July 2010
ブログ名とハンドルネーム変更のお知らせ
ここで、突然の報告ですが
この度、ブログ名とハンドルネームを変更いたしました。
6月からこのブログを始めましたが、タイトルを一見して何のテーマでブログをやっているのかわからない
という
ご指摘を親しい方から頂きました。
そこで、いろいろと考えてみた結果がこのタイトルです
「末期徳川政権を支えた重鎮たちの幕末維新史~氷川の大法螺吹き奇譚~」
大河ドラマ龍馬伝の影響もあって、幕末維新物を扱った本が沢山出ています。私も最近は週末に地元の図書館に行って幕末関係の本を探しては、このブログの題材についていろいろと勉強しております。
その過程で気づいたのですが、幕末維新は従来、江戸幕府(すなわち徳川政権)を倒した西南雄藩(いわゆる薩摩、長州藩)を主役とした物が主流を占めていましたが、最近は倒された側。つまり、幕府側に位置していた人物をテーマにした物も多くなりました。一般に「勝てば官軍。負ければ賊軍。」で最終的に体制側として不動の立場を占めた側が自分たちに都合の良い歴史を後の世に残すというのが、現在私たちが学んだ歴史であり、敗者(この場合は徳川に味方した人たち)については、必要以上に歪曲され、正当な評価をされなかったのが現実でした![]()
すでに申し上げましたが、私のブログテーマはその敗者に該当する幕末徳川政権を担った人々の事績について考える事です。したがって、このタイトルの方がブログを見てくださる皆さんにもわかりやすいのではと考えています![]()
また、副題ですが幕末維新において、江戸総攻撃という最悪、天下大乱という国体が崩壊しかねないギリギリの状況の中、良く、日本の危機を救った幕臣勝海舟をモデルにしました。明治維新後、勝は明治政府に勤務していた一時期を除いて、後の生涯の大半を東京の氷川(ひかわ)で過ごしました。そこで、有名な「氷川清話」を始め、幕末維新の回顧録を多く書き残しています。明治政府に対して、徳川慶喜の赦免を働きかける運動や維新により生活に困窮した旧幕臣たちの援助に力を尽くす傍ら、在野の論客として活躍していました。しかしながら、勝のある意味大風呂敷的な論調を理解できない多くのジャーナリストたちからは、「氷川の大法螺吹き」となじられていました![]()
そこで、この偉大な氷川の先達を目標に、思う存分、このブログで法螺を吹いてみようかなと?と思い、副題といたしました。そうなるとやはり、ハンドルネームもタケ海舟にしないといけませんね![]()
以上の様な理由で、変更を行いました![]()
加えて、内容についても、政治史ばかりではなく、タケ海舟がお菓子に係る会社に勤務しておりますので、例えばあの幕末の大物は、どんなお菓子が好きだった等というこぼれ話的な事も、できるだけご紹介させて頂きたいと思います。
それではよろしくお願います![]()
[ 2010年07月31日09時02分44秒 ]
阿部正弘Ⅴ
少し更新が遅くなってしまいました![]()
さて、阿部対馬守重次が3代将軍徳川家光に殉死した理由ですが![]()
一般的に知られているのは、家光の同母弟の駿河大納言忠長の自殺事件との関係です。
徳川忠長は2代将軍秀忠とその正室 江(ごう)との間に生まれました。2歳違いの兄に家光がいます。
忠長は、兄よりも母や父の愛情を強く受けていたみたいで、一時は3代将軍は忠長ではという噂もあったようです。
しかし、家光乳母の春日局の嘆願で、祖父家康の鶴の一声を以て、3代家光が誕生したといわれています![]()
その後、駿河(現在の静岡県東部)、甲斐(現在の山梨県)両国と遠江国(現在の静岡県西部)の1部で55万石の領主なりました。駿河国は祖父家康の晩年を過ごした地であり、家康死後は10男頼宣(よりのぶ)が治めていましたが、元和5年(1619)の安芸国広島城主福島正則(まさのり)の改易によって、紀州和歌山城主浅野氏が広島に転封となった折、秀忠は、弟の頼宣を和歌山に移し、代わって駿府に忠長を封じました![]()
駿河は江戸近くの東海道の要所でもあり、秀忠にとっては信頼できる自分の子供である忠長を配置したいと考えたのでしょう![]()
しかしながら、忠長は寛永8年(1631)に不行跡と乱行を理由に甲斐国に蟄居を命じられます。更に、翌9年(1632)の秀忠の死後、改易となり、高崎の安藤重長(しげなが)にお預けとなりました。
なぜ、この様な顛末になったかは、よくわかりませんが、3代将軍を巡る兄家光との確執が長じてからも尾を引いていた事は十分、推測できます。本人達同士の軋轢はもちろんですが、家光を支えている老臣達が忠長に対する過剰な警戒心を抱いていた事も理由として挙げられます。同時に忠長にとって不運だったのは、良き庇護者であった母お江が既に他界していたという事でした。(決定的だったのは父秀忠の死だと思いますが・・・)
さて、阿部重次は、忠長の自殺にどの様な関わりを持っていたのでしょうか![]()
「寛政重修家譜」によると、寛永10年(1633)に重次は忠長が当時、幽閉されていた上野国高崎(今の群馬県高崎市)に赴き、高崎城主安藤重長と会談したと記録されています。詳しい経緯は記されていませんが、この直後に起きた、忠長の死と何か関連があった事は明らかです。
この時の状況を詳しく述べた史料として、徳川将軍家の正式な記録である「徳川実紀」の中で、重次は殉死を決意した理由を同僚の老臣達に述べています![]()
「自分が殉死を決意したのはもう、何年か前のことでる。上様(家光)御世最初の駿河殿(忠長)の事件の時、自分は密命を帯びて、高崎に行った。この密命とは、高崎城主安藤重長殿と協議して忠長殿に自害を勧告する事であった。この折、家光様より、『もし、重長がこの指示に従う事を拒否した場合は、汝はどのように対処するつもりか?」と尋ねられたが自分は、『その時は自分が一命を以て、密旨の事を取り計らいましょう。』と決意を述べた。」
実際、密命を受けた重長は難色を示し(将軍の弟君を自殺させるなんてとんでもないですよね・・・)家光に再考を求めたみたいですが(これ以前にも、重長は忠長の助命嘆願を何度もしてます)家光の強い決意を背景にした重次の説得を受け、遂に密命を承諾しました。重長は、忠長が幽閉されている屋敷の周辺を囲っている垣根の数を更に、増やして警戒を厳重にしました。
その様子を見た忠長は、自分の命運を悟ったのが、直ちに自害したといわれています![]()
「この時を以て、自分の命は家光様に差し上げた。一度、命を捧げた主君が亡くなったのに、どうして命永らえる事ができるのか?どうか、皆様は私の殉死を許して頂き、御遺命を遵守して、新将軍(4代将軍家綱)を補佐して頂く様、お願い申上げます。」と述べたと言われています。
この話を聞いた老臣達は皆、感泣したといわれています。そして、重次は同じく、家光に殉死する決意をした堀田正盛とともに、手に手を取って退出し、泉下にいる家光の許での再会を約し、城門を出て、その夜の内にそれぞれの屋敷で追い腹を切りました![]()
以上重次の殉死について、見て来ましたが、主命だとは言え、もたらした結果が将軍の弟の死という重大な物であった事。そして以後、重次は6人衆、老臣(後の老中)として出世の階段を昇って行きましたが、この事件は重次の人生の上で大きな出来事となったのでしょう・・・その結果が殉死という道を選ばせたのではないかと思われます。
同時に、この様な余人には命じる事が出来ない特命事項を、自分を信頼して任せてくれた主君家光の気持に応える道・・・即ち、殉死という決断をしたと思います![]()
重次のお話はここまでにしたいと思います。![]()
ところで、お話は少し横道に逸れますが、重次と一緒に殉死した堀田正盛と、忠長事件で心ならずも引導を渡す役回りを引き受けてしまった安藤重長は、ある事で共通点があります![]()
正盛の子孫が堀田正睦(まさよし)。重長の子孫が安藤信正(のぶまさ)。
重次の子孫である阿部正弘(本題の主役)を含めて、幕末の徳川政権を担った3人のご先祖様が皆、約200年前に起きた徳川幕府の大事件に関与していたのです![]()
偶然だとはいえ、不思議な因縁を感じます![]()
次回は、少し駆け足で、重次以降~正弘の父正精(まさきよ)までの阿部氏歴代について見て行きたいと思います![]()
[ 2010年07月25日14時58分39秒 ]
阿部正弘Ⅳ
今回は、阿部重次について語っていきたいと思います![]()
重次は慶長3年(1598)阿部正次の次男として誕生。母は佐原義成の娘。同母兄に5歳年長の政澄がいます。母の実家で叔父である三浦重成(しげなり)の婿養子となり、三浦重次と名乗りますが、重次に実子が誕生した為、別家を立てました。
ところが、実家の兄で阿部家の嫡男だった政澄が寛永5年(1628)に早世した結果、阿部家に戻り正式に世子となりました。重次30歳の時の出来事でした![]()
重次はまだ三浦氏の頃、秀忠の側近、家光の小姓を経て、寛永9年(1632)には小姓組番頭となります。小姓は、主君の日常生活を補佐する役で、小姓組番頭は主君を警護する近衛部隊の隊長に相当する役目であり、文字通り、家光の側近として仕えました。しかしながら重次は、家光子飼いの側近である従兄弟の忠秋や、知恵伊豆(ちえいず)と称された松平信綱(のぶつな)と異なり、譜代大名阿部氏本家の嫡男という格式で奉公しました。前述の通り、父正次は、大坂城代の重責を担っており、彼自身も、近い将来、徳川幕府の政権運営に携わる事が期待されていたものと思われます。![]()
寛永9年(1632)という年は、大御所であった秀忠の死去に伴い、10年近く続いた家光との2頭体制が解消され、30歳を迎えた家光に幕府権力が集中された時期になります![]()
この年、前述の松平信綱が家光より「宿老並にご奉公せよ!」という命を受け、秀忠時代より老職という補佐役であった土井利勝(としかつ)、酒井忠世(ただよ)、忠勝(ただかつ)と同じ立場で仕える事になりました![]()
そして翌寛永10年(1633)に家光は新たな人事を発令します![]()
阿部重次、同忠秋、松平信綱、堀田正盛(まさもり)、太田資宗(すけむね)、三浦正次(まさつぐ)を6人衆(後の江戸幕府の職制の1つとなった若年寄の起源)に任命し「それほど、大きくない案件については、6人合議して決めるように!」という内命の下、以後彼らは幕府の政策決定に徐々に、関与していきます。つまり、前代の老職(老中の原型)の後任として見習の期間を与えられたという事になります。同年、忠秋と正盛は「信綱並に奉公せよ!」という仰せの下、見習期間を修了しました![]()
信綱・忠秋・正盛の3名は、幼少の頃から、家光の小姓として仕えている為、必然、お気に入りの家臣という事で、先にトップチームに昇格するのは当然といえば当然かもしれません![]()
一方、秀忠以来の老職の方は、まず、酒井忠世が寛永11年(1634)の家光京都上洛時の江戸城西の丸火災の責任を取って、事実上、第1線から退き、(忠世はこの時江戸城の留守を預かる責任者でした)残った、土井利勝と酒井忠勝は寛永15年(1638)に日常の煩雑な政務は免除され、以後は重要事項のみ参画するという事になりました。
この時を以て、幕府運営の中心は、家光とその側近たちに委ねられました![]()
さて、重次にとっても寛永15年は画期的な年になりました。まずは大坂城であった父正次の所領のうち、4万7000石が与えられ、既に自身が領していた分と合わせて都合、5万9000石余となり、正式に岩槻城主となりました。(大坂城代の正次は、赴任時に摂津内で加増された3万石を以て、任務を遂行)
そして、同年、土井・酒井両年寄の勇退を受けて、新たに老職を拝命する事になりました
任命にあたり、家光は重次と従兄弟の忠秋に対して「両名は親類同士だが、2人で談合して信綱に対して良くない事を企んだら容赦しないぞ!」といって戒めています。この時点で堀田正盛が家光の私的生活の補佐に専念する為に、老職を辞任しており、老職は両阿部と信綱の3人体制になっていました。家光としては、老職を阿部家から2人同時に出すという事態を考慮して重次と忠秋にこのような訓戒をしたものと思われます![]()
正保4年(1647)に大坂において、父正次が死去。父の危篤を知った重次は、家光の命により大坂に急行。その最期を見届ける事ができました(家光の優しさが伺えます)
慶安元年(1648)に父の遺領3万石を関東内で加増され、9万9000石の領主となります。同年に丹波国(現在の京都府中部と兵庫県一部)福知山(現在の京都府福知山市)藩主稲葉紀通(のりみち)が領内で騒動を起こした折には、近隣大名に適切な警戒態勢を命じ事なきを得ました![]()
ちなみに阿部家の事ですが、本家は重次で、忠秋は分家になります。本稿の主役である正弘は本家である重次の子孫になります。また、重次の官は、最初山城守でしたが、老職就任後は対馬守に改めます。ちなみに、父正次は備後守。忠秋は豊後守を名乗っています。
この様に重次は、家光補佐の老職としてその治世を支えて来ました。家光の側近は、幼少の頃から彼との繋がりが深い人が多く、重次はどちらかといえば、2代将軍秀忠系の人脈に連なる人物だったと思われます。しかしながら、この様に重用されたのは、譜代家臣である阿部氏の嫡流として、将軍家に奉仕する最も相応しい人物であったと認められていたのではないでしょうか?また、父正次の家康→秀忠→家光3代に亘る並々ならぬ忠勤ぶりも評価の対象となっていたのでしょう。しかしながら、何よりも大きかったのは、彼自身の器量が将軍の輔弼の大任に十分、堪えうるものであったという事だったのでしょう![]()
後世の評判でも、「地味な存在であったが、よく家光を内側から支え、忠義を尽くした臣だった」と語り継がれています。
以上、重次の人生について一通り、見て来ました。ただ、1つの事を除いてですが・・・
御存じの方も多いかと思いますが、慶安4年(1651)4月20日に家光が死去した時、重次は殉死を遂げました。享年53才でした![]()
殉死とは主人が亡くなった時に、あの世でも主人に仕えるために、自殺してお供をすることです。江戸時代の初めには主人の後を追って殉死する事例が多く。あまりにも多いため幕府は後、殉死を禁止するする法令を出す事になりました![]()
重次の場合もそのような世相を反映した出来事でしたが、なぜ、彼は家光に殉死したのでしょうか![]()
次回は重次殉死の真相についてお話したいと思います![]()
[ 2010年07月07日17時41分57秒 ]
タケ海舟