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阿部正弘Ⅵ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年08月19日18時19分12秒 | コメントなし | トラックバックなし

連日の猛暑に少々熱中症気味のタケ海舟ですsad

さて、阿部伊勢守正弘殿のご先祖様のお話の続きconfident

徳川3代将軍家光に殉死した阿部重次の家はその後どうなったかsign02

岩槻藩主であった重次の後を継いだのは、長男の定高(さだたか)でしたconfidentこの時、定高は16歳だったのですが、万治2年(1659)に25歳の若さで亡くなってしまいましたcrying

名門阿部氏の嫡男ということなので、長く生きていたら、幕府の重役になっていた可能性があったかもしれませんdespair

定高には正邦(まさくに)という子供がいたのですが、定高死亡時、わずか2歳だったので、中継ぎとして定高の弟であった(つまり重次の次男)正春が岩槻第4代藩主となりました。兄である定高が岩槻藩を継承した時、正春は兄より1万6000石を分与されて分家独立したのですが、本家当主の若死で思いもがけず、本家の岩槻9万9000石が転がり込んで来ましたwink

しかしながら、この家督相続は一種のロングリリーフだったみたいで、正春は甥の正邦が成長したら岩槻の本領は返還する事を条件に藩主となったのが真相と思われますsign01

実際、岩槻藩士の中では正春の相続に不満を持っていた人たちも多く、家中の内紛が続いたみたいですdespair

周りの圧力にいたたまれなくなったのかは知りませんが、リリーフの家督継承から12年後の寛文11年(1671)、正春は兄の遺領である岩槻9万9000石と本家当主の座を甥の正邦(この時14歳)に譲り、自身は本来の領地である上総国大多喜藩に移りました(石高は元の1万6000石でした)

ちなみにその後の正春ですが、岩槻藩主を譲ってから30年以上後の元禄15年(1702)に三河国刈谷(現愛知県刈谷市)に移封されました。その後、宝永6年(1709)に家督を子供に譲って隠居。7年後の正徳6年(1716)に80歳で亡くなっています。当時としてはかなりの長命でしたねsign01徳川将軍の時代で言うと、3代家光、4代家綱、5代綱吉、6代家宣を経て7代家継の5人の将軍の時代を生きた人物という事になりますconfident

さて、ここからはタケ海舟の個人的な意見ですが、正春という人物は名門譜代阿部氏の危機を救った人物であったと考えています。なぜなら、家督を継いだ兄定高が若くして死去した時、後継者たるべき定高子の正邦はまだ2歳でありました。本来ならこの様な場合、幼少を理由に領地を減らされたり、重要地を任せるには荷が重いという事で他の場所に国替えになるケースが多く見受けられますdespair

しかし、阿部氏は正次・重次の2代に亘って重職を務めた功臣を輩出した家である事が考慮され、正邦の成長までという条件で、暫定的に分家の当主だった正春が岩槻城主を引き継いだわけです。もし、正春がいなかったら、阿部氏は幕府にとっての要地であった岩槻に留まることが出来たかどうかsign02疑問でありますcoldsweats01

先ほども触れましたが、岩槻藩の家中にはこの正春の一時的な岩槻藩主就任に対して不満を持っていたものが多く、正春の治世では家臣殺害事件も起きています。そういう点もマイナス要素として考えられていたのかはわかりませんが、古記録によると正春は「無学文盲で、財宝を求める事に汲々とした大名」という誠に厳しい評価を受けておりますcrying

でも、仮にその話が本当だとしても、本来藩主というマウンドに立つべき甥の正邦が成長するまで見事な中継ぎロングリリーフを務めたという点は十分評価に値するのではないでしょうかsign03

歴史とは、時としてその人物に対して、事実と異なる不当な評価を下す場合があります。今回取り上げた阿部正春についても同様な事がいえると思いますsign01

今回はここまでにしますsoon

 

 

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