March 2011
慶勝さんご正室様の雛人形
最近は、慶勝さんの事を題材にしてブログを頻繁に書いていますが![]()
本日も同じ慶勝さんの事を書きますが、多少切り口を変えてみたいと思います![]()
以前もご紹介しましたが、タケ海舟の会社の近所に、徳川美術館があります。
いうまでもなく、尾張徳川家伝来の重宝をたくさん管理、展示しているのですが、毎年2月初~4月初までは特別企画展として、尾張徳川家の雛祭りを開催しています![]()
徳川美術館恒例の目玉企画でもあり、この時期は名古屋愛知近郊の方はもちろん、遠方からもたくさんの人達が鑑賞に訪れます。
この企画展では、歴代尾張徳川家当主のご正室が、尾張家に嫁入りの際に、持参した雛人形や雛道具類が展示されます。尾張徳川家は現当主の義崇(よしたか)さんが22代目に当たり、毎年の順番で○○代目のご正室さんのお道具がその都度、私達の前に現れるわけです。
そして、今年は![]()
なんと14代藩主慶勝さんのご正室だった矩姫(かねひめ)様の雛人形・雛道具が展示されているのです![]()
展示期間が長い為、そのうち行けばいいや
なんて油断していたのですが、気がついたら今週末で終了だった事に気がつきました![]()
この展示会を見に行かなければ、慶勝さんを語る事はとてもできない![]()
というわけで、タケ海舟は週末、徳川美術館に行って来ます![]()
最近、雛人形は、子供の雛飾り以来、目にした事がなかったのですが・・・
今から週末がとても楽しみです![]()
鑑賞報告は、来週にでもさせて頂きます![]()
[ 2011年03月31日16時00分17秒 ]
慶勝さんと松平春嶽さん(その3)
幕府の方針に従わない慶勝さんを心配した松平春嶽さんは、尾張藩重鎮のある人物に、憂慮の意を申し伝えます![]()
さて、そのある人物とは![]()
尾張藩の付家老として、藩内で大きな影響力を維持していた、竹腰正諟(たけのこしまさあと)さんでした。
その前に付家老について説明しますね![]()
徳川家康さんは晩年に生まれた3人の男子(義直、頼宣、頼房いわゆる御三家初代)の傅役兼後見人として、自らの家臣の中で、特に信頼していた人物を特別に選びました![]()
そのメンバーは下記の通りです![]()
尾張徳川義直→成瀬正成(なるせまさなり)・竹腰正信(たけのこしまさのぶ)
紀州徳川頼宣→安藤直次(あんどうなおつぐ)・水野重央(みずのしげなか)
水戸徳川頼房→中山信吉(なかやまのぶよし)
この5人は、本来ならば、家康さんの家臣で、譜代大名になる事もできた家柄でした。しかし、家康さんは幼い子供達の行く末を老い先短い自分の代わりとして、託くすに足る人物として、敢えて彼らを選びました![]()
本来、譜代大名のままであれば、老中等の幕府の役職にも就く事ができるにも拘わらず、いくら家康さんの子供達とはいえ、一旦仕える事になれば未来永劫、陪臣(ばいしん またもの)という扱いにされる事を意味していました![]()
つまり、徳川将軍家の家臣ではなく、徳川家に仕える親戚の御三家の家臣という事になってしまい、ランクが一段下がる訳です。当然、江戸城での待遇も大名の家来という事で、悪くなってしまいます![]()
しかし、付家老初代の5人は、家康さんの気持ちを察し、敢えて、陪臣という地位に自ら甘んじる事を選びました
5人は、それぞれの主君に文字通りの親代わりとして仕え、御三家藩政の基礎固めに粉骨砕身尽力しました![]()
尾張藩の付家老のうち、成瀬氏は古くからの徳川家譜代の家臣でした
(成瀬家については機会があったら触れたいと思います)
一方の竹腰氏は、代々の徳川譜代ではありませんでした。尾張家初代義直さんの生母であったお亀の方が家康さんの側室になる前に、死別した前夫が竹腰という人で、竹腰正信さんはその前夫との間に生まれた子供でした![]()
つまり、正信さんと義直さんは異父兄弟という事になります
この極めて近い血筋上の関係もあって、正信さんは弟の義直さんの付家老に任じられ、尾張藩政の屋台骨を支える事になりました。幼い義直さんにとって、父家康さんの薫陶を受けた成瀬さんと実の兄にあたる正信さんの存在は頼もしかったに違いありません![]()
以後成瀬・竹腰両家は、代々付家老として、藩主である尾張家当主の補佐と監督(この役割は、家康から命じられた物であり、以後も幕府から課されていた)の任に当たっていました![]()
さて、この付家老という役職・・・御三家のみにしかない役職であります![]()
他の大名家では殿様を補佐して、藩政を執行する責任者を家老といいます。定員は4~5人複数いて、重要事項は家老達の合議制で決めていました![]()
御三家尾張徳川家にも、もちろん家老はいました。付家老はその家老達の上に立って、文字通り、尾張徳川家家臣のトップとして藩政を統括する立場にありました![]()
いうまでもなく、家老の最終的な上司は殿様でした。ところが、付家老は、もちろん尾張徳川家の殿様が上司すなわち主君でありますが、もう1人(むしろこちらが本当の主君として強制力がある)上司がいたのです![]()
それは・・・
最初に付家老を任命した元の主君。徳川将軍家=徳川幕府だったのです![]()
![]()
この二重の主従関係を持っている事がある意味、付家老の特色でした![]()
冒頭、お話した松平春嶽さんの竹腰正諟さんに対する意見具申(半ば、叱責に近いのですが)は、付家老が果たすべき役割と密接に関係しています![]()
それでは、春嶽さんは、付家老竹腰さんに何を話したのか![]()
それは次回にさせていただきたいと思います![]()
[ 2011年03月30日15時50分13秒 ]
地震の影響
地震から2週間以上が経過しました・・・
まだ、被災地並びに周辺地域の復興は、なかなか進んでいないのが現実みたいです。
また、時間の経過とともに、被災地にある国宝や重要文化財の被害状況も明らかになって来ました。
昨日の日経新聞夕刊の文化面に、詳細が載っていました。
タケ海舟が、大学時代に訪れて感動した松島(日本3景の1つ)も、260余あった大小の島々の中には、水没したり形が大きく変わってしまった物もあるみたいです・・・
松島にある、独眼流政宗ゆかりの瑞厳寺(ずいがんじ)も、建造物の壁にヒビ割れや崩落という被害があったとの事。
このブログのテーマである幕末関連では、旧江戸城外桜田門の石垣が1部脱落・・・(桜田門外の変の舞台となった事で有名)、徳川御三家水戸家の藩校であった旧弘道館(こうどうかん。徳川斉昭が創設。15代将軍慶喜もここで学んだ)では、鐘(学生警鐘)が全壊、壁のしっくいや塀の瓦が落下したみたいです。
偶然とはいえ、桜田門外の変の現場となった場所と、一方の当事者だった水戸藩の藩校が、同じ地震で被害を受けたというのは、何かしらの因縁を感じました。
文化庁による報告では、今回の大地震で、国が指定・選定した文化財の被害は、東北関東を中心に400件を超えたとの事です。
地震は、多くの人の命や生活を奪いましたが、同時に日本の誇る歴史的遺産にも深い爪痕を残しました・・・
自然災害の恐ろしさの前には、人間の力など、無力である事を痛感しました。
このような悲しい事は本当に、二度と起きて欲しくはありません![]()
[ 2011年03月29日15時15分42秒 ]
江(第11回)秀吉の人質を見て(その1)
この回のタイトルの意味がどうも良くわからなかった![]()
秀吉の人質というのは、茶々・初・江の三姉妹という事はわかるのですが、秀吉は彼女たちをこれから、どう処遇するのか
この回だけを見てはよくわかりません・・・
ただ、三姉妹は秀吉の正室 おね(大竹しのぶの存在が際立っている)の懇切丁寧な対応を受け、秀吉への憎しみは別として、彼女には心を許すようになります。彼女達にとって、従姉にあたる、京極龍子(すでに秀吉の側室となっています)(遅れて秀吉の側室となった茶々にとっては、強力なライバルになると同時に、頼りになる身内でもあります)もいろいろと世話を焼いています
ちなみに、初が嫁ぐ相手が、この龍子の弟である京極高次です![]()
秀吉という人物は人たらしの名人といわれていました
相手の懐に遠慮なく入り込んみ、気がつけば相手の心を完全につかんでしまう。いつの間にか、相手は秀吉の虜になってしまう
「この人は自分には何でも腹蔵なく話してくれる。この人の力になりたい
」・・・ざっとこんな具合に![]()
竹中半兵衛、蜂須賀小六、前田利家・・・・彼らもそうだったかもしれませんね![]()
ドラマでも龍子が秀吉は夫の仇であったが、いつの間にか、この人は自分がいないとダメだと思う様になったといってました![]()
三姉妹の応対に自ら出る事をせず、おねや龍子に自分のいい所
をアピールさせる等、多少眉唾ものではありますが・・・なんとか自分を好きになってもらいたい(無理かも・・・)という深謀遠慮が垣間見られます![]()
これから、三姉妹の人生を翻弄しまくる事になる秀吉ですが、彼の本当の魅力(少なくとも今回のドラマでは完全な悪役になってますが・・・)が出てくるのはこれからですね
タケ海舟から見ると、大竹おねに少々、押され気味の岸谷秀吉ですが、楽しみにしています![]()
ところで、ドラマの最後に、茶々を見た秀吉の邪心(秀吉は名門出身の女性好き)を見抜いたのは、江とおねでした![]()
今後、どの様な展開になるのか楽しみです![]()
この次は、ドラマでも触れられていましたが、信長の息子の信雄と信孝について、話をさせて頂きたいと思います![]()
[ 2011年03月28日15時31分45秒 ]
慶勝さんと松平春嶽さん(その2)
少し時間が経過してしまいましたが![]()
尾張14代藩主徳川慶勝さんのお話の続き・・・
幕閣首脳の方針は、開国→諸外国との通商開始。同時に、軍備の近代化や貿易での富国化を達成した後に、時期を見て、再び鎖国をするという物でした![]()
但し、鎖国(言い換えると攘夷)するという事は、外国と戦争するという危険性も含んでいました![]()
幕府の中で朝廷(特に異人嫌いの孝明天皇)が唱える攘夷を本気で、行おうと考えていた人は少なかった筈です。
一連の開国問題で断固、攘夷を主張する慶勝さんに対して、松平春嶽さんは、幕府の方針に従うよう、粘り強く説得を行いました![]()
実は、この春嶽さん![]()
晩年に、幕末から維新に至る、緊迫した政局の裏側を明らかにした、多くの著書を残しています(この点は、勝海舟さんも同じですが・・・)
また、彼が藩主を務めた越前藩でも、非常に優秀な人材が揃っていました。
一橋慶喜さんの14代将軍就任実現の為、京都で論陣を張り、安政の大獄で刑死した橋本左内さん。明治維新の五箇条ご誓文の起草に参画、維新黎明期の国家財政も担当した由利公正さん(旧名三岡八郎)等はよく知られています![]()
その中の1人で、春嶽さんの側近として最も彼の薫陶を受けた、中根雪江(なかねせっこう)さんという人物がいました。彼は、春嶽さんの政治活動に深く関与し、多くの政治的局面に立ち会っていましたが、その彼の著書で幕末政治史料として著名な「昨夢記事」の中に、春嶽さんと慶勝さんとのやり取りが記されています![]()
慶勝さんは「朝廷に忠義を尽くすのは臣下の義務である。幕府と尾張家とは父子。つまり、私の関係である。国家の危機に逢って、父と子の私情を捨てて、君臣の大義に立つのは当然である。幕府が朝廷の意向に従わないとなれば、自分は君臣の義を選ぶしかない。」と、尾張家・水戸家累代のイデオロギーである尊皇の考えを鮮明にしました![]()
そして、「止むを得なく通商条約を結ぶのなら、事前に朝廷の勅許を受けるべきである」と主張しました![]()
こうした慶勝さんの意見を聞いた春嶽さんは、「説得は難しい・・・」と実感したみたいです![]()
春嶽さんも以前、水戸徳川家の斉昭さんの影響を受けて攘夷論を展開した事もありました。しかし、島津斉彬さん、伊達宗城さんら開明的な雄藩藩主や彼らと懇意にしていた阿部正弘さんとの交流を通じて、次第に攘夷から開国へと考えを転換していきました
英仏露の諸外国の軍事力の強大さを知り、攘夷は到底難しいと考えたと思われます![]()
これに対して、慶勝さんも同じ斉昭さんの影響(斉昭さんは伯父さん)を受けていましたが、水戸家の血を色濃く受け継いでいた為か、開国問題に関しては、春嶽さん程の柔軟さを持ち合わせていなかったみたいです![]()
ところで、春嶽さんと慶勝さんは、13代将軍家定さんの継嗣問題については、一橋慶喜さんを推挙する事で共同戦線を張っていました
幕末の政争では、Aの課題で意見が一致していても、Bの課題では意見が異なるというケースが多々ありました。
つまり複雑な要因が絡まり、あらゆる矛盾が生じていたわけです・・・出口の見つからない政治闘争の結果、多く人々の尊い命が奪われる事になりました![]()
幕府と尾張家のこれ以上の関係悪化を懸念した春嶽さんは、尾張藩の重鎮である人物に慶勝さんを諌めるよう、注意を促します![]()
その人物と春嶽さんの意図については、次回にお話したいと思います![]()
[ 2011年03月25日10時32分39秒 ]
江(第10回)別れを見て(その2)
さて、前回の続き・・・
ドラマの中で、柴田勝家が「この戦はなんとしても勝たねばならない!」といっていました。
それ故に、秀吉が岐阜城(織田信孝の籠る)攻めの為に移動した時、計略があるかもという不安があったにもかかわらず、佐久間盛政(山田純大が演じてました)(勝家の甥です)らの強硬さに押し切られた形で、非常に中途半端な攻撃命令を出してしまいました。
案の定、秀吉は柴田軍が動いた事を知るやいなや、素早く近江の戦場に戻って来ました。
秀吉には中国大返しという前例もありました。戦慣れもしており、かつ、同僚武将として秀吉の性格もよく知っていた筈の勝家らしからぬ不手際だったと思います。
予想より早い秀吉本隊の出現に、佐久間軍はもとより柴田本軍も動揺。雪崩を打つかのように、敗走を始めました。
この時、ドラマでは描かれませんでしたが、勝家の与力であった前田利家が無断で戦場離脱した事も、勝敗の流れを決定的にしました。
以上が賤ヶ岳合戦の経緯ですが・・・
北の庄城に戻った勝家が、妻の市にこう話していました。
「今回、自分は戦に行こうかどうか迷った。だから、あの様な無謀な戦をしてしまった。絶対負けられない戦い故に、いつもは正確に出来るはずの勝敗の流れの把握が出来なかった」
タケ海舟は、この言葉が非常に気になったのです・・・
数回か前にも書いたのですが、清州会議での主要な議題の1つであった(確実にそうだった)、信長妹の市と3人の娘の処遇(誰が、彼女達母子を保護するのか?)について、柴田勝家が市と結婚する事によって、庇護者という地位を占める事が決まりました。
この婚礼は、織田家の後継者問題で羽柴秀吉に先を越された勝家にとって、不利な状態をある程度、挽回する事を意味していました。更に、後継者となった三法師の後見人として、織田信孝が選ばれ、彼の居城である岐阜城で三法師を養育する事が決まりました。これに対抗して、秀吉は、三法師のいま1人の後見人として、信孝の兄である信雄を推薦し、認めさせました。
同時に、秀吉は畿内を押さえた自分に不満を持つ勝家に配慮して、自身の拠点であった近江長浜を譲る事で矛先をかわしていました。
さて、話の核心に入りますが・・・
秀吉はかなり前から、お市の方に想いを寄せていたといわれています(本当かどうかわかりませんが・・・)
しかし、市母子の妻であり父であった浅井長政を直接滅ぼした武将であった事もあり、母子からは激しい憎悪の対象だった筈です。
本能寺の変以降、秀吉にとって、何が最重要課題だったのでしょうか?
それは信長の後継者として、天下統一を成し遂げる以外にはあり得ない!
その為には、お市への思慕の想いを断ち切る事位は比較的、たやすかったのではないかと思います。
むしろ、当面のライバルであり、大きな障害となる勝家に市を嫁がせる事によって、彼の武将としての牙を抜かせるという「傾国の美女作戦」を考えたとしたら・・・
あくまでも、これはタケ海舟の勝手な推測です・・・
しかし、生涯戦場に身を置き、信長への忠義一筋に生きてきた勝家にとって、思いかけずに得た家族という絆は、彼にとっては、かけがえのない物となった反面、身を滅ぼす原因ともなった可能性は否めないと思います。
時の勢いといえばそれまでかもしれませんが、攻勢という流れに乗っていた秀吉と、守勢という流れに吞まれてしまった勝家とは、残酷な位、明暗が分かれてしまったのかもしれませんね・・・
本日はここまでにしたいと思います![]()
[ 2011年03月23日08時16分49秒 ]
江(第10回)別れを見て(その1)
地震で中断となっていた「江」が再開されました。
三姉妹と母市との別れという重大な局面が描かれていました。
市は、10年前の小落城とは異なり、夫勝家との自刃を選びます。
茶々が胸騒ぎがすると言っていた意味は、勝家の敗北ばかりではなく、母との別れという予感があったのですね・・・
市としては、最早、織田家の中に自分の戻る場所はない、秀吉の下で側室となるよりは、死を選ぶ事によって、織田家の女性としての誇りを全うしたいと思ったのでしょう。(この誇りという気持ちは、後の茶々にも受け継がれます)
10年前とは違い、娘たちも成長している。秀吉は確かに憎い男だが、信長の後継者になる事が確実となった彼に娘たちを預ける事が、将来の為に良いという冷静な選択もあった筈です。
そして、何よりも彼女自身、自分が心から愛した浅井長政と、短いながらも自分や娘たちに安らぎを与えてくれた勝家に殉じたいという想いが大きかったと思います。
次回は、秀吉からの視点で、市と勝家の結婚と織田家後継者争いについて眺めていきたいと思います![]()
[ 2011年03月21日05時58分08秒 ]
熟慮と決断
連日の地震と原発報道が気になり、仕事がなかなか手につきません・・・
昨夜も外に出ていたら、静岡沖で結構、大きな地震がありました。
タケ海舟には社会人成り立ての頃、仲の良かった友人がいます。現在彼は、松本に単身赴任をしています。
つい先日、長野北部や松本市が震源の地震があり、大変心配していたのですが、メールや電話が幸い、すぐに
つながり、ほっとしています。
そんな心配な日々の中、ある雑誌のページに、徳川家康が話したといわれる言葉が掲載されていました。
「決断は実のところ、そんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である」
徳川家康は75年の生涯の中で、実に多くの難しい決断をして来ました。決断する事によって、自分はもちろん家臣やその家族、さらに範囲を広げると、日本の行く末を決めるという重い責任を背負い込んだ筈です。
それだけでも、とても大変だと思いますが、その決断に至るまでのあらゆる選択肢を考え、最善の方法を意思決定する方が、遙かに難しいと家康は言っています。
タケ海舟が家康と同じ立場だったら・・・考え過ぎてとても、決断が出来ないと思います。(たとえ、熟慮する時間がたっぷり、あったとしても)
お話が前後しますが、福島原発の放射能漏れを防ぐ為、東京電力の皆様を始め、関係者の方々が懸命の努力を続けています。被曝という危険と隣り合わせの中、刻々と変わる状況に対して、限られた熟慮時間の中で最善の方策を考え、実行に移している・・・
ただ、見守る事しかできないのですが・・・
皆さんの献身的な働きが、報われる事を願っております。
[ 2011年03月16日16時58分39秒 ]
大地震
先週末に発生した東北地方太平洋沖大地震・・・
連日の報道で東日本太平洋側沿岸は、大変な事になっています。
大津波で、町がそっくり消えてしまった所もあるみたいです。
また、福島原発の事故も果たして、今現在、何が起きているのか?
地震から3日経過しましたが、まだ被害状況が把握できない被災地域もあるみたいです。
今朝のラジオで、被災地から盛岡まで救援を訴えに来られた方の悲痛な声が流れていました・・・
食料も水も絶対的に足りないみたいです。
名古屋に住んでいる自分に今、できる事は、電気の消費量を少しでも抑えるための節電と、余震に備えた準備ぐらいしかありません。
とにかく、被災地の皆様の生活が、1日でも早く復旧する事を祈っています。
[ 2011年03月14日16時10分51秒 ]
慶勝さんと松平春嶽さん(その1)
幕末政治に関わった様々な人たちの政治姿勢は、非常に複雑な物でした![]()
ペリー来航の折、対応を巡って様々な意見が出されました![]()
大きく分けると、開国か鎖国という対照軸があったのですが
開国賛成意見の中には、通商賛成派と通商には賛成だが、戦争には反対という2つの流れがありました![]()
同時に、開国反対(鎖国)のそれも、主戦論と避戦論という流れがありました![]()
この当時、幕末雄藩として名を残す事になる諸藩がどのようなスタンスに立っていたのかは後の機会に触れたいと思いますが、慶勝さんは、開国反対避戦論を主張しましたが、幕府首脳は当面、開国容認避戦論に決し、和親条約が締結されました![]()
慶勝さんは、尊王思想の観点から、幕府が朝廷の勅許を得ずに和親条約締結に踏み切った事に激怒し、以後、強硬に朝廷の勅許を得る事を主張し続けます![]()
幕府と御三家との間の亀裂を危惧した、越前藩主松平春嶽さんは、慶勝さんに御三家筆頭という本来の使命に立ち戻り幕府政治路線への理解と協力をする様、説得をしました
しかし、慶勝さんは、なかなか首を縦には振りませんでした![]()
その内、幕府首脳部は阿部正弘さんに代わって、西洋事情に詳しい蘭癖(らんぺき)大名といわれた堀田正睦(まさよし)さんが筆頭老中に就任しました
(ちなみに阿部さんは次席老中として、内政専任となり外国応接に関しては堀田さんの専管事項となりました)
和親条約締結を巡って阿部さんは、広く意見を募るという前代未聞の方法を取りました![]()
この事は決して、間違っていなかったのですが、長らく惰眠を貪っていた「眠れる獅子」を起こす事になってしまいました![]()
眠れる獅子とは・・・
すばり朝廷の事です![]()
幕府は、今回のペリー来航の件を最初に朝廷に奏上しました(これ自体異例
)
この事は朝廷の権威が再び高まるきっかけとなりました![]()
天下の政事は徳川幕府が行っているが、それは朝廷(天子)より委任をされているに過ぎない![]()
ところが、幕府は大変な国難が起きているのにも関わらず、朝廷の意向も伺わず、勝手に国事を専断している![]()
誠にけしからん![]()
という訳です・・・
慶勝さんも同意見でした![]()
和親条約締結後の次なる外交問題は、本格化する通商条約に関する交渉でした![]()
アメリカのタウンゼント・ハリスが、総領事として下田に着任。早く日本側に交渉のテーブルに就く様、連日矢のような催促が江戸に届いていました![]()
そこで幕府は、ハリスとの交渉を始める前に、和親条約締結の勅許を得るべく、堀田老中を上洛させる事になりました![]()
ここで、慶勝さんが主張していた開国反対(攘夷)・勅許優先の一方が、実行に移される事になりました![]()
しかし、幕府の開国路線については、慶勝さんは断固反対の姿勢を崩しませんでした![]()
開国派の春嶽さんは引き続き、慶勝さんの説得を続けます![]()
その辺りについては次回にさせていただます![]()
[ 2011年03月10日10時13分46秒 ]
怒れる慶勝さん
さてさて![]()
慶勝さんが、開国反対を唱えたのにもかかわらず、幕府は3代将軍家光以来の鎖国に終止符を打つ事になりました![]()
これに猛然と抗議した慶勝さん![]()
![]()
阿部正弘老中と江戸城で面談し、朝廷の許可を得ずに、日米和親条約を締結した事について厳しく詰問しました![]()
この時、慶勝さんは阿部さんに10カ条の詰問状を提出しています![]()
その中で、慶勝さんは、国家を揺るがしかねない大事件に直面して、わざわざ、慣例を破って、諸大名や朝廷への意見聴集を行った。アメリカとは和親を結ばない事を決めたのにも拘わらず、幕府が天子に奏上もせずに、勝手に鎖国を放棄するとは言語道断である。まずは、朝廷に交渉の顛末を報告すべきである
その上で、軍艦建造や大砲製造を急ぎ、海防を早急に強化しなければならない
と提言しています![]()
慶勝さんの意見は多分に尾張藩祖義直さんの尊王思想の影響を受けていると思います。彼は、水戸徳川家の血筋も受け継いでいました。水戸藩は2代藩主光圀さん以来、尊王思想の総本山でした
慶勝さんの尊王崇拝は、筋金入りでした![]()
しかし阿部老中(彼は、慶勝さんを宥めたと思いますが)始め、幕府首脳は、「日本の政事(まつりごと)は朝廷ではなく、武家政権である徳川幕府が担っている。したがって、意見はお聞きしたが、最終決定について朝廷の意向を伺う必要はない」という判断でした![]()
こうした考えが背景にあった為、幕府方針と合わない御三家筆頭尾張徳川家の意見は、あまり取り上げられなかったみたいです
当然、慶勝さんは不満を持つ訳ですし、幕府との関係は以後、ギクシャクした物になってしまいました![]()
こうした状況を憂慮したのか、慶勝と親交のあった越前藩の松平春嶽は、両者の仲裁に奔走しています![]()
ちなみに、慶勝さんが指摘した和親条約締結に関しての朝廷への経過報告。さらに、その後に当然、問題となる通商条約に対する朝廷からの勅許を巡って、幕末政局は紛糾する事になります![]()
次回はその事について、慶勝さんと春嶽さんの動きを中心にお話します![]()
[ 2011年03月08日09時58分55秒 ]
「江~姫たちの戦国~」第8回~9回を見て
さて、江のドラマですが、トヨエツ信長が本能寺の変で亡くなってから、視聴率が20%を切ってしまい、先行きが懸念されていました![]()
そこがこの2回程ですが、20%を回復し、やや挽回の兆しが出て来ました![]()
タケ海舟が考えた、視聴率持ち直しの原因ですが、やはり、江の「初めてのお父さん」を好演してる大地康雄さんの柴田勝家だと思っています
(皆様はどう思いますか
)
ドラマでは、不器用ながらも一生懸命三姉妹の父親になろうと懸命に努力しながらも、相手にされず・・・(この辺りのシーンは、面白くもありかつ、気の毒でもありましたが)動けば動くだけ、カラ回りという感じでしたが、ある日、遠乗りに出かけた江が、行方不明になって帰って来た時、彼女を殴り飛ばして以来、縁有って、ともに暮らす事になった4人(勝家夫人になったお市も含めて)に家族の絆が生まれるという展開でした![]()
ところで、柴田勝家という人物は、織田信長の筆頭重臣で、鬼柴田と呼ばれる程の豪傑という事がよく知られています
豊臣秀吉(この時期は羽柴姓ですが)との折り合いが悪く、後に秀吉に滅ぼされるという事もあり、秀吉の敵役というイメージが強くあったと思います![]()
しかし、最近では大河ドラマ「利家とまつ」で松健が勝家を演じた事もあり、義理人情に厚く、織田家中でも信望の高い魅力的な人物に描かれる様になったと思います![]()
今回の大地さん演じる勝家は、イメージ的には鬼瓦(秀吉は事ある度に、こう言ってますが・・・)ですが、本当は心の優しい人物像を演じています
タケ海舟が個人的にぐっと来たシーンは、お市にもう少し、娘たちに対して父親らしく威厳を持って接してほしいといわれた時、お市に対して、「ほんの少しでもいいので、自分を好いて欲しい
」と控え目に告白した所でした![]()
この時、お市は娘達ばかりに、勝家を父と思えと強要する前に、自分が心から勝家の妻にならなければ、何も事態は進展しない事に初めて、気が付くのですね
織田家を秀吉から守る為に、勝家に嫁いだ事にのみ気持ちが集中してしまい、肝心の勝家の気持にまで配慮が行かなかった訳です![]()
秀吉はお市の事を好きだ好きだ
と愛妻のおねの前でも平気で話します。一方の勝家は、かなり前から(ドラマの中ではその様に感じます)お市に気持ちを寄せていたのだと思いますが、その想いを人に話す事はなかったのでしょう![]()
しかし、本能寺の変という大事件は、思いもかけぬ即席の夫婦と家族を作ってしまいました![]()
そして、作為的に作られた家族が、本当の家族として仲良く過ごす事になるのですから![]()
歴史とは本当に魅力的だと思います![]()
しかし、この束の間の幸福もあっという間に終わってしまいます![]()
![]()
それが次週の第10回ですね・・・
楽しみにしたいと思います![]()
[ 2011年03月07日18時07分51秒 ]
江(ごう)姫たちの戦国 第7回を見て(その3)
番組は先週第8回が放映されたにもかかわらず・・・
まだ、第7回の話をしているタケ海舟です![]()
もうそろそろ清州会議の話をまとめないといけませんね![]()
前回お話した秀吉の事前根回しとは・・・
ズバリ![]()
丹羽長秀(にわながひで)の懐柔でした![]()
織田家5大方面軍団長といえば・・・(この呼び方、結構知られていると思いますが
)
柴田勝家(北陸方面軍)
滝川一益(たきがわかずます)(関東方面軍)
羽柴秀吉(中国方面軍)
明智光秀(近畿方面軍)
丹羽長秀(四国方面軍)←ただし、総大将は信長三男信孝だった。
この5人が挙げられます。丹羽長秀は柴田勝家と同じ、織田家譜代の重臣でした。信長の信頼も厚く、秘書的な仕事も担っていました。信長は相撲興行が好きな人で、その興行の段取り等を任せられていたのが長秀でした![]()
また、幻の名城 安土城の普請総責任者という大任も見事に勤めました![]()
彼は、米の五郎左(ごろうざ)とも呼ばれていました。つまり、米は人が生きていく上で欠かせない物であるのと同様、丹羽長秀は織田家中においては、目立たないが欠くことができない存在であるという意味であります![]()
人柄的にも誠実でかつ、堅実。戦での派手な手柄こそないけれど、陣中での大将に助言する補佐役という立場で力を発揮する智将というタイプでした![]()
ちなみに、秀吉の羽柴という苗字は、柴田勝家の柴と、長秀の羽の字を拝領したといわれています![]()
秀吉は清州会議に臨むにあたって、織田家中に人望が有る長秀を自らの陣営に引き込む事に成功しました![]()
長秀が清州会議に、どのような考えで出席したのかよくわかりませんが、彼の性格から、信長亡き後の織田家の情勢を鑑みて、逆賊明智光秀を討伐した秀吉に協力する事によって、織田家のこれ以上の混乱は避けるべきだと熟慮したのかもしれません![]()
したがって、会議で、秀吉と勝家が対立した時、彼が秀吉を支持した事が、会議の帰趨を決定付けたばかりか、秀吉による信長の天下統一事業の継続を容認するという、日本史上における重大な分水嶺になったといっても言い過ぎではないと思います![]()
こうして、清州会議は秀吉の一人舞台に終わりましたが、反秀吉派は信長の妹であるお市を勝家に嫁がせるという奇策に出ます。この策の発案者は、後継者になり損ねた信孝だったと言われています![]()
秀吉も孫氏の兵法曰く、勝ち過ぎが良くないと考えたのでしょうか![]()
両者の結婚については異議をはさむ事はしませんでした。のみならず、京都近くの播磨国や山城国を論功行賞で手中にした代わりに、それまでの居城だった長浜城を勝家に明け渡す等の妥協を行っています![]()
清州会議については以上にしたいと思います![]()
次回は、第8回についての感想を徒然草します![]()
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[ 2011年03月04日18時15分49秒 ]
龍馬暗殺犯と黒幕について(その2)
さて、龍馬暗殺の真相について![]()
「龍馬史」の著者 磯田道史氏は、龍馬暗殺に謎は無し![]()
と断言されています![]()
彼ほどの大物が殺害されたのだから、背後に余程の黒幕が存在しているに違いない![]()
龍馬ファンはもちろん、多くの歴史愛好家はそう考えたくなるでしょう![]()
しかし、明治維新を経て、今日まで、龍馬暗殺について、様々な証言が残され、実行犯については、京都見廻組である事が確実視されています![]()
磯田先生は、オーソドックスに考えて、黒幕は見廻組を監督していた、京都守護職の会津藩であると結論付けています![]()
実は、意外と知られていないのですが(少なくともタケ海舟は・・・)
見廻組頭の佐々木只三郎は、直参旗本なのですが、実は、会津藩士佐々木源八の三男でした![]()
(付け加えますと、同じ会津藩支配の新撰組は、下級武士、若しくは武士階級でなかった者達が構成メンバー。これに対して、見廻組は、直参旗本が中心。両組織はともに京都の治安維持と不逞浪士達の摘発が任務でしたが、互いにライバル意識むき出しで、関係はよくありませんでした
)
つまり、佐々木はもともと会津松平肥後守家中だったわけです。(松平肥後守とは京都守護職松平容保さん。この方は、尾張藩主徳川慶勝さんの異母弟です
)
戊辰戦争で官軍に降伏して後、赦免された見廻組隊士で、龍馬暗殺を証言した実行犯2名が、「暗殺指令は会津藩から見廻組に下された」と一致した話を残しています![]()
この命令系統については実に自然であり、疑問の余地はないと考えてます
(直属の上司から命令が来るのと同じ様なものですからね
)
そして、この命令系統の中で、ある重要な人物が浮かび上がって来ます![]()
先程来、佐々木只三郎さんは、会津藩出身であるとお話しましたが、彼の兄で京都会津藩の公用人という重職に就いていた人物で、手代木勝任(てしろぎかつとう)という人物がいました![]()
この手代木さんが明治37年(1904)に亡くなった時、家族に龍馬暗殺について驚くべき真相を言い残しました![]()
このお話については次回にいたします![]()
[ 2011年03月02日11時44分32秒 ]
慶勝さんと開国問題
久しぶりに、慶勝さんのお話をしたいと思います![]()
嘉永6年(1853)、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる艦隊が、突如浦賀沖に来航。開国通商を要求する事件が勃発しました![]()
老中筆頭阿部正弘さんは、この未曽有の国難への対策を練るにあたって、従来の慣例を破って、朝廷や諸大名はもちろん、広く一般庶民にも意見を募りました
(後の民主主義の始まりともいえるかも
)
御三家筆頭の慶勝さんは、このペリー来航について、事前に情報を得ていたみたいです![]()
阿部老中は、長崎出島のオランダ商館長から近いうちに、ペリーが開国を求めて日本に来るという情報を入手していました
事態を憂慮した阿部さんは、海外事情に詳しい薩摩藩の島津斉彬さんや御家門筆頭越前藩の松平春嶽さん等に、あらかじめ情報をリークして、意見聴取をしました。慶勝さんは嘉永5年(1852)に斉彬さんからペリーに関する情報を入手、それを伯父である水戸の斉昭さんに伝えていました![]()
同時に、西洋事情について研究を重ね、領内沿岸の防備を充実する為、大砲の鋳造やお台場(砲台)の建設を始めました![]()
ペリーの持参したアメリカ大統領の国書への対応を打診された慶勝さんは、「開国については、幕府祖法である鎖国を破る事になるので、反対である」 「アメリカとの戦争は避けるようにして、開国通商交渉を出来るだけ長引かせて、その間に当方の砲台や軍艦を建造して軍備を整える」という開国反対避戦論を展開しました![]()
多方面からの意見を吟味・分析した阿部正弘さんは、熟慮の末、開国やむなし・・・という結論に達しました![]()
(実際、長きにわたる泰平に慣れきってしまった武士たちに、まともな対応を求める自体、そもそも無理だった筈です
)
こうして、翌年の安政元年(1854)、再び来航したペリーとの間に、日米和親条約が締結されました![]()
この条約調印に対して、慶勝さんは、怒りを露わにします![]()
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この辺りの話は次回にしたいと思います![]()
[ 2011年03月01日16時59分34秒 ]
タケ海舟