阿部正弘(まさひろ)は、文政2年(1819)に、備後(現在の広島県東半分)福山藩主阿部正精(まさきよ)の5番目の男子として江戸で誕生しました。
正弘のお話をする前に、まずは、阿部氏について説明させて頂きます
阿部氏は徳川譜代大名の中でも古参である『安祥7譜代』の1家に挙げられる程の由緒ある家柄でした。
徳川家康(この時はまだ松平竹千代)が幼少の頃、駿河今川氏と尾張織田氏の2大勢力に挟まれた松平氏は、生き残りの為に竹千代を今川家に人質に出さなければなりませんでした。この時、松平氏の重臣であった阿部正宣(まさのぶ)の子である阿部徳千代が主君竹千代の小姓として随行メンバーに選ばれました。
この徳千代は後、元服して阿部正勝(まさかつ)と名乗り、竹千代君(ここから家康に統一します)の駿河での人質時代を傍らで支える事になります。
家康にとって、幼少時の苦しい時代にともに過ごした家臣達は本当に大切だったみたいで、長じてから後、彼らを側近または旗本して登用しています。正勝も石高こそは多くはありませんでしたが、家康側近の武将として多くの合戦に参加、功名を上げました。
また、正勝は武功一辺倒ばかりではなく、天正10年(1582)の小田原北条氏との戦いの折には和睦の使者を務めています。外交官としての才覚もあったのでしょう![]()
家康の関東入国時に、武蔵国鳩ヶ谷等に5000石の領地を与えられた正勝は引き続きその側近として京・大阪に詰めていた時期が多かったみたいです。
慶長5年(1600)4月、関ヶ原合戦直前に正勝は大阪で60歳の生涯を閉じました。この年59歳の家康とは同年代の人でありました。
正勝の子である正次(まさつぐ)は関ヶ原合戦後5000石加増され1万石の大名となります。父正勝の長年の勲功に対して家康が報いたものと思われます。
正次は以後もますます、譜代大名阿部家の地位を向上させていきます。また、彼の子供である重次(しげつぐ)。甥である忠秋(ただあき)は3代将軍徳川家光(いえみつ)の体制下で、重要な役割を果たします。その辺りについては次回にしたいと思います![]()
本題に入る前に結構、横道に逸れてしまいましたが、正弘のルーツを知ってもらう必要上、もう少し、お付き合い願います![]()
タケ海舟
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