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13代将軍家定の趣味は菓子作りだった!

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年08月31日15時33分38秒 | コメントなし | トラックバックなし

幕末史を彩る人物とお菓子を巡るこぼれ話その2happy01

 

徳川13代将軍家定(いえさだ)は天璋院篤姫のご主人としても有名ですが、彼にはおよそ将軍らしからぬ非常に庶民的な趣味があったようですwink

どうもこの将軍は、お菓子を作るのが大好きだったみたいで、饅頭やカステラ等を自分で作って家臣達にも与えていたといわれていますshine趣味が高じたかどうかはわかりませんが、お菓子のみならずイモを焼いた事もあったようで、幕末の四賢侯の一人で有名な越前(現在福井県)藩主の松平春嶽(しゅんがく)は家定の事を「イモ公方」とこっそり呼んでいましたsign01

「幕末の大変な政局の中で、のんきにお菓子作りなどとんでもないannoy」と聡明な春嶽は思ったのでしょうが、タケ海舟はむしろ家定は繊細で温かい人ではなかったのかと考えていますconfident

大河ドラマ篤姫の中で堺雅人演じる家定が、生母本寿院の為に豆を炒たり、煎餅を焼いたりするシーンが出てきた事を覚えている方もいらっしゃるのではないかと思いますが、このような事を自ら母の為に、恥ずかしがらずに普通にできる人は、本当親孝行だなと感じましたconfident

家定は幼い頃から病弱で大変内気な性格であったといわれています。そんな家定は父である12代将軍家慶(いえよし)の子供の中で、唯一成人した男子でありました。病弱なわが子を何としても守りたいという母の願いは彼を13代将軍という至高の地位に就かせる事になりました。家定は本寿院への孝養を怠らなかったといわれていますwink

また、篤姫との結婚生活もわずか2年で終わってしまいますが、夫婦仲は極めて円満であったみたいですconfident

家定は篤姫にもお菓子を作ってあげたかもしれませんねhappy01

そんな姿を思い浮かべると、とても癒される様な気がするのはタケ海舟だけでしょうかsign02

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阿部正弘Ⅵ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年08月19日18時19分12秒 | コメントなし | トラックバックなし

連日の猛暑に少々熱中症気味のタケ海舟ですsad

さて、阿部伊勢守正弘殿のご先祖様のお話の続きconfident

徳川3代将軍家光に殉死した阿部重次の家はその後どうなったかsign02

岩槻藩主であった重次の後を継いだのは、長男の定高(さだたか)でしたconfidentこの時、定高は16歳だったのですが、万治2年(1659)に25歳の若さで亡くなってしまいましたcrying

名門阿部氏の嫡男ということなので、長く生きていたら、幕府の重役になっていた可能性があったかもしれませんdespair

定高には正邦(まさくに)という子供がいたのですが、定高死亡時、わずか2歳だったので、中継ぎとして定高の弟であった(つまり重次の次男)正春が岩槻第4代藩主となりました。兄である定高が岩槻藩を継承した時、正春は兄より1万6000石を分与されて分家独立したのですが、本家当主の若死で思いもがけず、本家の岩槻9万9000石が転がり込んで来ましたwink

しかしながら、この家督相続は一種のロングリリーフだったみたいで、正春は甥の正邦が成長したら岩槻の本領は返還する事を条件に藩主となったのが真相と思われますsign01

実際、岩槻藩士の中では正春の相続に不満を持っていた人たちも多く、家中の内紛が続いたみたいですdespair

周りの圧力にいたたまれなくなったのかは知りませんが、リリーフの家督継承から12年後の寛文11年(1671)、正春は兄の遺領である岩槻9万9000石と本家当主の座を甥の正邦(この時14歳)に譲り、自身は本来の領地である上総国大多喜藩に移りました(石高は元の1万6000石でした)

ちなみにその後の正春ですが、岩槻藩主を譲ってから30年以上後の元禄15年(1702)に三河国刈谷(現愛知県刈谷市)に移封されました。その後、宝永6年(1709)に家督を子供に譲って隠居。7年後の正徳6年(1716)に80歳で亡くなっています。当時としてはかなりの長命でしたねsign01徳川将軍の時代で言うと、3代家光、4代家綱、5代綱吉、6代家宣を経て7代家継の5人の将軍の時代を生きた人物という事になりますconfident

さて、ここからはタケ海舟の個人的な意見ですが、正春という人物は名門譜代阿部氏の危機を救った人物であったと考えています。なぜなら、家督を継いだ兄定高が若くして死去した時、後継者たるべき定高子の正邦はまだ2歳でありました。本来ならこの様な場合、幼少を理由に領地を減らされたり、重要地を任せるには荷が重いという事で他の場所に国替えになるケースが多く見受けられますdespair

しかし、阿部氏は正次・重次の2代に亘って重職を務めた功臣を輩出した家である事が考慮され、正邦の成長までという条件で、暫定的に分家の当主だった正春が岩槻城主を引き継いだわけです。もし、正春がいなかったら、阿部氏は幕府にとっての要地であった岩槻に留まることが出来たかどうかsign02疑問でありますcoldsweats01

先ほども触れましたが、岩槻藩の家中にはこの正春の一時的な岩槻藩主就任に対して不満を持っていたものが多く、正春の治世では家臣殺害事件も起きています。そういう点もマイナス要素として考えられていたのかはわかりませんが、古記録によると正春は「無学文盲で、財宝を求める事に汲々とした大名」という誠に厳しい評価を受けておりますcrying

でも、仮にその話が本当だとしても、本来藩主というマウンドに立つべき甥の正邦が成長するまで見事な中継ぎロングリリーフを務めたという点は十分評価に値するのではないでしょうかsign03

歴史とは、時としてその人物に対して、事実と異なる不当な評価を下す場合があります。今回取り上げた阿部正春についても同様な事がいえると思いますsign01

今回はここまでにしますsoon

 

慶喜が大好きだったお菓子を再現

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年08月12日17時33分31秒 | コメントなし | トラックバックなし

もう1か月以上前の新聞で、名古屋開府400年記念の「名古屋大茶会」で振舞われる和菓子の試作品が披露されたという記事を見かけましたbleah(ちなみにタケ海舟は尾張名古屋の在住ですhappy01

試作菓子を製造したのは、名古屋でも江戸時代からの由緒ある菓子屋さんの流れを汲む花桔梗さんですが、今回の菓子は、徳川幕府最後の将軍である慶喜が好んで食べたという「桃山」をモチーフにして作ったものだそうですsign01

表面には徳川将軍家のシンボルである「葵の紋」を焼印、寒梅粉や水あめ等で作った生地で包んだ白餡の甘さが、

お茶を引き立てるとの事ですwink(もっともタケ海舟は食べていませんのでよくわかりまんが・・・)

タケ海舟の会社のある名古屋市東区は長く続いている和菓子屋さんが4・5軒程営業しているのですが、その中の1軒の店主さんに、この「桃山」のお話を聞く機会がありました。どうやら、昔からの古い文献から当時の菓子の作り方や使用していた原料素材もわかるみたいですwink

したがって、文献にあるレシピに従って当時の味をある程度、再現する事は可能ですが、なかには当時あっても現在は存在しない原材料もあるみたいなので、それとできるだけ近い物を使って作るのだという事ですdelicious

それにしても、昔の文献や古文書を参考にお菓子や料理を再現できるというのは、本当に喜ばしいことですねhappy01

 

また、菓子とは違いますが、今名古屋で平成の市民普請として注目を浴びている「名古屋城本丸御殿」の復元工事も戦争で焼失を免れた当時の文献や絵等をもとに進めていますねsign01日本ばかりではないと思いますが、歴史は当時の人々が何を考え、何をしたのか。そして、後世の人たちがそれを評価するうえで、同時代の人が記録した文献や史料は本当に重要なんですねconfident先人たちの偉大な功績に感謝・感謝ですsign01

冒頭にも述べました、名古屋開府400年記念名古屋大茶会は10月9日から11日の期間、名古屋城で

開催されますhappy01

タケ海舟も是非、桃山とお茶を頂きに参上仕りたいと思いますscissors

 

さて、次回は延び延びになってしまっている阿部正弘様のご先祖様列伝を復活させたいと思いますsoon

 

 

ブログ名とハンドルネーム変更のお知らせ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年07月31日09時02分44秒 | コメントなし | トラックバックなし

ここで、突然の報告ですが

この度、ブログ名とハンドルネームを変更いたしました。

6月からこのブログを始めましたが、タイトルを一見して何のテーマでブログをやっているのかわからないsign01という

ご指摘を親しい方から頂きました。

そこで、いろいろと考えてみた結果がこのタイトルですhappy01 

「末期徳川政権を支えた重鎮たちの幕末維新史~氷川の大法螺吹き奇譚~」

大河ドラマ龍馬伝の影響もあって、幕末維新物を扱った本が沢山出ています。私も最近は週末に地元の図書館に行って幕末関係の本を探しては、このブログの題材についていろいろと勉強しております。

その過程で気づいたのですが、幕末維新は従来、江戸幕府(すなわち徳川政権)を倒した西南雄藩(いわゆる薩摩、長州藩)を主役とした物が主流を占めていましたが、最近は倒された側。つまり、幕府側に位置していた人物をテーマにした物も多くなりました。一般に「勝てば官軍。負ければ賊軍。」で最終的に体制側として不動の立場を占めた側が自分たちに都合の良い歴史を後の世に残すというのが、現在私たちが学んだ歴史であり、敗者(この場合は徳川に味方した人たち)については、必要以上に歪曲され、正当な評価をされなかったのが現実でしたdespair

すでに申し上げましたが、私のブログテーマはその敗者に該当する幕末徳川政権を担った人々の事績について考える事です。したがって、このタイトルの方がブログを見てくださる皆さんにもわかりやすいのではと考えていますwink

また、副題ですが幕末維新において、江戸総攻撃という最悪、天下大乱という国体が崩壊しかねないギリギリの状況の中、良く、日本の危機を救った幕臣勝海舟をモデルにしました。明治維新後、勝は明治政府に勤務していた一時期を除いて、後の生涯の大半を東京の氷川(ひかわ)で過ごしました。そこで、有名な「氷川清話」を始め、幕末維新の回顧録を多く書き残しています。明治政府に対して、徳川慶喜の赦免を働きかける運動や維新により生活に困窮した旧幕臣たちの援助に力を尽くす傍ら、在野の論客として活躍していました。しかしながら、勝のある意味大風呂敷的な論調を理解できない多くのジャーナリストたちからは、「氷川の大法螺吹き」となじられていましたbearing

そこで、この偉大な氷川の先達を目標に、思う存分、このブログで法螺を吹いてみようかなと?と思い、副題といたしました。そうなるとやはり、ハンドルネームもタケ海舟にしないといけませんねsign01

以上の様な理由で、変更を行いましたhappy01

加えて、内容についても、政治史ばかりではなく、タケ海舟がお菓子に係る会社に勤務しておりますので、例えばあの幕末の大物は、どんなお菓子が好きだった等というこぼれ話的な事も、できるだけご紹介させて頂きたいと思います。

それではよろしくお願いますsoon

阿部正弘Ⅴ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年07月25日14時58分39秒 | コメントなし | トラックバックなし

少し更新が遅くなってしまいましたcoldsweats01

さて、阿部対馬守重次が3代将軍徳川家光に殉死した理由ですがdanger

一般的に知られているのは、家光の同母弟の駿河大納言忠長の自殺事件との関係です。

徳川忠長は2代将軍秀忠とその正室 江(ごう)との間に生まれました。2歳違いの兄に家光がいます。

忠長は、兄よりも母や父の愛情を強く受けていたみたいで、一時は3代将軍は忠長ではという噂もあったようです。

しかし、家光乳母の春日局の嘆願で、祖父家康の鶴の一声を以て、3代家光が誕生したといわれていますshine

その後、駿河(現在の静岡県東部)、甲斐(現在の山梨県)両国と遠江国(現在の静岡県西部)の1部で55万石の領主なりました。駿河国は祖父家康の晩年を過ごした地であり、家康死後は10男頼宣(よりのぶ)が治めていましたが、元和5年(1619)の安芸国広島城主福島正則(まさのり)の改易によって、紀州和歌山城主浅野氏が広島に転封となった折、秀忠は、弟の頼宣を和歌山に移し、代わって駿府に忠長を封じましたhappy01

駿河は江戸近くの東海道の要所でもあり、秀忠にとっては信頼できる自分の子供である忠長を配置したいと考えたのでしょうwink

しかしながら、忠長は寛永8年(1631)に不行跡と乱行を理由に甲斐国に蟄居を命じられます。更に、翌9年(1632)の秀忠の死後、改易となり、高崎の安藤重長(しげなが)にお預けとなりました。

なぜ、この様な顛末になったかは、よくわかりませんが、3代将軍を巡る兄家光との確執が長じてからも尾を引いていた事は十分、推測できます。本人達同士の軋轢はもちろんですが、家光を支えている老臣達が忠長に対する過剰な警戒心を抱いていた事も理由として挙げられます。同時に忠長にとって不運だったのは、良き庇護者であった母お江が既に他界していたという事でした。(決定的だったのは父秀忠の死だと思いますが・・・)

さて、阿部重次は、忠長の自殺にどの様な関わりを持っていたのでしょうかsign02

「寛政重修家譜」によると、寛永10年(1633)に重次は忠長が当時、幽閉されていた上野国高崎(今の群馬県高崎市)に赴き、高崎城主安藤重長と会談したと記録されています。詳しい経緯は記されていませんが、この直後に起きた、忠長の死と何か関連があった事は明らかです。

この時の状況を詳しく述べた史料として、徳川将軍家の正式な記録である「徳川実紀」の中で、重次は殉死を決意した理由を同僚の老臣達に述べていますsign01

「自分が殉死を決意したのはもう、何年か前のことでる。上様(家光)御世最初の駿河殿(忠長)の事件の時、自分は密命を帯びて、高崎に行った。この密命とは、高崎城主安藤重長殿と協議して忠長殿に自害を勧告する事であった。この折、家光様より、『もし、重長がこの指示に従う事を拒否した場合は、汝はどのように対処するつもりか?」と尋ねられたが自分は、『その時は自分が一命を以て、密旨の事を取り計らいましょう。』と決意を述べた。」

実際、密命を受けた重長は難色を示し(将軍の弟君を自殺させるなんてとんでもないですよね・・・)家光に再考を求めたみたいですが(これ以前にも、重長は忠長の助命嘆願を何度もしてます)家光の強い決意を背景にした重次の説得を受け、遂に密命を承諾しました。重長は、忠長が幽閉されている屋敷の周辺を囲っている垣根の数を更に、増やして警戒を厳重にしました。

その様子を見た忠長は、自分の命運を悟ったのが、直ちに自害したといわれていますweep

「この時を以て、自分の命は家光様に差し上げた。一度、命を捧げた主君が亡くなったのに、どうして命永らえる事ができるのか?どうか、皆様は私の殉死を許して頂き、御遺命を遵守して、新将軍(4代将軍家綱)を補佐して頂く様、お願い申上げます。」と述べたと言われています。

この話を聞いた老臣達は皆、感泣したといわれています。そして、重次は同じく、家光に殉死する決意をした堀田正盛とともに、手に手を取って退出し、泉下にいる家光の許での再会を約し、城門を出て、その夜の内にそれぞれの屋敷で追い腹を切りましたcrying

以上重次の殉死について、見て来ましたが、主命だとは言え、もたらした結果が将軍の弟の死という重大な物であった事。そして以後、重次は6人衆、老臣(後の老中)として出世の階段を昇って行きましたが、この事件は重次の人生の上で大きな出来事となったのでしょう・・・その結果が殉死という道を選ばせたのではないかと思われます。

同時に、この様な余人には命じる事が出来ない特命事項を、自分を信頼して任せてくれた主君家光の気持に応える道・・・即ち、殉死という決断をしたと思いますcrying

重次のお話はここまでにしたいと思います。confident

ところで、お話は少し横道に逸れますが、重次と一緒に殉死した堀田正盛と、忠長事件で心ならずも引導を渡す役回りを引き受けてしまった安藤重長は、ある事で共通点がありますdanger

正盛の子孫が堀田正睦(まさよし)。重長の子孫が安藤信正(のぶまさ)。

重次の子孫である阿部正弘(本題の主役)を含めて、幕末の徳川政権を担った3人のご先祖様が皆、約200年前に起きた徳川幕府の大事件に関与していたのですsign01

偶然だとはいえ、不思議な因縁を感じますsign03

次回は、少し駆け足で、重次以降~正弘の父正精(まさきよ)までの阿部氏歴代について見て行きたいと思いますsoon

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阿部正弘Ⅳ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年07月07日17時41分57秒 | コメントなし | トラックバックなし

今回は、阿部重次について語っていきたいと思いますhappy01

重次は慶長3年(1598)阿部正次の次男として誕生。母は佐原義成の娘。同母兄に5歳年長の政澄がいます。母の実家で叔父である三浦重成(しげなり)の婿養子となり、三浦重次と名乗りますが、重次に実子が誕生した為、別家を立てました。

ところが、実家の兄で阿部家の嫡男だった政澄が寛永5年(1628)に早世した結果、阿部家に戻り正式に世子となりました。重次30歳の時の出来事でしたhappy01

重次はまだ三浦氏の頃、秀忠の側近、家光の小姓を経て、寛永9年(1632)には小姓組番頭となります。小姓は、主君の日常生活を補佐する役で、小姓組番頭は主君を警護する近衛部隊の隊長に相当する役目であり、文字通り、家光の側近として仕えました。しかしながら重次は、家光子飼いの側近である従兄弟の忠秋や、知恵伊豆(ちえいず)と称された松平信綱(のぶつな)と異なり、譜代大名阿部氏本家の嫡男という格式で奉公しました。前述の通り、父正次は、大坂城代の重責を担っており、彼自身も、近い将来、徳川幕府の政権運営に携わる事が期待されていたものと思われます。wink

寛永9年(1632)という年は、大御所であった秀忠の死去に伴い、10年近く続いた家光との2頭体制が解消され、30歳を迎えた家光に幕府権力が集中された時期になりますdelicious

この年、前述の松平信綱が家光より「宿老並にご奉公せよ!」という命を受け、秀忠時代より老職という補佐役であった土井利勝(としかつ)、酒井忠世(ただよ)、忠勝(ただかつ)と同じ立場で仕える事になりましたwink

そして翌寛永10年(1633)に家光は新たな人事を発令しますsign01

阿部重次、同忠秋、松平信綱、堀田正盛(まさもり)、太田資宗(すけむね)、三浦正次(まさつぐ)を6人衆(後の江戸幕府の職制の1つとなった若年寄の起源)に任命し「それほど、大きくない案件については、6人合議して決めるように!」という内命の下、以後彼らは幕府の政策決定に徐々に、関与していきます。つまり、前代の老職(老中の原型)の後任として見習の期間を与えられたという事になります。同年、忠秋と正盛は「信綱並に奉公せよ!」という仰せの下、見習期間を修了しましたwink

信綱・忠秋・正盛の3名は、幼少の頃から、家光の小姓として仕えている為、必然、お気に入りの家臣という事で、先にトップチームに昇格するのは当然といえば当然かもしれませんhappy01

一方、秀忠以来の老職の方は、まず、酒井忠世が寛永11年(1634)の家光京都上洛時の江戸城西の丸火災の責任を取って、事実上、第1線から退き、(忠世はこの時江戸城の留守を預かる責任者でした)残った、土井利勝と酒井忠勝は寛永15年(1638)に日常の煩雑な政務は免除され、以後は重要事項のみ参画するという事になりました。

この時を以て、幕府運営の中心は、家光とその側近たちに委ねられましたscissors

さて、重次にとっても寛永15年は画期的な年になりました。まずは大坂城であった父正次の所領のうち、4万7000石が与えられ、既に自身が領していた分と合わせて都合、5万9000石余となり、正式に岩槻城主となりました。(大坂城代の正次は、赴任時に摂津内で加増された3万石を以て、任務を遂行)

そして、同年、土井・酒井両年寄の勇退を受けて、新たに老職を拝命する事になりましたhappy01任命にあたり、家光は重次と従兄弟の忠秋に対して「両名は親類同士だが、2人で談合して信綱に対して良くない事を企んだら容赦しないぞ!」といって戒めています。この時点で堀田正盛が家光の私的生活の補佐に専念する為に、老職を辞任しており、老職は両阿部と信綱の3人体制になっていました。家光としては、老職を阿部家から2人同時に出すという事態を考慮して重次と忠秋にこのような訓戒をしたものと思われますdanger

正保4年(1647)に大坂において、父正次が死去。父の危篤を知った重次は、家光の命により大坂に急行。その最期を見届ける事ができました(家光の優しさが伺えます)

慶安元年(1648)に父の遺領3万石を関東内で加増され、9万9000石の領主となります。同年に丹波国(現在の京都府中部と兵庫県一部)福知山(現在の京都府福知山市)藩主稲葉紀通(のりみち)が領内で騒動を起こした折には、近隣大名に適切な警戒態勢を命じ事なきを得ましたdanger

ちなみに阿部家の事ですが、本家は重次で、忠秋は分家になります。本稿の主役である正弘は本家である重次の子孫になります。また、重次の官は、最初山城守でしたが、老職就任後は対馬守に改めます。ちなみに、父正次は備後守。忠秋は豊後守を名乗っています。

この様に重次は、家光補佐の老職としてその治世を支えて来ました。家光の側近は、幼少の頃から彼との繋がりが深い人が多く、重次はどちらかといえば、2代将軍秀忠系の人脈に連なる人物だったと思われます。しかしながら、この様に重用されたのは、譜代家臣である阿部氏の嫡流として、将軍家に奉仕する最も相応しい人物であったと認められていたのではないでしょうか?また、父正次の家康→秀忠→家光3代に亘る並々ならぬ忠勤ぶりも評価の対象となっていたのでしょう。しかしながら、何よりも大きかったのは、彼自身の器量が将軍の輔弼の大任に十分、堪えうるものであったという事だったのでしょうhappy01

後世の評判でも、「地味な存在であったが、よく家光を内側から支え、忠義を尽くした臣だった」と語り継がれています。

以上、重次の人生について一通り、見て来ました。ただ、1つの事を除いてですが・・・

 

御存じの方も多いかと思いますが、慶安4年(1651)4月20日に家光が死去した時、重次は殉死を遂げました。享年53才でしたcrying

殉死とは主人が亡くなった時に、あの世でも主人に仕えるために、自殺してお供をすることです。江戸時代の初めには主人の後を追って殉死する事例が多く。あまりにも多いため幕府は後、殉死を禁止するする法令を出す事になりましたdespair

重次の場合もそのような世相を反映した出来事でしたが、なぜ、彼は家光に殉死したのでしょうかsign02

次回は重次殉死の真相についてお話したいと思いますsoon

 

 

 

 

阿部正弘Ⅲ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年06月28日17時37分34秒 | コメントなし | トラックバックなし

阿部正弘のルーツを巡る旅の第3弾ですconfident

といっても、いつまでも本題に入らないままという事も問題ですので、少々急ぎますcoldsweats01

 

寛永3年(1626)に、大坂城代という大役に任命された阿部正次ですが、当然、大坂への長期出張という事なので、本領の岩槻には長男の政澄(まさずみ)を残し、自身は家中を率いて大坂に赴任しました。また、この時、摂津国(現在の大阪府と兵庫県の1部)内で3万石を加増され、併せて、8万6000石を領する事になりました(ここまで来ると、譜代大名の中でも結構な大身ですねsign01

この折、大御所である徳川秀忠は、正次に対して「大坂城の塀の裏に大砲を並べて民衆を驚かせて、威厳を示せ。」という指示を与えています。正次への期待と信頼の程が伺われます。この話から見ても、正次は秀忠系統の重臣であったと思われます。

大坂城代就任から12年後。寛永14年(1637)に九州で起きた島原の乱では、九州と江戸との連絡調整に努めました。この時、九州の諸大名が勝手に討伐軍を出す事を禁止する命令が発令されていましたが、正次は反乱の長期化を防ぐ事が先決という見地から、独断で彼らの出兵は便宜次第という指示を出したといわれています。この時、京都所司代であった板倉重宗との連携は実に見事で、動揺する京都・大坂の鎮撫に尽力した功績はいうまでもありませんでしたwink

 

同15年(1638)に知行の内、4万6000石を嫡子重次(しげつぐ)に。1万石を孫正能(まさよし)に分与。自身は、3万石を領しました。正次の長男であった政澄は家督相続前の寛永5年(1628)に早世してしまい、代わって、正次の妻の実家である三浦氏の養子となっていた重次が実家に戻り、嫡男となりました。若くして亡くなった政澄の子が正能です。

ちなみに彼は後に、叔父に当たる阿部忠秋(ただあき)の養子となり、4代将軍家綱(いえつな)の時に老中になっています

(養父である忠秋は家光・家綱2代に亘って長く老中を務めていました。家綱の時代には父子2代で老中の座を占めたという、誠に珍しい事例ですね)

一方の重次も、従弟の忠秋とともに、3代将軍家光の側近6人衆を皮切りに、将軍輔弼の臣である老中として、大きな役割を果たします。職制上では正次は、老中である息子や甥の配下という事になりますので、2人に対しては部下としての態度を取ったといわれています・・・

 

正次は大坂城代を務める事、実に22年間sign01

正保4年(1647)、現職のまま大坂城で79歳の生涯を閉じます。正次の病が重い事を知った家光が、子の重次を見舞いの使者として、大坂へ送りました。この時も、息子であっても将軍の使者という事なので、改まって平伏、対面の儀に及んだ正次は、大坂城から自邸への移動療養を勧める重次に対して、「亡き秀忠様よりこの城の守護を命じられた以上、死ぬまでここに留まるのが本筋である。それが奉公というものである。しかし、自分は他の人たちと比較して知恵があまり及ばないので、自分の存念が道理にかなっていないかもしれない。そこで江戸の家光様の御裁断を仰いで欲しい。」と伝えました。

重次がすぐさま、江戸に指示を仰いだ所、果たして、「正次の言、誠にもっともである」という家光の意を伝える飛脚が大坂に到着し、正次は大いに満足したといわれています。

その翌日、正次は息を引き取りましたcrying

 

家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕え、その生涯を徳川家と幕藩体制の確立に尽力した阿部正次。79歳という当時としては、誠に長命であるにもかかわらず、その死の直前まで責務を果たした姿勢は、三河譜代の鏡といっても過言ではないと思いますhappy01

そして、阿部氏は、この様な偉大な人物を、父や叔父として持った重次や忠秋の時代に移って行きますconfident

 

次回は、重次について話をしていきたいと思いますsoon

 

 

 

阿部正弘Ⅱ

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年06月19日08時40分56秒 | コメントなし | トラックバックなし

despair前回に引き続き、阿部正弘のルーツ(ご先祖様)についてお話しますconfident

阿部正勝(まさかつ)の長男正次(まさつぐ)は父の死後、その遺領である武蔵国鳩谷(現埼玉県鳩ヶ谷市)5000石を継承しました。

正次の武功として著名なのは家康の人生最後の大戦といわれている、大坂の陣で

諸将に先駆けて大阪城内に突入。戦功第一と賞されました。特に、豊臣秀頼(秀吉の子)とその生母淀殿が逃げ込んだ城内の蔵を包囲し。彼らを自害に追い込んだことは有名です。家康は当初、秀頼母子を助命する方針だったといわれていましたが、 正次は井伊直孝(徳川四天王井伊直政の子)と協議し、後の禍根を断つべく、敢えて主命に背く形で、蔵に鉄砲を打ちこんだといわれています

最も家康も、孫娘の千姫(秀頼正室)が人質同然という形で、大坂城内にいた事もあり、秀頼母子助命交渉の折、千姫を取り戻す事ができたので、正次らの違命に関しては不問に付したかもしれませんok

戦後の元和3年(1617)、正次は上総国大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)3万石に加増移封。同5年(1619)には、相模国小田原(現神奈川県小田原市)に5万石で転封となりましたhappy01この小田原城は戦国時代は後北条氏の居城、家康の関東入国後は譜代の重臣であった大久保忠世(ただよ)・忠隣(ただちか)父子が封じられていました。慶長終りの江戸幕府内の政争で大久保忠隣が領地没収となって以来、小田原城は城主のいない時代がしばらく続きましたが、正次が移封された事は、彼が、徳川幕府にとって大事な城を任せられるくらいに信任されていたという事になりますwink

元和9年(1619)は徳川将軍が2代秀忠(ひでただ)から3代家光(いえみつ)に代替わりをした年ですが、この年に正次は武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)に再度、加増移封されました。

ところで、うっかりしていましたが、正次の生年は、永禄12年(1569)年。元和9年時点では50歳になりますcoldsweats01

現在の50代はいよいよ油が乗り切った年代で、組織でも中核を担う立場になると思われます。この頃の江戸幕府の重役に関しては、前将軍秀忠を補佐していた人々が40代後半から50代中心。現将軍の家光補佐組は20代から30代前半が主体となっています。家光時代最初の10年程は、依然として、秀忠が大御所として君臨しており、いくら将軍といっても家光にすべての決定権があるわけではありませんでしたdash重役に関しても、秀忠側の人達の力が強かったわけですが、寛永9年(1632)秀忠の死後は、家光への権力の一本化が進み、結果的に前代からの重役達は、役員(江戸時代的にいえば老中)を退任する事になりますwobbly

しかし、阿部正次の場合は、家光時代においても幕府の重職を務める事になりますupwardright

当時は徳川幕府が成立してまだ半世紀も経過しておらず、西国の外様大名や京都の朝廷の動向に関しては、絶えず目を光らせていなければならない状況でした。

とりわけ、朝廷との折衝または監視役として設置された、京都所司代(きょうとしょしだい)。そして、豊臣家の居城があった大坂には新たに徳川幕府による築城工事が行われ、西国大名の監視役として大坂城代(おおさかじょうだい)が設置されました。

後の時代、この両職は、本社役員に相当する老中(ろうじゅう)になる前に必ず、経験しなければならないポストになりますが、この時期の両職は極めて、厳しい環境の中、職務を果たさなければならないので、必然、政務の経験豊富な譜代大名を充てなければなりませんでしたdanger

この難しいかじ取りが求められる両職には、秀忠時代の重役が任命されました。

まず、京都所司代には秀忠近侍の3臣といわれた、板倉重宗(しげむね)(彼の父勝重〔かつしげ〕も所司代を長期に亘って務め、重宗は父の後任として赴任しました)が任命されました。

もう1つの大坂城代として白羽の矢が立ったのが、阿部正次でしたsign01

寛永3年(1626)の任命ですので、57歳での長期赴任でしたsign01

以来、正次は正保4年(1647)の死去まで、現職を勤め事になりますdiamond

 

大坂城代時代の正次の事績については、次回にしたいと思いますsoon

阿部正弘

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年06月11日18時39分01秒 | コメントなし | トラックバックなし

阿部正弘(まさひろ)は、文政2年(1819)に、備後(現在の広島県東半分)福山藩主阿部正精(まさきよ)の5番目の男子として江戸で誕生しました。

正弘のお話をする前に、まずは、阿部氏について説明させて頂きます

阿部氏は徳川譜代大名の中でも古参である『安祥7譜代』の1家に挙げられる程の由緒ある家柄でした。

徳川家康(この時はまだ松平竹千代)が幼少の頃、駿河今川氏と尾張織田氏の2大勢力に挟まれた松平氏は、生き残りの為に竹千代を今川家に人質に出さなければなりませんでした。この時、松平氏の重臣であった阿部正宣(まさのぶ)の子である阿部徳千代が主君竹千代の小姓として随行メンバーに選ばれました。

この徳千代は後、元服して阿部正勝(まさかつ)と名乗り、竹千代君(ここから家康に統一します)の駿河での人質時代を傍らで支える事になります。

家康にとって、幼少時の苦しい時代にともに過ごした家臣達は本当に大切だったみたいで、長じてから後、彼らを側近または旗本して登用しています。正勝も石高こそは多くはありませんでしたが、家康側近の武将として多くの合戦に参加、功名を上げました。

また、正勝は武功一辺倒ばかりではなく、天正10年(1582)の小田原北条氏との戦いの折には和睦の使者を務めています。外交官としての才覚もあったのでしょうhappy01

家康の関東入国時に、武蔵国鳩ヶ谷等に5000石の領地を与えられた正勝は引き続きその側近として京・大阪に詰めていた時期が多かったみたいです。

慶長5年(1600)4月、関ヶ原合戦直前に正勝は大阪で60歳の生涯を閉じました。この年59歳の家康とは同年代の人でありました。

正勝の子である正次(まさつぐ)は関ヶ原合戦後5000石加増され1万石の大名となります。父正勝の長年の勲功に対して家康が報いたものと思われます。

正次は以後もますます、譜代大名阿部家の地位を向上させていきます。また、彼の子供である重次(しげつぐ)。甥である忠秋(ただあき)は3代将軍徳川家光(いえみつ)の体制下で、重要な役割を果たします。その辺りについては次回にしたいと思いますwink

本題に入る前に結構、横道に逸れてしまいましたが、正弘のルーツを知ってもらう必要上、もう少し、お付き合い願いますsoon

ブログ立ち上げのご挨拶

投稿者:タケ海舟 投稿時間:2010年06月05日12時46分48秒 | コメントなし | トラックバックなし

この度、幕末ブログを立ち上げる事になりました、タケ弾正少弼と申します。

幕末なのに、戦国時代みたいなハンドルネームになってしまいましたが、

そこの所はお許しをcoldsweats01

さて、このブログでは幕末に活躍した人物について尊王、攘夷、佐幕(徳川幕府側)の区別を問わずお話をしていきたいと思います。

何分、初めてのブロフ開設で、本日が初投稿と相成りますnew

試行錯誤しながら楽しいブログになる様に地道に頑張りますconfident

 

まずは誰についてお話しようかと考えてみたのですが、いきなり黒船がやって来て、本当に大変だったろうなという状況を考え、また、自分がその時に同じ立場だったら、果たしてどうだったかなという事も、併せて考えてみようかという事で・・・

幕末時代の政権担当者を取り上げる事にしましたsign01

順番としてはこんな感じですdanger

 

①阿部正弘

②堀田正睦

③井伊直弼

④安藤信正

学校で日本史を学んだ方は、この4人の名前はお聞きした事があると思います。

 

今後の方向性については、ブログを進めながら追々、発表していきますdelicious

 

それでは次回から若干、30代の若さで、総理大臣にとして大変な難局に対処した・・・

阿部正弘殿についてお話をしていきます。お楽しみにsoon

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