前回お話した通り、尾張藩には11代将軍家斉さんの実家である一橋家から斉朝さんが養子として入嗣しました![]()
一橋治済さんは、嫡男の家斉さんを将軍に、そして孫の斉朝さんを尾張家に入れる事に成功しました![]()
実は治済さんは、尾張家に斉朝さんを送り込んだ寛政8年(1796)に、自身の七男である亀之助さんを尾張藩分家の高須家に養子に出していました![]()
亀之助さんの養子問題は、これが最初ではなく、1年前には御三卿清水家相続の話も持ちかけられていました![]()
寛政7年(1785)清水家当主重好(しげよし)さんが、嗣子のないまま死亡した時、一橋治済さんは清水家の後継者に亀之助さんを送り込むべく画策しました![]()
しかし治済さんの計画は、当時の幕閣(その中心は老中筆頭であった松平信明〔のぶあき〕さん)が反対した為、実現しませんでした![]()
その代わりだったのかはわかりませんが、翌年に高須藩主松平義当(よしまさ)さんの養子として、高須藩を相続する事になりました
この時より松平義居(よしすえ)と名乗り、高須松平家世子となります![]()
斉朝さんの尾張家相続と並行して行われた、この縁組の目的は果たして何だったのでしょうか![]()
タケ海舟は次のように考えます![]()
治済さんは、尾張家とその有力連枝衆である高須家に、一橋家出身の当主を同時に送り込む事によって、義直系の血筋が絶えた尾張藩を自己の統制下に置こうと考えたのでは思います![]()
この背景には、将軍家斉さんの実父として、隠然たる影響力を行使を狙う治済さんと、治済さんの幕政への容喙を極力阻もうとした、寛政の遺老達(松平定信さんとともに、寛政の改革を担った老中達の事を総称した呼び名)との暗闘があったと思います![]()
それでは、治済さんが仕掛けた尾張徳川一門植民地計画は、どんな成り行きを見せたのでしょうか![]()
続きは次回とさせて頂きます![]()
タケ海舟
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