August 2010
13代将軍家定の趣味は菓子作りだった!
幕末史を彩る人物とお菓子を巡るこぼれ話その2![]()
徳川13代将軍家定(いえさだ)は天璋院篤姫のご主人としても有名ですが、彼にはおよそ将軍らしからぬ非常に庶民的な趣味があったようです![]()
どうもこの将軍は、お菓子を作るのが大好きだったみたいで、饅頭やカステラ等を自分で作って家臣達にも与えていたといわれています
趣味が高じたかどうかはわかりませんが、お菓子のみならずイモを焼いた事もあったようで、幕末の四賢侯の一人で有名な越前(現在福井県)藩主の松平春嶽(しゅんがく)は家定の事を「イモ公方」とこっそり呼んでいました![]()
「幕末の大変な政局の中で、のんきにお菓子作りなどとんでもない
」と聡明な春嶽は思ったのでしょうが、タケ海舟はむしろ家定は繊細で温かい人ではなかったのかと考えています![]()
大河ドラマ篤姫の中で堺雅人演じる家定が、生母本寿院の為に豆を炒たり、煎餅を焼いたりするシーンが出てきた事を覚えている方もいらっしゃるのではないかと思いますが、このような事を自ら母の為に、恥ずかしがらずに普通にできる人は、本当親孝行だなと感じました![]()
家定は幼い頃から病弱で大変内気な性格であったといわれています。そんな家定は父である12代将軍家慶(いえよし)の子供の中で、唯一成人した男子でありました。病弱なわが子を何としても守りたいという母の願いは彼を13代将軍という至高の地位に就かせる事になりました。家定は本寿院への孝養を怠らなかったといわれています![]()
また、篤姫との結婚生活もわずか2年で終わってしまいますが、夫婦仲は極めて円満であったみたいです![]()
家定は篤姫にもお菓子を作ってあげたかもしれませんね![]()
そんな姿を思い浮かべると、とても癒される様な気がするのはタケ海舟だけでしょうか![]()
[ 2010年08月31日15時33分38秒 ]
阿部正弘Ⅵ
連日の猛暑に少々熱中症気味のタケ海舟です![]()
さて、阿部伊勢守正弘殿のご先祖様のお話の続き![]()
徳川3代将軍家光に殉死した阿部重次の家はその後どうなったか![]()
岩槻藩主であった重次の後を継いだのは、長男の定高(さだたか)でした
この時、定高は16歳だったのですが、万治2年(1659)に25歳の若さで亡くなってしまいました![]()
名門阿部氏の嫡男ということなので、長く生きていたら、幕府の重役になっていた可能性があったかもしれません![]()
定高には正邦(まさくに)という子供がいたのですが、定高死亡時、わずか2歳だったので、中継ぎとして定高の弟であった(つまり重次の次男)正春が岩槻第4代藩主となりました。兄である定高が岩槻藩を継承した時、正春は兄より1万6000石を分与されて分家独立したのですが、本家当主の若死で思いもがけず、本家の岩槻9万9000石が転がり込んで来ました![]()
しかしながら、この家督相続は一種のロングリリーフだったみたいで、正春は甥の正邦が成長したら岩槻の本領は返還する事を条件に藩主となったのが真相と思われます![]()
実際、岩槻藩士の中では正春の相続に不満を持っていた人たちも多く、家中の内紛が続いたみたいです![]()
周りの圧力にいたたまれなくなったのかは知りませんが、リリーフの家督継承から12年後の寛文11年(1671)、正春は兄の遺領である岩槻9万9000石と本家当主の座を甥の正邦(この時14歳)に譲り、自身は本来の領地である上総国大多喜藩に移りました(石高は元の1万6000石でした)
ちなみにその後の正春ですが、岩槻藩主を譲ってから30年以上後の元禄15年(1702)に三河国刈谷(現愛知県刈谷市)に移封されました。その後、宝永6年(1709)に家督を子供に譲って隠居。7年後の正徳6年(1716)に80歳で亡くなっています。当時としてはかなりの長命でしたね
徳川将軍の時代で言うと、3代家光、4代家綱、5代綱吉、6代家宣を経て7代家継の5人の将軍の時代を生きた人物という事になります![]()
さて、ここからはタケ海舟の個人的な意見ですが、正春という人物は名門譜代阿部氏の危機を救った人物であったと考えています。なぜなら、家督を継いだ兄定高が若くして死去した時、後継者たるべき定高子の正邦はまだ2歳でありました。本来ならこの様な場合、幼少を理由に領地を減らされたり、重要地を任せるには荷が重いという事で他の場所に国替えになるケースが多く見受けられます![]()
しかし、阿部氏は正次・重次の2代に亘って重職を務めた功臣を輩出した家である事が考慮され、正邦の成長までという条件で、暫定的に分家の当主だった正春が岩槻城主を引き継いだわけです。もし、正春がいなかったら、阿部氏は幕府にとっての要地であった岩槻に留まることが出来たかどうか
疑問であります![]()
先ほども触れましたが、岩槻藩の家中にはこの正春の一時的な岩槻藩主就任に対して不満を持っていたものが多く、正春の治世では家臣殺害事件も起きています。そういう点もマイナス要素として考えられていたのかはわかりませんが、古記録によると正春は「無学文盲で、財宝を求める事に汲々とした大名」という誠に厳しい評価を受けております![]()
でも、仮にその話が本当だとしても、本来藩主というマウンドに立つべき甥の正邦が成長するまで見事な中継ぎロングリリーフを務めたという点は十分評価に値するのではないでしょうか![]()
歴史とは、時としてその人物に対して、事実と異なる不当な評価を下す場合があります。今回取り上げた阿部正春についても同様な事がいえると思います![]()
今回はここまでにします![]()
[ 2010年08月19日18時19分12秒 ]
慶喜が大好きだったお菓子を再現
もう1か月以上前の新聞で、名古屋開府400年記念の「名古屋大茶会」で振舞われる和菓子の試作品が披露されたという記事を見かけました
(ちなみにタケ海舟は尾張名古屋の在住です
)
試作菓子を製造したのは、名古屋でも江戸時代からの由緒ある菓子屋さんの流れを汲む花桔梗さんですが、今回の菓子は、徳川幕府最後の将軍である慶喜が好んで食べたという「桃山」をモチーフにして作ったものだそうです![]()
表面には徳川将軍家のシンボルである「葵の紋」を焼印、寒梅粉や水あめ等で作った生地で包んだ白餡の甘さが、
お茶を引き立てるとの事です
(もっともタケ海舟は食べていませんのでよくわかりまんが・・・)
タケ海舟の会社のある名古屋市東区は長く続いている和菓子屋さんが4・5軒程営業しているのですが、その中の1軒の店主さんに、この「桃山」のお話を聞く機会がありました。どうやら、昔からの古い文献から当時の菓子の作り方や使用していた原料素材もわかるみたいです![]()
したがって、文献にあるレシピに従って当時の味をある程度、再現する事は可能ですが、なかには当時あっても現在は存在しない原材料もあるみたいなので、それとできるだけ近い物を使って作るのだという事です![]()
それにしても、昔の文献や古文書を参考にお菓子や料理を再現できるというのは、本当に喜ばしいことですね![]()
また、菓子とは違いますが、今名古屋で平成の市民普請として注目を浴びている「名古屋城本丸御殿」の復元工事も戦争で焼失を免れた当時の文献や絵等をもとに進めていますね
日本ばかりではないと思いますが、歴史は当時の人々が何を考え、何をしたのか。そして、後世の人たちがそれを評価するうえで、同時代の人が記録した文献や史料は本当に重要なんですね
先人たちの偉大な功績に感謝・感謝です![]()
冒頭にも述べました、名古屋開府400年記念名古屋大茶会は10月9日から11日の期間、名古屋城で
開催されます![]()
タケ海舟も是非、桃山とお茶を頂きに参上仕りたいと思います![]()
さて、次回は延び延びになってしまっている阿部正弘様のご先祖様列伝を復活させたいと思います![]()
[ 2010年08月12日17時33分31秒 ]
タケ海舟