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June 2011

江(利休と秀長)

豊臣政権の公と私の代理人だった秀長と利休danger

蜜月関係だった秀吉と利休との関係が、悪化したのはいつ頃だったのかsign02

タケ海舟には、その正確な時期はわかりませんcoldsweats01

ただ、秀吉の天下統一事業が着々と進むにつれて、従来の秀吉を支えていた正室北政所と秀吉の弟秀長を中心にした尾張グループと、第2夫人(敢えてこう書きますsign01)の淀(茶々)や石田三成等を中心とした、近江グループとの政権運営を巡る主導権争いが水面下で進行していましたdespair

ところで・・・・

東の朝に昇る日輪の如く、天下統一に向けて驀進(ばくしん)していた、天正後期における秀吉政権の状況を把握する一例として、豊後(現在大分県の一部)の戦国大名、大友宗麟(おおともそうりん)の残した言葉がありますhappy01

「関白殿下への表向きの事は秀長殿に、内々の事は宗易に尋ねる事だ」

一時は、北九州一帯を勢力範囲に置き、島津氏や龍造寺氏(りゅうぞうじ)と九州の覇権を争っていた宗麟も、天正6年(1578)の耳川合戦で島津氏に大敗した後、衰退の一途を辿っていましたcrying

対照的に島津氏は、同12年(1584)の沖田畷の戦で龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を敗死させた後、九州制覇を目論んで、大友領の侵略を開始しましたimpact

最早、独力で島津氏と戦う事が不可能と判断した宗麟は、天正14年(1586)、恥も外聞も投げ捨てて、大坂に赴き、秀吉に助けを求めましたdespair鎌倉時代からの名門だった大友家の主が、日の出の勢いとはいえ、百姓あがりの秀吉に救援を懇願に行ったのですsign01追い詰められていたとはいえ、彼の無念さが窺えますweep

ちょうど、四国攻めを終わらせていた秀吉は、次に計画していた九州遠征の為の、情報収集といった意味合いを兼ねて、大坂城で宗麟を謁見しましたhappy01その折、秀吉は例の黄金の茶室で宗麟をもてなしたのですが、その時の茶会で茶を献じた人物こそ、千宗易(利休)でしたconfident

宗麟は、実際に茶会で、利休と顔を会わせていました。彼の人となりも十分、拝見する事が出来たのでしょうdeliciousそして、彼に対する秀吉の信頼の厚さを察知したのではないのでしょうかsign02

冒頭の宗麟の言葉ですが、今後、「表向きの事は秀長に、内々の事は利休に相談する様にせよsign03」と秀吉から直接、指示されたのかもしれませんねconfidentタケ海舟が推察するに、今回の宗麟の懇願は、秀長若しくは、利休を介して、秀吉に対して、行われたという線も考えられると思いますdelicious

いずれにしても、この頃の豊臣政権における、秀吉実弟の秀長と、茶頭であり、側近でもあった利休の存在は、大変重かったみたいですhappy01

秀吉家中の面々、さらに、これから秀吉に臣従しようと考えていた、有力大名達は、政権内における自己の立場を、少しでも有利に導く為、キーマンであった秀長や利休に対して、陳情や取り成しの依頼を頻繁に行ったと思われますhappy01

利休が茶を立てる、茶室という狭い空間の中で、政治向きの内々の重要案件が、討議、決定された事も少なくなかったのでしょうthink当然、利休が相談に与るケースもあった筈ですsign03

こうした一連の流れは、豊臣政権ナンバー2としての、秀長の人望と信頼を高める事になり、同時に、一介の茶頭だった利休の存在を、実物以上に際立たせる結果に繋がりましたdanger

少なくとも、小田原征伐までの秀吉政権の両輪は、秀長と利休でしたconfident

しかし、この頃から、病がちになっていた秀長の表舞台からの退潮が、くすぶっていた尾張派と近江派との対立を呼び起こす事になり、ついては、利休の前途に暗雲が立ちこめる事になるのですbearing

続きは、次回にsoon

[ 2011年06月30日11時53分59秒 ]

江(利休と秀吉の蜜月)

秀吉の考えたお茶を通した民衆教化策と、利休の果たした役割sign03

戦国時代、戦によって武勲を立てた武将達の恩賞は、領地や城でしたhappy01

織田信長も、あまたいた家臣達に恩賞を与えていたのですが、これらの恩賞の代わりに、茶器や茶道具を与える事も多かったみたいですhappy01信長は、有名な茶器コレクターで、お茶の名器を集める事に並々ならぬ執念を燃やしていましたsign01

余談ですが、天下の梟雄といわれた、松永久秀は、天正6年((1577)に大和国(現在奈良県)信貴山城で謀反の兵を挙げたのですが、あえなく、追討軍に包囲されてしまいましたbearingこの時、信長は久秀の所持していた茶釜「平蜘蛛」を久秀が差し出すのなら、命を助けると伝えたのですが、久秀は降服勧告を拒否sign01平蜘蛛を抱いて城ともども自爆しました(久秀も信長に負けず劣らずの、茶器コレクターだったのですねimpact

また、信長は、家臣達に恩賞として、特別に茶の湯を行う事も許可していましたhappy01

秀吉や佐久間信盛(さくまのぶもり)、滝川一益(たきがわかずます)等は、信長に茶会を開く事を認められた代表格でしたが、何も心得のない彼らは、当然の事ながら、信長に仕えていた三宗匠の手ほどきを受けて、茶の湯の腕を磨いていったと考えられますconfident

さて、秀吉は織田政権の後継者としての地位を不動の物にするのですが、天下人たるに相応しい自身の箔付けについて、かなり神経を尖らしていましたdangerその事は、関白就任や豊臣賜姓の件でもよくわかるのですが、自身の教養や品格についても出来るだけ、天下人のそれに近づこうと、本当に涙ぐましい努力をしたみたいですcoldsweats01

武家や公家の必須教養だった和歌や連歌、能についても結構、真面目に勉強しましたconfident

当然ながら、これらに勝るとも劣らない、茶の湯についても、ご執心だったのは言うまでもありませんconfident

秀吉が自らの茶の師匠として選んだのが、千利休でしたsign03

では、なぜ、今井宗久や津田宗及ではなかったのでしょうかsign02

ここからは、タケ海舟の私見なのですが、宗久や宗及は、茶人と商人という2つの異なった顔を持っていましたgood

信長時代の彼らは、茶頭として仕えながら、堺商人として、独占的な権益を信長から保障されていましたdanger(もちろん、信長の意を汲む事が前提条件でしたが・・・)

秀吉は、堺の統制については、信長よりもさらに強い態度で臨みましたsign01信長より既得権益を受けていた、宗久や宗及よりも、新興商人達を重用しましたhappy01小西行長の父親であった小西隆佐(こにしりゅうさ)はその代表でしたdelicious

そして、商人よりも生粋の茶人として生きる事を己に課した利休も、秀吉には商人(あきんど)の垢にまみれていない存在に映ったのかもしれませんconfident

百姓出身という、庶民的である事をセールスポイントにしていた秀吉は、自身は民衆の味方であるという宣伝PR活動を行う必要がありましたscissors天下統一事業を推進していく上で、民衆の支持は不可欠であり、大衆人気をつかむ為のツールとして、茶の湯に目をつけたのではないかと思いますthink

とにかく、天下統一期の秀吉は、民衆に人気がありました。後に利休をプロジェクト実行総責任者として開催した、天正15年(1587)の北野大茶会は、「身分に関係なくお茶が飲みたいものは誰でも参加せよsign01」という当時としては、画期的な民衆向けのレクレーション事業でしたshine皆がこうしてお茶を満喫できる程に、世の中は平穏になりつつある。戦争のない平和な時代は目前である事を、民衆に知らしめるという教化政策として、茶の湯を利用した思われますdiamond

そして、利休は、秀吉の茶の湯による、一連の民衆宣撫政策の責任者として、手腕を奮ったのでしょうhappy01

利休は、秀吉の文化教化事業の広告塔的存在だったのですflair

利休は、秀吉と自分との茶道に関する考え方について、いくつかの相違点がある事は、比較的早く、察知していたのではと思われますthinkしかし、お茶を通して、民衆の心の安らぎを探求するという、秀吉の考えには十分、賛同出来たと思いますhappy01

少なくとも、秀吉の利休の関係は、この北野大茶会までは良好だった筈ですok

では、両者の関係はどこで齟齬をきたす事になったのでしょうかsign02

その辺りの事は、次回にいたしますsoon

[ 2011年06月29日12時04分28秒 ]

江(利休と今井宗久・津田宗及との違い)

商人よりも、茶人として生きる事を自らに課した利休sign03

さて、周知の通り、信長死後、天下を巡る情勢は、羽柴秀吉を中心に展開する事になりましたdelicious

信長に仕えていた三宗匠(宗久・宗及・利休)も引き続き、秀吉の茶頭として仕える事になったのですが、信長在世時と比較して、彼らの序列が大きく変わりましたsign03

すなわち、第3位だった利休が、秀吉第1の茶頭として君臨する事になったのですhappy01

これに、対して、今井宗久と津田宗及は、茶頭としての地位は従来通りだったのですが、その影響力は、信長時代と比べて、大きく後退する結果となりましたcrying

秀吉の時代になって、なぜ、利休と宗久、宗及は明暗を分けたのでしょうかsign02

タケ海舟は次のように考えていますconfident

宗久と宗及は茶人である前に、堺の代表的な豪商でありましたsign01宗久は、大和国(現在奈良県)の出身。先祖は近江国(現在滋賀県)に地盤のあった、近江佐々木源氏(初の嫁いだ京極家と源流は同じwink)の末裔で、住んでいた地名の名を取って、今井と名乗りましたhappy01現在まで血筋を色濃く受け継ぐ近江商人の典型といってよい人物でしたshine生粋の堺の商人ではなく、屈指の堺の豪商だった納屋家に身を寄せ、やがて、暖簾分けを受けたのか納屋を屋号としましたhappy01また、武野紹鴎(たけのじょうおう)から茶の手ほどきを受けるようになった事が縁で、彼の娘婿となり、堺を実質支配する会合衆の1人として、勢力を持つに至りましたhappy01

同僚の宗及は、いわば叩き上げだった宗久と異なり、代々天王寺屋という屋号を名乗る大商人でしたhappy01彼の父が武野紹鴎の門人から茶の指導を受けていた関係で、茶の世界にも深い関わりをもっていましたshine

両者は、信長と堺の会合衆が対立した時、いち早く、信長側に付き、堺の街が信長の直轄地になった後も、信長から様々な商人としての特権を受けていましたcatface中でも、宗久は但馬国(現在兵庫県)生野銀山の支配権や、鉄砲火薬の製造にも携わり、信長の御用商人代表格と見られていましたsign03

宗久や宗及と比べると、利休には商人という顔をあまり、表に出す事は少なかったと思われますthink

堺商人の家だった、彼の実家の家業は、倉庫業でしたsign01(ちなみに、、屋号は魚屋〔ととや〕)利休の出自はあまり、はっきりしない所もあるのですが、祖父が室町幕府の同朋衆だった千阿弥であったので、その名を取って、千を姓としたという説がある一方、朝鮮半島出身という異説も存在するみたいです(詳細不明ですが・・・)

タケ海舟は、利休という人物は、どちらかと言えば、商人としてよりは、茶人として大成する事を人生の目標としていたのではと考えていますnew若い時より、茶に親しみ、武野紹鴎に師事して、師とともに茶の湯の改革に取り組んだという経歴から見ても、利休のお茶に対する、ストイックさと妥協のない心構えが推察されますsign01

侘び茶を大成させる事に人生を賭けたと言えるわけで、この辺りが、同じ紹鴎の娘婿であった先輩の今井宗久とは異なっていた所でしょうねdelicious

では、そんな「侘び茶命」の利休が、先輩である2人を飛び越えて、秀吉の大茶頭となったのでしょうかsign02

続きは次回とさせて頂きますsoon

[ 2011年06月28日17時36分43秒 ]

江(信長茶頭時代の利休)

茶聖利休には2人のライバルがいたsign03

昨日の放送で、石坂利休が遂に切腹を遂げてしまいましたcrying

利休がなぜ、秀吉に死を賜ったのかsign02

日本史における、永遠のミステリーの1つだと思いますthink

戦国時代を終わらせた巨人と、侘び茶を大成させた有史上最大の茶人との間に果たして、何かあったのかsign02

この謎に満ちたテーマを取り上げた、書籍や映画は、今までたくさんありましたdanger

ちなみに、タケ海舟が印象に残っている利休ですが、ほぼ同じ時期に上映された、「利休」(三国連太郎さん主演)と「本覚坊遺文」(三船敏郎さん)がありますdelicious

(平成始めの頃の映画だったのですが、覚えている方もいらっしゃると思いますgood

ところで、ドラマでも取り上げられていたのですが、利休は最初から、秀吉に茶頭として仕えていたのではなく、元々は信長の茶頭でありましたhappy01

しかしながら、当時、信長の有力な茶頭は、利休の他に2人いたのですdanger

筆頭が今井宗久(いまいそうきゅう)、次席が津田宗及(つだそうぎゅう)、利休はどちらかというと、2人の後塵を拝した第3の茶頭でした(3人の事を総称して、天下三宗匠とも呼びますconfident

この3人の共通点と言えば・・・

名前の最初に宗が付く事happy01(まあ、確かにその通りなのですがcoldsweats01)の他にng

3人とも堺の豪商だったという事が挙げられますsign03

当時堺の街は会合衆(えごうしゅう)という有力な町衆による合議制で、運営されていた自治商業都市でしたhappy01

畿内交通上における、要衝の港町を押さえており、足利将軍家や、当時、将軍家を凌いで幕府の実権を掌握していた三好長慶(みよしながよし)らも、堺の動向には気を配っていましたconfident

交易による莫大な利潤を得ていたとともに、この時代の戦に革命をもたらしていた、鉄砲の製造と売買を一手に握っていましたok

足利義昭を奉じて、京都に上った信長が、豊かな財力を貯えていた堺に着目しない筈はありませんでしたweep

永禄11年(1568)信長は、堺の会合衆に、軍資金2万貫の拠出を命じましたimpact

独立独歩の気風が強い堺の会合衆は、同じく信長に反感を持っていた三好3人衆と連携して、信長と戦いましたが、同年の六条の合戦で三好方が敗北した為、信長に屈伏する羽目に陥りましたcrying

結局、信長は、畿内最先端の経済都市であった堺を、直轄地とする事に成功しましたが、この時、徹底抗戦を叫んだ会合衆達と信長との間を仲介し、信長からの厚い信頼を受けた人物達が、宗久と宗及そして、利休の3人でありましたhappy01

彼ら3人は、以後、茶の湯を通した信長の文化サロンの中心的存在として、重きをなす事になりますgood

後の世で、三宗匠と呼ばれた3人を皆、茶頭として身近に置いた、信長は本当に凄いなと思いますが、3人の序列は、最も早く、彼に協力を表明した今井宗久がトップで、津田宗及がそれに次ぐ地位にありましたsign01信長との接触が最も遅かった利休(この頃は宗易〔そうえき〕と名乗っていました)は、商人としても大建物だった2人の先輩の前では、やや存在が薄かったのかもしれませんねweep

しかし、信長横死後、この3人の序列に大きな変化が起こりますdanger

茶人の時代は、3者鼎立から利休の1人舞台へと移り変わるのですsign03

続きは次回にさせて頂きますsoon

 

 

 

[ 2011年06月27日10時49分34秒 ]

江(秀忠には既に妻がいた)

実は、江と結婚した時、秀忠には既に結婚歴があったsign03

前回でも申し上げましたが、秀忠は、小牧長久手合戦終了後の和議締結時点で、家康の下にいた最年長の男子でしたsign012人の兄が、賜死もしくは人質的な養子という形で、相続の権利を失っていたので、残された子供たちで、年長の秀忠(この時は竹千代〔長丸〕)が嫡男の扱いを受ける事はむしろ、当然だったと思いますhappy01

当該者に問題がなければ、年長の男子が家の後を継ぐsign01以上の考えに基づいて、家康は秀忠を徳川家の後継ぎにしたと思いますcatface豊臣秀吉も、徳川家後継者秀忠の政治的地位を認め、嫡母朝日の見舞いに上洛した秀忠の元服の儀を執り行いました(この時、秀の字を与えられました。兄の秀康も同じですねhappy01

また、豊臣家と徳川家の繋がりを密にする目的で、旧主筋の織田信雄の娘 小姫(おひめ)を養女にして、秀忠と縁組させましたhappy01秀吉には自身または、縁者に政略結婚の縁組をさせる娘がいませんでした・・・

代わりに、政略結婚の武器として活用されたのが、旧主織田家の血を引く浅井3姉妹や今回の小姫でしたsign03

織田家と徳川家は、かって、信長の娘五徳が、秀忠の兄信康の正室として嫁いでいましたhappy01

先例があったという事もあり、小姫の父信雄と、五徳の母は信長の事実上の正室であった吉乃でしたdiamond

秀吉は、信長の孫娘にあたる小姫を自らの養女にして、秀忠に嫁がせようとしたものと思われますdanger

2人の婚約は天正18年(1590)に発表されました。上洛していた秀忠は、わずか2週間の内に、元服と婚約という人生における大きなイベントを済ませ後、小田原北条攻めに備えて、駿府の家康の許に戻りましたconfident

この時、許嫁となった小姫はまだ6歳という事もあり、京都に留め置かれましたdespair

さて、小田原の役後の論功行賞で、秀吉は、家康を北条家の旧領である関東に国替えさせ、家康の旧領だった東海5ヵ国を小姫の実父信雄に与えようとしましたshineところが、時局に疎い信雄は、父祖代々の尾張伊勢の地を離れたくないという理由で、秀吉からの国替え命令を拒否しましたcoldsweats02(信じられない状況判断のまずさ・・・)

その結果(秀吉からみれば、『待ってましたsign01』だったと思いますが・・・)、秀吉は、信雄から領地を取り上げ、追放処分にしてしまいましたimpact

ところで、この小姫の実家の没落に伴って、彼女と秀吉の親子関係も消滅し、当然、秀忠との婚約も解消されたと言われていましたが、実際、小姫はその後も聚樂邸で育てられていましたdiamond

したがって、秀忠との婚約も解消されずに続いていたという事になりますね・・・

ただ、残念な事に、小姫は天正19年(1591)にわずか7歳で没してしまい、秀忠に嫁ぐ事はありませんでしたcrying

しかし、ここで見落とされている事実があるのですdanger

当時の結婚は(武家や公家だけに当てはまるのか不明ですが・・・)、正式に嫁ぎ先に輿入れしなくても、婚約を取り交わしていれば、たとえ、夫婦生活の事実はなくても、結婚した事と見なされていましたsign03

したがって、秀忠の最初の正室、哀れ7歳で亡くなった小姫という事になるのですgood

これは厳然たる事実なのですthink

徳川家の妻妾についての史料である、「幕府祚胤伝」によると、2代将軍秀忠のご縁女(結婚を約束していた女性)として小姫の名前が、後に、秀忠の御台所となった江の前に記されているのですdanger

昔は、1度結んだ縁は、相手が死んでも決して、無くなるわけではなかったのですねthink

結論を言うと、秀忠は再婚だったのですsign03delicious

ドラマでも秀忠が、小姫との婚約について、少しだけ触れていましたが、歴史の常識のみに捉われていると、意外な事実を見落としてしまう事になりますcoldsweats01この事は、顕著な実例になると思いますthink

正しく言えば、後に夫婦となる江と秀忠は、江は3度目。そして、秀忠は2度目の結婚という事になるわけですhappy01

江が秀忠の最初の正室であったという通説は、実は、間違いだったのですng

本日は、歴史に埋もれた意外な事実という事に触れさせて頂きましたsoon

 

今回のブログ議事を書く上で、福田千鶴先生の「江の生涯」を参考にさせて頂きました。

[ 2011年06月24日17時09分40秒 ]

江(秀忠上洛の真相)

豊臣と北条との板挟みになった家康の苦悩shock

さて、徳川家の後継者は、最年長の秀康が、秀吉の養子となったので、弟の秀忠が取りあえず、その地位に座る事になりましたdelicious

秀吉と小田原北条氏との対立が深まる中、次女を北条氏直に嫁がせていた家康は、非常に難しい立場に置かれていましたdespair秀吉との関係が不安定だった小牧長久手戦役直後、家康は秀吉対策として、和戦両様の戦略を練っていましたdanger秀康を人質に差し出した事や、秀吉の妹朝日を正室に迎えた事は、和議を念頭にした平和戦術sign01自領である、5ヵ国検地(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)の断行や、東隣の北条家との縁組による同盟締結や、北条領に近い駿府城への本拠地移動は、戦さに備えた戦術という事が言えると思いますconfident

しかし、周知のとおり、家康は、虚々実々の駆け引きの末、秀吉に臣従しましたgood

その後も北条家との関係は保持していたのですが、秀吉の天下統一が秒読みとなった段階で、北条家に対して、

時局の切迫を説き、秀吉に臣従する様、説得を重ねましたthink

当時の北条家の当主は早雲から数えて、5代目の氏直でしたが、隠居して10年以上が経過していた先代の氏政の影響力も依然として、強かったみたいですsign01当主の氏直は、家康の娘婿という事もあったのか、秀吉への臣従については、前向きに考えていましたokところが、父親の氏政は、断固抗戦を叫んでいました。関東を支配する北条家の本拠、小田原城は難攻不落の要塞であり、かって、上杉謙信や武田信玄の包囲攻めにも耐えたという、実績がありましたdangerまた、小田原城周辺には、北条家の誇る支城群があり、これらをたやすく攻め落とす事も困難でしたweep

仮に、これらの支城群を無視して、小田原城を囲んでも、各地に散らばる北条方の援軍による後方撹乱で攻城軍は総崩れになる可能性がありましたdanger謙信も信玄も、小田原攻めが長引く事を嫌い、途中で軍を退却させていましたgawk

このような実績を踏まえて、「天下の名城小田原城は、けっして落ちぬsign03」という自信が、氏政始め強硬派にありましたdelicious尚、氏政とともに反秀吉の急先鋒だったのが、弟の氏照(うじてる)でしたsign03

これに対して、当主氏直は消極的な、恭順派だったのですが、彼と同じ考えを持っていたのが、氏政と氏照の弟であった氏規(うじのり)でしたconfident

実は、この氏規・・・家康とは因縁浅からぬ仲だったのですdanger

家康が幼年時代、駿河今川家の人質になっていた事はご存じと思いますが、同じ時期に、氏規も今川家の人質として、駿府に来ていたのですcatface

見知らぬ地における、肩身の狭い人質生活を、一緒に過ごした両者は、帰国後も音信を続けていたと考えられますhappy01

氏直と家康次女督姫(とくひめ)との婚儀も、氏規というパイプがあった故、成立したと言ってもよいのかもしれませんscissors

何としても、北条家を秀吉に臣従させなければならないsign03「いくら、小田原城が難攻不落でも、関東以西を版図に強大な力を誇示する秀吉には到底、勝ち目はないgawk」家康は、一刻も早い、氏直の上洛を促しましたsign03

もちろん、家康は、娘である督姫や婿の氏直、さらには、旧知の氏規の将来を心配していた筈ですthink

北条家の臣従工作を担当していた家康にとって、氏規とのホットラインが頼みの綱でした(北条家にとっても同じ事が言えたのですが、氏政氏直親子にはどれ程、この重要性が理解されていたのでしょうか・・・疑問です)

当然、氏規も家康から、「もはや秀吉への臣従以外に北条家の生き残る道はないsign03」という事は聞かされていたと思いますdash彼なりに、兄や甥に秀吉への臣従を説いたとは思いますが、最終的な決定権を持っていた氏政や氏照の意思を翻意させる事は出来ませんでしたgawk

結局、北条家サイドは、当座しのぎで、氏規を上洛させましたng

一向に、天下の趨勢を読もうとしない北条家に対して、流石の家康もサジを投げてしまいましたannoy

ドラマにも描かれていましたが、家康が、竹千代(秀忠)を嫡母である朝日の病気見舞いの為、上洛させたのは、秀吉に対する、北条家との関係を断つという意思表示だったと思われますhappy01

秀吉の家康の気持ちを汲んでいたので、自ら竹千代の元服を執り行い、自らの秀の字を与え、「秀忠」と名乗らせたのですwinkさらに、家康の忠誠心を信じたという意思表示の意味を込めて、秀忠の帰国を許可したのですok

ちなみに、秀忠の忠ですが、徳川四天王筆頭の酒井忠次(さかいただつぐ)の武勇にあやかるようにという願いで「忠」の字を名乗りに入れたと言われていますgood

まもなく、小田原征伐が開始された事は言うまでもありませんimpact

いつもながら、話は横道に逸れてしまいましたが、次回は、秀忠の人柄についてお話をさせて頂きますsoon

 

 

 

[ 2011年06月22日16時22分43秒 ]

江(なぜ、秀忠が徳川家の後継者になったのか?)

家康が秀忠に見出した天下人を継ぐべき資質とはsign02

いよいよ、ドラマでは向井理さん演じる秀忠が登場しましたねhappy01

向井秀忠(この時は竹千代)が初登場した時、タケ海舟は、正直とても、面喰ってしまいましたcoldsweats02

理由は、従来の秀忠像とはかなり異なっていたからです・・・coldsweats01

一般に知られている、秀忠という人物は、偉大なる父家康に全く、頭が上がらず、2代将軍就任以後も、大御所となっていた家康の指示を受けながら、万事を執り行っていた事柄からもわかるように、温順・律儀というイメージが固定されていますdelicious

確かに、父親が250年以上の泰平の世を創出した大人物なので、どうしても影が薄い2代目という感がありますconfident

生れながらの将軍だった息子の家光が、たくさんのエピソードに包まれている事もあり、初期の徳川将軍は、初代・3代は優秀だったが、2代はいまいちだった等と間違った評価がされていた時期もありましたweep

ただ、最近の研究で、徳川体制は家康→秀忠→家光の3代で盤石となった事は事実であるが、家康から家光への橋渡し役を務めた、2代将軍秀忠の卓越した手腕があったからこそ、家光の下での寛永黄金期がもたらされたという説が巷では認められつつあるようですconfident

ところで、タケ海舟は大学時代に日本史を専攻していたのですが、ゼミの同級生と秀忠について議論しても、「秀忠はただのイエスマンだよsmile」という結論がいつも出ていましたweep

それから20年以上が過ぎて、最近の秀忠株の上昇に関しては、個人的にはうれしい限りですhappy01

タケ海舟は秀忠は、多面性を持った人物であったのではと思っていますdanger

理由は、いろいろ考えられると思うのですが、強烈な個性を持つ、父家康の側で、その一挙一動を目の当たりにしながら、「自分の個性を極力、外に出さないようにしようthink」と努めていたのではないのでしょうかsign02

ところでdelicious

家康が自らの後継者(この後継者という意味は、当初は徳川家のそれだったのですが、後に、天下を治める将軍のそれに飛躍してしまいましたsign03)を選ぶ過程で、どのような基準を持っていたのでしょうかsign02

今川人質時代に迎えた、正室腹の信康が当然、後継者として認められていたのですが、天正7年(1579)に岳父であった織田信長の命令で母ともども抹殺されてしまいましたweep

(もっとも、最近の研究では信康母子抹殺は信長の命令によるものではなく、徳川家臣団の対立に端を発した家康と信康の確執が原因ではという見方もあるみたいですthink)

信康死後の時点で、出生していた男子は、天正2年(1574)生まれの秀康(この時は於義丸)と、信康没年の同7年に生まれた秀忠の2人だけでしたgood

年長者の於義丸が後継者と考えられていたと思いいますが、周知の通り、小牧長久手合戦後の和睦証人(人質)として、秀吉に預けられましたbearing

但し、秀吉は於義丸を可愛がっていたみたいで、自らの養子とするとともに、秀の字と与え、秀康と名乗らせましたhappy01

家康に対する配慮が伺われますが、秀康本人は、実父家康よりも養父秀吉を尊敬していたと伝えられていますdanger

結局、家康の許にいる男子で、最年長は秀忠(竹千代〔長丸とも〕)という事になり、地滑り的に後継者として遇される事になりましたok

ちなみに、秀忠誕生の翌年には同じ母親から忠吉(福松丸)が、天正11年(1583)には信吉が誕生していましたhappy02

家康は男子の頭数には恵まれていましたokこの点、秀吉とはえらい違いですねgawk

秀康と人質に出した時点で、家康は徳川家の後継者を、年上の秀忠と決めていたのだと思いますsign03

少なくとも、他にも男子が生まれていました。また、秀忠を筆頭に子供達も幼かったので、一応、秀忠を後継者候補の最右翼と位置づけしながらも、じっくりと適性を見極めようとしたのではと思いますhappy01

流石、堅実熟慮型の家康ですが、反面、後継者決定を遅らせる事によって、それぞれの子供を担ぐ勢力の台頭による御家騒動の危険性も想定できた筈ですban

では、そのような危険を承知で、何故、後継者の適正見極めに時間をかけたのでしょうかsign02

この辺りの事情については、タケ海舟の私見を含めて、次回にお話をさせて頂きますsoon

[ 2011年06月21日17時17分41秒 ]

江(豊臣家臣団の構成について)

尾張派と近江派に分かれていた秀吉家臣団sign03

さて、前回の続きhappy01

秀吉をトップに戴いた豊臣政権の構成メンバーは、大別すると、北政所(ねね)を旗頭とした尾張出身者のグループと淀殿(茶々)を旗頭とした近江出身者のグループに分かれていましたwink

もちろん、竹中半兵衛に代表される美濃グループや、黒田官兵衛に代表される播磨グループも挙げられますが、どちらかと言えば、一匹オオカミ的な存在だったので、党派グループとは言えなかったと思いますconfident

前掲の、尾張と近江。この両グループの違いを2点程、挙げるとすれば・・・danger

①構成メンバーの性質の違いsign01

尾張グループは秀吉の血縁者、または、織田家仕官以前からの、秀吉の人的ネットワークに属した面々が中心。

これに対して、近江グループは、秀吉が初めて、織田家中の城持ち重臣となった長浜時代に新規採用されたメンバーが中心でしたsign01

②グループの得意分野の違い

尾張グループは、秀吉軍団の軍事力の中核を占めていましたhappy01ここからは、秀吉軍団の部隊長が多く、輩出されていますconfident弟の秀長や甥の秀次、参謀的な存在だった蜂須賀小六が、その代表でしたwink

一方の近江グループは、どちらかと言えば、武力よりはむしろ、行政(民政・行政・財政・司法)に卓越した才能を持ったメンバーが輩出されましたwink

 

実は、タケ海舟は、この2グループの違いを考えているうちに、ある事に気が付きましたnew

尾張グループは、秀吉が織田家中で立身出世を果たし、信長の後継者の地位を勝ち取る過程で、文字通り、彼の手足として、その天下統一戦を支えた面々であるconfident

対照的に、近江グループは、秀吉が城持ちとなった長浜時代から、その活動が認められますconfident浅井家旧領である北近江を与えられた秀吉にとって、不慣れな領地経営を行う上で、必要な人材が彼らでしたgood

一連の統一戦争が進行して、秀吉の支配する領地が膨張すればする程、経世済民の法に長けた、近江グループの存在価値が、ますます高まって来ましたhappy01(両派を、尾張派は武断派、近江派は文治派という別名で呼ぶ事もありますdanger

秀吉の天下統一事業が終局に近づいていた、天正18年(1590)の小田原北条攻め前夜の状況は、武断派が標榜する戦争軍事優先の拡大創業主義から、文治派が標榜する内治優先の中央集権的な守勢主義へ移行する、過渡期でありましたshine

両派の頂点に位置する、秀吉も、統一政権の維持を最優先に考える必要に迫られていたと思われますthink

その為には、旧浅井系出身者が多かった、近江派(文治派)を懐柔する事が急務だったと考えられますdanger

茶々(淀殿)が懇願した、高野山持明院浅井夫妻肖像画や、浅井菩提寺養源院建立の許可は、近江派と所縁の深い浅井家の名誉回復を図る事による、彼らの懐柔が目的であったのではとタケ海舟は考えていますhappy01

(同時に確証はないのですが、茶々を妻〔側室〕に迎えたのも、近江系吏僚集団の抱き込みという、高度の政治的判断とも言えるのかもしれませんねsign01

今回はここまでにしますsoon

[ 2011年06月20日17時25分39秒 ]

江(第22回)父母の肖像を見て(その3)

浅井家の菩提寺養源院

文禄2年(1593)に拾(秀頼)を生んだ茶々は、翌年、京都に父母や浅井一族の供養の為に、寺を建立しますdanger

このお寺の名前は、養源院といいますが、この養源院とは、茶々・初・江ら3姉妹の父であった浅井長政の法名でしたhappy01

先年の鶴松誕生時の高野山持明院の長政夫妻肖像画と並んで、茶々の亡父母復権活動の一環だったと思われますhappy01このお寺では、以後、茶々を施主とした浅井家縁の人たちを招いた法要が営まれる事になりますdiamond

養源院建立も、秀吉の承諾を得ての事でしたが、秀吉は、何故自分が死に至らしめた長政・市夫妻の復権活動を認めたのでしょうかsign02

一人の人間としての観点から考えると、茶々を自らの妻としたのみならず、鶴松や秀頼という2人の男児の誕生という幸福がもたらされましたsign03そういう愛妻(おねは別格ですが・・・)の頼みを聞き届ける位の器の大きさを、秀吉は持っていた筈ですdiamondまた、主筋にあたる茶々を妻にした事による旧主信長や市に対する、一種の憚りもあったと考えられますgood寺院建立はそうした秀吉の罪滅ぼしという意味合いもあったのかもしれませんconfident

また、政治的な観点で考えてみると、次のような事が考えられますsign03

秀吉の家臣団を括りで考えると、尾張時代の親類係累組と、長浜城主時代の新規召抱え組に分類されると思いますshine

このうち、前者は秀吉弟の秀長や蜂須賀小六がリーダー的存在で、精神的支柱は正室おねでしたhappy01

これに対して、後者は初めて城持ちになった秀吉が、武将としての体裁を整える為に現地採用した家臣たちでしたhappy01

代表的な人物が、側近中の側近だった石田三成でした。

実は秀吉の出世や天下取りの為に活躍した家臣の中に、近江出身者が多かったのですが、彼らは秀吉に仕える前には、浅井家の禄を食んでいた者が少なからずいましたhappy01

有名な人物としては、藤堂高虎(とうどうたかとら)や片桐且元(かたぎりかつもと)が挙げられますねsign01

そして、彼らの精神的支柱だったのが、旧主浅井長政の長女であった茶々でありましたimpact

この辺りの事情と養源院建立の関連は、次回にお話しますsoon

[ 2011年06月17日15時14分42秒 ]

江(第22回)父母の肖像を見て(その2)

鶴松の死から2年。運命の子 秀頼が誕生thunder

天正17年(1589)に生まれた鶴松(生後まもなくの名前は棄〔すて〕)は秀吉53歳の子供でしたhappy01

長浜時代に儲けた、石松丸秀勝の死後、子供に恵まれなかった彼にとっては、待望の男児でしたshine

産所の淀城で誕生した鶴松を、秀吉は生後数ヵ月で大坂城に引き取り、天下人たる自らの後継者として、内外に知らしめましたhappy01

翌年、秀吉は統一争の総仕上げを行うべく、関東・奥羽遠征を敢行しましたが、小田原城の北条氏を攻囲している時、北政所(おね)に書状を送り、茶々(淀殿)を関東に差遣わす事を懇願していますsign03

茶々は、幼い鶴松をおねに預け、小田原に赴きましたshine

1世紀余りも続いた、戦国の世を終焉させた秀吉ですが、翌年の天正19年(1591)から彼の周辺に不幸が続発しますdespair

まず、1月に異母弟の秀長が病死、2月には茶頭として、秀吉に強い影響力を及ぼしていた千利休が、切腹を命じられますdespair(利休の賜死の理由については改めて・・・)

そして不幸は更にweep

かねてから病弱だった鶴松が、8月にわずか3歳で亡くなってしまったのですcrying

秀吉の悲しみは深く自ら髻(もとどり)を切って、喪に服しましたweep

(一説には、朝鮮出兵は、この鶴松を失った悲しみを忘れる為に企てられたもいわれていますが・・・coldsweats01

最愛の鶴松を失った秀吉は、今度こそ実子の誕生を断念sign01甥の秀次を養子として、関白職を譲り、自身は、前関白を意味する太閤(たいこう)を名乗る事になりましたsign01(しかし、政治の実権は手放していませんcoldsweats01

間もなく、秀吉は、朝鮮出兵を始めるのですが、そのさなかの文禄2年(1593)、茶々にまたしても男児が生まれたのでしたcoldsweats02(この子供が、運命の子 秀頼ですねdanger

既に、57歳になっていた秀吉は、もう実子誕生はあきらめていたと思いますthink

それが、またしても、茶々が生んだという事もあったのか、秀吉自身、一時は自分の子ではないのではないかと思ったみたいですねthink

他の側室には子供が生まれてないのになぜ、茶々だけに子供が生まれるのか・・・sign02

確かに、不審に思うのも、無理ありませんが、真実は母の茶々のみが知っていたという事ですねcoldsweats01

秀頼(幼名はお拾い)の誕生は、豊臣政権の血ぬられた権力抗争を引き起こし、陰惨な結末をもたらす事になりますbearing

その話は後日にさせて頂きますが、秀頼を生んだ茶々は、再び、亡親の復権運動を行いますok

その話は次回にさせて頂きますsoon(前置きが本当に長い~smile

[ 2011年06月16日15時29分44秒 ]

江(第22回)父母の肖像を見て(その1)

高野山持明院の浅井長政・市肖像画は、茶々の亡父母復権の願いが込められていた

さて・・・delicious

紆余曲折の末、秀吉の妻となった茶々(側室とは言わず、敢えて妻と書きます)は、秀吉の子供鶴松を生む事になりますhappy01

それにしても、男か女かもまだ、わからないのに、男物の玩具等を用意する秀吉のはしゃぎぶりは面白かったですねcoldsweats01

前にも書きましたが、彼女のお産場として、城まで築いてしまう位ですから・・・

タケ海舟の知っている限り、女性のお産の為に、城を築くという先例はないと思いますsmile

後にも先にも茶々だけですsign03

日本以外では、あったのでしょうかsign02(ご存じの方は知らせて下さい・・・)

秀吉の立場に立ってみると、もう子供が出来る事はないと半ば、諦めていたので、無理もないとは思いますがdelicious

さて、ドラマでも描かれていましたが、茶々は鶴松を産んだ直後、自分たち3姉妹の両親である、浅井長政と市の肖像画を、高野山持明院に奉納する事を秀吉に願い出て、許されていますhappy01

3姉妹の両親は、天正元年(1573)と同11年(1583)に秀吉の為に命を失っていましたweep

いつの時代でも同じですが、天下を統一した人が勝者sign01歴史は、勝者(すなわち、体制側)が、自らに都合の良い様に、書かれていましたgawk

したがって、勝者と争って敗れた敗者については、事実とは異なる、歴史記述がなされる事が多かったのですban

当然、生前の姿を描く事など、公然とは出来なかったはずですsign01(当時は写真とかはありませんからねcoldsweats01

秀吉の妻となった茶々だからこそ、実現できたのだと思いますhappy01

茶々は、自身や妹達を巡る状況の変化等もあってやむなく、究極の決断をしたわけですが、父母への思慕の念を決して忘れていなかったと思いますwink両親の肖像画を高野山の寺院に奉納する事によって、長政と市の復権を果たそうとしたのではないのでしょうかsign03それこそが、浅井家と織田家の血を引く、3姉妹の長女である自らに課せられた使命と自覚していたのでしょうthink

尚、茶々の亡父母復権運動は、これで終わりではありませんでしたdanger

その事については、次回にさせて頂きますsoon

 

 

 

[ 2011年06月15日16時10分40秒 ]

慶勝さんの憂鬱(その13)

武成さんの正室はどこから来たのかsign02

さて、藩政改革を精力的に行ってきた武成さんですが、彼の正室とその実家について少し、触れたいと思いますhappy01

彼の正室は、田安家第3代当主徳川(田安)斉匡(なりまさ)さんの娘、千重姫さんでしたhappy01

この田安斉匡さん(正式には徳川なのですが、便宜上田安にします)ですが、徳川のゴットファーザーこと一橋治済(はるさだ)さんの5男でした。

尚、余談ですが、彼の長兄が、11代将軍家斉さん、次兄が、尾張藩10代藩主斉朝(なりとも)さんの父だった治国(はるくに)さんですねhappy01

幼名慶之丞といっていた頃の斉匡さんは、8歳の時に、当主不在で長らく空け屋形だった田安家の3代当主として、一橋家より当家を継ぐ事になりましたconfident

この養子の件は、天明7年(1787)に発表されたのですが、8代将軍吉宗さん以来、御三卿は将軍家の庶子が控えとして入る家として位置づけられていましたdanger

この頃、御三卿筆頭の田安家は2代当主の治察(はるあき)さんが子供がいないまま早世していましたdespair

彼には2人の弟がいたのですが、1人は伊予松平家養子(松平定国〔さだくに〕さん)、いま1人は、白河松平家養子となっていました(この人が有名な松平定信〔さだのぶ〕さんですsign01

したがって、当主死亡時に田安家には後を継ぐべき男子がいませんでしたcoldsweats02

同時に、将軍家も、時の10代将軍家治さんには嫡男家基(いえもと)さんの急死後、男子が1人もいなかった状態だったので、田安家は暫く、当主不在という状況に置かれていましたdash

以前にもお話しましたが、一橋治済さんは、自家の多くの男子を御三家や御三卿に送り込み、一橋血統での徳川一族独占を企んでいましたsmile

その一環として、長らく、当主のいなかった田安家に、慶之丞(斉匡)さんが入嗣したと思われますhappy01

ちなみに、斉匡さんの相続は、従来の将軍家庶子による相続という原則から逸脱していましたdanger

当時の御三家、尾張徳川宗睦(むねちか)さん、水戸徳川治保(はるもり)さんは、異を唱えたのですが、田安家出身で白河松平家を継いでいた定信さんの説得で、斉匡さんの田安家入嗣は認められましたgood

本来なら、田安家当主になる身であった(実は将軍にもなれる可能性もあった・・・)定信さんにとって、田沼意次(たぬまおきつぐ)さんと共謀して、自分を白河松平家に追い払った治済さんは、煮え湯を飲まされた、憎っくき人物だったと思いますgawk

しかし、この頃、定信さんは反田沼勢力の旗頭になっており、意次さんを見限った治済さんと共同戦線を張っていましたnew自身の老中就任を実現する為には、一橋の闇将軍の協力が不可欠でしたthink

したがって、斉匡さんの田安家相続は、定信さんの老中就任の見返り的意味合いの物だったと考えられますnew

こうして、田安家3代当主になった斉匡さんですが、実は大変な子だくさんでしたcoldsweats01

将軍家を継いだ家斉さんは、53人の子供を儲けた事でよく知られていましたが、斉匡さんも29人の子供を作りましたdelicious

この斉匡さんの子供の中で、最も知られているのは、越前松平家に養子に入り、幕末期において、重要な役割を果たした松平春嶽さんですねhappy01

本題の、松平武成さんに嫁いだ千重姫さんは、斉匡さんの15女でしたhappy01(誰が誰だか、わからなくなりますねcoldsweats02

つまり、武成さんは、高須5兄弟では唯一、徳川一族(それも将軍家斉さんの姪)から正室を迎えていた訳ですねhappy01

越智松平家の2代前の当主は、家斉さん第20子でしたdanger

そのような経緯もあって、田安家姫君の輿入れが行われたのだと思われますwink

続きは次回にさせていただきますsoon

 

[ 2011年06月14日10時37分26秒 ]

最近のタケ海舟

少し、自分の事についてお話をさせて頂きたいと思います。

タケ海舟が、歴史が好きになったきっかけはsign02というと

今から30年以上前の大河ドラマ

「風と雲と虹と」を見た時でしたsign03

このドラマをご存じの方は、あまりいらっしゃらないと思いますが、主人公の平将門を演じたのは、大岡越前役でお馴染みの加藤 剛(かとう ごう)さんでした

このドラマは、藤原氏の政治的覇権が確定しつつあった10世紀中ごろの坂東(ばんどう)(現在の関東地方)と瀬戸内海で起きた、承平~天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)をテーマとして取り上げていましたdanger

藤原氏の台頭で、中央での立身出世を諦めた、多くの中下級貴族たちは、国司等の地方官職を拝命して、地方に活躍の場を求めていました。

桓武天皇の血筋を引く賜姓皇族の子孫、平将門も、そうした1人でしたが、正義と理想に燃えた、心優しき若者でしたsign01

将門の下には現体制に不満を持つ多くの輩が加わり、心ならずも、朝廷に弓を引く事になりますthink

人々に推された将門は、京都の天皇に代わる、新皇(しんのう)を名乗りましたが、最終的には、都からの討伐軍と戦う前に、従兄弟の平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に討たれてしまいますweep

ドラマの最終回、将門最期のシーンは、今でも目に焼き付いていますconfident

勝利を目前にした将門のこめかみに、誰が射たのかわからない流れ矢が深々と刺さる・・・

将門は矢を引き抜こうとするのですが、意識が遠くなり絶命を迎える・・・

このシーン思いだすと、今だに、しんみりとしてしまいますgawk

とにかく、加藤剛さんは、タケ海舟にとってのヒーローでしたhappy01

もちろん、史実の将門とドラマの将門とは全く違うという事は、思春期を迎えるにつれて、理解できましたconfident

しかし、初めて歴史というものに触れたのが、このドラマであり、初めて出会った、歴史上のヒーローが将門でしたdelicious

歴史というものは、本当に面白いなsign01こんなカッコいい人が昔はたくさんいたんだsign01

よくよく考えてみると

このドラマに出会った事が、歴史を勉強してみたいなと思う、ターニングポイントになったと思いますgood

以上、タケ海舟誕生秘話(少しおおげさですが・・・)でしたsoon

 

[ 2011年06月13日16時22分58秒 ]

慶勝さんの憂鬱(その12)

武成さんの藩政改革

前回、藩政改革の第1段階として、倹約令の発布をご紹介しましたhappy01

ある意味倹約令は、第2段以降の布石として出される事が多いですねdanger

幕府三大改革でも(享保・寛政・天保)、手始めは倹約令でしたconfident

この後の改革方針は、藩それぞれの事情によって、異なるのですが、例えば、支出を削除して当座の財政状況を好転させる事を優先するケースがありますgood

藩士達に与える俸禄米(この時代の給料は米でしたsign01)をカットする事は、良く行われた政策でしたbearing

しかし、新田開発による増収を目的とした、米重視の経済政策は、日常生活の多様化と爛熟化に対処できなくなっていましたng

そこで、各藩では、米以外の自藩の特産物を活用した、藩収入のアップを目論むようになりますnew

特産物は藩によって様々だったのですが、商売の方法は、藩独占の専売制が主流でしたconfident

まず、特産物を産地生産者から安価で買い上げ、次に、それらの販売を藩が独占的に行うという商流でしたup

当然、藩営の商売になりますので、産物を買い求める(藩にとってはお得意さん)商人との間に、いわゆるピンはねをするような、問屋卸商や仲買人は排除されましたcoldsweats02

また、生産者からは、出来るだけ安く購入するので(半ば、強制的ですねdespairもちろん、生産者が領外藩や商人に直接販売する事も厳禁でしたban)、仕入コストは極力削減出来ましたscissors

汗水たらして、生産活動を行った領民達にとっては、「搾取ここに極まれりsign03

というのが、正直な心境だったと思いますweep

平たく言えば、藩専売制は、領内の生産者たちの犠牲によって、成り立っていたといっても過言ではありませんねshock

浜田藩主松平武成さんも、自藩における、専売用特産物の育成と販売に力を入れましたconfident

武成さんの藩主在任期間が短かった為、目に見えるはっきりとした成果は出なかったと思われますが、山林の藩営化や瓦や陶磁器製造の奨励、養蚕業や鉱山業等の殖産興業政策を多角的に実施しましたhappy01

この浜田藩の一連の藩政改革に、積極的な助言を与えていたのが、幕末維新期屈指のイデオローグだった、横井小楠(よこいしょうなん)さんでしたnew

小南さんは肥後細川家家中だったのですが、後年、越前藩主松平春嶽さんの懐刀として、また、公議政体論を標榜した思想家ととしても著名ですねconfident

勝海舟さんをして、「西郷吉之助と並んで恐ろしい男だsign01」と言わしめ、坂本龍馬の思想にも、大きな影響を与えたと言われていますが、この頃は、本籍のある肥後藩に不遇の身を置いていましたgawk

ただ、肥後藩の藩政改革を通しての名声は、諸国に知られていたので、他藩の俊才達が熊本を訪れ、彼の教えを受けたみたいですhappy01

浜田藩士で儒者であった、河鰭省斎(かわばたしょうさい)さんもその1人で、小楠さんの薫陶を受けた彼は、帰藩後、藩政改革に参画しましたok

おそらく、武成さんも、小南さんの名声を知り、彼の経世論を家臣に学ばせ、自藩の藩政改革の手本にしたいと考えていたのでしょうhappy01

武成さんの藩政改革の話はこれくらいにして、次回は、武成さんの若過ぎる死について触れたいと思いますsoon

[ 2011年06月13日12時41分03秒 ]

慶勝さんの憂鬱(その11)

武成さんの藩政改革

天保13年(1842)、松平武成さんは、石見国浜田藩主松平武揚さんの急養子として、同藩を相続する事になりましたshine

当時、浜田藩の台所事情は、非常に苦しかったようで、武成さんは襲封早々、立て直しに苦慮しなければなりませんでしたcoldsweats01

藩主就任翌年の天保14年(1843)、藩財政再建の為、倹約令を発布しましたnew

江戸時代は、米を経済の中心においた農本主義でしたhappy01米の増産とともに、庶民の生活は豊かになり、大量消費社会を迎える事になりましたsign01同時に、農村から都市部(江戸や大坂)に経済の中心が移りましたok

人々は贅沢な生活を謳歌し、結果として元禄バブルを迎える事になりますimpact

高度経済成長期の元禄時代を境に、経済の担い手は、米を生産する農民やそれを監督・支配する武士から、米の流通で、莫大な利益を収める商人に変わっていきましたsign03

当時の米は、農民から年貢として、幕府や諸藩が徴収していましたdanger取り立てた米を幕臣や藩士に支給するのですが、彼らは、その米を全て、食するわけではなく、米を日常生活に必要な、金銀と交換していたのですねup

しかし、物価が高騰して、米よりお金の価値が高くなります。いくら豊作が続いても、お米の換金率は低いため、幕府や藩の財政や武士や農民の生活はどんどん、苦しくなっていったのですねdespair

いわゆる、豊作貧乏という事なのですが、元禄以降の幕府は、米を中心とした幕藩体制を立て直すため、改革を行いますsign03これが、江戸三大改革と呼ばれている

①享保の改革(8代将軍吉宗さん)

②寛政の改革(老中兼将軍後見職 松平定信さん)

③天保の改革(老中水野忠邦さん)

といわれている一連の施策ですwink

それぞれの改革の特色はあるのですが、まず、本格的な改革を行う前の地馴らしみたいな物が、倹約令でしたsign01

将軍や藩主はもちろん、それぞれに仕える武士や領民たちも対象に、上からの経費削減を命じますsign03

まずは、これから改革を行うぞsign01という意思表示みたいなものですねcoldsweats01

その次は、藩支出を減らすための方策第2弾として、藩士への俸禄米(今でいう給料delicious)を半分カット等が行われますconfident

現在のリストラと同じなのですが、まず、余分な支出を極力減らそうという政策に重点が置かれ、倹約令はその序章というべきかもしれませんねcoldsweats02

浜田藩主になった武成さんも、藩政改革の先例に倣い、藩内に倹約を呼び掛けたのだと思われますhappy01

それでは、藩政改革の次の手段とはsign02

その話は次回とさせて頂きますsoon

 

[ 2011年06月10日18時00分58秒 ]

狩野永徳作 信長像に細工がされていた?

先日のネット記事に、京都大徳寺所蔵の織田信長像に、細工がされていた事が判明したという載っていましたcoldsweats02

当初は、派手な着物を着た信長が描かれていたのですが、何らかの事情で、地味に描き直されたみたいですねsign02

京都国立博物館によると、信長の後に天下人となった豊臣秀吉によって、書き直させられた可能性も考えられるとの事でしたconfident

現存していない安土城の障壁画や洛中洛外図(国宝)を描いた事でも知られている、狩野永徳の作品と伝えられていますが、仮に、秀吉が描き直しを命じたとしたら、何故、そのような必要性があったのでしょうかsign02

元主君であった信長の絵を描き直させる、しかも、元絵を覆い隠すような細工をしたのかsign02

元絵は、大変華美な衣装を身にまとった信長が描かれていましたshine

秀吉も、絢爛豪華な黄金の茶室や聚楽第を造営した派手好みで有名でしたが、派手さにかけては、自分が1番だといいたかったのでしょうかsign02

いずれにしても、主君の絵の塗りつぶすような描き直しを命じた事については、秀吉の信長に対する、不遜極まりない態度を感じてしまいますthink(もちろん、他の理由があるのかもしれませんがthink

少々慢心の気持ちが秀吉にあったのかもしれませんねban

信長像細工の背景については、今後いろいろな学説が出てくると考えられますhappy01

先人達の足跡というべき歴史は、止まっているのではなく、現在もなお、生き続けているのですねsoon

 

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110606-OYT1T00700.htm

[ 2011年06月08日09時50分50秒 ]

江(第20回)~豊臣の妻~を見て

とうとう、茶々と秀吉は男女の関係を持ってしまいました・・・coldsweats01

「秀吉は親の仇。一時は殺してしまいたいsign03

3姉妹の中で、最も秀吉を憎んでいた、茶々の気持ちを変えさせたのは、はたして何だったのでしょうかsign02

妹達を守るために、不本意ながら秀吉を受け入れた。

秀吉の真剣な求愛に女心が動いた(ドラマでは良く描写されていましたが・・・)云々

女心に疎いタケ海舟には、大変難しい問題でありますcoldsweats02

しかし、ドラマでも描かれていましたが、秀吉の子供を身籠った事が、大きな転機になったのではないのでしょうかsign02

例えば・・・

相思相愛同士のカップルが、双方の親に反対されて、駆け落ち(最近はあまり考えられませんがcoldsweats01)。親は怒って子供たちを勘当sign03(これもあまりないかcoldsweats01)・・・しかし、時が経ち、若い夫婦に子供が生まれる。孫の誕生を契機に、それまで絶縁状態だった親との関係は一気に修復に向かい、目出度し、目出度しhappy01

遥か昔のテレビドラマのようなストーリーですが、子供の誕生がそれまで根強く残っていた、憎しみやわかだまりを氷解させる事はよくある話だと思いますねshine

それでは、この場合、氷解させる事が出来た問題とは、果たして何だったのでしょうかsign02

ひとつは、茶々・初・江の3姉妹の、秀吉に対する敵意の感情を、茶々のお腹の子が消してくれた事happy01

今ひとつは、豊臣家の最大懸案事項となっていた、後継者問題に解決の糸口が見えたという事でしたhappy01

タケ海舟は、後者についてお話をしますup

秀吉には長浜時代の側室の間に、石松丸秀勝という子供がいた以外、恋女房のおねは勿論、あたまいた側室達の誰からも子供が生まれませんでしたcoldsweats01

確証はないのですが、秀吉は生来、子供を儲ける事が困難な体質だったのでは思いますsign01

兎角、女性にはマメだった秀吉ですdelicious普通の健全な体だったら、何人かの子供は生まれていた筈ですconfident

恐らく、秀吉は、自分には子種がないdespair半ば、触れられたくない部分ではなかったのでしょうかsign02

そろそろ、養子にしていた自分の縁者から後継ぎを決めなければならないthink

関東・東北地方遠征を残すのみとなっていた天下統一事業が、大詰めを迎える中、彼の脳裏を後継者問題が掠めていたと思われますconfident

そうした中での、茶々のいきなりの妊娠が発覚したのですsign03

当の秀吉本人が一番驚いた事は言うまでもありませんhappy01

なにしろ、天下人の座を自らの子供に継承できるのですからflair

しかし、このサプライズは、秀吉の正室おね(北政所)にとっては、大変な衝撃だった筈ですimpact

天下人秀吉の後継者の母が、正室である自分ではなく、自分たち夫婦のかっての主君織田信長の姪であったdanger

この事実は重かったと思いますsign01

通説では、茶々は側室(筆頭)という事になっていますが、信長の姪という高貴な身分の女性を、他の側室と同じ扱いには出来なかった筈です(しかも唯一のご生母様)

茶々をどのように遇するべきかsign02

秀吉とおねとの間では、いろいろな話し合いがあったのではないのでしょうかthink

結局、秀吉と茶々は、おねという稀代(きだい)の賢夫人の懐の深さに救われたと思いますhappy01

天下人たる秀吉の正室である彼女は、朝廷から北政所という称号を賜っており、豊臣家ナンバー2という別格の地位を確立していましたgood彼女にとって、自身に子供が儲けられなかった事は、非常に残念だったと思いますが、その為に、嫉妬の感情を爆発させて、それまで夫とともに、努力して築いてきた豊臣という城を壊すような愚かな行動には、決して奔る事はありませんでしたdanger

名より実を取るsign01

おねは、豊臣家の将来を考えて、茶々と生まれてくる子供を受け入れる決意を固めたのでしょうscissors

ドラマでおねは、「自分は秀吉の正室として、豊臣家の母となる。あなたは、秀吉の妻、生まれてくる子供の母として身も心も豊臣の妻となって頂きたいsign01」と茶々に強く申し入れます。

彼女の毅然とした態度が、茶々をむしろ、安心させたのではないのでしょうかok

『自分を憎んでいると思っていたおねが、逆に自分の後ろ盾になってくれるconfident

将来に漠然とした不安を抱いていた茶々は、豊臣家の第2の妻となる決意を新たにしたと思いますdiamond

最近の研究で、茶々は秀吉の側室ではなく、妻であったという見解があるみたいですねthink

妻というのは、正室という意味なのでしょうかsign02それとも、秀吉には、2人の正室が併立していたのでしょうかsign02

真相はどうだったのかはわかりませんが、秀吉は彼女の出産の為に、淀城を突貫工事で築城してしまう位ですpaper

秀吉にとって茶々は、おねに次ぐ、格別の妻であった事は紛れもない事実ですねok

そして、まもなく、生まれる鶴松(つるまつ)の在世中は、秀吉を真ん中にした、豊臣家の2人の妻の関係は良好だったのではと思われますhappy01

しかしそれにしてもsmile

初役の水川あさみさんの存在は、一服の癒しになります(タケ海舟の個人的な意見ですがcoldsweats01

それではまたsoon

 

 

 

[ 2011年06月07日14時21分20秒 ]

慶勝さんの憂鬱(その10)

慶勝さん同母弟 松平武成さん

前回もお話させて頂きましたが、越智松平家(武成さん養子先)は設立当初から、尾張徳川連枝高須松平家や水戸徳川連枝讃岐国高松・常陸国府中両松平家等から養子を迎えていましたsign01後者の府中松平家から迎えた、3代武元(たけちか)さんは、8代~10代将軍の時代に、老中を長年務めていましたdanger

武元さんの5男氏教(うじのり)さんは、美濃大垣藩主戸田家の養子として藩主に就任。更には老中に推され、松平定信さんの寛政の改革を支えましたhappy01

武元さんの孫にあたる武厚(たけあつ)さんには子供がなく、11代将軍家斉さんの20男斉良(なりよし)さんを養子に迎えましたcoldsweats01この時、将軍家との結び付きを一層、深める狙いだと思いますが、自らの名前も、斉厚(なりあつ)と改名していますok(ちなみに、斉良さんは斉厚さんの娘を正室としています)

その後、斉厚・斉良親子は、上野国館林から石見国浜田へ国替えとなりましたが、間もなく斉良さんは天保10年(1839)に、藩主就任を前にして、20歳で死去してしまいましたcrying

再び、後継者不在となった越智松平家は、武元さん時代に姻戚関係があった、讃岐国高松藩松平家から武揚(たけおき)さんを、新たに婿養子としましたhappy01(正室は斉厚さんの娘で、斉明さん正室の妹)

ちなみに、武揚さんの実父高松藩主松平頼恕(よりひろ)さんは、水戸徳川家7代治紀(はるとし)さんの2男でしたcoldsweats01

この武揚さんは養子となった翌年の天保11年(1840)に養父斉厚さんの死去を受けて、当主となりましたが、1年後にあっけなく、16歳で亡くなってしまいました・・・

藩主不在であわや、改易のピンチを迎えた越智松平家ですが、ここで、慶勝さんの弟の武成さんが、末期養子として家を継ぐ事になりましたconfident

この時、武成さんは17歳でしたhappy01

既に実父松平義建(よしたつ)さんが藩主を務める高須藩の後継者は、慶勝さん(この時は秀之助さん)に内定していましたsign01また、弟達もたくさんいましたので、武成さんを他家に出しても、心配はなかったと思われますwink

越智松平家には、水戸徳川家の流れの汲む家筋から、過去2人の藩主を迎えていましたdanger(3代武元さんと6代武揚さん)

また、越智家2代目当主武雅(たけまさ)さんは、高須家から出ていますdanger

江戸時代の価値基準の大部分は、先例によって決められていましたgood養子の貰い先を、同じ家にするという傾向は、この先例重視という慣例の、所以だと思いますsign03

水戸徳川家系統となっていた高須家にとっても、慶勝さんと同じ嫡母腹の武成さんの養子先として、越智家はまたとない家柄であったと言えますhappy01

次回は、越智家に入嗣した武成さんに迫ってみますsoon

[ 2011年06月06日16時53分27秒 ]

慶勝さんの憂鬱(その9)

意外と知られていない慶勝さんの弟 松平武成さんsign01

慶勝さんを長兄とする高須4兄弟の顔ぶれを見ると、実に錚錚(そうそう)たる面々である事がわかりますhappy01

前回も触れましたが、尾張徳川家連枝である高須松平家には、江戸後期より幕末にかけて、水戸徳川家の血筋が幾重にも入り込んでいましたconfident

4兄弟は、本家である尾張徳川家や、有力ご家門や譜代大名に養子に入って、それぞれの与えられた環境の下、佐幕勢力の中心的存在として、活躍しましたsign01

幕末はある意味、水戸徳川家の時代とも言われています。水戸家藩主や前藩主(烈公斉昭さん)、他の外様・譜代大名家に養子に入った庶子(斉昭さんの)達が政局において、重要な役割を果たしているからですsign03

既に、水戸家の支藩的な存在になっていた高須藩の兄弟達も、同様の立場で行動していましたshine

さて、厳密に言うと、4兄弟でなくて5兄弟だとお話しましたが、慶勝さんにはお母さんを同じくする武成(たけなり)さんという弟がいましたdanger(お母さんは水戸徳川家治紀さんの娘)

武成さんは、慶勝さんの生れた翌年の、文政8年(1825)誕生しましたhappy01

参考までに高須兄弟の生年を列挙してみますと・・・

 

慶勝さん:文政7年(1824)

武成さん:文政8年(1825)

茂徳さん:天保2年(1831)

容保さん:天保6年(1836)

定敬さん:弘化3年(1847)

こうしてみると、随分、年齢差のある兄弟ですねsmile

武成さんは、17歳になった天保13年(1842)の時、早世した石見浜田藩主松平武揚(たけおき)さんの養嗣子として、浜田藩を襲封しましたsign01

ところで、武成さんが家督を継いだ浜田藩主(現在の島根県浜田市)松平家は、徳川6代将軍家宣(いえのぶ)さんの同母弟だった、清武(きよたけ)さんを祖とした、由緒ある家でしたshine

3代将軍家光さんの庶子で、甲府宰相と呼ばれた綱重さんの次男清武さんは、一時期、家臣の越智(おち)家の子供として育てられていましたdanger

兄の家宣さんが将軍家世子となった時、松平姓を与えられ、更に6代将軍就任時に、上野国館林藩主に栄転しましたshine(彼の育ての親の姓を取って、越智松平家と呼ばれていますwink

ただ残念ながら、清武さんには後を継ぐべき子供がいなかったので、早急に後継者を迎え入れる必要がありましたgood

本来なら、最も近い血筋である将軍家から養子をというのが筋だったのですが、この時の将軍家は、家宣さんの後を継いだ7代将軍家継さんが、幼くして亡くなった為、家光系将軍家血筋の生存者は、既に高齢だった清武さんの他はいませんでしたdespair(ちなみに、8代将軍は紀州徳川家出身の吉宗さんが就任していました)

この養子選考は、どのような形で行われたのかわかりませんが、高須藩初代藩主松平義行(よしゆき)さんの子供が2代目を継ぐ事になりましたhappy01

つまり、高須家から越智松平家に当主を入れたという前例が、100年以上前にあったという訳ですnew

この家は、当主の後継者運に恵まれていなかったみたいで、以後も水戸徳川家支藩や水戸連枝である高松藩松平家から当主を迎えていましたhappy01(11代将軍家斉さんの子供を、世子として迎えた事もありますdanger

こうして眺めて見ると、高須松平家同様に、越智松平家も水戸徳川家の血統によって、支配されていた事がわかりますねsign03

それでは、武成さんが養子に決まった前後の情勢はどうなっていたのでしょうかsign02

そのお話は次回にいたしますsoon

 

 

[ 2011年06月02日10時12分54秒 ]

慶勝さんの憂鬱(その8)

高須松平家と水戸徳川家の繋がりは、さらに深く親密にsign03

さて、高須藩松平家の殿様になった、松平義和(よしなり)さんですが、文化・文政の時代を大過なく生き、治世28年目の天保3年(1832)に亡くなりましたdespair (享年57歳)

義和さんは、高須家に入嗣した時に、水戸部屋住時代に儲けた子供のうち、長男と二男は高須家に連れて行きましたsmile三男は紆余曲折の末に、会津松平家の子供になっていました(後の松平容敬さんですconfident

部屋住みの身分で、子供だけはたくさん儲けたものだと感心しますが、実は文化元年(1804)10月、高須家相続の直前にも四男が生まれていましたsmile(後に他の大名家に養子になりました)

お話が横道に逸れましたが、長男の義質(よしただ?)さんは、お父さんに先立って亡くなっていましたので、次子の義建(よしたつ)さんが嫡子となっていましたconfident天保3年に、義和さんの後を継いで高須藩10代藩主の座に就きましたwink

藩主としての義建さんは、際立った業績を残しませんでしたが、父親としては、なかなか優秀だったみたいですhappy01

彼はたくさんの男の子に恵まれましたが、その多くが、幕末期の政局において、重要な役割を果たしていましたsign01

本編の主人公である慶勝さんは、この義建さんの嫡男でしたhappy01

慶勝さんは、文政7年(1824)に江戸高須藩邸で生まれましたhappy01実は、慶勝さんには4歳年上のお兄さんがいたのですが、生まれてすぐに死亡した為、次男の幼名秀之助(ひでのすけ)こと慶勝さんが嫡子として、幕府に届けられる事になりましたdelicious

慶勝さんのお母さんは、義建さんの正室で、水戸徳川家7代藩主治紀(はるとし)さんの娘でしたdanger

ちなみに、このお母さんの兄弟が、水戸家8代藩主斉脩(なりのぶ)と、有名な烈侯こと9代藩主斉昭さんに当たりますimpact

平たく言えば、祖父である義和さんが、もともと水戸家出身でもあり、父の義建さんと慶勝さん生母は、従兄妹同士という事になりますnew水戸徳川家の血筋が更に色濃く引き継がれる事になりましたdanger

そして、慶勝さんと斉昭さんは、密接な繋がりを持った伯父甥という関係になりますsign03

ところで・・・

後に、幕末動乱期に活躍する高須4兄弟(慶勝さん、徳川茂徳さん、松平容保さん、松平定敬さん)ですが、実は4人とも母親が違うんですsign01shock

さらに、意外と知られていない事実を、1つご紹介したいと思いますgood

慶勝さんと茂徳さんの間には、慶勝さんと同じ正室出生の成人した男子がいましたnew

タケ海舟は、本来ならば、この男子を含めて、高須5兄弟と呼んだ方がいいのではないかと考えていますthink

慶勝さんと同じ母親を持つ、弟という事もありますので、次回はこの人物のお話をさせて頂きますsoon

[ 2011年06月01日11時12分48秒 ]

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