事を望んでいたのでしょうok

家康の死の翌年である元和3年(1517)、振姫は長晟嫡男光晟(みつあきら)を産んだのですが、当時としては稀な高齢出産の無理がたたったのか、出産後に亡くなってしまいましたweep(享年37歳)

しかし、彼女が命と引き換えに産んだ光晟は家康の孫に当たり、徳川家の血を引く嫡男を得た浅野家は徳川幕府体制の中において、その地位を安定化させる事に成功しましたhappy01

このように、振姫は最初の嫁ぎ先に子供を3人(二男・一女)残したまま、浅野家に嫁ぎましたconfident浅野家嫡子を産んだ直後に、死に見舞われたとはいえ、家康の思いきった娘の嫁ぎ先の配置転換策(正室の転封)は、一応の成果を収めたのでしょうok

振姫より8歳年上であった江も、娘を残したまま徳川家に嫁きましたhappy01(再婚時期については、江の方が20年ほど早かったですけどcoldsweats01

彼女が秀忠の正室になって、二男五女(異説ありsign01)を儲け、将軍家御台所、将軍家生母、中宮の生母そして、天皇の祖母という名誉と名声に包まれましたwink

また、彼女が完子を置いて徳川家に輿入れしなかったら、この様な幸運を得る事はできなかった筈ですthink

江も振姫も自分の意思によって、嫁いだわけではなかったのですが、自らに課せられた運命の中で、幸せをつかもうと懸命に努力したのでしょうsign03

そして、それこそが、この時代における、武家の娘たちの生き方だったのでしょうshine

本日はここまでにしますsoon

[ 2011年08月12日16時04分01秒 ]

江(徳川家に嫁ぐ事になった背景)

豊臣と徳川を繋ぐ架け橋(実は同床異夢)に選ばれた江sign03

江は徳川家康の後継ぎ秀忠に嫁ぐ事になりましたsign03

前にも述べましたが、秀吉は幼い後継者秀頼を中心とした体制固めに奔走していましたdelicious

しかし秀頼の元服まで自分が果たして生きていられるのかsign02正直、不安だったと思われますng

自分に万一の事があった場合、頼りになる身内が最早、いない秀頼の行く末はどうなってしまうのかdespair

ひと癖もふた癖もある諸大名(特に自らが勢力拡大に手を貸してしまった徳川家康)達が、たちまち態度を一変させて無力な秀頼に危害を加えるかもしれないpunch

秀吉は恐怖に慄いたと考えられますdespair

一連の問題を解決させる方法として、自分の没後1人に権力が集中しないように、五大老・五奉行という合議制による意思決定機関を考えたわけですgood(件の1人とはいうまでもなく、家康さんですcoldsweats01

この合議制は、諸大名相互を牽制させるという意味では有効でありましたokしかし、秀吉はそれだけでは安心せず、徳川家を豊臣家側の人間として、政権に取り込んでしまおうsign03というウルトラCを考え付いたのでしたscissors

その手段が、豊臣秀勝と死別して現在、フリーであった江を家康嫡男秀忠に嫁がせるという政略結婚でしたgood

この秀吉からの打診を受けた徳川家は、正直驚いたと思いますthink

実は、徳川家と豊臣家との婚姻は今回が最初ではなく、実は3度目でしたsign01

最初は、家康と秀吉妹朝日姫との婚姻ok(彼女は家康の2人目の正室となりましたcatface

2度目は秀忠と秀吉養女小姫(織田信雄娘)との婚姻(彼女は秀忠の最初の正室ですcatface

両家の間には過去、このような縁組があったのですが、残念ながらいずれも、相方の病死によって短期間の内に終わってしまっていたのでしたweep

しかも、あまり言ってはいけないと思いますが、江は2度の結婚歴がありましたsign01その結婚生活自体1年弱で、しかも嫁いだ相手の失脚や死をもたらすという誠に不吉な結果に終わっていましたng

前述した様に、豊臣家とのこれまでの結婚が、あまりよい結果をもたらしていないという前歴を鑑みても、できればパスしたいなdespairというのが本音だったかもしれませんdanger(或いは、江を厄病神と考えていたのかもしれませんねcoldsweats01

しかし、この結婚は決してマイナス面ばかりが目立つものではなかったのですscissors

秀吉は、諸大名最大の実力者徳川家康を心の奥底から警戒していましたsign05

自分が死んだ後、『豊臣家から天下を奪うのは間違いなくあのタヌキ親父だsign03』と考えていたに違いありませんimpact(事実そうなりましたけど・・・)

家康は油断ならないが、息子の秀忠は律儀で大人しいと評判であるflair扱い次第では豊臣家の意のままに動く人間になるかもしれないdash彼を豊臣家の親族同然の待遇を与えて、政権側の人間として組み込んでしまおうnew

秀吉は秀忠の抱き込みを考えたのではないかと思いますnew 抱き込むには、婚姻政策に限るわけで、それもできるだけ自分若しくは、秀頼生母の淀に近い血筋の者を、秀忠の正室に送り込まなければならなかった筈ですshine

既に身内の人材が払底していた秀吉と比べて、淀には1人身内がいましたrun

いうまでもなく、江の事ですねconfident

淀と江姉妹を要に配したこの政略結婚は、豊臣・徳川両家双方に大きなメリットが見込まれましたok

豊臣家にとっては、秀吉亡き後の秀頼の後見人的な立場に徳川家を据える事によって、政局の安定化を図り、徳川家を政権内部に取り込んでその脅威を抑制できるdanger

一方の徳川家にとっては、豊臣政権の中枢に入り込む事によって、秀吉死後に発足する秀頼政権内において指導的立場を確立する事ができるdanger 

当然、タヌキ親父家康はサル面冠者秀吉の思惑を見抜いていたと思われますが、最終的には決して悪い話ではないと判断して、江を秀忠の嫁に迎える事にしたのでしょうhappy01

こうして、両家における三度目の縁組が決まったのですが、ひとつ大きな問題が持ち上がりましたgawk

江が前夫秀勝との間に設けていた完子(さだこ)の処遇でしたdanger

ご存じのとおり、完子は江と引き離され、淀の猶子として豊臣家で育てられる事になるのですが、その背景についてのお話は次回にさせて頂きたいと思いますsoon

[ 2011年08月08日11時03分23秒 ]

江(義に生きる人三成)

義に生きるという事の難しさdespair

三成という人を一言で表現するならばthink

ずばり、義の人であるといえるかもしれませんok

義とは、儒教道徳の一種なのですが、平たく言えば、公け(おおやけ)・公益(おおやけのりえき)若しくは、それを絶対的な価値と位置付けて行われる、様々な行動規範といえるのでしょうか(素人解説ですみません・・・)

三成は義を自分の行動規範や理念としていたのではないかと思われますconfident

ただ、この義という観念は、公とか公益に尽くすという訳ですので、三成の中の義の対象は、主君である豊臣秀吉または、豊臣政権でありましたdangerすなわち、主君や組織に対する奉公こそが義であるとsign01

豊臣政権が全国統一政権となって以後、三成のこの公(義)〔別の表現で公儀とも言えますね〕絶対主義的考え方は、ますます尖鋭化していく事になりますgood

何事も義に適うのかそれとも適わないのかsign02

義・公は彼の人生の価値基準へとなっていきましたdanger

ドラマの中で、三成は千利休・秀次追い落とし(多分に秀吉の意向を汲んだ行動)を仕組んだ人物として描かれていますsign01果たして、事実だったのかは不明ですが、彼の価値基準の義・公(すなわち秀吉)で照らし合わせた場合、利休や秀次が公的権力である秀吉の存在を脅かす存在(またはその可能性がある)に映った可能性は高かったと思われますthink

一説によると、秀次事件に関して三成は、『秀次に謀反の企て無しsign01』と彼の無実を主張したといわれていますdanger

しかし最終的には秀次の高野山への追放言い渡しを行っていますし、秀次一族の処刑執行の責任者も務めていますpunch

この点、三成には個人として、別の見解を持っていても一旦、公(秀吉の)決定が下されたら、義(公)によってその命令を厳格に指示・執行するという姿勢が伺えられますnew

中央政権の執行者としては当然といえるかもしれませんが、反面彼のその公至上主義(義に生きる)があまりにも非情で怜悧に過ぎるという批判も多かったみたいですng

特に同じ時期に秀吉に仕え、寝食をともにしたと思われる加藤清正や福島正則等の武功派とは決定的に反目していましたbearing(鼻からウマが合わなかったとも思いますが・・・)

三成は非常にストイックでしたnew自己にも厳しかったのですが反面、他人にも厳しく容易に妥協をしなかったといわれていますdespair

端的には秀才肌でありましたconfidentそれ故に、人との引き合い特に同僚間とのトラブルが多かったみたいですng

秀才にありがちな欠点でありましたが、彼の盟友で名高い、直江兼続(なおえかねつぐ)や大谷吉継(おおたによしつぐ)は、三成のそういう面を心配し、何度も忠告したみたいですconfident(あまり効き目がなかったみたいですが・・・)

とはいっても、多少融通の利かない所もあった様でしたが、彼のまっすぐな生き方に共鳴し誼(よしみ)を結んだ諸大名も多かったみたいですhappy01

前述した兼続は数年前の大河ドラマ「天地人」の主人公でしたが、義の人上杉謙信の薫陶を受けた彼もまた義に生きた人でしたsign01

大谷吉継も秀吉に目をかけられ、麒麟児と言われていましたが、残念ながら、業病に罹ってしまいましたweep

宿痾(しゅくあ)になった彼を人々は蔑み、多くは彼との接触を避けるようになったのですが、三成は依然と変わらぬ交誼を結び続けたと言われていますnew

後年の関ヶ原合戦で、勝敗を度外視してまで三成に味方した彼の行動は、一重に三成との信義に殉じた物と言えますok(まさに刎頸の友という関係だったのでしょうthink

しかし、義の人三成の性根を誰よりもよく理解、そして愛したのは他ならぬ豊臣秀吉だったと思われますconfident

秀吉はまだ佐吉(さきち)と呼ばれていた三成の幼少の頃より、彼を側近くに置いて、いろいろと薫陶しましたconfident

三成の才覚を見込んだ秀吉の配慮と思われますが、彼の一挙手一投足を見て成長した三成にとって、毎日が宝のような日々であったと考えられますshine

長じた三成の心の中には、自分を引き立ててくれた秀吉の恩義に報いるべく、彼または彼の作った豊臣政権を守る為一命を賭す覚悟が、自然に出来ていた筈ですsign03

ドラマの中で、江が三成に『なぜそこまで、秀吉の為に手を汚すのかsign02』と尋ねていましたgood

萩原聖人さん演じる三成は、その問いかけには無言でしたthink

しかし、秀吉の死から関ヶ原とドラマは展開する中で、その答えがはっきり見えてくると思っていますok

三成という人物をみていると、義に生きるという事の厳しさや難しさを感じてしまいますpaper

三成のお話は後日、改めてさせて頂きたいと思いますsoon

[ 2011年08月06日09時16分49秒 ]

江(秀吉と家康)

good秀吉にとっては恐ろしい存在であった家康sign03

さて、ご存じのとおり・・・

秀吉は自分亡き後、秀頼中心の政権構想を立てていましたconfident

その為に五大老・五奉行制度を作り、以後はこの仕組みを最高意思決定機関にした合議制を目論んでいましたthink

秀頼政権の枠組みは、五大老をトップに据えた有力大名の連合政権でありましたdanger

しかしこの政権の中枢は、五大老の筆頭徳川家康と次席の前田利家でしたhappy01

死を目前にした秀吉の遺言によると、政治向きは家康が統括して伏見城に常駐sign01

利家は秀頼の傅役(もりやく)として、大坂城で秀頼を後見するという権力の分散が図られていましたgood

いうまでもなく、諸大名の中で実力が抜きんでていたのは家康でしたok

秀吉は自分の死後、家康が権力を濫用する事を極力、恐れていたと思いますdespair

そこで、権力の集中化を防ぎ合議性を採り入れ、家康に唯一対抗できる存在の利家に、自らの愛児秀頼を託したと思われますhappy01

ところでdanger

なぜ、秀吉は家康を恐れたのでしょうかsign02

タケ海舟は秀吉が、家康を完全に屈伏させる事ができずに終わったのが大きな原因であるsign01

と考えていますthink

秀吉は自ら天下人になる過程の中で、かっての主君信長の同盟者だった家康は、何としても自分に従わせなければならない相手でしたdanger

小牧長久手合戦の折、信長遺児信雄を助ける名目で家康が出馬してきた時が大きなチャンスでしたが、反対に家康軍の前に一敗地にまみれる始末でしたbearing

戦での不利を、外交戦略で挽回し、家康から人質を取る等して和睦に持ち込んだのですが、家康を大坂に呼んで臣従を誓わせるにはなお、2年余りの月日を要したのでしたdash

その間、妹を離別させてまで家康の正室として、更に母のなか(大政所)を人質に差し出す等、秀吉にとっては譲歩に譲歩を重ねた結果が、家康の臣従でしたgawk

四国の長宗我部氏や九州の島津氏みたいに、戦で圧倒して従わせる事が出来なかった事は、その後の両雄の関係に微妙な影響を与えますok

小田原征伐終了後、秀吉は家康に北条氏の旧領関東6ヵ国を与えましたdiamond

一見栄転といえますが、この恩賞は家康が今まで心血を注いで経営してきた東海5ヵ国を召し上げるという所謂、国替えでしたimpact

もちろん秀吉は、家康が国替えを拒否するなら、その時点で豊臣氏の全軍を挙げて討伐する決意だったでしょうsign03

家康の旧領への国替えを拒否した織田信雄が、追放処分を受けた事からでも推測できますsad

家康はバカではありませんので、大人しく関東への転勤を了解しましたgoodまだまだ発展途上である関東の将来性を見込んで、新たな領国経営に邁進する事になりますsign01新たな領地は総石高250万石でしたgood

タケ海舟は、家康は損して得を取る戦略を選択したと思いますconfident

新領土に移る事によって、当面は領国経営に専念しなければならないsign01したがって、豊臣政権の次なる国策戦争だった朝鮮出兵には渡海免除の上、肥前名護屋の前線基地への参陣だけで良いという許可を取り付けたのでしたhappy01

ちなみに、家康の旧領東海諸国には、秀吉子飼いの家臣達が新たな領主として入る事になりましたdanger

家康は自らの父祖代々の地を秀吉に明け渡した代わりに、無益な外征による消耗を免れる事に成功wink勢力を温存したばかりか、旧領より100万石上積みした250万石の新領土の経営を見事に軌道に乗せたのでしたshine

この事は秀吉側からみれば、大変な思惑外れだったのではと思われますcoldsweats02

秀吉は家康が新領土の統治に失敗し、領内に一揆や暴動が起こる事を秘かに期待していたと考えられますdanger

領内の反乱鎮圧によって家康が大きな痛手を蒙り、弱体化する事を想定していた可能性は高かったでしょうdash

ところが、案に相違して家康は領国経営に成功、勢力も温存どころが、更に巨大な力を貯える結果になったのでしたdiamond

秀吉は心底、焦ったと思いますcatface家康の力を徐々に削ごうと、あれこれ試みたのですが家康は付け入られる隙を見せませんでしたbearing

荒地の関東に追いやったかに見えた作戦も、虎を野に放つという結果になってしまいましたcoldsweats02

結局、秀吉は徳川家康を、以前より比較にならない程にパワーアップさせてしまったのですshock

秀次事件始末後、自身の後継政権問題に頭を悩ませていた秀吉ですが、もう一つの問題であった徳川対策に関しても茶畑状態に陥っていたのですwobbly

出口の見えない問題解決の為、暗中模索を続けていた秀吉の頭に、あるとんでもない考えが浮かんだのでしたflair

その続きは次回にさせて頂きますsoon

[ 2011年08月05日15時23分15秒 ]

江(石田三成という男)

秀吉にとって三成は神様みたいな存在だったsign03

この所なかなか大河ドラマ江をリアルタイムで視ることが出来なくなってしまい、四苦八苦していますsad 

昨日、2週前の放送「秀忠に嫁げ!」を見ていたのですが、その中で、江と石田三成とのやり取りをみて思った事がありましたので、今日は三成について、あるエピソードを交えて話をさせて頂きたいと思いますhappy01

石田三成という人物は近江国出身ですが、もともとの武士ではなく、近江国内の寺小姓(出家していたのかは不明ですが・・・)であったみたいですconfident

彼と秀吉(当時は羽柴)との出会いは、秀吉が城持ち大名となって間もない、天正年代初頭でありましたgood

三成が預けられていた寺に秀吉が鷹狩りの帰りに立ち寄りましたhappy01

寺内で休息していた秀吉の所へ、三成坊主(失礼)が茶を持って来ましたone

そのお茶は、結構大きめの茶碗に入っていましたok

秀吉はこのお茶を飲んだのですが、かなり温い(ぬるい)お茶でしたscissors

『もう一杯happy01』秀吉はおかわりを所望しましたgood

すると三成坊主は、前よりかは熱めのお茶を持って来ましたtwo

秀吉は『この坊主め。なかなかやりおるわいsmile』と思ったのでしょうかsign02 三杯目を頼みましたnew

さて、渦中の三成坊主は次にどんなお茶を出したのでしょうかsign02

今度は、小さ目の茶碗にかなり熱いお茶を持って来たのですthree

喉が渇いている客人に対して、いきなり熱いお茶を出しても、やけどをして危険だconfident

まずは、量がたくさん入って、かつ、温いお茶で喉を潤して貰おうhappy01

喉の渇きがおさまった所で、今度は少し熱めのお茶を出して、味わって貰うconfident

そして、最後にお茶の本来の味わいを堪能してもらうべく、かなり熱いお茶を少量だけ飲んで貰うwink

お茶を飲む人の気持ちを考えた、三成坊主の観察眼の為せる業だったと思いますhappy01

お話は少し逸れるのですが、以前タケ海舟は美味しいものは少量ずつ、たくさん食べる事が食通の秘訣であるsign01

とある人から聞いた事がありますnewその方がたくさん食べれて楽しめるという事だと思うのですが、料理の出し方においても、お客の事を考えた配慮があるように思いましたscissors

三成坊主のお茶の出し方も、そういう配慮の一種であったのでしょうhappy01

さてさてhappy01

もともと秀吉も、気働きの達人でありましたsmile

彼が信長に仕え始めて、最初の仕事は信長の履物(草履)を管理する草履取りでしたdanger

寒い時には、信長が凍えないように草履を自らの懐に入れていた程ですcoldsweats01

秀吉自身、そのような気働きによって信長の信用を得て出世をして行きましたので、三成坊主の気働きを直に見てthink

『この小憎、使えるかもしれないdelicious召し使ってみようup』という気持ちになったと考えられますok

こうして、三成は秀吉の近従として側近くに仕える事になりましたhappy01

彼は、武芸の方はあまり芳しくはなかったのですが半面、経済的な才格はずば抜けていましたhappy01

羽柴家(豊臣家)の財政や、領内の実情を把握する為の検地や、治水等の普請工事等の民政や行政一般に通じていましたok(長浜城主時代に採用した近江出身の家臣は、統治面に強い人材が多かったようですsign01近江商人発祥の地というだけの事はありますsmile

三成の活躍の舞台は、秀吉の出世と並行して更に広がっていきますhappy02

天下統一後の豊臣政権において、三成は政権の統治機構の中枢を担う、奉行を兼ねるとともに、秀吉側近の第一人者という地位を確立しましたhappy01(現在でいうと、総務大臣と内閣官房長官を兼務するという所でしょうかdelicious

このように、三成の出世は彼の才覚と努力によってもたらされた事について、疑いの余地はありませんが、その他に挙げるとすると、秀吉への絶対的な忠誠心であったとタケ海舟は確信していますnew

但し、彼の忠誠心とは、子供や弟子が父や師匠を慕うような心情に近いと思っていますdanger

ドラマ江で三成を演じる、萩原聖人さんはそのような三成の心の流れを見事に演じていると思いますsign03

次回はその三成の心について、踏み込んでみたいと思いますsoon

[ 2011年08月04日16時27分28秒 ]

江(秀吉の盟友 前田利家)

秀吉が最も信頼した人物 前田利家happy01

結局、秀吉が熟慮を重ねた補佐役候補は、最終的に徳川家康と前田利家に絞られましたok

当時の豊臣政権内で、両人の実力、人望は他の諸大名を凌駕していましたgood

その1人前田利家は、いうまでもなく秀吉が織田信長に軽輩として仕えていた頃からの友人でしたok

織田家譜代の臣で信長の近侍だった利家は、身分的には百姓上がりだった秀吉の上を行く存在でしたhappy01

しかし、その後の秀吉の群を抜く働きによって、両者の立場は逆転してしまいましたcoldsweats02

秀吉は城持ちとして長浜城を与えられた後、中国方面軍の総大将に抜擢されましたconfident(毛利征伐担当)

一方の利家は、北陸方面軍を束ねる柴田勝家の与力となっていましたpout勝家の北陸経略に従事する中で、能登国(現石川県一部)を与えられたのですが、方面軍司令官にまで出世した秀吉との差は明白でしたdespair

本来なら、立場が逆転して微妙な雰囲気が漂いそうなのですが、以後も両者の関係は良好でしたhappy01

信長横死後の織田家の跡目争いで、利家は苦しい立場に立たされますbearing

親友の秀吉と上司の勝家との対立が激化、賤ヶ岳の合戦が勃発した時ですimpact

利家と秀吉は本人同士はもちろん仲が良かったのですが、奥さん同士も大変仲好でしたdiamond

利家の妻まつと秀吉の妻おねは、織田家がまだ清州や岐阜にいる時分は、屋敷が近所同士だったみたいで、夫たちが戦場にいって留守の折には、よくお互いを訪ねて助け合っていたみたいですwink

当然のことながら、家族ぐるみのお付き合いだったのですねdelicious

一方で、利家は勝家とも親密な関係にありましたdanger 

若かりし頃、利家は信長お気に入りの茶坊主が無礼な発言をした理由で、これを斬り捨てた事がありましたshock

信長に無断で、しかも面前で成敗した為、激怒した信長は利家を殺そうとしましたthunder

この時、利家を親身になって弁護したのが柴田勝家でしたconfident

勝家は追放中の苦しい利家の生活の援助もしていたみたいですok

勝家の奔走のお陰で、利家は死罪を免れ、追放処分のみで事なきを得る事が出来たのでしたconfident

やがて、信長より帰参を許された利家は、恩人勝家を「柴田の親父様」と呼び、敬愛の念を深めていきますhappy01

そうした彼にとって最大の選択とは、親友か恩人どちらに味方をするのかという事でしたsign01

結局、利家は勝家側として参戦したのですが、柴田軍の退勢が決定的となった時点で、戦線から無断撤退しましたngこの前田軍の撤退によって、柴田軍は総崩れとなりましたpunch

ところで、利家は拠点のある越前府中の城に戻ったのですが、そこへ敗走中の勝家が立ち寄ったのですdash

利家の戦線離脱が自軍の敗北を決定付けたにもかかわらず、勝家はその事を一切責めませんでしたdespair

そればかりか、利家に『今後は秀吉に味方して前田家の家運を高める様にsign01』と激励したのですnew

勝家は戦では敗軍の将となりましたが、人としての戦では秀吉に勝ったのではないかsign02

タケ海舟はそう思っていますthink

勝家が城を去った直後、今度は勝者となった秀吉がわずかな兵とともに利家の城を訪れましたdash

秀吉は例の如く持前の人なつこさを発揮して、単身城に入った途端、利家の妻のまつに湯漬けを所望したといわれていますcatfaceその振る舞いは、普段の親友の家を訪ねる時と全く変わらなかったとのことですgood

タケ海舟は思うのですが、恐らく秀吉は、自分と勝家との板挟みに苦しんだ利家夫妻の苦中を察していたと思われますthink

律儀な利家夫妻が、結果的に勝家を裏切った事を恥じて自害する恐れがあると懸念して、駆け付けたのではないのでしょうかsign02

友をよく知る秀吉の機転があったのか、利家は秀吉に降伏し、前田家は滅亡の淵から免れる事ができましたdanger

秀吉に臣従した利家の最初の仕事は、北之庄城に立て籠もった勝家を攻撃する先鋒を務める事でしたweep

(戦国の掟とはいえ、恩人の最期を看取るのは辛い役割だった事でしょうbearing

その後、利家が率いる前田家は豊臣政権の重鎮として、重きを為す事になりますok

秀吉の統一事業の一環である、北陸平定戦では、獅子奮迅の働きを見せましたhappy01

また、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)との外交折衝を担当し、彼を秀吉に臣従させる事に成功しましたok

この様な功績により、能登・加賀・越中3ヵ国を領有する大大名となり、豊臣政権の代表として北陸道を統括する存在となりますhappy01また、秀吉は、小田原北条氏の交渉役に、同家と縁戚関係にあった家康を当てていましたが、奥羽地方諸大名との交渉窓口には、利家を任じていましたsign01独眼龍伊達政宗も利家を通じて秀吉と交渉を行い、小田原に参陣する事になりますdanger

こうして利家は秀吉の天下統一事業に大いに貢献しましたok織田家家臣時代より、先輩や同僚との関係が極めて悪かった秀吉にとって、利家が唯一頼りになる存在でしたsign01

柴田勝家、滝川一益(たきがわかずます)、佐々成政(さっさなりまさ)達、織田家の先輩同僚武将達は、信長死後の後継者を巡る争いで秀吉と対立thunder滅亡または没落していきましたweep

そうした中で、前田利家のみが秀吉の天下取りに協力し、喜んで祝い酒を汲んでやった人物であると言えますshine

さて、秀吉と利家は家族ぐるみの付き合いをしていたと述べましたが、子供のいなかった秀吉夫妻とは異なり、利家夫妻は二男九女を儲ける等、大変な子沢山でしたhappy01(この他利家には側室出生の子供も数人いました)

家族同然の利家の子供達は、秀吉にとってはわが子同然に思えたのでしょうかsign02

秀吉は利家の四女豪姫を自らの養女として迎え、猶子であった宇喜多秀家に嫁がせましたhappy01

豊臣・前田・宇喜多三家の結びつきを深めようという狙いであったと思われますsign03

また、豪姫のすぐ上の姉(利家三女)の摩阿姫(まあひめ)はなんと、秀吉の側室になっていますshock

親友の娘を側室にするなんてshockと思いますが、彼女は始め、人質として柴田勝家の北之庄城に居住しており、勝家の滅亡直前に利家の許に返されて来ましたdelicious

彼女は今度は秀吉の人質になるのですが、そのまま彼の側室となったみたいですgood(彼女は加賀殿とも呼ばれています)

彼女は生まれつき病弱だったみたいで、秀吉との間には子供は生まれませんでしたconfident

慶長3年(1598)に秀吉人生最後のイベントといわれている、醍醐の花見に参加後、摩阿姫は秀吉の側室を辞去しましたsmile

病弱の身を案じた実家前田家からの要望だったと思われますが、秀吉もまだ若い彼女の将来を考え、彼女の側室を免除したと考えられますdelicious

彼女は一応、形の上では秀吉側室となっていましたが、実際は妹豪姫同様、養女(人質)という位置づけだったのではと思われますthink

この時代、側室を実家に帰すというのは、古今あまり例はありませんsign01大抵、側室に不都合があったりとか側室の容姿が衰えた等の理由で、遠ざけられるという場合が多かったみたいですrock(中には、家臣に恩賞として下げ渡される事もあったみたいですshock所謂、拝領妻ですね・・・)

これに対して、摩阿姫の場合は円満に実家の前田家に引き取られていますdanger

タケ海舟は摩阿姫は単なる側室や人質ではなく、秀吉と利家、つまり豊臣家と前田家を結ぶ架け橋としての役割を、病弱の身ながら、見事に果たしたのだと考えていますhappy01両人の間柄を考えるとなぜ、人質等と考えてしまうのですがそこが、この時代に生きる難しさと厳しさであったのだと愚行していますthink

以上の通り、前田利家は秀吉が最も心を許す事の出来た、かけがえのない友でありましたhappy01

秀吉は自らの努力と研鑽によって、不世出の天下人まで上り詰めたのですが、半面では彼の才能や栄達を妬んだ人達との様々な軋轢を起こしましたsign01

天下を手中にして晩年を迎えるに当たり、孤独で不安な気持ちに襲われた事も多々あったと思われますdespair

そのような苦境に立っていた秀吉にとって、利家は大きな心の支えになっていたのではないのでしょうかsign02

慶長年間に入り、次第に体の衰えが目立ってきた秀吉にとって、幼いわが子秀頼を本当に託したかったのは、他ならぬ前田利家だったsign03とタケ海舟は確信していますnew

しかし、秀吉と1歳違いだった利家も、秀吉同様に健康を害していましたdespair

また、当時の豊臣政権内において、利家と併立する今1人の大物 徳川家康の存在を無視する事は不可能でしたng

次回は、豊臣政権実力ナンバー1の家康と秀吉との関係を掘り下げていきたいと思いますsoon

 

[ 2011年08月02日12時11分08秒 ]

江(なぜ秀忠に嫁いだのか?その1)

秀頼の後見人を誰にすべきかsign02秀吉の苦悩は続くbearing

昨日放送分のサブタイトルが、「最悪の夫」でしたdelicious

ドラマの最後を見るとまあ、確かにそう思いますが・・・weep

今後江は、いかにしてこの「最悪の夫」秀忠君を、「まともな夫」に改造するのでしょうかsign02

これからの見ものですhappy01

さて・・・

なぜ、江は徳川秀忠に嫁ぐ事になったのでしょうかsign02

彼女の徳川家輿入れについては、養父秀吉の切迫した事情が挙げられると思いますconfident

自らの作った豊臣政権を、淀の生んだ秀頼に継承させる事を決めた秀吉は、一時は後継者であると公認していた秀次を抹殺してしまいましたsign01

いわば、秀吉は自分で築いた後継システムを自らの都合で破壊してしまった事になりますshock

壊してしまってから、秀吉は思案を巡らしたと考えられますcatface

まだ幼い秀頼を守るシステムを早急に作らなければならないgawkしかも、自分がまだ元気なうちに一刻も早くcloud

喫緊(きっきん)の事は、秀頼の補佐役として相応しい人物の選定であるdanger

秀吉はあれこれ考えたと思いますdelicious

秀次を一族もろとも葬り去ってしまった時点で、彼の周辺には秀頼を守ってくれると思われた有力な身内が根絶してしまいましたcoldsweats02(最も、秀次は秀頼に害を為すという判断の下、電光石火で処刑したのは、他ならぬ秀吉ですが)

そうなると、同じく養子にしていた妻おねの甥 羽柴秀俊が有力な補佐役候補となった筈でしたが、秀次を後継ぎと定めた時点で他家転出が決定し、結局小早川家の嗣子となっていましたsad(年齢もまだ若く、とても補佐役の任は勤められなかったと考えられますthink

最早身内に人材無しと悟った秀吉は(自業自得ではありますが・・・)、豊臣政権を支えていた有力諸大名の中から、信頼できる人物に秀頼の補佐を任せようと考えましたgood

タケ海舟は、秀吉が考えていた補佐役候補者は次の人物だったと推測してますdelicious

①徳川家康

②前田利家

③小早川隆景

④宇喜多秀家

秀吉は心情的には猶子とはいえ、宇喜多秀家には殊の外、深い愛情を注いでいましたconfident

秀吉に対して最も、忠実であり、他の誰よりも父親同然の秀吉や義弟秀頼の事を想っていましたsign01

後年の関ヶ原合戦における、宇喜多軍の奮戦ぶりがそれを証明していますdelicious

しかし、朝鮮遠征軍の大将を務める等、軍事的な経験は積んでいたのですが、海千山千の政治の舞台ではまだまだ未熟でしたthinkしたがって候補からは外したと考えられますgood

ところで、秀吉がその智略や先見性において、最も信頼を寄せていた人物は、秀秋の養父小早川隆景でしたgood

隆景は甥である毛利輝元を補佐し、毛利家を豊臣政権に協力させる事に尽力しましたwink

秀吉の統一事業の一環である、四国攻めや九州攻めが比較的短期間で完了した背景には、毛利家の早期の臣従があったと考えられますconfident

秀吉も隆景の一貫した協力に対しては、感謝をしていたみたいで、九州攻めの恩賞として毛利家とは別個に北九州内37万石の所領を与えられていますconfident

しかし、なんといっても大きかったのは、処遇に困った養子秀秋を、小早川家に迎え入れた事だったと思いますshine

秀吉最晩年には、有力大名の合議制機関として、五大老が置かれるのですが、隆景は本家の毛利輝元とともに大老に任じられていますdelicious毛利一族から2名選ばれる事は異例であり、いかに秀吉が隆景を信任していた事を、証明していましたconfident

しかしながら、隆景は天文2年(1533)の生まれで、秀次事件当時62歳という高齢でしたdespair

しかも前年の文禄3年(1594)に秀秋を養子に迎え入れていた彼は、翌年に隠居していましたdanger

第一線を退いた後も五大老の地位には就いていましたが、毛利家を豊臣家に繋ぎ留めておく必要性を考えると、隆景に秀頼の補佐役を任せる事は、物理的に困難だったのでしょうdespair(ちなみに、隆景は慶長2年(1597)に64歳で亡くなっていますweep

秀家と隆景を諦めた秀吉の眼は、残る2人の大物に移りますnew

1人は、加賀・越中・能登国の大守であり、秀吉の盟友だった前田利家sign01

そして、もう1人は、関東一円(武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6ヵ国と下野・常陸の一部)を版図に収め、豊臣政権ダントツのナンバー2であった徳川家康でしたsign01

秀吉は両人のどちらに、秀頼を託そうと考えたのでしょうかsign02

また、その選択が江の身にどのような影響を与えたのでしょうかsign02

続きは次回にさせて頂きますsoon

[ 2011年08月01日14時58分06秒 ]

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