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June 2010

阿部正弘Ⅲ

阿部正弘のルーツを巡る旅の第3弾ですconfident

といっても、いつまでも本題に入らないままという事も問題ですので、少々急ぎますcoldsweats01

 

寛永3年(1626)に、大坂城代という大役に任命された阿部正次ですが、当然、大坂への長期出張という事なので、本領の岩槻には長男の政澄(まさずみ)を残し、自身は家中を率いて大坂に赴任しました。また、この時、摂津国(現在の大阪府と兵庫県の1部)内で3万石を加増され、併せて、8万6000石を領する事になりました(ここまで来ると、譜代大名の中でも結構な大身ですねsign01

この折、大御所である徳川秀忠は、正次に対して「大坂城の塀の裏に大砲を並べて民衆を驚かせて、威厳を示せ。」という指示を与えています。正次への期待と信頼の程が伺われます。この話から見ても、正次は秀忠系統の重臣であったと思われます。

大坂城代就任から12年後。寛永14年(1637)に九州で起きた島原の乱では、九州と江戸との連絡調整に努めました。この時、九州の諸大名が勝手に討伐軍を出す事を禁止する命令が発令されていましたが、正次は反乱の長期化を防ぐ事が先決という見地から、独断で彼らの出兵は便宜次第という指示を出したといわれています。この時、京都所司代であった板倉重宗との連携は実に見事で、動揺する京都・大坂の鎮撫に尽力した功績はいうまでもありませんでしたwink

 

同15年(1638)に知行の内、4万6000石を嫡子重次(しげつぐ)に。1万石を孫正能(まさよし)に分与。自身は、3万石を領しました。正次の長男であった政澄は家督相続前の寛永5年(1628)に早世してしまい、代わって、正次の妻の実家である三浦氏の養子となっていた重次が実家に戻り、嫡男となりました。若くして亡くなった政澄の子が正能です。

ちなみに彼は後に、叔父に当たる阿部忠秋(ただあき)の養子となり、4代将軍家綱(いえつな)の時に老中になっています

(養父である忠秋は家光・家綱2代に亘って長く老中を務めていました。家綱の時代には父子2代で老中の座を占めたという、誠に珍しい事例ですね)

一方の重次も、従弟の忠秋とともに、3代将軍家光の側近6人衆を皮切りに、将軍輔弼の臣である老中として、大きな役割を果たします。職制上では正次は、老中である息子や甥の配下という事になりますので、2人に対しては部下としての態度を取ったといわれています・・・

 

正次は大坂城代を務める事、実に22年間sign01

正保4年(1647)、現職のまま大坂城で79歳の生涯を閉じます。正次の病が重い事を知った家光が、子の重次を見舞いの使者として、大坂へ送りました。この時も、息子であっても将軍の使者という事なので、改まって平伏、対面の儀に及んだ正次は、大坂城から自邸への移動療養を勧める重次に対して、「亡き秀忠様よりこの城の守護を命じられた以上、死ぬまでここに留まるのが本筋である。それが奉公というものである。しかし、自分は他の人たちと比較して知恵があまり及ばないので、自分の存念が道理にかなっていないかもしれない。そこで江戸の家光様の御裁断を仰いで欲しい。」と伝えました。

重次がすぐさま、江戸に指示を仰いだ所、果たして、「正次の言、誠にもっともである」という家光の意を伝える飛脚が大坂に到着し、正次は大いに満足したといわれています。

その翌日、正次は息を引き取りましたcrying

 

家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕え、その生涯を徳川家と幕藩体制の確立に尽力した阿部正次。79歳という当時としては、誠に長命であるにもかかわらず、その死の直前まで責務を果たした姿勢は、三河譜代の鏡といっても過言ではないと思いますhappy01

そして、阿部氏は、この様な偉大な人物を、父や叔父として持った重次や忠秋の時代に移って行きますconfident

 

次回は、重次について話をしていきたいと思いますsoon

 

 

 

[ 2010年06月28日17時37分34秒 ]

阿部正弘Ⅱ

despair前回に引き続き、阿部正弘のルーツ(ご先祖様)についてお話しますconfident

阿部正勝(まさかつ)の長男正次(まさつぐ)は父の死後、その遺領である武蔵国鳩谷(現埼玉県鳩ヶ谷市)5000石を継承しました。

正次の武功として著名なのは家康の人生最後の大戦といわれている、大坂の陣で

諸将に先駆けて大阪城内に突入。戦功第一と賞されました。特に、豊臣秀頼(秀吉の子)とその生母淀殿が逃げ込んだ城内の蔵を包囲し。彼らを自害に追い込んだことは有名です。家康は当初、秀頼母子を助命する方針だったといわれていましたが、 正次は井伊直孝(徳川四天王井伊直政の子)と協議し、後の禍根を断つべく、敢えて主命に背く形で、蔵に鉄砲を打ちこんだといわれています

最も家康も、孫娘の千姫(秀頼正室)が人質同然という形で、大坂城内にいた事もあり、秀頼母子助命交渉の折、千姫を取り戻す事ができたので、正次らの違命に関しては不問に付したかもしれませんok

戦後の元和3年(1617)、正次は上総国大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)3万石に加増移封。同5年(1619)には、相模国小田原(現神奈川県小田原市)に5万石で転封となりましたhappy01この小田原城は戦国時代は後北条氏の居城、家康の関東入国後は譜代の重臣であった大久保忠世(ただよ)・忠隣(ただちか)父子が封じられていました。慶長終りの江戸幕府内の政争で大久保忠隣が領地没収となって以来、小田原城は城主のいない時代がしばらく続きましたが、正次が移封された事は、彼が、徳川幕府にとって大事な城を任せられるくらいに信任されていたという事になりますwink

元和9年(1619)は徳川将軍が2代秀忠(ひでただ)から3代家光(いえみつ)に代替わりをした年ですが、この年に正次は武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)に再度、加増移封されました。

ところで、うっかりしていましたが、正次の生年は、永禄12年(1569)年。元和9年時点では50歳になりますcoldsweats01

現在の50代はいよいよ油が乗り切った年代で、組織でも中核を担う立場になると思われます。この頃の江戸幕府の重役に関しては、前将軍秀忠を補佐していた人々が40代後半から50代中心。現将軍の家光補佐組は20代から30代前半が主体となっています。家光時代最初の10年程は、依然として、秀忠が大御所として君臨しており、いくら将軍といっても家光にすべての決定権があるわけではありませんでしたdash重役に関しても、秀忠側の人達の力が強かったわけですが、寛永9年(1632)秀忠の死後は、家光への権力の一本化が進み、結果的に前代からの重役達は、役員(江戸時代的にいえば老中)を退任する事になりますwobbly

しかし、阿部正次の場合は、家光時代においても幕府の重職を務める事になりますupwardright

当時は徳川幕府が成立してまだ半世紀も経過しておらず、西国の外様大名や京都の朝廷の動向に関しては、絶えず目を光らせていなければならない状況でした。

とりわけ、朝廷との折衝または監視役として設置された、京都所司代(きょうとしょしだい)。そして、豊臣家の居城があった大坂には新たに徳川幕府による築城工事が行われ、西国大名の監視役として大坂城代(おおさかじょうだい)が設置されました。

後の時代、この両職は、本社役員に相当する老中(ろうじゅう)になる前に必ず、経験しなければならないポストになりますが、この時期の両職は極めて、厳しい環境の中、職務を果たさなければならないので、必然、政務の経験豊富な譜代大名を充てなければなりませんでしたdanger

この難しいかじ取りが求められる両職には、秀忠時代の重役が任命されました。

まず、京都所司代には秀忠近侍の3臣といわれた、板倉重宗(しげむね)(彼の父勝重〔かつしげ〕も所司代を長期に亘って務め、重宗は父の後任として赴任しました)が任命されました。

もう1つの大坂城代として白羽の矢が立ったのが、阿部正次でしたsign01

寛永3年(1626)の任命ですので、57歳での長期赴任でしたsign01

以来、正次は正保4年(1647)の死去まで、現職を勤め事になりますdiamond

 

大坂城代時代の正次の事績については、次回にしたいと思いますsoon

[ 2010年06月19日08時40分56秒 ]

阿部正弘

阿部正弘(まさひろ)は、文政2年(1819)に、備後(現在の広島県東半分)福山藩主阿部正精(まさきよ)の5番目の男子として江戸で誕生しました。

正弘のお話をする前に、まずは、阿部氏について説明させて頂きます

阿部氏は徳川譜代大名の中でも古参である『安祥7譜代』の1家に挙げられる程の由緒ある家柄でした。

徳川家康(この時はまだ松平竹千代)が幼少の頃、駿河今川氏と尾張織田氏の2大勢力に挟まれた松平氏は、生き残りの為に竹千代を今川家に人質に出さなければなりませんでした。この時、松平氏の重臣であった阿部正宣(まさのぶ)の子である阿部徳千代が主君竹千代の小姓として随行メンバーに選ばれました。

この徳千代は後、元服して阿部正勝(まさかつ)と名乗り、竹千代君(ここから家康に統一します)の駿河での人質時代を傍らで支える事になります。

家康にとって、幼少時の苦しい時代にともに過ごした家臣達は本当に大切だったみたいで、長じてから後、彼らを側近または旗本して登用しています。正勝も石高こそは多くはありませんでしたが、家康側近の武将として多くの合戦に参加、功名を上げました。

また、正勝は武功一辺倒ばかりではなく、天正10年(1582)の小田原北条氏との戦いの折には和睦の使者を務めています。外交官としての才覚もあったのでしょうhappy01

家康の関東入国時に、武蔵国鳩ヶ谷等に5000石の領地を与えられた正勝は引き続きその側近として京・大阪に詰めていた時期が多かったみたいです。

慶長5年(1600)4月、関ヶ原合戦直前に正勝は大阪で60歳の生涯を閉じました。この年59歳の家康とは同年代の人でありました。

正勝の子である正次(まさつぐ)は関ヶ原合戦後5000石加増され1万石の大名となります。父正勝の長年の勲功に対して家康が報いたものと思われます。

正次は以後もますます、譜代大名阿部家の地位を向上させていきます。また、彼の子供である重次(しげつぐ)。甥である忠秋(ただあき)は3代将軍徳川家光(いえみつ)の体制下で、重要な役割を果たします。その辺りについては次回にしたいと思いますwink

本題に入る前に結構、横道に逸れてしまいましたが、正弘のルーツを知ってもらう必要上、もう少し、お付き合い願いますsoon

[ 2010年06月11日18時39分01秒 ]

ブログ立ち上げのご挨拶

この度、幕末ブログを立ち上げる事になりました、タケ弾正少弼と申します。

幕末なのに、戦国時代みたいなハンドルネームになってしまいましたが、

そこの所はお許しをcoldsweats01

さて、このブログでは幕末に活躍した人物について尊王、攘夷、佐幕(徳川幕府側)の区別を問わずお話をしていきたいと思います。

何分、初めてのブロフ開設で、本日が初投稿と相成りますnew

試行錯誤しながら楽しいブログになる様に地道に頑張りますconfident

 

まずは誰についてお話しようかと考えてみたのですが、いきなり黒船がやって来て、本当に大変だったろうなという状況を考え、また、自分がその時に同じ立場だったら、果たしてどうだったかなという事も、併せて考えてみようかという事で・・・

幕末時代の政権担当者を取り上げる事にしましたsign01

順番としてはこんな感じですdanger

 

①阿部正弘

②堀田正睦

③井伊直弼

④安藤信正

学校で日本史を学んだ方は、この4人の名前はお聞きした事があると思います。

 

今後の方向性については、ブログを進めながら追々、発表していきますdelicious

 

それでは次回から若干、30代の若さで、総理大臣にとして大変な難局に対処した・・・

阿部正弘殿についてお話をしていきます。お楽しみにsoon

[ 2010年06月05日12時46分48秒 ]

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