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阿部正弘Ⅳ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年07月07日17時41分57秒 | 1 コメント | トラックバックなし

今回は、阿部重次について語っていきたいと思いますhappy01

重次は慶長3年(1598)阿部正次の次男として誕生。母は佐原義成の娘。同母兄に5歳年長の政澄がいます。母の実家で叔父である三浦重成(しげなり)の婿養子となり、三浦重次と名乗りますが、重次に実子が誕生した為、別家を立てました。

ところが、実家の兄で阿部家の嫡男だった政澄が寛永5年(1628)に早世した結果、阿部家に戻り正式に世子となりました。重次30歳の時の出来事でしたhappy01

重次はまだ三浦氏の頃、秀忠の側近、家光の小姓を経て、寛永9年(1632)には小姓組番頭となります。小姓は、主君の日常生活を補佐する役で、小姓組番頭は主君を警護する近衛部隊の隊長に相当する役目であり、文字通り、家光の側近として仕えました。しかしながら重次は、家光子飼いの側近である従兄弟の忠秋や、知恵伊豆(ちえいず)と称された松平信綱(のぶつな)と異なり、譜代大名阿部氏本家の嫡男という格式で奉公しました。前述の通り、父正次は、大坂城代の重責を担っており、彼自身も、近い将来、徳川幕府の政権運営に携わる事が期待されていたものと思われます。wink

寛永9年(1632)という年は、大御所であった秀忠の死去に伴い、10年近く続いた家光との2頭体制が解消され、30歳を迎えた家光に幕府権力が集中された時期になりますdelicious

この年、前述の松平信綱が家光より「宿老並にご奉公せよ!」という命を受け、秀忠時代より老職という補佐役であった土井利勝(としかつ)、酒井忠世(ただよ)、忠勝(ただかつ)と同じ立場で仕える事になりましたwink

そして翌寛永10年(1633)に家光は新たな人事を発令しますsign01

阿部重次、同忠秋、松平信綱、堀田正盛(まさもり)、太田資宗(すけむね)、三浦正次(まさつぐ)を6人衆(後の江戸幕府の職制の1つとなった若年寄の起源)に任命し「それほど、大きくない案件については、6人合議して決めるように!」という内命の下、以後彼らは幕府の政策決定に徐々に、関与していきます。つまり、前代の老職(老中の原型)の後任として見習の期間を与えられたという事になります。同年、忠秋と正盛は「信綱並に奉公せよ!」という仰せの下、見習期間を修了しましたwink

信綱・忠秋・正盛の3名は、幼少の頃から、家光の小姓として仕えている為、必然、お気に入りの家臣という事で、先にトップチームに昇格するのは当然といえば当然かもしれませんhappy01

一方、秀忠以来の老職の方は、まず、酒井忠世が寛永11年(1634)の家光京都上洛時の江戸城西の丸火災の責任を取って、事実上、第1線から退き、(忠世はこの時江戸城の留守を預かる責任者でした)残った、土井利勝と酒井忠勝は寛永15年(1638)に日常の煩雑な政務は免除され、以後は重要事項のみ参画するという事になりました。

この時を以て、幕府運営の中心は、家光とその側近たちに委ねられましたscissors

さて、重次にとっても寛永15年は画期的な年になりました。まずは大坂城であった父正次の所領のうち、4万7000石が与えられ、既に自身が領していた分と合わせて都合、5万9000石余となり、正式に岩槻城主となりました。(大坂城代の正次は、赴任時に摂津内で加増された3万石を以て、任務を遂行)

そして、同年、土井・酒井両年寄の勇退を受けて、新たに老職を拝命する事になりましたhappy01任命にあたり、家光は重次と従兄弟の忠秋に対して「両名は親類同士だが、2人で談合して信綱に対して良くない事を企んだら容赦しないぞ!」といって戒めています。この時点で堀田正盛が家光の私的生活の補佐に専念する為に、老職を辞任しており、老職は両阿部と信綱の3人体制になっていました。家光としては、老職を阿部家から2人同時に出すという事態を考慮して重次と忠秋にこのような訓戒をしたものと思われますdanger

正保4年(1647)に大坂において、父正次が死去。父の危篤を知った重次は、家光の命により大坂に急行。その最期を見届ける事ができました(家光の優しさが伺えます)

慶安元年(1648)に父の遺領3万石を関東内で加増され、9万9000石の領主となります。同年に丹波国(現在の京都府中部と兵庫県一部)福知山(現在の京都府福知山市)藩主稲葉紀通(のりみち)が領内で騒動を起こした折には、近隣大名に適切な警戒態勢を命じ事なきを得ましたdanger

ちなみに阿部家の事ですが、本家は重次で、忠秋は分家になります。本稿の主役である正弘は本家である重次の子孫になります。また、重次の官は、最初山城守でしたが、老職就任後は対馬守に改めます。ちなみに、父正次は備後守。忠秋は豊後守を名乗っています。

この様に重次は、家光補佐の老職としてその治世を支えて来ました。家光の側近は、幼少の頃から彼との繋がりが深い人が多く、重次はどちらかといえば、2代将軍秀忠系の人脈に連なる人物だったと思われます。しかしながら、この様に重用されたのは、譜代家臣である阿部氏の嫡流として、将軍家に奉仕する最も相応しい人物であったと認められていたのではないでしょうか?また、父正次の家康→秀忠→家光3代に亘る並々ならぬ忠勤ぶりも評価の対象となっていたのでしょう。しかしながら、何よりも大きかったのは、彼自身の器量が将軍の輔弼の大任に十分、堪えうるものであったという事だったのでしょうhappy01

後世の評判でも、「地味な存在であったが、よく家光を内側から支え、忠義を尽くした臣だった」と語り継がれています。

以上、重次の人生について一通り、見て来ました。ただ、1つの事を除いてですが・・・

 

御存じの方も多いかと思いますが、慶安4年(1651)4月20日に家光が死去した時、重次は殉死を遂げました。享年53才でしたcrying

殉死とは主人が亡くなった時に、あの世でも主人に仕えるために、自殺してお供をすることです。江戸時代の初めには主人の後を追って殉死する事例が多く。あまりにも多いため幕府は後、殉死を禁止するする法令を出す事になりましたdespair

重次の場合もそのような世相を反映した出来事でしたが、なぜ、彼は家光に殉死したのでしょうかsign02

次回は重次殉死の真相についてお話したいと思いますsoon

 

 

 

 

 

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1 Comment

先日の納涼会でお世話になりました
SOZOSの神野です。

幕末ブログ、大変、おもろしく拝読させていただきました。
知らないことばかりでしたが、
文章がお上手なので、ぐいぐい引き込まれ、
歴史上の人物が身近に感じられました!!

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