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阿部正弘Ⅴ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年07月25日14時58分39秒 | コメントなし | トラックバックなし

少し更新が遅くなってしまいましたcoldsweats01

さて、阿部対馬守重次が3代将軍徳川家光に殉死した理由ですがdanger

一般的に知られているのは、家光の同母弟の駿河大納言忠長の自殺事件との関係です。

徳川忠長は2代将軍秀忠とその正室 江(ごう)との間に生まれました。2歳違いの兄に家光がいます。

忠長は、兄よりも母や父の愛情を強く受けていたみたいで、一時は3代将軍は忠長ではという噂もあったようです。

しかし、家光乳母の春日局の嘆願で、祖父家康の鶴の一声を以て、3代家光が誕生したといわれていますshine

その後、駿河(現在の静岡県東部)、甲斐(現在の山梨県)両国と遠江国(現在の静岡県西部)の1部で55万石の領主なりました。駿河国は祖父家康の晩年を過ごした地であり、家康死後は10男頼宣(よりのぶ)が治めていましたが、元和5年(1619)の安芸国広島城主福島正則(まさのり)の改易によって、紀州和歌山城主浅野氏が広島に転封となった折、秀忠は、弟の頼宣を和歌山に移し、代わって駿府に忠長を封じましたhappy01

駿河は江戸近くの東海道の要所でもあり、秀忠にとっては信頼できる自分の子供である忠長を配置したいと考えたのでしょうwink

しかしながら、忠長は寛永8年(1631)に不行跡と乱行を理由に甲斐国に蟄居を命じられます。更に、翌9年(1632)の秀忠の死後、改易となり、高崎の安藤重長(しげなが)にお預けとなりました。

なぜ、この様な顛末になったかは、よくわかりませんが、3代将軍を巡る兄家光との確執が長じてからも尾を引いていた事は十分、推測できます。本人達同士の軋轢はもちろんですが、家光を支えている老臣達が忠長に対する過剰な警戒心を抱いていた事も理由として挙げられます。同時に忠長にとって不運だったのは、良き庇護者であった母お江が既に他界していたという事でした。(決定的だったのは父秀忠の死だと思いますが・・・)

さて、阿部重次は、忠長の自殺にどの様な関わりを持っていたのでしょうかsign02

「寛政重修家譜」によると、寛永10年(1633)に重次は忠長が当時、幽閉されていた上野国高崎(今の群馬県高崎市)に赴き、高崎城主安藤重長と会談したと記録されています。詳しい経緯は記されていませんが、この直後に起きた、忠長の死と何か関連があった事は明らかです。

この時の状況を詳しく述べた史料として、徳川将軍家の正式な記録である「徳川実紀」の中で、重次は殉死を決意した理由を同僚の老臣達に述べていますsign01

「自分が殉死を決意したのはもう、何年か前のことでる。上様(家光)御世最初の駿河殿(忠長)の事件の時、自分は密命を帯びて、高崎に行った。この密命とは、高崎城主安藤重長殿と協議して忠長殿に自害を勧告する事であった。この折、家光様より、『もし、重長がこの指示に従う事を拒否した場合は、汝はどのように対処するつもりか?」と尋ねられたが自分は、『その時は自分が一命を以て、密旨の事を取り計らいましょう。』と決意を述べた。」

実際、密命を受けた重長は難色を示し(将軍の弟君を自殺させるなんてとんでもないですよね・・・)家光に再考を求めたみたいですが(これ以前にも、重長は忠長の助命嘆願を何度もしてます)家光の強い決意を背景にした重次の説得を受け、遂に密命を承諾しました。重長は、忠長が幽閉されている屋敷の周辺を囲っている垣根の数を更に、増やして警戒を厳重にしました。

その様子を見た忠長は、自分の命運を悟ったのが、直ちに自害したといわれていますweep

「この時を以て、自分の命は家光様に差し上げた。一度、命を捧げた主君が亡くなったのに、どうして命永らえる事ができるのか?どうか、皆様は私の殉死を許して頂き、御遺命を遵守して、新将軍(4代将軍家綱)を補佐して頂く様、お願い申上げます。」と述べたと言われています。

この話を聞いた老臣達は皆、感泣したといわれています。そして、重次は同じく、家光に殉死する決意をした堀田正盛とともに、手に手を取って退出し、泉下にいる家光の許での再会を約し、城門を出て、その夜の内にそれぞれの屋敷で追い腹を切りましたcrying

以上重次の殉死について、見て来ましたが、主命だとは言え、もたらした結果が将軍の弟の死という重大な物であった事。そして以後、重次は6人衆、老臣(後の老中)として出世の階段を昇って行きましたが、この事件は重次の人生の上で大きな出来事となったのでしょう・・・その結果が殉死という道を選ばせたのではないかと思われます。

同時に、この様な余人には命じる事が出来ない特命事項を、自分を信頼して任せてくれた主君家光の気持に応える道・・・即ち、殉死という決断をしたと思いますcrying

重次のお話はここまでにしたいと思います。confident

ところで、お話は少し横道に逸れますが、重次と一緒に殉死した堀田正盛と、忠長事件で心ならずも引導を渡す役回りを引き受けてしまった安藤重長は、ある事で共通点がありますdanger

正盛の子孫が堀田正睦(まさよし)。重長の子孫が安藤信正(のぶまさ)。

重次の子孫である阿部正弘(本題の主役)を含めて、幕末の徳川政権を担った3人のご先祖様が皆、約200年前に起きた徳川幕府の大事件に関与していたのですsign01

偶然だとはいえ、不思議な因縁を感じますsign03

次回は、少し駆け足で、重次以降~正弘の父正精(まさきよ)までの阿部氏歴代について見て行きたいと思いますsoon

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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