May 2011
清盛を巡る女性達
2012大河ドラマ平清盛女性キャスト発表
先日の男性キャストに続いて、ドラマに花を添える女性キャストの発表が行われました![]()
主な顔ぶれを、1部ご紹介すると・・・
清盛最初の妻 高階明子(たかしなあきこ):加藤あい
清盛後妻 平 時子(二位の尼):深田恭子
時子妹 平 滋子(しげこ)〔建春門院〕:成海璃子
清盛の母 藤原宗子(むねこ)〔池の禅尼〕:和久井映見
源義朝正室 由良御前(ゆらごぜん):田中麗奈
義朝妾 常盤御前(ときわごぜん):武井 咲
源平関係のみ列挙してみましたが、今回の女性キャストは大河初出演組が非常に多いですね![]()
武蔵や功名ヶ辻で、出演経験がある和久井さんと天地人で茶々を演じた深キョンを除くと、皆、初出演です![]()
この他の初登場組では、松雪泰子・壇 れい・りょうさんですね![]()
ほとんどの人が、テレビや映画でお馴染みですが、不思議と大河には縁がなかったのですね![]()
大河ドラマでも、これだけ多くの初登場が出てくるのは極めて稀な事でありますが、ドラマにどんな彩りを与えてくれるのか今から、とても楽しみです
(少し早過ぎますが
)
清盛の事はあまりよく勉強していませんので、今から予習しないといけません・・・![]()
本日はここまでです![]()
[ 2011年05月31日17時10分05秒 ]
江(第18~19回)を見て(初と京極姉弟)
天正15年(1587)~翌16年(1588)は、浅井三姉妹にとって転機の年だったと思います![]()
まず15年に次女の初が、近江国大溝城主京極高次の正室として、入興しました![]()
ご存じの通り、高次のお姉さんは、秀吉の側室竜子(松の丸殿)でした
〔妹としている史料も存在します〕
実は、高次兄弟の母マリアは、浅井久政(ひさまさ)の娘であり、浅井3姉妹の父である長政の姉に当たります![]()
マリアは、浅井家の主家であった京極高吉(たかよし)に嫁ぎ、竜子・高次・高知(たかとも)の3子を儲けました![]()
つまり、京極3兄弟と浅井3姉妹は従兄妹同士という関係になりますね![]()
京極家は近江源氏佐々木家の流れを汲む名門でした
室町時代には、婆沙羅大名で有名な佐々木道誉(どうよ)を出しています
その後、佐々木氏は、北近江を地盤とする京極氏と、南近江を地盤とする六角氏(ろっかくし)の二流に分かれ、戦国時代を迎えます![]()
観音寺城を本拠とする南近江守護六角氏は、比較的早く、戦国大名として脱皮を遂げていましたが、北近江守護京極氏の方は、時代の流れに対応し切れず、国人領主であった浅井氏にその座を取って代わられてしまいました![]()
但し、幸運にも、当時の当主であった高吉は、浅井家に庇護され、前述の通り、マリアを正室として迎えていました![]()
織田家と浅井家が全面戦争となった時の京極家の動向は、はっきりわからないのですが、長男の高次は、岐阜城の織田信長に人質として出されていたみたいです![]()
元亀4年(1573)、信長が室町幕府将軍足利義昭を攻めた折に参陣して、信長より近江国内で5,000石を与えられています![]()
姉の竜子の方は、若狭国守護武田元明に嫁いでいましたが、本能寺の変勃発時、元明は明智光秀に味方しました![]()
その後の山崎の戦で、元明は討たれ、彼と行動を共にした高次は、行き場をなくしてしまったようです![]()
この義兄弟は、こともあろうに、秀吉の本拠地近江国長浜城を攻撃したみたいで、中国遠征中の秀吉の留守家族を危機に陥れたわけです
本来なら、高次の命も無かった筈でしたが、姉の竜子が秀吉に詫びを入れ、彼の側室になる事で、どうにか高次は助命されたみたいです![]()
ドラマで、鈴木砂羽さん演じる竜子は、自身を時の流れに任せて、前向きに生きているという印象がありますが、彼女と高次・高知兄弟達達にとって、名門京極家の再興が悲願だったと思います![]()
その為には、恥を忍んでもという気持ちがあったのではと、タケ海舟は考えています![]()
秀吉の側室になった竜子は少し遅れて、母市と死別した従兄弟の浅井3姉妹と出会い、身近に触れ合う事になります
織田信長の血を引く3姉妹とは従兄妹同士という、ある意味特別な関係を、京極家再興の布石にしたいと考えたのではないでしょうか![]()
その為の具体的な手段とは![]()
3姉妹の誰かを、弟である高次の正室に迎える事でした![]()
では、なぜ、次女の初が選ばれたのでしょうか![]()
高次は永禄6年(1563)生まれですので、3姉妹より年長になります![]()
正直、3姉妹の誰を迎えても、年齢的な釣り合いは取れていたと思います![]()
しかし、ここからが、タケ海舟の推測ですが、長女の茶々には、秀吉が並々ならぬ想いを秘めていました![]()
秀吉の側室として、彼の心の動きを見抜いていた竜子は、茶々を弟の正室に迎える事は避けたかったのではないのでしょうか![]()
秀吉の女たらしぶりは、最早、公然の事になっていました
他人の妻でも権力に任せて、自分の物にしようとしたという噂もあります
狙われていたのは、細川忠興正室のたま(ガラシャ)や蒲生氏郷正室(主君信長の娘
)だったといわれています![]()
仮に秀吉が高次と茶々の縁組を認めたとしても、後々、大きな災いが京極家にもたらされる危険を察知したのかもしれません![]()
おそらく、茶々は近い将来、必ず秀吉の側室になる。自分の最大のライバルになるかもしれないが、秀吉の寵愛を巡って競い合うのは、いわば、女の戦
自分がしっかりしていれば問題ない。しかし、京極家当主である高次を、危険な立場に追いやる事は出来ないという判断があったのではと思います![]()
後に秀吉最後の晴れ舞台となった、醍醐の花見では、秀吉から与えられる杯の順番を巡って、茶々と激しく争う事になります
この頃の茶々は秀頼の生母して、揺るぎない地位を確立していましたが、京極家は浅井家の主筋という誇りが竜子をしてこのような行動に駆り立てたのではと推測します![]()
茶々を外し、残る候補は、初と江だけになりますが、江を選ばなかった理由については、残念ながらわかりません![]()
しかし、秀吉は江を既に、養子3代目秀勝の正室にと考えていた可能性もあります・・・
秀勝と江の結婚時期ですが、天正15年(1587)または、文禄元年(1592)の2説があります
もし、婚礼時期が前者だったら、江の高次への輿入れは考えられませんね
(初の京極家輿入れも同年ですから)
こうして見ると、消去法で残った初が、高次正室となった可能性も十分考えられます![]()
ただ、最初にお話しましたが、織田家の血筋という貴種(血筋でいえば、京極家の方が上ですが
)であれば、京極家にとって、満足のいく縁組だったのでしょう
秀吉にしてみても、京都近郊の要衝地である近江国に代々、根を下ろしている京極家との関係を、更に深める必要性を考えての縁組だったと考えられます![]()
京極家側から見ると、政略性の強い縁組だったのですが、当の本人達やその周辺が皆、従姉という事もあり、初個人にとっては、大変恵まれた結婚だったのではと思われます![]()
そして、この従兄弟同士の結婚は、次の世代にも、似た傾向の縁組をもたらす事になります![]()
この辺りお話は、ドラマでもいずれ取り上げられますので、機会を改めて![]()
[ 2011年05月30日10時28分11秒 ]
江(豊臣秀勝についてその2)
天正13年(1585)に亡くなった2代目秀勝の跡目を継いだのは、3代目の秀勝でした![]()
ブログを見ている皆さんは、いったい、秀勝は何人いるんだと思っているかもしれませんが、3人目で打ち止めになります![]()
この秀勝は、秀吉のお姉さんのとも(日秀)の次男で幼名小吉(こきち)を名乗っていました![]()
子供のいない秀吉兄弟姉妹の中で、ともだけが夫である三好吉房との間に3人の男子を儲けていました![]()
秀吉にとっては、最も近く、頼りにしたい甥達でありました![]()
この3人の兄弟のうち3男の秀保(ひでやす)は秀吉の弟秀長の養子になります
(秀長も彼らにとっては叔父になりますが・・・)
残った2人は、いずれも、秀吉の養子になります
ただ、養子になった時期と事情は異なっていて、先に養子となったのは弟の小吉の方で、この時、秀勝(3代目)を名乗ります![]()
この時、名前だけではなく、2代目の居城だった丹波亀山城も相続する事になりました![]()
長兄は、殺生関白といわれた秀次(ひでつぐ)でしたが、彼が秀吉の養子となったのは、秀吉の側室となった茶々が生んだ鶴松が、天正19年(1591)に夭絶した後でした
(秀吉後継者としての純然たる、養子縁組
)
タケ海舟は思うのですが、天正17年(1589)に、鶴松が生まれる前の段階では、秀吉は秀次か秀勝のいずれかを後継者にしようと考えていたのかもしれません
しかし、秀次は既に、天正13年(1885)の紀州攻めや四国征伐での活躍で、近江国八幡城(現在の近江八幡市)で43万石を与えられていました。これに引き替え、3代目秀勝は九州征伐の折の恩賞が少ない事に不平を述べた廉で、秀吉の怒りを受け、追放処分を受けています![]()
この後、小田原征伐に至る間も、両者の領地の石高や官位等での格差は、歴然としていましたので、鶴松死後の時点で、秀吉の意中の後継者は、秀次だった可能性は高かったと思います
(もっとも、間もなく秀勝は許されますが・・・)
さて、3代目秀勝と江との事について![]()
ドラマでは、AKIRA演じる秀勝が江の心に一服の風を吹き起こした後、前述の秀吉への慢心とも思える加増要求によって、追放される所まで描かれていました![]()
秀勝は近いうち再登場する事になりますが、江にとって、彼はどこか気になる存在になっているみたいですね![]()
この後、江と秀勝は秀吉の命で夫婦となるのですが、時期を同じくして、茶々・初・江達 3姉妹にとって、それぞれの運命を左右される殿方との関係が重要な節目を迎える事になります![]()
続きは次回とさせて頂きます![]()
[ 2011年05月27日17時32分41秒 ]
江(豊臣秀勝についてその1)
秀勝は3人いた
さて、江の2人目の夫となる豊臣秀勝ですが、この秀勝という人物について・・・
実は同じ名前で、別人である3人の秀勝がいたのです![]()
この3人はいずれも秀吉の子供ですが、最初の秀勝は実子。後の2人は養子になります![]()
本日は前座として、初代と2代の秀勝についてお話します
(尚。江が結婚したのは3代目です
念のため
)
最初の秀勝は、秀吉が近江浅井家の旧領を信長より与えられ、長浜に初めて城を築いた頃に、南殿(みなみどの)という側室に産ませた子供でした
幼名を石松丸(いしまつまる)といった初めての子供を得た秀吉は狂喜し、この子に秀勝という名を与えました
ちなみに、前田利家の長男利長(としなが)も、当初は利勝(としかつ)と名乗っていました。この勝の字は柴田勝家から貰ったといわれています。秀勝の勝の字も、勝家から貰った可能性を否定する事は出来ないと思います![]()
正室おねとの間に、子供がいない事もあり、このまま無事に成長すれば、この子が秀吉の後継者となったと思いますが、残念ながらこの子は天正4年(1576)にわずか6歳で亡くなってしまいました![]()
秀吉の悲しみは如何ばかりだったかと思います・・・この初めての子供の事が忘れられなかったのか以後、秀吉は自分の養子の2人までに、同じ秀勝を名乗らせています![]()
初代秀勝死後から3年、当時中国攻めの司令官として毛利と戦っていた秀吉は、主君信長に懇願して彼の4男於次丸(おつぎまる)を養子として迎え入れます
2代目秀勝となった於次丸は、養父が率いる中国遠征軍に加わり 備中国高松城攻めで初陣を飾ります![]()
ところが、その最中に実父信長が本能寺で横死
弔い合戦となった山崎の戦いでは、秀吉に擁され、討伐軍の求心力的な役割を果たしました(この点では異母兄の信孝と同じですね
)
信長の後継者を決める清州会議では、秀勝も有力候補と目されていたのかもしれません![]()
他家に入っていたとはいえ、生存していた2人の異母兄の信雄と信孝もそれぞれ、北畠家や神戸家の養子だったので条件は同じでした
むしろ、逆賊討伐の功労者たる秀吉の養子だった事を考慮に入れると、秀吉にその気があったら、可能性は高かったかもしれません![]()
しかし、秀吉は秀勝を選ばず、嫡男信忠の遺児三法師を後継者に推し、会議に勝利しました![]()
この時、秀勝は所領配分で、明智光秀の旧領のうち、丹波亀山城を与えられました![]()
秀吉の養子になったとはいえ、信長の血を引く秀勝の存在は貴重であったみたいで、まもなく行われた秀吉主催の信長の葬儀では、喪主を務めています
(信長の子供を後継にしていた事は大きかった筈です)
この頃、柴田勝家や信孝を中心とした反対勢力との対立を控えていた秀吉は、西の強国毛利家に背後を衝かれる事を恐れていました
時期ははっきりしないのですが、毛利家重臣である内藤家(ちなみに毛利家当主輝元の生母は内藤氏出身)の娘と秀勝の婚約を決めています
毛利家との関係を円滑にしようという外交政策と思われます![]()
しかし、2代目秀勝は病弱だったようで、養父秀吉が関白に任じられた天正13年(1585)にわずか18歳で病死してしまいました
もし、彼が長生きをしたら、秀吉の後を継ぐ可能性もあったと思われただけに、誠に惜しまれた死であった筈です・・・)
ただし、逆説的に考えると、既に関白職を手に入れた秀吉にとって、最早織田家という看板は必要なくなっていたのかもしれませんし、2代目秀勝の死は、豊臣家独自の権力基盤形成を目指す転機となった可能性も考えられます![]()
そして、秀勝の名前は3代目に引き継がれる事になります![]()
[ 2011年05月25日16時41分00秒 ]
江(第18回)恋しくてを見て
ここ2週間、江をなかなかリアルタイムで視る事ができなく、江に関するブログ更新も遅れがちになってしまっています![]()
第19回放映日当日になってやっと、録画してあった18回を視る事ができました・・・![]()
何について書こうかなと思っていましたが、この回放送分の最初の場面で、秀吉の養子の面々が打ち揃っていましたので、そのお話をしたいと思います![]()
周知の通り、秀吉には糟糠の妻おねとの間に子供がいませんでした。木下→羽柴→豊臣と苗字を変えていき、身分も内大臣→関白→大政大臣と天下人への階段を昇るにつれて、自身の後継者を誰にするかという問題に直面していました![]()
秀吉は、実に多くの側室を迎えていました![]()
ドラマにも登場している、茶々(淀殿)や京極竜子(松の丸殿)がよく知られていますが、後年茶々が鶴松や秀頼を産む前まで、(長浜城主時代に石松〔初代秀勝〕という男子がいましたが夭絶)1人の子供も誕生しませんでした![]()
理由はよくわかりませんが・・・![]()
普通に考えると、秀吉の体に、何らかの欠陥があったのではと思います![]()
では、何故、茶々だけに子供が生まれたのかについて、現在でも様々な憶測(鶴松や秀頼は秀吉の子ではない云々)を呼んでいますが、今回の話題とは異なっていますので、敢えて触れません![]()
秀吉には母(大政所)を同じくする3人の兄弟姉妹がいました![]()
妹が、無理やり離婚させられて、徳川家康の2人目の正室となった朝日でしたが、前の夫も含めて、家康の間にも子供を儲ける事はありませんでした
(家康と再婚した数年後に病死します)
弟は兄をよく補佐した大和大納言秀長でしたが、彼にも子供がいませんでした![]()
(秀長については堺屋太一さんの『豊臣秀長~ある補佐役の生涯~』が知られていますね)
これらとは対照的に、姉のともは、夫である三好吉房との間に3人の男子を設けていました![]()
秀吉にとっては、最も近しい甥たちに自らの分身としての期待をしたと思います![]()
3人の内、長男が自らの養子として、後継者に指名の上、関白職を譲った秀次![]()
3男が、叔父である秀長の養子となった秀保(ひでやす)![]()
真ん中が、同じく秀吉の養子となった、AKIRA演じる秀勝(3代目)ですね![]()
こうしてみるとわかる様に、姉ともの3人の男子は皆、豊臣政権の第2世代として、政権を担う役割を託されていました
(秀吉が最も信頼を寄せていた養子達といって過言ではないと思います
)
しかし、秀吉は、まだまだ周辺を身内で固める必要があると思ったのでしょう![]()
妻おねの縁者である木下家より、彼女の兄の子供である秀俊(ひでとし)を養子に迎えました(彼が後の小早川秀秋です
)
身内で秀吉と秀長の養子となったのはこの4人ですが、秀吉は更に、直接の血縁関係がない子供も養子に迎える様になります![]()
秀吉が目を付けたのは、人質として自分の許に送られて来た大名の子供達でした![]()
その中で、よく知られているのが、徳川家康の次男だった於義丸(おぎまる)です![]()
彼は、小牧長久手戦後の和睦の折、家康からの人質として、大坂に送られます
秀吉は、彼を自らの養子として名を秀康(ひでやす)と改めさせます
(養父と実父の名を一字ずつ与えられたわけです)
ほぼ同じ時期に羽柴姓も与えられました。天正17年(1589)秀吉に鶴松が誕生した事を受けて、秀康は下野国の名門氏族だった結城(ゆうき)氏の養子に入る事になりました
この頃、下野国を含めた関東の大半は、実父であった家康の新領土になっていた為、秀吉は秀康を、由緒ある結城家を相続させる事によって、家康の顔を立てようとしたのかもしれません
(秀吉との養子縁組を解消する見返りとして)
しかし、秀康自身は、実父より養父の秀吉を深く尊敬していたみたいです。特に秀吉の遺児である秀頼への配慮は並々ならぬものがあったみたいで、『有朝、事が起きた時は、自分はためらわず、豊臣家に味方する
』と公言して憚らなかったといわれています
家康の子供の中で最年長でありながら、将軍職を継げなかったという憂憤が、過激な言動に走らせたのかもしれませんね![]()
そして、もう1人挙げるとすれば、養子ではなく猶子となった、宇喜多秀家です![]()
彼の父は下剋上によって、備前美作2国を切り取った宇喜多直家(なおいえ)でした![]()
秀吉の中国攻めが本格化した時、直家の領国であった2国は、織田・毛利両氏の係争地でした
当初、直家は毛利側に付いていましたが、時勢の動きを見て、織田方に転じました
この時、二心無き証しとして、わが子八郎(後の秀家)を秀吉に差し出しました
秀吉は八郎に大変目を掛けていたみたいで、間もなく没した直家の遺領について、八郎の相続を信長に認めさせる事に成功しました![]()
後に秀吉の烏帽子親で元服。一字を賜り、秀家と名乗ります
時期相前後して、秀吉の猶子になったみたいです
秀吉の秀家への寵愛は深く、本領2国に加え、備中東部も領する大々名になります![]()
また、前田利家の娘 豪姫(秀吉養女)を正室に迎え、外様とはいえ、秀吉の身内同然の待遇を受けていました![]()
秀家の秀吉に対する思慕の念は、父の如くであったといわれています。秀吉も自分亡き後、秀頼を必ず盛立ててくれる人物として、若年ながら秀家を5大老に任じたのだと思います![]()
関ヶ原戦役で西軍に属した、宇喜多軍の戦いぶりは勇猛果敢であったといわれています
この点では、同じ養子でも寝返りによって、勝敗の帰趨を決してしまった小早川秀秋とは、好対照ですね![]()
秀吉の養子となった主だった面々について、お話をさせていただきました![]()
次回は、この養子達の中で、ドラマで注目されている秀勝(3代目)について、お話をさせていただきます![]()
[ 2011年05月24日12時17分31秒 ]
井伊直弼さんと松平容敬さん(その1)
実に久しぶりに井伊直弼さんの登場です![]()
この前より、徳川慶勝さんの実家である、高須藩のお話をしていたのですが、その中で、水戸徳川家より高須藩を継いだ松平義和さんの3男が会津藩に引き取られた事について言及しました![]()
会津藩主の子供として育てられたこの子供が、後に8代藩主松平容敬さんになるのですが、この容敬さんは井伊直弼さんの江戸世子時代における後見人的な存在でした![]()
直弼さんは弘化3年(1846)に兄であり、彦根藩世子だった直元さんの死によって、新たな世子として、江戸に出府する事になりました
江戸にいる藩主直亮(なおあき)さんの下で、藩主見習いの日々を送っていたのですが、前にもこのブログでお話をした様に、直亮さんは直弼さんにとっては、非常にありがたくない養父であり、兄でありました![]()
直弼さんが江戸での生活に慣れてきた頃、直亮さんは、国許の彦根に帰国したのですが、藩主不在中の江戸における彦根藩の実質的な責任者は、世子である直弼さんでした![]()
井伊家は、徳川譜代大名の筆頭で、35万石の大封を領していました。当然ながら格式も高く、江戸城内での序列を示す控えの席は、江戸城黒書院の溜間(たまりのま)でした。この席に伺候する大名は幕政の問題について、諮問に与ったり、将軍に対して直接、意見具申をする事ができ、序列は幕府の政治を総覧する老中より上位でした![]()
また、井伊家は常時、幕府の役職を務める事はありませんでしたが、老中の上に臨時に置かれる大老職に就任する事が定められていました
井伊家では、後に就任する直弼さん以外には4人の歴代藩主が大老を務めていました![]()
直弼さんが世子として江戸にいた頃は、井伊家は大老でなく、通常の地位である溜間詰として、幕府への奉公を行っていました
実は、この溜間詰の大名は何家かいたのですが、代々この席を占める大名は上席として、最も高い格式を有していました![]()
彼らの事を常溜(つねのたまり。または、じょうだまり)といいます![]()
(溜まり醤油ではありません・・・念の為
)
この常溜席の大名は、以下の3家だけでした![]()
直弼さんの実家、彦根井伊家![]()
水戸徳川家の連枝で、讃岐国高松松平家(藩祖は水戸黄門さんの長兄、頼重〔よりしげ〕さん)![]()
そして、容敬さんが藩主を務める会津松平家でした![]()
実は、譜代大名は、その家格によって、相応の務めを幕府や将軍に対して行わなければいけませんでした![]()
この事は、現役の藩主だけではなく、見習いである世子も同様でした![]()
経験の少ない大名達は、必然的に同役や同席の大名達に、指導を受けなければならなかったのです![]()
常溜席の上席である直弼さんが指導を受けるべき相手は、同じ常溜の高松松平頼胤(よりたね)さんであり、会津松平容敬さんでした![]()
その中でも、直弼さんが特に信頼を寄せていた人物が、容敬さんでした![]()
この続きは次回にさせていただきます![]()
[ 2011年05月21日10時10分40秒 ]
慶勝さんの憂鬱(その7)
高須藩後継藩主に、水戸徳川家の義和さんが決定
早世した高須藩主 松平義居さんの後継ぎとして、水戸徳川家6代治保(はるもり)さん庶子であった義和(よしより)さんが襲封する事になりました
(義和さんの名前ですが、よしなりさんと読む説もあります)
なぜ水戸徳川家から藩主がやって来たのでしょうか![]()
それは、高須松平家と水戸徳川家が深い縁戚関係にあったからです![]()
両家の縁組は、これまで2回行われていました![]()
即ち、高須藩4代義敏(よしとし)さんの正室は、水戸徳川家ご連枝であった守山藩主松平家の出身![]()
この正室との間には5代義柄(よしとも)さんと6代義裕(よしひろ)さんが誕生しています![]()
同じく、6代義裕さんの正室は、水戸徳川家5代宗翰(むねもと)さんの娘でした![]()
ところで、タケ海舟はずいぶん前に、江戸大名の婚姻に関する研究者の論文を読んだ事があったのですが、その中に、婚姻の特徴として、藩主の孫の嫁を藩主の祖母の実家から貰う傾向があるという記述がありました![]()
つまり、続けてではないにしても、何代か置いて、同じ家から正室を迎えるわけですね![]()
もちろん、全てその通りだとは言えないのですが、この両家はまさしく、上記の原則に当てはまります![]()
したがって、水戸家から藩主を迎える事については、それほど大きな問題はなかったのでしょう![]()
さて、こうして、高須藩9代藩主となった義和さんは、安永5年(1776)の生まれで、高須藩の入嗣した文化元年(1804)には、既に28歳でした。長兄の治紀(はるとし)さんが水戸藩を継ぐ事が決まっていた為、一生を部屋住みの立場で過す可能性もあったのですが、今回の養子話はまさに、僥倖だったと思います![]()
ただし、ここで1つ問題がありました![]()
実は、義和さん・・・既に3人の男の子の父親だったのです![]()
当然、今回の高須家相続にあたり、この子供達の処遇が問題となりました![]()
水戸家と高須家の間で、やり取りがあったと思われますが、結局、長男と次男はお父さんの義和さんと一緒に、高須家に入る事になりました
(いわば、連れ子ですね
)(高須家相続はこれで一件落着
)
問題は、残された3男の取扱いでした(いくらなんでも3人とも連れて行くのは無理だったみたいですね
)
この子供ですが、実に数奇な運命を辿る事になります![]()
実はこの頃、保科正之さんを藩祖とする会津松平家では、文化2年(1805)に5代・6代の藩主が相次いで死去していました![]()
7代藩主は3歳の松平容衆(かたひろ)さんが継いでいましたが、他に兄弟はおろか、家を継ぎ得る男子がいない状態でした
容衆さんは後に、11代将軍家斉さんの娘を正室に迎えますが、もし、子供を儲けず亡くなった場合、親藩ご家門第2位の家格を誇る会津家は、無嗣断絶となってしまいます![]()
お家存続の危機を迎えた、会津藩上層部は、水戸家にいるこの子供の存在に目を付けたみたいです![]()
そして、どのような経緯があったのかは不明ですが、この子は秘かに、会津家に引き取られる事になりました![]()
(幕府からは予め、許可を得ていたのかもしれませんが・・・)
こうして、6代藩主が死亡した後に、その側室から誕生した事にして、容衆さん異母弟慶三郎さんが誕生したのです![]()
いわば、有事の場合の保険だった思いますが、この布石が結果的に奏功する事になります![]()
文政5年(1822)に子が無いまま、容衆さんが亡くなった為、慶三郎さんが会津8代藩主松平容敬(かたたか)さんとして表舞台に登場したのです![]()
松平義居さんの早死は、尾張藩有力連枝高須家のみばかりではなく、ご家門重鎮である会津松平家にも水戸徳川家の血が入るきっかけを作りました![]()
後の幕末における政局の中で、幕府側として、大きな役割を果たす事になる
高 須 4 兄 弟
のルーツは、この時に種まきがされたといっても過言ではありません![]()
本日はここまでにします![]()
[ 2011年05月20日08時23分43秒 ]
慶勝さんの憂鬱(その6)
さて、一橋治済(はるさだ)さんの7男亀之助さんが養子に入った、高須藩のその後![]()
寛永8年(1796)に高須藩主松平義当(よしまさ)さんの養子となった亀之助さんは、名前を義居(よしすえ)と改めました
ほぼ同時に、高須藩6代藩主義敏(よしとし)さんの娘と結婚しました![]()
ちなみに、この娘さんも義当さんの養女になっていたので、尾張斉朝さん同様に夫婦養子という事になりますね![]()
享和元年(1801)に養父義当さんが亡くなったのを受け、高須藩第8代藩主となりました
(16歳)
同年に既に叙任していた従四位下侍従摂津守から左少将に任官されました![]()
高須藩は石高3万石と、どちらかと言えば小藩ですが、尾張藩ご連枝衆という格別な家柄という事もあり、従四位下少将の官位に任じられる事が先例となっていました![]()
ところが、義居さんが文化元年(1804)に20歳で病死してしまいました![]()
実は、義居さんには嗣子が無かったのです・・・つまりこのままでは、高須藩は改易
になる訳ですが、流石にご連枝格別の家という事もあり、幕府より末期養子(まつごようし)が認められました![]()
さて、養子はどこから来たのか![]()
徳川将軍家・御三卿からではなく、御三家水戸家より、6代藩主治保(はるもり)さん次男、義和(よしなり)さんが養子として高須家を相続する事になったのです![]()
ここで、質問![]()
なぜ本家の尾張藩から、養子を出さなかったのか![]()
理由は尾張藩主の斉朝さんに、子供がいなかったからだと思います![]()
では、たくさんいた筈の一橋家の子供たちを養子に入れなかった理由は![]()
はっきりした事はわかりませんが、タケ海舟は、文化初年の段階では、大奥でどんどん増えていく将軍家斉さんの子供達の落ち着き先として、高須家は既に相応しくないと見なされていたのではと考えます![]()
実は、この翌年の文化2年(1805)に、家斉さんの子供斉順(なりゆき)さんが、7年ほど当主不在であった御三卿清水家を相続していました。この頃より、治済さんは自らの血縁ネットワークを広げる戦略として、まず将軍控えの家とされていた御三卿に、自分の孫達を送り込み、御三家の当主に空きが出来た時に(当主に後継者がいない場合も含む)送り込む事を実行に移しつつありました
(そのお話はまた後ほど)
したがって、今風にいえば、選択と集中という考えだったのでしょうか![]()
結果として高須藩には義居さん以降、将軍家親族からの入嗣はありませんでした![]()
では、なぜ、水戸家からだったのでしょうか![]()
それは、高須家歴代の婚姻の歴史をひも解くと判明します![]()
この続きは、また次回![]()
[ 2011年05月18日11時29分12秒 ]
名古屋城の隅櫓について
名古屋城西南隅櫓倒壊時期定説覆る
昨日の中日新聞朝刊(5月16日)市民版に、名古屋城西南隅櫓の倒壊時期について、従来の見解を改める定説が認められたという記事が掲載されていました![]()
櫓というのは、お城の要所に建てられた小さな城風の建物ですが、攻めてくる敵に対しての監視や防戦の拠点としての役割の他に、食糧や武器を保管する貯蔵庫としても活用されていました
(矢倉とも書くそうです)
名古屋城には天守閣の四隅を守る目的で、4つの隅櫓が建造されていました![]()
すなわち![]()
東北隅櫓
東南隅櫓
西北隅櫓
西南隅櫓
の4棟ですが、東北隅櫓は、残念ながら戦災で焼失してしまい、現在は3棟が重要文化財に指定されていますね![]()
江戸初期の築城なので、老朽化が著しく、東南・西北(清州城から移して来た説もあり)櫓は、昭和28年と37年の解体修理工事が行われましたが、今回話題となっていた西南隅櫓は、明治24年(1891)の濃尾大地震で倒壊(この時犬山城も大きな被害を被りました)、32年後の大正12年(1921)に修理復元された事になっていました![]()
新聞によると、濃尾地震倒壊説は、著名な建築学者(誰かな?)が戦後に語った話が、そのまま公式見解として定着したものだそうで、明確な裏付け調査がなされないまま、鵜呑みにしてしまったみたいです![]()
この定説に疑問を持った、名古屋市教育委員会文化財保護室の専門員が、「倒壊から再建まで30年も放置されていたのが不自然
」と思い、当時の文書等を調査した所、濃尾地震時に西南隅櫓が壊れたという記録がない事が判明しました![]()
更に、この矢倉の鬼瓦には、皇室の紋章である菊紋が入っている事でもわかるように、当時の宮内省が管理していました。「地震から修復まで、天皇陛下が50回以上宿泊しているのに(多分名古屋城離宮の事か)、壊れた矢倉をそのままに放置しておくのは考えられない
」という考えから、修復の同じ年の6月に尾張地方を襲った大型台風が原因ではという結論を導き出しました![]()
幸いにも、台風直前に完成した名古屋城総図には、西南隅櫓の絵が描かれており、また、台風通過後の8月に瓦礫や壊れた石垣の積み直しに関する文書が残っている事も、今回の新説を裏付ける証左となったみたいですね![]()
今回の調査結果を元に、名古屋城検定公式テキストやその他の出版物も修正される事になったみたいです![]()
一片の疑問が定説を覆し、真説を生み出す![]()
まさに、歴史の醍醐味ですね![]()
![]()
今回の真相解明に尽力し、大いなる成果を挙げた皆様に、心から敬意を表します![]()
本日はここまでにします![]()
[ 2011年05月17日10時21分05秒 ]
慶勝さんの憂鬱(その5)
一橋治済さんは後期徳川家のゴッドファーザーだった
一橋治済(はるさだ)さんが仕掛けた、自家の子供や孫たちを御三家・御三卿へ送り込む政略の目的とは![]()
家康さん3男の、秀忠さんから継承された将軍家と、9男~11男から始まる御三家は、代が続くに連れて、血の繋がりが薄くなってしまいました![]()
幼少の7代将軍家継さんが夭絶した時点で、秀忠さん・家光さんの将軍家血統は、途絶えてしまいました![]()
但し、厳密に言うと、秀忠の側室の子であった保科正之さんを祖とする会津松平家や、家継さんの叔父さんを祖とする越智松平家が存在していたので、完全な断絶とは言えないのですが、他家を創設している為、将軍家には征夷大将軍を継ぐべき男子がいませんでした![]()
将軍家に後継者がいない場合は、御三家から将軍を出すという事になっていたので、虚々実々の駆け引きの結果、紀州藩主の吉宗さんが、8代将軍となりました![]()
吉宗さんは将軍職を継承するに際して、尾張徳川家と激しい政争を繰り広げました。したがって、自分の後の将軍職はわが子孫で継承していきたいという意向であった事は推察できます![]()
吉宗さんには、9代将軍予定者家重(いえしげ)さんの他に、宗武(むねたけ)さんと宗尹(むねただ)さんの2子がいましたので、彼らを江戸城の田安門(たやすもん)と一橋門(ひとつばしもん)内の屋敷に住まわせ、家重に不測の事態が起こった場合、両家から将軍家を出すという新たなシズテムを構築しました
後に、家重さんの次男重好(しげよし)さんも、江戸城清水門内に屋敷を与えられ、ここに御三卿が確立しました![]()
(彼らを、屋敷のあった門の名前を取って、田安家・一橋家・清水家と呼びますが、御三家同様、徳川姓を与えられていました)
病弱な家重さんの控えという立場の田安家と一橋家でしたが、家重さんに10代将軍を継ぐ家治さんと重好さんが生まれた為、後継者の不安がひとまずなくなりました
宗武さんと宗尹さんには、子供が複数人いたという事もあったので子供達の多くは、家門・譜代・外様の大名家に養子に出されてしまいました![]()
10代将軍家治さんには嫡男の家基(いえもと)さんがいたのですが、急死してしまい、世上の関心事では、誰が11代将軍になるかという事でした![]()
本来なら、将軍家の血筋に一番近い、清水家の重好さんにお声がかかるべきだったと思いますが、不思議な事にこの方を将軍にという話は、表だってはありませんでした![]()
そうなれば、血統重視の観点から、御三卿筆頭田安家からとなるのですが、田安家2代目治察(はるあき)さんは後嗣なきままに病死していました
しかも、生存していた弟さん達は、それぞれ、松山・白河松平家に養子に行ってしまったので、田安家は事実上、当主のいない空き屋形という状態に陥りました![]()
結果として、一橋家当主治済さん嫡男の豊千代さんが、家治さんの養子となり、11代将軍家斉さんが誕生します![]()
前述しましたが、後に清水重好さんも後継者がいないままに死去した為、寛政期には御三卿のうち2家が空き屋形でした![]()
治済さんは、祖父吉宗さんが考えたのと同様に、空き屋形となった田安家と清水家に一橋の血を導入しようと計画していた筈ですが、それと前後して、老齢を迎えた尾張徳川宗睦さんの養子問題という、美味しい話が転がり込んできたのです![]()
幸いにも、宗睦さんの意向が将軍家一族であった事もあり、孫斉朝(なりとも)さんの尾張家入嗣と、前年清水家継承が不首尾に終わった7男亀之助さんの、尾張連枝家高須家相続が一気に決まりました![]()
(最も両家への入嗣については、2年程の時間差があります
)
これより前の天明7年(1787)、治済さんは5男の慶之丞さんを田安家に送り込む事に成功していました![]()
治済さんの野望は、御三家・御三卿の当主を、一橋家血筋で独占する事によって、強固な血縁ネットワークを作ることでしたが、寛政10年(1787)時点では、尾張家と田安家が一橋系になっていました。
さて、斉朝さん相続後の尾張徳川家の状況ですが、彼は寛政11年(1800)の襲封から、文政10年(1827)まで27年間、藩主の地位にありました。その後、家斉将軍さんのお子様達と甥御さんが3代続けて、半ば幕府からの押し付け養子として送り込まれて来ました![]()
ところで、本来尾張徳川家の連枝家として、藩主の補完機能を果たす役割を託されてきた高須藩は、この頃どうなっていたのでしょうか![]()
このお話は次回にしたいと思います![]()
[ 2011年05月16日12時36分55秒 ]
いよいよ清盛が動き出す!
来年の大河ドラマ「平 清盛」の男性配役発表
昨日のネットで、来年の大河ドラマ「平 清盛」の男性配役が発表されたというニュースが流れていました![]()
早いもので、もう来年か・・・とタケ海舟は思っていたのですが、「江」が11月で終了。「坂の上の雲」の最終シリーズ(多分)が12月なので、そろそろ動き出さなければいけないでしょうね![]()
既に松山ケンイチが清盛役に内定していましたが、今回は清盛とともにドラマを盛り上げる男優さんが一同に会しての記者会見となったみたいです![]()
配役陣をざっと見てみると・・・
平 忠盛(ただもり)(平家の棟梁で清盛の父)→中井貴一
源 為義(ためよし)(源氏の棟梁で義朝の父)→小日向文世
源 義朝(よしとも)(源氏棟梁 清盛のライバル)→玉木宏
後白河天皇(ごしらかわてんのう)(清盛最大の強敵)→松田翔太
なかなか面白いとキャスティングですね![]()
清盛・義朝・後白河・・・この3人が複雑に絡み合うのが
天皇家と摂関家の権力抗争を武力で解決させた保元の乱と、朝廷を守る武門の家の覇権を巡っての、源氏と平家の激突が平治の乱でした![]()
この乱は京都とその周辺で起きた小規模な軍事衝突だったのですが、従来の謀略を駆使した権力争いが、武力行使による解決方法へと変質した事を、如実に示した画期的な出来事でした![]()
治天の君(上皇法皇)や摂関家の用心棒的な存在に過ぎなかった源氏と平家が、政権の帰趨を決する存在として注目されるわけです。貴族が支配する世の中から、武士が支配する世の中へ移り変わろうとする、過渡期の時代をリードした人物こそ、来年の大河ドラマの主役 平清盛であります![]()
今後、このブログでも清盛の活躍した時代をテーマにお話をしていきたいと思います![]()
あまり詳しくないので、よく勉強しなければいけませんね![]()
![]()
[ 2011年05月13日16時27分54秒 ]
ユネスコ記憶遺産
ユネスコ記憶遺産に慶長遣欧使節関係資料と御堂関白日記が推薦
今朝の朝刊を何気なく見ていたら、上記の文字が飛び込んで来ました![]()
ユネスコ記憶遺産という、見慣れない言葉が気になって早速、調べて見ました![]()
ユネスコ 即ち、国連教育科学文化機関が人類の貴重な記録物を保存・継承する目的で、1992年に創設された物だそうで、世界遺産や無形文化遺産と並んで三大遺産と呼ばれる、権威のある世界価値基準です![]()
既に登録されている有名な物では、フランス革命の「人権宣言」、ベートーベン直筆の「第9交響曲」の楽譜、第2次大戦の犠牲となった、「アンネ・フランクの日記」があります。現在、76カ国・193件が登録されているとの事です![]()
日本における登録遺産はまだなく、今回の推薦によって、ユネスコからの登録許可が出た場合、我が国初の記憶遺産の誕生になりますね
(ちなみに、登録可否の決定には2年程かかる見込み)
この登録審査基準の1つに、歴史的人物の直筆の文書や世界史的な位置づけが、明確な資料である事が必要みたいで、我が国の平安王朝代表的な古典である「源氏物語」や「万葉集」は直筆原本がないので、推薦を見送られたという経緯があるみたいです
(選考基準が厳しいですね
)
御堂関白日記は平安中期、摂関政治の最盛期を演出した藤原道長直筆の日記(この世をば、わが世とぞ思う望月の・云々の歌で有名ですね
)であり、平安時代の宮中行事や政治情勢を知る上で貴重な物ですね![]()
今一つの慶長遣欧使節資料は、独眼龍政宗が家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らをスペインやローマに派遣した時の外交資料であります。天下が豊臣から徳川へと大きく移り変わる中で、天下への夢を捨てきれない政宗が、ヨーロッパのカトリック勢力と提携して、徳川幕府打倒を考えていたのではないかという言い伝えもあります![]()
今回の登録候補が、ユネスコ記録遺産に決まったら、実に画期的な出来事になります![]()
特に、地震と津波で大きな被害を受けた東北地方では、先に平泉が世界遺産に登録確実というニュースが報道された事もあり、少しでも早く、明るさと復興に向けた活力を取り戻してほしいと願っています。
本日はここまでにします![]()
[ 2011年05月12日18時50分01秒 ]
江(第17回)家康の花嫁を見て
さて、江の先週の放送を見て![]()
このブログで触れさせて頂いたお話が今回のストーリーの中心でした
(第15回秀吉の正体をご参照下さい)
天下を巡る難しい問題について、日々思案する秀吉は勝手に
養女にした江とケンカしながらする対話の中で、問題解決の糸口を見つけていきます![]()
なかなか大坂にやって来ない家康をいかにして、呼び寄せるのか![]()
秀吉から相談を受けた江は、「目的を達成するには、自分が一番大切な物を差し出す覚悟が必要
」と話しました![]()
秀吉は思案の挙句、既に副田甚兵衛と結婚していた妹の旭(あさひ)をなんと離婚させて家康の正室として輿入れさせました![]()
当時家康には、正室がいなかった事を考慮に入れた、秀吉の仕掛けた政略結婚でした
この時、旭は40歳を超えていました。嫁ぐには少し無理があるのでは・・・という結婚である事は誰の目にも明らかでしたが、秀吉には他に適齢期の女兄弟がいなく、一番理想に近い
旭の輿入れという運びになりました![]()
つまり、家康との意地の張り合い(言い換えれば心理戦)の中で、秀吉に残された手持ちのカードがそれだけ、少なかったという事だったのでしょう![]()
ところが、家康は2人目の正室を一応迎えましたが、依然として大坂には来ませんでした![]()
業を煮やした秀吉の奥の手が、愛妻おねとかけがえのない母であるなかのいずれかを、人質として家康に差し出す事でした
結局、なかが娘の旭に会いに行くという名目で、家康を訪問しました![]()
家康の方もそろそろ、落とし所を模索していた頃でしたので、なかと旭が、自身の安全の保険であると解釈して、遂に重い腰を上げたのでした![]()
大坂を訪れた家康は、秀吉との事前打ち合わせ通り、諸大名凝視の中、秀吉に臣従を誓うとともに、陣羽織を拝領するというアドリブを効かした大芝居を演じました![]()
この両雄の我慢比べですが、みなさんはどちらに軍配が上がったと思いましたか![]()
タケ海舟は、引き分けだったと考えています![]()
秀吉は武力で家康を屈伏させる事ができなかった
局地戦とはいえ敗北をしている・・・
家康は局地戦では勝利を収めたとはいえ、秀吉の巧妙な戦略によって、織田信雄や佐々成政等の同盟勢力が離反もしくは、降服させられた事によって、状況を自ら動かす主導権を失ってしまった![]()
主導権を取り戻した秀吉は、外交戦略や家康の家臣団の離反工作を画策する等して、家康陣営に揺さぶりをかけ、家康も対抗すべく、領国である東海5カ国の地盤固めと、東隣の北条家との同盟を締結しました(家康次女督姫〔とくひめ〕が北条氏直〔うじなお〕の正室になっています)
こうした睨み合いという状況が数年程続いたのですが、前述の通り秀吉の譲歩を受けた家康が、双方の面目を立てるべく臣下の礼を取ったというのが事実に近いのではと思います![]()
痛み分けに近いとは思いますが、家康を屈伏させられなかった秀吉は、この後も彼を豊臣政権のNO2として遇する事を強いられ、以後の政権運営に苦慮させられる事になります![]()
両者の暗闘は、豊臣政権の安定を図るために、家康の勢力をあの手この手で弱めようとする秀吉と、そうはさせじと自己の勢力拡大を図る家康という図式で推移していきます![]()
そして、江もやがてその渦に巻き込まれる事になります![]()
続きはまたに![]()
[ 2011年05月11日11時27分44秒 ]
慶勝さんの憂鬱(その4)
前回お話した通り、尾張藩には11代将軍家斉さんの実家である一橋家から斉朝さんが養子として入嗣しました![]()
一橋治済さんは、嫡男の家斉さんを将軍に、そして孫の斉朝さんを尾張家に入れる事に成功しました![]()
実は治済さんは、尾張家に斉朝さんを送り込んだ寛政8年(1796)に、自身の七男である亀之助さんを尾張藩分家の高須家に養子に出していました![]()
亀之助さんの養子問題は、これが最初ではなく、1年前には御三卿清水家相続の話も持ちかけられていました![]()
寛政7年(1785)清水家当主重好(しげよし)さんが、嗣子のないまま死亡した時、一橋治済さんは清水家の後継者に亀之助さんを送り込むべく画策しました![]()
しかし治済さんの計画は、当時の幕閣(その中心は老中筆頭であった松平信明〔のぶあき〕さん)が反対した為、実現しませんでした![]()
その代わりだったのかはわかりませんが、翌年に高須藩主松平義当(よしまさ)さんの養子として、高須藩を相続する事になりました
この時より松平義居(よしすえ)と名乗り、高須松平家世子となります![]()
斉朝さんの尾張家相続と並行して行われた、この縁組の目的は果たして何だったのでしょうか![]()
タケ海舟は次のように考えます![]()
治済さんは、尾張家とその有力連枝衆である高須家に、一橋家出身の当主を同時に送り込む事によって、義直系の血筋が絶えた尾張藩を自己の統制下に置こうと考えたのでは思います![]()
この背景には、将軍家斉さんの実父として、隠然たる影響力を行使を狙う治済さんと、治済さんの幕政への容喙を極力阻もうとした、寛政の遺老達(松平定信さんとともに、寛政の改革を担った老中達の事を総称した呼び名)との暗闘があったと思います![]()
それでは、治済さんが仕掛けた尾張徳川一門植民地計画は、どんな成り行きを見せたのでしょうか![]()
続きは次回とさせて頂きます![]()
[ 2011年05月10日15時16分33秒 ]
江(第16回)関白秀吉を見て(その2)
五摂家の近衛家と九条家との関白職を巡る紛争に対して、秀吉は直ちに仲裁に入ります![]()
ドラマでは朝廷の紛争に関する情報をもたらしたのは、細川忠興でしたが、今回一連の秀吉の周旋に、最も力を発揮したのは、右大臣の菊亭晴季(きくていはるすえ)でした。彼は、朝廷が生前の信長に進めていた三職推任問題を前例に、信長の後継者を自任する秀吉に、五摂家に代わって関白に就任する事を勧めました![]()
晴季の提案を良しとした秀吉は早速、近衛信尹の父で朝廷に隠然たる影響を保持していた前久に接近します![]()
「このまま、近衛家と二条家が争う事は朝廷にとって望ましくない。時期を見て関白職は信尹殿に譲るから、自分を前久殿の猶子にして頂いた上で、関白職をお譲り願いたい。その代わり、経済的な援助として、近衛家には1,000石、他の摂家4家にはそれぞれ500石の加増をさせて頂く
」
当時の公家の経済状況は極めて深刻でした・・・![]()
政治の実権が、公家(朝廷)から武家(幕府)に移って久しく、かっては広大な荘園等を領していた彼らも、戦国時代に至っては、日々の生活に四苦八苦する程の窮乏ぶりでした![]()
藤原良房・基経以降、摂政と関白を独占してきた藤原五摂家も例外でなく、彼らは戦国大名の経済的な援助を受ける事によって、なんとか殿上公家としての体面を保っていたのでした
秀吉はそういう公家達の台所事情を十分に見越した上で、経済的な援助を申し出ました![]()
秀吉の提案を受けた近衛前久は、内心では『成り上がり者の百姓風情めが
』と怒りと屈辱に打ち震えていたと思いますが、将来わが子の信尹が関白に就任する可能性が高い事と、秀吉の天下統一が近未来的に実現されるだろうという読みから、秀吉を自らの猶子として縁組、関白職を譲る事を決断しました![]()
前久にしてみれば、苦汁の選択だったと思います![]()
有史以来初めて、藤原氏出身ではない者が関白職に就く事になったのですが、自分の猶子ならば、素状はともかく、藤原氏による関白の継承が続く事になり、尚且、経済的な援助を受けられるのならば、認めても差し支えないと考えたのではないのでしょうか![]()
名誉より実益を採るという戦略ですね
征夷大将軍譲位を断固拒否した足利義昭と比べると、現実的で大局を見る目を持っていたといえるでしょうね
流石に朝廷の代表として、第六天魔王織田信長と互角に渡り合っただけの人物であったと思います![]()
こうして天正13年(1585)、羽柴改め藤原秀吉は晴れて、関白秀吉となりました
朝廷から豊臣の姓を賜るのは翌年の天正14年(1586)になってからでした![]()
尚、ドラマでも触れられていましたが、秀吉は今回の関白就任のもう1つの見返りとして、前久の娘前子(さきこ)入内の斡旋をする事になります。前子は天正14年(1586)に秀吉の猶子として後陽成天皇女御となります![]()
彼女の生んだ皇子の1人が、後水尾天皇です
(後に、江の末娘である和子が入内する事になります)
目出度く、帝の生母となった彼女は中和門院(ちゅうわもんいん)という院号を贈られます![]()
摂関家からの入内は南北朝以来途絶えており、実に2世紀ぶりの快挙となりました![]()
五摂家筆頭近衛前久にとっては、誠に喜ばしい慶事だった筈です![]()
こうした所からも、人に利を与える見返りとして、自らも利を得るという秀吉の外交戦略の巧妙さを垣間見る事が出来ます![]()
こうして、位人臣を極めた秀吉の最終目標は、天下統一![]()
そして、今一つは・・・・![]()
続きは次回とさせて頂きます![]()
[ 2011年05月07日08時55分51秒 ]
江(織田信雄・信孝兄弟についてその4)
織田家簒奪を図る羽柴秀吉にとって、信長の御曹司である信雄と信孝の不仲は誠に誠に好都合でした![]()
実は両者の確執の真相について述べられた、ある史料があります![]()
天正10年(1582)の丹羽長秀宛柴田勝家書状によると、信孝の所領美濃と信雄の所領尾張の境界線を巡って紛争が起きていた事がわかります![]()
勝家は自身が後援している信孝から調停を依頼されたみたいで、長秀に相談を持ちかけたみたいです![]()
織田家の家督を甥である三法師に横取りされたにもかかわらず、まだ自分の領土に関する境界争いに夢中になっている2人の視野の狭さが伺えます・・・ これでは秀吉に付け込まれてもやむを得ないですね![]()
前掲の書状は、清州会議直後に送られた物と思われます。仲の悪い兄弟の所領を隣同士にした所に、秀吉の謀略性を感じますね![]()
賤ヶ岳の戦いに到る過程で、一番の分水嶺は、秀吉(信雄)と勝家(信孝)のどちらが、三法師を掌中にするのかという事でした
織田家名目上の跡取りである三法師を擁すれば、態度を決めかねていた中立派を味方にする事が出来るからです![]()
清州会議では、信孝が岐阜城で三法師を後見する事が決まっていました。この時点では錦の御旗を持っていない秀吉側が不利だったと思います。しかし、秀吉は勝家が雪の為、本拠の越前国を動けない冬を狙って、勝家派の諸将の懐柔や挑発による各個撃破を行います![]()
秀吉の旧領長浜を抑えていた勝家の養子の勝豊(大谷吉継の調略が奏功しました)の投降や、有力な勝家与党だった滝川一益の討伐で孤立した岐阜城の信孝は、十分な準備をしないまま、天正10年暮れに挙兵しますが、秀吉の前に簡単に降服してしまいました![]()
この時の和議の条件で、三法師を秀吉に引き渡したばかりか、実母までも人質に取られてしまいます![]()
後のなくなった信孝は、翌年柴田勝家と呼応して再び挙兵しますが、今度は兄信雄の攻撃を受けて、岐阜城を包囲されてしまいます
その間に頼みの勝家が、北ノ庄城でお市とともに自害した為、抵抗する気力の萎えた信孝は兄の勧めで投降しました![]()
投降した時点で、信孝は自分の運命を予想していたかどうかわかりませんが、秀吉にすれば、覇気が強くこの先
生かしておいたら、必ず自分に牙を剥くに違いない信孝の抹殺は既定路線だったと思います![]()
ただ、主筋にあたる信孝に自ら手を下す事は避けたかった筈です・・・
そこで、自分の代わりに死刑執行人を喜んで
引き受けてくれる人に信孝を殺させたのです![]()
その執行人はいうまでもなく、織田信雄さんでした![]()
信孝は岐阜城を明け渡した後、尾張国知多郡野間の大御堂に護送後、信雄の命令で自害させられました![]()
享年26歳![]()
この時、人質になっていた生母、側室や娘たちも、秀吉に殺されています![]()
秀吉は人の命を奪う事を極力、避けて来た人物でしたが、信孝に対しては本人ばかりか家族の命を奪うという非常に厳格な仕置きを断行しています
(表立っては、信雄の命令にはなっていますが
)
秀吉は信孝に対して何か含む事があったのでしょうか![]()
後年、秀吉は信雄や信長弟である信包に対しても、天下人たる自分の命に従わなかった理由で、改易や減封処分を行っていますが、生命までは奪いませんでした![]()
信孝だけがなぜ殺されたのか![]()
やはり、見せしめ的な意味合いが強かったのでしょうか・・・![]()
いずれにしても、信雄と信孝兄弟は秀吉にとって、排除しなければならない信長の子供でした![]()
三法師を新当主とする織田家新体制に逆らう者は、たとえ信長の子供であろうとも容赦はしない
という秀吉の決意表明だったのでしょう
(三法師の利用価値はこれ以降、どんどん下がっていくのですが・・・)
そして、この信孝の死に際して、直接の加害者となった(秀吉にそそのかされたという方が適切かも)信雄は、当面のライバルであった異母弟抹殺という目的を果たしたのを契機に、それまでの秀吉との協調関係から、対立関係へと軸足を移す事になります![]()
その後の信雄については、機会を改めてお話したいと思います![]()
[ 2011年05月06日14時19分10秒 ]
慶勝さんの憂鬱(その3)
初の1日2回更新![]()
寛政8年(1796)を以て、尾張藩と有力支藩であった高須藩から、徳川義直の血統が断絶した事は前回、お話しました![]()
尾張藩9代宗睦さんは、義直系統での藩主相続を断念し、徳川一門よりの養子受け入れを打診します(この時幕府との折衝に動いたのが付家老たる成瀬・竹腰両家だったと思われます)
候補者として内定したのは、11代将軍家斉さんの4男の敬之助さんでした(寛政7年生まれ)![]()
早速、宗睦さんとの養子縁組がされたのですが、江戸尾張屋敷に移る前に、亡くなってしまいました![]()
家斉さんは後に50人以上の子供を儲け、「おっとせい将軍」と呼ばれたのですが、この時期の男子は後に12代将軍となった家慶(いえよし)さん以外には生存していませんでした![]()
老齢の宗睦さんの健康状態も考慮に入れると、尾張藩の継嗣は危急の問題でした![]()
しかし、それは見方を変えると、御三家・御三卿を一橋家の血筋で独占しようと、画策していた家斉さん実父の一橋治済(はるさだ)さんにとっては、御三家筆頭の尾張家に自家の血筋を入れる機会到来という事にもなります![]()
治済さんはわが子家斉さんや幕閣を動かして、自分の孫の愷千代さんを尾張家の後継者として送り込もうとしました![]()
実は愷千代さんは、治済さん次男治国(はるくに)さんの子供だったのですが、愷千代さんが生まれた時、既にお父さんの治国さんはこの世を去っていました
一橋家の家督は、治済さんの嫡男が11代将軍となった為、次男の治国さんが世子でしたが、早世した為、6男の斉敦(なりあつ)さんが継承する事になっていました![]()
父を失った愷千代さんは、叔父斉敦さんに養育されますが、尾張宗睦さんの養子として尾張家を継ぐ事になりました![]()
更に箔をつけるという意味だと思いますが、家斉将軍の長女淑姫さんとの婚約が決定(幼い2人は従兄妹同士になります
)こうした一連の手続きを経て、寛政10年(1798)に愷千代さんは、正式に宗睦さんの養子となり、尾張屋敷に引き移り、翌年には家斉さんの一字を賜り、名を斉朝(なりとも)さんと改めました
この年には淑姫さんも輿入れし、2人は夫婦養子として尾張家10代目の屋台骨を支える事になったのです![]()
懸案だった後継問題が解決してほっとしたのか、宗睦さんは寛政12年(1800)に67歳の生涯を閉じました![]()
この時、斉朝さん8歳。正室淑姫さんは12歳でした(姉さん女房
)
斉朝さん以後、尾張藩は13代藩主まで家斉将軍の子供もしくは、甥を藩主に迎える事を余儀なくされるのですが、少なくとも10代斉朝さんの場合は、尾張家の止むに止まれぬ情況が原因でした。自家に藩主たるべき男子がいなかった(本当は宗睦さんの弟が1人生存していたのですが、既に付家老竹腰家を継いでいました)事もあり、徳川幕府ナンバー2であった尾張家の後継者を迎えるべき家は、ナンバー1の将軍家しかなかったのでしょう![]()
この点では、後の悪名高い押し付け養子ではけっしてなかった筈です![]()
しかし、尾張徳川家が、一橋系の血筋になった事は紛れもない事実でした![]()
そして、尾張藩有力支藩であった高須松平家にも、一橋系の血が組み込まれます![]()
この辺りの事情については、タケ海舟の推論を含めて、次回お話したいと思います![]()
[ 2011年05月02日16時19分36秒 ]
江(第16回)関白秀吉を見て
紀州攻めに引き続き、四国征伐を成功させつつあった秀吉の次の計画は・・・
天下の主たるにふさわしい官位を手にする事でした![]()
下剋上の戦国時代ですので、武力で国を統一する事が天下平定の近道でした![]()
織田信長はこの方針を「天下布武」というスローガンを以て表現、実践をしました。しかし、ほぼ天下の趨勢が定まりつつあった天正10年(1582)頃には、朝廷は信長にどういう官職を授与するか、水面下で信長側と折衝をしていました![]()
結局、信長は直後の本能寺の変で亡くなってしまったので、この折衝は頓挫しましたが、この時、信長に提示された官職は、征夷大将軍・関白・太政大臣の3つだったみたいです(三職推認問題)![]()
信長は天皇を超越した存在。すなわち、神になろうとしたと言われていますが、朝廷の権威については天下人としての自身に箔を付ける為に、利用すべきだと考えていたと思います。
たとえ、武力で天下を治めても、それを維持するには、朝廷の権威が不可欠だったのです![]()
本能寺で横死しなかったら、果たしてどの様な判断を下したのでしょうか![]()
秀吉も信長の方針をほぼ踏襲して、権威の象徴である官職猟官活動を行いました![]()
まずは、武家の棟梁である征夷大将軍を目指し、足利15代将軍義昭(和泉元彌さん久しぶりでしたね
)に自分を猶子にしてもらうように交渉しますが、室町将軍としての誇りだけは、いまだ健在の義昭に門前払いをされてしまいます![]()
源頼朝が鎌倉幕府を創設以来、征夷大将軍任命の条件は、源氏の出身である事でした。秀吉もその事は承知していたので、義昭の子供になろうとしたのですが、失う物は何もないという云わば、開き直り状態の義昭が一矢を報いた結果となりました![]()
しかし、ここからは秀吉の切り替えの早さなのですが、武家の棟梁がダメなら、公家の棟梁になろうと新たな画策を始めました![]()
帝のおわす朝廷に仕える公家達のトップは、関白(かんぱく)でした![]()
最初に関白に任じられた藤原基経以後、藤原氏の流れを汲む五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)が独占していました![]()
秀吉が関白になる為には、当然五摂家のどこかの家と養子または猶子縁組をする事が必要でした![]()
そこで、秀吉が考えたのは、五摂家筆頭近衛家と現関白だった二条家との対立を仲裁する事でした
(いわゆる関白相論問題)
ところで、ドラマでは、近衛龍山(前久〔さきひさ〕の名前の方が一般的ですね
)の息子信尹(のぶただ)が、現関白の二条昭実(あきざね)に関白の地位を譲れという話が出てました
実はドラマでは取り上げられていなかったのですが、信尹の一見、無謀ともいえる要求の背景には、秀吉の左大臣就任問題が絡んでいたのです![]()
この相論が勃発する前に、朝廷は秀吉を内大臣に任命したのですが、天下人にならんとする彼に対して、内大臣では不足だろういう意見が支配的でした
そこで、秀吉を右大臣に昇官させようとしたのです![]()
ところが、秀吉は「主君信長は右大臣になって不慮の死に遭遇した。縁起をかついで左大臣を拝命したい
」と返答したのです
表向き、信長の官職に就くのは縁起が悪いといっているのですが、右大臣より格上の左大臣をちゃっかり要求する所は抜け目はありませんね![]()
朝廷は秀吉の希望に沿う事を検討し始めたのですが、その為には、現左大臣だった近衛信尹を辞任させる必要があったのです
当然ながら、成り上がり風情の秀吉に悪感情を持った信尹は、左大臣を譲る前に上位の関白に就任する事を希望し、二条関白に圧力をかけ始めたのです![]()
一方、関白就任半年の二条昭実にとっても、到底承服できない話でした。両者の対立で、朝廷はすったもんだ状態に陥ってしまったのです![]()
このままでは埒が明かないと見た両者は、実力者秀吉に自己への支援を求めたのでした![]()
関白を巡る朝廷内の人事抗争は秀吉に漁夫の利を得させる絶好の舞台を提供してしまいました![]()
では、秀吉がどのように仲介をしたのかについては次回にさせて頂きます![]()
[ 2011年05月02日13時42分34秒 ]
タケ海舟