阿部正弘のルーツを巡る旅の第3弾です![]()
といっても、いつまでも本題に入らないままという事も問題ですので、少々急ぎます![]()
寛永3年(1626)に、大坂城代という大役に任命された阿部正次ですが、当然、大坂への長期出張という事なので、本領の岩槻には長男の政澄(まさずみ)を残し、自身は家中を率いて大坂に赴任しました。また、この時、摂津国(現在の大阪府と兵庫県の1部)内で3万石を加増され、併せて、8万6000石を領する事になりました(ここまで来ると、譜代大名の中でも結構な大身ですね
)
この折、大御所である徳川秀忠は、正次に対して「大坂城の塀の裏に大砲を並べて民衆を驚かせて、威厳を示せ。」という指示を与えています。正次への期待と信頼の程が伺われます。この話から見ても、正次は秀忠系統の重臣であったと思われます。
大坂城代就任から12年後。寛永14年(1637)に九州で起きた島原の乱では、九州と江戸との連絡調整に努めました。この時、九州の諸大名が勝手に討伐軍を出す事を禁止する命令が発令されていましたが、正次は反乱の長期化を防ぐ事が先決という見地から、独断で彼らの出兵は便宜次第という指示を出したといわれています。この時、京都所司代であった板倉重宗との連携は実に見事で、動揺する京都・大坂の鎮撫に尽力した功績はいうまでもありませんでした![]()
同15年(1638)に知行の内、4万6000石を嫡子重次(しげつぐ)に。1万石を孫正能(まさよし)に分与。自身は、3万石を領しました。正次の長男であった政澄は家督相続前の寛永5年(1628)に早世してしまい、代わって、正次の妻の実家である三浦氏の養子となっていた重次が実家に戻り、嫡男となりました。若くして亡くなった政澄の子が正能です。
ちなみに彼は後に、叔父に当たる阿部忠秋(ただあき)の養子となり、4代将軍家綱(いえつな)の時に老中になっています
(養父である忠秋は家光・家綱2代に亘って長く老中を務めていました。家綱の時代には父子2代で老中の座を占めたという、誠に珍しい事例ですね)
一方の重次も、従弟の忠秋とともに、3代将軍家光の側近6人衆を皮切りに、将軍輔弼の臣である老中として、大きな役割を果たします。職制上では正次は、老中である息子や甥の配下という事になりますので、2人に対しては部下としての態度を取ったといわれています・・・
正次は大坂城代を務める事、実に22年間![]()
正保4年(1647)、現職のまま大坂城で79歳の生涯を閉じます。正次の病が重い事を知った家光が、子の重次を見舞いの使者として、大坂へ送りました。この時も、息子であっても将軍の使者という事なので、改まって平伏、対面の儀に及んだ正次は、大坂城から自邸への移動療養を勧める重次に対して、「亡き秀忠様よりこの城の守護を命じられた以上、死ぬまでここに留まるのが本筋である。それが奉公というものである。しかし、自分は他の人たちと比較して知恵があまり及ばないので、自分の存念が道理にかなっていないかもしれない。そこで江戸の家光様の御裁断を仰いで欲しい。」と伝えました。
重次がすぐさま、江戸に指示を仰いだ所、果たして、「正次の言、誠にもっともである」という家光の意を伝える飛脚が大坂に到着し、正次は大いに満足したといわれています。
その翌日、正次は息を引き取りました![]()
家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕え、その生涯を徳川家と幕藩体制の確立に尽力した阿部正次。79歳という当時としては、誠に長命であるにもかかわらず、その死の直前まで責務を果たした姿勢は、三河譜代の鏡といっても過言ではないと思います![]()
そして、阿部氏は、この様な偉大な人物を、父や叔父として持った重次や忠秋の時代に移って行きます![]()
次回は、重次について話をしていきたいと思います![]()
タケ海舟
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