清盛の弟達(経盛編)
清盛の弟達シリーズの第二弾です![]()
忠盛が宗子以外の女性に産ませていた息子(清盛は別として)は、3人いました![]()
(平家物語を読まれた事がある方は、ご存知かもしれませんが
)
清盛と6歳違いの経盛![]()
10歳違いの教盛![]()
そして、なんと26歳違いの忠度(ただのり)![]()
末弟の忠度が生まれた頃、既に清盛は長男重盛(しげもり)を儲けていました![]()
忠度は、自分の息子より年下の弟だった訳ですね
現在ではあまり見かけられないケースですが、一夫多妻多妾制が定着していたこの時代では、珍しい事ではありませんでした![]()
さて、忠盛三男経盛ですが、彼の生母は村上源氏の右大臣顕房(あきふさ)の六男信雅(のぶまさ)でした![]()
村上源氏は、実に子沢山の一門で、特に源顕房は、娘賢子が関白藤原師実の養女として白河帝に入内して、堀河帝を儲けたのを始め、別の娘の師子は、師実の孫である忠実の正室となり、忠通と勲子の母となっており、政界において大きな勢力を有していました![]()
(ちなみに師子は、忠実に嫁ぐ以前、白河院の後宮に入って覚法法親王を産んでいます
)
岳父であった信雅は、最高位が正四位下陸奥守で公卿、大臣を輩出した村上源氏の中では傍流の道を歩んだのですが、関白忠実の家司(公卿の家の家政を司る役目。現代風に言えば執事ですかね
)務めていました![]()
忠盛と信雅がどの様な繋がりを持っていたのかどうか、良くわかりませんが、摂関家当主の家政を統括する人物と縁戚になった事は、信雅の背後にいる摂関家とのコネクションを作るのには効果的であったと思われます![]()
また、信雅の別の娘は、忠実自慢の息子に嫁ぎました![]()
この息子こそ、有名な悪左府こと藤原頼長(ふじわらのよりなが)であります![]()
保元の乱の一方の首魁となった頼長の事については、追々お話をしますが、なんと、忠盛と頼長は相婿同士だったという訳ですね![]()
若し、保元の乱の三年前に忠盛が死なず、乱勃発時に存命していたとしたら・・・
同じ信雅の婿同士であった忠盛に対して、頼長が加勢を要請する可能性は、かなり高かった筈です![]()
信雅娘との間に、経盛を儲けていた忠盛同様に、頼長も同じ信雅娘との間に、次男師長(もろなが)を得ていました![]()
あくまでも仮説ですが、信雅(彼は保元の乱かなり以前に逝去していましたが・・・)を巡る姻戚関係は、保元の乱の勝敗の帰趨に影響を与えた可能性はあったかもしれません
(場合によっては経盛単独で頼長と合流する事も有り得たでしょう
正室出生の弟頼盛の去就が取り沙汰されていた事からも十分、考えられます
)
経盛周辺のお話はひとまず、ここまでにして、この次は、教盛の周囲を見てみたいと思います![]()
清盛の弟達(家盛と頼盛)
昨日の「清盛」の放送冒頭で、清盛の弟『平五郎』(へいごろう)が誕生していましたね![]()
家盛が、平五郎という名前を聞いて、『何故、三と四はいないのか
』と母親の宗子に尋ねたら・・・
『三と四は別の所にいる
・・・』という返答が帰って来ました![]()
この年、長承2年(1133)時点で、伊勢平氏棟梁平忠盛は、5人の男子の父親でありました![]()
忠盛は、この後誕生する平六郎(おそらく幼名はこうなると思われますが
)を含め、6人の息子を儲けていました![]()
6人の子供を順次、紹介しますと![]()
①長男清盛(平太)元永元年(1118)生まれ。生母:祇園女御妹若しくは、その縁者(実父は白河院の可能性大)
②次男家盛(平次)保安4年(1123)生まれ?生母:藤原宗子(池禅尼)
③三男経盛(つねもり)(平三郎)天治元年(1124)生まれ。生母:源信雅(みなもとののぶまさ)娘
④四男教盛(のりもり)(平四郎)大治3年(1128)生まれ。生母:藤原家隆(ふじわらのいえたか)娘
⑤五男頼盛(よりもり)(平五郎)長承2年(1133)生まれ。生母:家盛と同じ藤原宗子
⑥六男忠度(ただのり)(平六郎)天養元年(1144)生まれ。生母諸説あり。
こうして見るとよく分かると思いますが、家盛と頼盛は忠盛正室であった宗子出生の子供でありました![]()
ドラマでは、白河院のご落胤として、数奇な運命を持って誕生した清盛を、平氏に災いを及ぼす者として激しく忌避する平忠正(たいらのただまさ)の姿が描写されています![]()
清盛が果たして、白河院の種であったのか
それとも忠盛の長男だったのか![]()
真相はわかりません
彼が白河院の子供だったという噂は、彼の生前より宮中に広まっていたのですが、正妻と認められていた宗子の子供であった家盛・頼盛との関係は、微妙な物であったと思われます![]()
清盛と5歳年下だった家盛は、清盛の有力な対抗馬であったと思われます![]()
事実、久安3年(1147)に兄清盛が祇園闘乱事件によって、一時期謹慎状態になった時、その間隙を塗って、従四位下右馬頭に任官され、正四位下安芸守だった清盛に肉薄しました![]()
家盛がこのまま、順調に出世を重ねたら、或いは伊勢平氏跡取りの座は、彼にもたらされた可能性は濃厚だったのではないか
とタケ海舟は考えています![]()
というのも、当時の鳥羽院第一の権臣だった藤原家成は、宗子の従兄妹でありました![]()
忠盛も代々の家成の家(善勝寺流)との提携関係を考慮に入れるとしたら、彼等と関係が深い家盛を後継者にする事も視野に入れてたかもしれません![]()
しかし、家盛は久安5年(1149)に鳥羽院の熊野詣に供をした帰りに病を得て、20歳半ばで亡くなってしまいました![]()
忠盛と宗子夫妻には、痛恨の出来事でありましたが、嫡男の座が危うくなっていた清盛にとって、有力なライバルであった次弟の死は、正直救われたという気持ちになったのではないのでしょうか![]()
結果的に、清盛の伊勢平氏次期棟梁の座は安泰となりました![]()
宗子は家盛の他に、もう一人、頼盛という子供を生んでいました
彼も正室出生の子供でしたので、清盛の有力な対抗馬となり得る資格はあった筈ですが、如何せん、長兄清盛との年齢差が15歳もあり、更に、仁安3年(1153)に父忠盛が亡くなった事も重なり、清盛との後継者争いの相手となる事はできませんでした![]()
しかし、正室の子供という彼の貴種性は、新棟梁清盛の下、新たな体制となった伊勢平氏のナンバー2という地位を頼盛に占めさせる事になります![]()
まして、落飾したとはいえ、忠盛未亡人池禅尼は健在で、伊勢平氏家長代理として清盛の行動にも、様々な制約を加える事になります![]()
実際、鳥羽院死後に勃発した保元の乱の折、伊勢平氏は崇徳院側、後白河帝側のどちらかに付くか
究極の選択を迫られており、崇徳院との関係が深かった池禅尼が、頼盛に対して、旧縁を断ち切って清盛とともに後白河帝側に味方する事を命じた為、平氏は一族分裂の危機を免れたのです![]()
池禅尼は続く平治の乱の時にも、河内源氏の嫡男頼朝助命を清盛に嘆願した事がよく、知られてます![]()
この嘆願と清盛の温情が結果として、平氏を滅亡させる遠因となったのです![]()
清盛の大きな影響力を与え続けた池禅尼は、この後間もなくこの世を去ったみたいですが、頼盛はその後も、二条帝(後白河院第一皇子)や八条院(鳥羽院と美福門院の皇女)との独自の関係を築き、後白河院との提携を目指す清盛に事あるごとに楯突く事になるのです
(伊勢平氏の党内野党みたいな存在ですね・・・)
そして、清盛は、この正妻の子であった弟の対応に苦慮するのです![]()
次回は忠盛が他所で育てていたとされる
(宗子に遠慮したのですかね
)三男経盛と四男教盛の出自についてお話をさせて頂きたいと思います![]()
源氏の共食い(終わらない内紛)
さて、河内源氏棟梁の座を巡っての義家・義綱兄弟の争いは、延暦寺強訴に端を発した関白師通の急死という思わぬ展開によって、義家のタナボタ勝利で決着を見ました。
強訴の為に京都に押し寄せた僧兵達を、師通の命を受けて実力で排除したのが、他ならぬ義綱でした。もともと義綱が受領を務めていた、美濃国の延暦寺荘園の帰趨を巡っての諍いが騒動の発端でありましたので、庇護者の師通を失った義綱の凋落は当然の事と云えます。彼は以後、二度と受領となる事はありませんでした。
反対に、白河院の後ろ盾を得ていた義家は、源氏初の院昇殿人に任命されました![]()
先の後三年の役時に、義家が陸奥守として滞らせていた朝廷への貢納もこの頃、漸く完了していました。
こうして、後三年の役以後の長き雌伏時代を遂に、脱する事に成功したかに見えた義家したが、彼を待ち受けていたのは、将来を嘱望していた息子たちの問題でした・・・
ご存知の通り、嫡男として目されていた義親は任国の対馬国で暴力沙汰を起し、朝廷の召還使を殺害するという暴挙までもやってのけていました。
更に、次男の義国(よしくに)も生来、粗暴な性質だったみたいで、早い段階で河内源氏の後継者レースから脱落、都から遠く離れた常陸国に追いやられていました。
ところが、常陸国には義家の三弟義光が既に、地盤を築いており、程なく叔父と甥は同国の主導権を巡って、戦闘を始める事になります・・・
長男と次男が相次いで、地方で騒動を巻き起こす様な事態に直面し、義家は自らの死の直前に、三男の義忠を後継者と定めたのでした![]()
義家死後に隠岐国に流されていた義親が反乱を超したのも、異母弟の棟梁就任に激怒したという事も理由として考えられます。
その義親を征伐したのが、伊勢平氏中興の祖と呼ばれた平正盛でありましたが、義忠は正盛と婿舅の関係を結んでいました。
正盛の娘を自らの妻(正室と思われます)に迎えたのですが、同じ武士の旗頭としてのライバル同士だった伊勢平氏と河内源氏の婚姻という大変、稀有な出来事として注目されます![]()
正盛と義綱との関係はすこぶる良好で、正盛嫡男の忠盛元服の烏帽子親は、義綱が務めています![]()
後年、激しく鎬を削る事となる源氏と平氏と間に、こうした有効的な時期が一時的にもあったというのは、驚きですね![]()
タケ海舟は、源氏と平氏との和合を意図した縁組を主導したのは、白河院だったのではと推測しています![]()
もちろん、確証はないのですが、既に正盛が棟梁である伊勢平氏を自己の武力として掌握していた院は、正盛と義綱との縁組をまとめる事で、伊勢平氏のみならず、跡目争い等で分裂状態に陥っていた河内源氏をも、自己の武力とし再編成しようと考えていたかもしれません。
つまり、若き河内源氏棟梁の義綱を、老練な伊勢平氏棟梁正盛に後見させ、白河院は二大軍事勢力を自己の武力行使の象牙として活用する事を意図していたのでは![]()
とタケ海舟は、仮説を立てているのですが、如何な物でしょうか![]()
この関係が何事もなく、円滑に継続していたのならば、専制君主白河院の下、源氏と平氏の並立状態が演出された可能性は極めて、高かったかもしれません![]()
しかし、事態は院の思惑通りに進みませんでした![]()
父・兄達よりも政治力に富み、院の覚えも目出度かった義忠が、何者かに突然、暗殺されてしまったのです![]()
そして、彼の横死は河内源氏の流血の内紛を招いたのです![]()
続きは次回とさせて頂きます![]()
殿上闇討ち事件の背景
前回の放送では、忠盛の昇殿を巡る、様々な人間模様が描かれていました![]()
昇殿とは、帝の日常の住居である清涼殿(せいりょうでん)への出入が、許される事を意味していました![]()
そして、昇殿を許された人達は、殿上人(でんじょうびと)と呼ばれました![]()
帝が日常居住している御殿に自由に入れる事は、そのまま、直接帝に拝謁できる事でもあり、大変な名誉であると共に、多くの貴族たちが目指す目標でもあったのです![]()
また、朝廷の上級貴族である公卿(1位~3位)には、公卿の特権として昇殿が認められていました![]()
つまり、公卿になると自動的に昇殿が認められる訳です![]()
貴族たちのステータスは、まず公卿(朝廷の政治に参加できる議政官
今でいう内閣閣僚みたいな物でしょうか
)になる事を目標とする![]()
それが叶わなければ、殿上人として、王家と私的な主従関係を結ぶ事によって、出世の道を開く![]()
もう少し、簡単な言い方をするならば、貴族にとって、公卿は公的なステータスであるのに対して、殿上人は私的なそれに当たるといえるのではないのでしょうか![]()
ちなみに、殿上人になる為のもう一つの窓口として、治天の君(院)の居住する院御所への昇殿がありました![]()
源氏と平氏の中で、最初に昇殿が許されたのは、源氏の方で、八幡太郎義家(為義の祖父)が白河院の御所に出入りを認められた院殿上人に任命されました
(彼は本来の殿上人とされる、清涼殿の昇殿は認められませんでした
)
義家の推挙から数十年後、平忠盛が、伊勢平氏としては勿論、武士として初めて清涼殿への昇殿を認められたのです![]()
摂関政治全盛期から院政期にかけて、貴族の家格が次第に固定化されて来ていました![]()
藤原道長の御堂流が代々、摂政と関白を出す摂関家としての家格を確定させたのも、この時期でした![]()
従って、政治に直接参加できる公卿になれる家(3位まで)とか、諸大夫(しょたいふ4位~5位)までしかなれない家等という様に、中央政界に身を置く貴族達の家格(つまり、どれくらいの位階や官職に就けるかという事
)が、固定化傾向にあったのです![]()
源氏や平氏に代表される、当時の武士(侍)階級は、上手くいっても5位、普通なら6位以下が相場でした![]()
上級貴族たちは、院や摂関家の侍(さむらい)として奉仕する彼等を、『侍品(さぶらいほん)』といって軽蔑していました![]()
その侍品といわれていた武士であった伊勢平氏の忠盛が、なんと正四位下の位階を有しながら、清涼殿の殿上人となったのです![]()
鳥羽院の大抜擢であった事は言うまでもありません
父正盛以来親子二代に亘る、王家への忠節少なからず
と認められた訳です![]()
伊勢平氏は、受領任命や海賊退治等の結果、獲得した権益や莫大な富を駆使して、院への奉仕に専心しました![]()
忠盛が鳥羽院の為に建立した、得長寿院(とくちょうじゅいん)観音堂は、その代表的な経済的奉仕でありました![]()
天承2年(1132)、その功績によって、彼は武士最初の殿上人という栄誉を得る事ができました![]()
この時の忠盛の位階は、前述したとおり、正四位下でした
最大の目標である公卿になる為のラインと言われていた従三位までには、まだ大きな壁があったのです![]()
実は、正四位下のすぐ上の位階は、正四位上でありました
しかし、この正四位上は通常飛び越され、公卿になる場合は、正四位下から一気に、従三位になる事が慣例となっていました![]()
(もっとも、公卿の定員がいっぱいの為、公卿目前の人物を待機させるという控えの位階として稀に、正四位上に任命される事もありましたが
)
武士(彼等も厳密に云えば貴族であり、軍事貴族という歴史用語が用いられています)が公卿になるには、まだ少しの時が必要でしたが、忠盛は武士の昇殿という新たな道を、堂々と切り開いたのです![]()
当然ながら、特権階級であった既存の公卿や貴族たちの反感は強いものでした![]()
殿上闇討ち事件は平家物語でも冒頭で取り上げられていますが、闇討ちといっても、本当に相手の命を奪うものではなく、新参者に対する先輩連中の冷やかしまたは、嫌がらせといった方が当てはまるかもしれません![]()
この時代にはよくある事だったみたいですが、軍事貴族初めての殿上人という事で、周りの反感も強かったのでしょう![]()
そこで、忠盛は木刀に銀箔を張り付けて、真刀を抜いた様に見せかけて、嫌がらせをしようとした先輩達を威嚇したのでしょう
(殿中では抜刀禁止でしたからね
)
平家物語でお馴染みの場面でありますが、当時の固定された貴族社会に敢然と挑戦しようとした忠盛を代表とする軍事貴族と、彼等を押さえつけようとする既存貴族達とのせめぎ合いといって良いかもしれません![]()
こうして、院の武力としての第一人者の地位を築き上げた伊勢平氏に対して、源為義を棟梁とする河内源氏は全く、精彩を欠いていました![]()
為義は白河・鳥羽両院に頻りに取り入ろうとしていたのですが、河内源氏内部の内紛や彼自身の政治的過失が原因で、伊勢平氏との差はますます広がるばかりでした![]()
数々の不手際で、鳥羽院から見放され、失意のどん底にいた為義に対して、救いの手を差し伸べた人物がいました![]()
その人物とは、藤原摂関家の大殿(おおとの)忠実でした![]()
このお話の続きは次回にします![]()
源氏の内紛(義家と義綱)
ゴタゴタ続きで、勢力を失っていった河内源氏
源義親の乱は、伊勢平氏の未来の発展をもたらした嚆矢となったのですが、逆説的に言えば、それまで武士の最有力者であった河内源氏が、身内同士の内紛や不祥事によって、自滅的な凋落をしてしまった事を意味していました![]()
振り返ってみると、義家の後三年の役鎮圧の不手際から、河内源氏の勢いは下り坂になったと考えられます![]()
義家が陸奥守として反乱鎮圧に悪戦苦闘していた頃、彼の次弟の義綱は、京都で摂関家に近侍しており、関白師実・師通父子の第一の側近としての地位を固めつつありました![]()
乱の鎮圧したにも拘わらず、陸奥守を罷免されて都に帰って来た義家は、自分が陸奥で苦闘していた隙に、いつの間にか摂関家に取り入っていた同母弟に対して、怒りを覚えていたかもしれません![]()
彼が陸奥で戦っている時、朝廷はこの奥羽地方の反乱を、義家と清原氏との私戦と見なしていました![]()
勝手に戦線を拡大した義家(朝廷やそう考えていました)に対して、朝廷は援軍を送る事をしませんでした![]()
のみならずか、陸奥に救援に赴く事を禁じたのです![]()
義家の三弟だった義光は、この時官位を投げ打って、兄の救援に赴きました![]()
彼の行動が果たして純粋に兄を思う気持ちであったどうかはわかりませんが、この時義家は涙を流して喜んだといわれています![]()
それに引き換え、もう一人の弟の義綱は、義家への援軍派遣を認めなかった摂関家に接近していたのです![]()
当然、戻ってきた義家と義綱兄弟は反目する事になります![]()
義家の方はどちらかというと、王家の武の側近として仕えていました
しかし、前述した通り陸奥守として現地豪族の内紛を調停できなかったばかりか、却って大きな戦を引き起こしてしまい、挙句の果てに国司の最大の任務であった朝廷への貢物を上納を、長期間延滞させてしまった義家の能力を問題視する声が、宮中には広まっていました![]()
流石の白河院も表だって、義家を庇えず、暫く彼は、不遇の立場に置かれる事になります![]()
反対に義綱の方は、王家と潜在的な競合関係にあった摂関家の庇護を受けていました![]()
当時は堀河天皇の下、実父であった白河院の政治介入さえも峻拒した、実力関白師通の引き立てもあり、義綱は寛治7年(1093)、義家が以前、任官していた陸奥守に任命されました
そして、現地で反乱鎮圧に成功した(兄とはえらい違いだ・・・)功績で、従四位上となり、位階の上では兄義家に並びました
更に、嘉保2年(1095)には陸奥守より上席の美濃守に任命されました
元陸奥守であった義家を遂に、官位でも凌駕したのです![]()
そのまま、平穏に推移したら、河内源氏の棟梁の座はまず、間違いなく義綱の物となった筈でした![]()
ところが、比叡山延暦寺の強訴に対して、断固たる態度を示した師通が急死した事により、政治情勢は大きく変転しました![]()
その余波は、対立していた源氏兄弟にも及んだのでした![]()
摂関家の側近だった、義綱はこの出来事を境に、権威を失墜させてしまいます![]()
延暦寺強訴の直接の原因は、美濃国内にあった同寺の荘園を巡って、同地の受領であった義綱との争いが端緒でした
しかも義綱は、強訴の僧兵たちを直接、撃退した当事者でもあり、その事が彼の主君師通を頓死させたのだと信じられたからです
(当時は迷信が固く信じられていました
この事が義綱にとって致命傷となりました
)
対照的に、鳴りを潜めてい義家が、政治の主導権を取り戻した白河院の庇護によって、復権を果たしていったのです![]()
![]()
この続きは、次回にお話しさせて頂きます![]()
躍進する平氏。凋落する源氏。
康和4年(1102)、任国の対馬国で乱暴を働いた罪で、源義親は、隠岐国に配流処分となりました![]()
父義家の嘆願による赦免を期待していたのでしょうか
義親は、一応隠岐島に向かいました![]()
ところが、肝心の義家が嘉承元年(1106)に病死してしまったのです![]()
義家の死は義親にとって大変な打撃となりました
最早、彼の減刑の為に奔走してくれる人物は中央政界にはいませんでした![]()
のみならず、義家は死去直前に河内源氏の後継者を弟の義忠(よしただ)にするという遺言を残していました![]()
赦免の道は閉ざされたのみならず、源氏の棟梁たる道をも断たれた義親は半ば、自暴自棄状態に陥ってしまいました![]()
義家の死の翌年、義親は海を渡って対岸の出雲国に上陸
あろうことか、現地の目代(国司に代わって現地の行政に当たっている役人)を殺害してしまったのです![]()
国衙を占拠した義親は、公然と朝廷に反旗を翻しました
更に、国内並びに周辺の国においても彼に与党する勢力が出て来た為、事は深刻さを増していました![]()
義親は、対馬守時代にも召喚命令を奉じて来た官使を殺害しており、今回更なる罪状を起こしては最早、情状酌量の余地等ありませんでした![]()
朝廷は即座に義親追討を決定しました
最初に追討命令を受けたのは義家に代わって河内源氏の棟梁となった義忠でしたが、彼は兄を討つ事を躊躇した為、当時出雲国の隣国の因幡守であった平正盛に義親討伐を命じました![]()
実はあまり知られていないのですが、義忠の妻はこの正盛の娘でありました
つまり、正盛は義忠の舅に当たる訳です
(源氏と平氏との棟梁同士の婚姻で非常に注目されますが、義忠が早世した為か、歴史的にはあまり大きな効果をもたらす事はありませんでした
)
正盛が追討使に選ばれた理由は、隣国の国司で、討伐軍の動員が速やかに行える利点もあったからと考えられますが、源氏棟梁義忠が本来果たすべきの任務を、舅である平氏棟梁の正盛が果たしたという事も言えるかと思われます![]()
義親が反乱を起こした嘉承2年(1107)の末、正盛は出雲国に乗り込み、翌年1月には早くも義親の首を挙げたという報告が朝廷に入りました![]()
『八幡太郎義家の嫡男で、しかもあの勇猛かつ乱暴者だったあの義親が、討伐を受けてわずか1か月で打ち取られるとは・・・とても信じられない
』
都の公卿たちの多くは、情報の真偽を疑ったみたいですが、白河院は正盛の功績を認め、直ちに彼を因幡守から1ランク上の大国但馬守に昇任させました![]()
間もなく、義親の首を携えた正盛の軍勢が都に凱旋しました![]()
源氏随一の武者であった義親を一撃の下に葬った伊勢平氏の棟梁正盛の勇名は、たちまちの内に広がりました![]()
しかも、当時『最下品』という低い身分(5位程度という身分)であった正盛が、受領国司の中でも上国となる但馬守に選任された事は、大変な抜擢人事でありました![]()
白河院はこうした先例を無視した人事を、その治世中(特に院政期)に、しばしば断行 しており、関白藤原忠実の側近だった藤原宗忠は、その日記『中右記』の中で、この前代未聞の人事を酷評しています![]()
それはともかく、源義親の乱は、朝廷の象牙として武の中核をなしていた河内源氏の衰退を決定的な物にしました![]()
それに対して、平正盛を棟梁として推戴した伊勢平氏は、白河院の信頼を得て、源氏に代わって、武門の主役の座に就いた事を世間に証明して見せたのでした![]()
既に正盛は白河院近臣の藤原為房(ふじわらのためふさ)(勧修寺流)や院の乳母子であった藤原顕季に接近、彼等の仲介や後援を受けて、伊賀国の自領を荘園として白河院に奇進
院の信頼を得る事に成功していました![]()
この荘園の奇進先は、白河院の愛娘で20歳で亡くなった郁芳門院の菩提寺六条院でした![]()
彼女の死の悲しみの余り、院は出家したといわれていますので、娘の思い出の残った六条院への荘園奇進は、実に効果的でありました![]()
その報酬として彼は若狭守(現福井県)に任じられ、更に都の検非違使等を務めるなど、院への奉仕に努めていました![]()
その様な地道な努力を重ねた正盛にとっては、義親の乱はまさに僥倖であったと言えるのではないのでしょうか![]()
さて、一方で、衰退を始めた河内源氏のその後ですが、次回にお話しさせて頂きます![]()
院政下における源氏と平氏
ドラマでは清盛と義朝が初めて、相まみえるシーンが出て来ましたね![]()
まだ、二人は共に、御曹司という立場であり、棟梁は彼等のそれぞれの父親達でありました![]()
白河院が崩御して鳥羽院の新たな院政がスタートを切ったのですが、この時期の源氏と平氏の力関係は圧倒的に平氏が有利に展開していました![]()
本日はその前史ともいうべき、源氏と平氏の角逐についてお話したいと思います![]()
摂関政治全盛期の11世紀前半から中盤にかけて、摂関家の用人棒として仕えていたのは源氏の方でした![]()
源満仲(みなもとのみつなか)は藤原摂関家が政敵打倒の為に仕掛けたとされる安和の変では、火付け役の密告役を務めました
彼の子供達の頼光(よりみつ)・頼親(よりちか)・頼信(よりのぶ)兄弟達も藤原道長・頼通親子に仕え、武力のみの奉仕ばかりではなく、経済的な奉仕も頻繁に行い、彼等の信頼を得る事に成功していました![]()
一方の桓武平氏は、源氏より早く東国に進出
地盤を広げて行きました
一族同士の内紛より端を発した10世紀の平将門(たいらのまさかど)の乱が勃発したりしましたが、同族の貞盛(さだもり・彼が伊勢平氏の祖となります)がこれを鎮圧しました![]()
以後平氏は東国に加えて、伊勢国・伊賀国にも新たな拠点を作っていました![]()
さて、源氏も前述した摂関家とのコネクションを活かし、頼光は摂津源氏、頼親は大和源氏、頼信は河内源氏のそれぞれ祖となりました
彼等は何れも京都近郊の国に地盤を有しており、中央政界との密接な関係を維持していました![]()
義朝が属していた家は、頼信の河内源氏でした![]()
頼信とその嫡男であった頼義は、11世紀初頭に東国で起きた平忠常(たいらのただつね)の鎮圧に成功(忠常はこの乱をおこす前より頼信と主従関係を結んでいました
主君自らが鎮圧に出向いてきた事を知った彼は、鎮圧先任者に激しく抵抗していた従来の姿勢を180度転換
直ちに降服したのです
)
東国に3年以上に亘って起きた大乱で、主戦場となった房総半島は荒れ地と化したと言われています![]()
その大きな反乱を戦闘を交えずに終結させた頼信の名声は、当然の事ながら高まりました![]()
これに対して、従来東国に基盤を築いていた平氏は、乱を起こした忠常を一族の直方(なおかた)が朝廷の命を受けて討伐に当たったのですが、利害関係のあった忠常の抵抗は凄まじく結局、平定に失敗してしまいます![]()
乱後東国における平氏の権威失墜を恐れた直方は、自分の娘の婿に頼信嫡男の頼義を迎え、自身の鎌倉の屋敷を与え、平氏が代々培っていた地盤と権威を頼義に譲渡しました![]()
ちなみに、この娘と頼義との間に生まれたの嫡男が、有名な八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)です![]()
またこの直方の系統は平氏の嫡流的な存在でしたが、この反乱の鎮圧失敗の為か、以後平氏は東国の地盤から撤退していきます・・・
代わりに有力な存在となるのが、伊勢伊賀を本拠とした伊勢平氏(清盛の祖)であります![]()
東国進出の足がかりをつかんだ源氏は、11世紀半ばと後半に、奥羽で起きた前九年・後三年の役を現地地方官である陸奥守として、それぞれ鎮圧する事に成功しました
しかし後三年の合戦は、地元の豪族清原氏の内紛に陸奥守義家が勝手に介入した云わば、私戦であると朝廷に判断されました![]()
更に、在任中に朝廷に送る年貢(奥羽地方の名産は砂金ですね)を滞らせたという科を受け、義家は陸奥守を事実上、解任されてしまいました![]()
頼信・頼義・義家三代に亘って、東国や奥羽に勢力を広げようという河内源氏の努力は、こうして水泡に帰してしまったのです![]()
失意のうちに帰京した義家でしたが、同母弟義綱(よしつな)との棟梁の座を巡っての争いが勃発![]()
兄弟が都であわや合戦に及ぶという危機もあったのです![]()
義家が白河院の院殿上人として王家の支援を受けていたのに対して、義綱は摂関家に奉仕していました![]()
白河院政が未だ確立しない状況下、当時の摂関家は強力な政治力を発揮していた師通が関白を務めており、当時の堀河天皇を挟んだ対立関係の中に源氏兄弟が組み込まれていたのです![]()
さて、その頃の平氏なのですが、伊勢伊賀国の所領を巡って、一族間で内紛を繰り返し、すっかり勢力を失っていました![]()
同時期の源頼義や義家が位階で正四位上または正四位下に、官位においても反乱の恐れがある陸奥や出羽国の国司や軍事的色彩の強い鎮守府将軍を務めているのに比べ、平氏の歴代はせいぜい従四位・五位止まりで、都で検非違使や衛門府等の武官や、良くても小国の国司またはその郎従として現地に赴任する位が関の山でした![]()
その中で、伊勢平氏の庶流だった清盛の流れが、次第に台頭していきます![]()
同時に、平氏には追い風が吹いていました![]()
中央政界で先頭ランナーとして走っていた源氏が義家と義綱との棟梁争い
更には、義家嫡男の義親(よしちか)の西国における乱暴・狼藉等ですっかり朝廷の信頼を失っていたのです・・・![]()
白河院はあくまでも、源氏を擁護する姿勢を変えず、任国対馬で問題を起こしていた義親を父義家に命じて召還させようと試みました![]()
ところが、親の心または院の温情等全く、関知せずだったのか、義親は説得に赴いた義家家臣と一緒に、なんと朝廷からの召喚使を殺害してしまったのです![]()
温情が裏切られた形となった白河院は、義親を解任
直ちに、隠岐島配流を決定しました![]()
義親は反抗の姿勢を見せたのですが、老父義家の懸命な説得もあったのでしょうか![]()
大人しく隠岐に赴く事を承知しました![]()
非は義親自身にある事は言うまでもありません
ただ、乱暴で知られた義親が沙汰に従ったのは、恐らく父義家の奔走によって、短期間のうちに自らが赦免されると予測した故かもしれません![]()
ところが、事態は義親に最悪の目と与え、尚且、破滅の選択を採らせてしまいます![]()
そして、それこそが、伊勢平氏興隆の端緒となったのです![]()
続きは次回とさせて頂きます![]()
摂関家の敗北
一敗地にまみれた摂関家
娘勲子の鳥羽院入内計画を、白河院と藤原璋子に出し抜かれた格好となった関白忠実は、計画の大幅な修正を余儀なくされました![]()
既に白河院は60半ばを超えていましたが、今だ健在ぶりを誇示していました![]()
忠実は当初期待していた院の寿命が尽きる
(崩御されるのを待っていた)事を期待していたのですが、その時期は一向に訪れませんでした![]()
その内に、忠実が毛嫌いしていた閑院流家出身の璋子は、入内間もなく、天皇の正室たる中宮となっていました![]()
更に2年後には、鳥羽院(白河院説もあり)との間に顕仁親王が誕生し、白河院を後見とした璋子とその実家の閑院流の勢力は宮廷内に確固たる地盤を築き上げつつありました![]()
この間、忠実は身の振り方が定まらない勲子の将来の幸福を願い、元永元年(1118)に伊勢大神宮に祈祷をさせたりしていましたが、事態が刻々と摂関家に不利になっていく状況に対して、何らかの行動を起こさなければならない必要に迫られていました![]()
『最早、白河院の崩御を待っている様な猶予はない
』
こうして、忠実は乾坤一擲の政治工作を開始します![]()
保安元年(1120)、彼は白河院が熊野行幸に出かけて不在の時を見計らい、鳥羽帝に娘勲子入内の話を、直接打診しました![]()
忠実は院は都を留守にしていたこのタイミングで鳥羽帝への工作を行った理由は、院が勲子入内に難色を示す事を十分知悉していからだと思われます![]()
白河院の後押しで先に入内した璋子は中宮となったばかりか、皇太子顕仁を産んでいました
近いうちの皇太子即位を念頭に入れていた院にしてみれば、今更勲子の入内を認める筈はなかったのです![]()
(先に院から勲子を鳥羽帝に入内させる様にという打診を固辞したのは、他ならぬ忠実でした
)
何故なら、摂関家出身の彼女が鳥羽院後宮に入る事は、中宮璋子の強力なライバルを誕生させる事になるからです![]()
摂関家嫡室出の娘の格式は高く、いくら璋子が院の後ろ盾を得ていたとしても、仮に勲子が皇子を出産したら、皇位を巡る深刻な対立を誘発する事が予測されたのです![]()
白河院の怒りを買う事は忠実もわかっていた筈です
しかし、ここで行動を起こさなければ、摂関家の政治的地位は完全に失墜してしまう![]()
忠実はそれだけの危機感を抱いていたのでしょう![]()
一方の打診された鳥羽院の方も、白河院からの政治的な掣肘を受け続ける事に、ある種の息苦しさを禁じ得なかったと思われます![]()
そろそろ院からの自立を企図していた矢先に、忠実から勲子入内の話が持ち掛けられたのです![]()
鳥羽院は渡りに船
といった心境で、摂関家嫡女との縁組に前向きな意思表示をしました![]()
こうして、水面下の交渉で鳥羽院と勲子の縁組は、当事者間での内定をみたのですが、この様な政治的均衡を崩しかねない入内話が白河院に漏れない訳はありませんでした![]()
当然ながら、忠実の画策を知った(通報者は反摂関家側の恐らく、璋子に近い筋からだと思われます)白河院は烈火の如く、怒りました![]()
諺の逆鱗に触れるという事はまさに、この時の忠実に対する白河院の怒りを指す言葉だと思います![]()
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熊野詣でから帰ってきた院は、即日忠実の内覧(ないらん)の職を停止してしまったのです![]()
この内覧とは、院や天皇に上奏される政治向きの書類を、やんごとなき貴人の目に触れる前に、事前に目を通す役割を指していました![]()
天皇・院に上奏される書類を見る事は、他の公卿達には許されず、一人、内覧に任じられている者のみに認められていました![]()
摂関政治における関白職は、成人した天皇の政務補佐役という立場でありました![]()
政務の補佐というのは、公卿会議で議論された議題の結論を参考に、天皇の最終決断の諮問に与り、協同して決裁に当たるという性質の物でした![]()
当然ながら、決裁を進める若しくは天皇親裁を補佐する為には、事前に上がってくる重要書類には絶対目を通さなければ内覧の役割はもちろん、関白の職務も務められなかったのです
(関白と内覧は同一人物が兼帯するのが原則でした
)
したがって、内覧をはく奪された忠実は、最早、関白を務める資格を失ったも同然でした![]()
これは白河院の事実上の不信任
関白辞職勧告でした![]()
白河院の怒りの凄まじさは、忠実の想定を遙かに超えるものだったのです![]()
ところで、忠実腹臣の公卿で、摂関家庶流中御門流(なかみかどりゅう)の藤原宗忠(ふじわらのむねただ)は、忠実の内覧罷免の急報を聞き、驚いて駆けつけました![]()
宗忠と対面した忠実は、ただひと言・・・
『運は尽きた
』と語ったと宗忠の日記『中右記』(ちゅうゆうき)には記されています![]()
一か八かの、勲子入内計画が見事に失敗した事を受けての言葉だったのでしょうか
それとも、白河院の心の内を読み違えた(仮に反対されても、粘り強く交渉を続けば入内は実現するだろうと忠実は見越していたかもしれません
)事に対する後悔であったのでしょうか
真相はわかりません![]()
ただ、忠実はこれ以上摂関家の政治的立場を悪化させてはならないと思ったのでしょう
直ちに摂関当主である氏長者(うじのちょうじゃ)の地位を嫡男忠通に譲り、自身は祖先頼通所縁の地である宇治の地にて、謹慎生活に入りました![]()
仮にも摂政・関白を経験した人物が罷免されたとはいえ(王家による関白更迭自体前代未聞でした
)、平安京内での生活が出来なかったのです
(白河院の無言の圧力もあった筈です)
この忠実解任によって、白河院の専制体制は、完成したと見て間違いないでしょう![]()
もっとも、院は後任の関白を忠通ではなく、摂関家傍流藤原家忠(ふじわらのいえただ)(師実次男。忠実叔父)を任命しようとしたのですが、院近臣で『夜の関白』という異名を取った藤原顕隆(ふじわらのあきたか)の諫言によって、忠通の関白継承を認めました
院の摂関家御堂流に対する根強い不信感が垣間見られますね![]()
こうして、失脚の憂き目を見た忠実は、宇治での閑居生活に入る事になりました![]()
彼の謹慎生活は、約10年もの長期に亘りました![]()
大治4年(1129)の白河院の崩御まで、遂に赦免される事はなかったのでした![]()
一説によると、院は『忠実を政界に復帰させてはならない
勲子の鳥羽帝への入内は絶対許さない
』と厳命したといわれています
(物凄い怒りですね・・・
)
さて、忠実ですが・・・
本来なら政治生命を断たれた訳ですので、出家して俗世と縁を切る事も選択肢の中にはあった筈です![]()
しかし、忠実は幽居中、遂に出家をしませんでした![]()
それどころか、都にいる忠通に様々な指示を送り、裏側から新米関白を後見していました![]()
白河院も怪物ですが、忠実もなかなかの強者(つわもの)ですね![]()
『余は決してあきらめない
摂関家の権威を再興させる日を迎える迄は
』
こうして、忠実は長い雌伏の時期を宇治で過ごす事になります![]()
しかし、運はまだ忠実を見捨ててはいませんでした![]()
白河院崩御後、鳥羽院新体制が始まったからです![]()
忠実と白河院との確執のお話はひとまず、ここで終わります![]()
次回からは鳥羽院を巡る王家の確執についてお話していきたいと思います![]()
白河院から鳥羽院へ
ドラマでは現の物怪(うつつもののけ)こと白河院が76歳という長寿を以て、崩御されました![]()
天皇として14年
そして、堀河・鳥羽・崇徳三代の天皇の時代である43年間![]()
実に半世紀以上、治天の君(王家の家長)として君臨した文字通り、中世を切り開いた帝王でした![]()
加茂川の水・双六の賽の目・比叡山の山法師![]()
上記は、白河院が生前自らの思い通りにならないと嘆いた、『三大不如意』として有名ですが、専制君主であった院の権力の絶大さを物語る逸話ですね![]()
白河院が創設した院政の引き継いだのは、孫の鳥羽院でした![]()
鳥羽院(即位前は宗仁《むねひと》は、白河院と院の最愛の女性であった中宮藤原賢子との間に生まれた堀河天皇の第1皇子として、康和5年(1103)に誕生しました![]()
誕生してから1年以内に、親王宣下・立太子(皇太子)を済ませ、嘉承2年(1107)に崩御した父堀河帝の後を受けて、4歳で即位しました
(祖父白河院の強力な後押しがあった事は言うまでもありません
)
まだ幼年での受禅であったので、当然ながら自らの判断で政治を行う事は不可能だった為、祖父白河院が依然として院政の名の下、実権を握り続けていました![]()
14歳になった永久5年(1117)に、祖父白河院の養女藤原璋子を女御として迎えました![]()
元永2年(1119)に両者の間に第1皇子顕仁(あきひと)が誕生しましたが、4年後の保安4年(1123)に白河院は、とんでもない挙に出てしまいます![]()
4歳になったばかりの曾孫顕仁を鳥羽帝の皇太子に立てた即日、鳥羽院を譲位させ、顕仁を践祚させたのです![]()
父君であった鳥羽院はこの時、まだ20歳でした
いくら何でも退位するには些か、若過ぎであった事は否めません![]()
何故、白河院は孫の鳥羽院を退位させ、曾孫でまだ幼子に過ぎない顕仁を即位させたのでしょうか![]()
顕仁が白河院の子供であるという噂(風評。ドラマでは公然の事実と扱われていますが・・・タケ海舟は顕仁親王は鳥羽院の子供だと思っています
)は考慮に入れずに推測しますと・・・
鳥羽院が、自分で政治を執る事が可能な20歳になった事が大きな理由だったのではないかと思われます![]()
実は院政という政治システムの重要な要素の1つとして、天皇が幼年または、病弱で政治を行えない(若しくは政治に無関心)状態である事が望ましかったのです![]()
白河院はその長い政治キャリアにおける2つの経験から、その重要性を実によく認識していました![]()
最初の経験は、わが子堀河天皇との問題でした![]()
白河天皇は応徳3年(1087)、34歳の壮年で皇太子善仁(たるひと)親王に譲位しました![]()
善仁親王(即ち堀河天皇)は、この時8歳でした![]()
上皇となった白河院は、摂関家師実(堀河天皇外戚)と協調して若き天皇を後見していたのですが、やがて20代を迎えた天皇は、次第に政治への意欲を見せ始めました![]()
同時に摂関家でも師実が引退
嫡男の師通が関白を引き継ぎました
若い天皇と新関白による政治刷新の風が吹く中、白河院の政治的影響力は減退しつつあったのです![]()
この状況に変化を起こしたのが、康和元年(1099)の師通の急死でした![]()
摂関家の後継者忠実はまだ20代そこそこの若年、若い天皇を補佐するにはあまりにも、経験不足でした![]()
そこで、父院である白河院の復権という道が開かれたのです![]()
但し、既に成人に達していた堀河天皇と院との関係は微妙な物になっていました![]()
その様な情勢が8年ほど続いた嘉承2年(1107)に病弱だった堀河帝は、28歳で崩御されてしまいました![]()
堀河帝は、鐘愛の第1皇女郁芳門院(いくほうもんいん)とともに、中宮賢子出生の白河院愛息でありました![]()
白河院の悲しみは深かったと思いますが、既に嫡孫の宗仁親王が誕生していました![]()
確かに院にとって、堀河帝の早世は、悲しみに包まれた痛恨の出来事であった筈ですが、別の側面から見つめ直してみると、成人した天皇との対立が今後、更に深まる事も十分考えられたと思われます![]()
その面では、わが子の死は皮肉にも、院政を継続させる上での懸念材料がなくなった事を意味していました![]()
(今も昔も、政治の世界は残酷ですね
)
院政という変則的な政治システムを継続していく為には、政治に対して意欲旺盛な天皇の存在は却って、障害物になる危険を孕んでいたのです![]()
この問題を解決するには、幼帝を即位させその後見として院政を行い、天皇が成年に達した時には退位させ、新たな幼帝を即位させるという、天皇位の自転車操業を繰り返す事が不可欠になります・・・
(自転車操業とは失礼な言葉を使ってしまいました・・・
)
そして、この時に白河院が経験した教訓が、20歳を迎えた孫鳥羽帝の半ば強制的な譲位と、4歳になったばかりの顕仁親王の即位という強硬手段を採らせたのではないのでしょうか![]()
しかし、タケ海舟は白河院が鳥羽院を退位させた理由はもう1つあったと思っています![]()
それは、堀河帝の前例と同じ、摂関家と鳥羽帝との急速な接近でありました![]()
次回は、そのお話をさせて頂きます![]()
院政期最大のスキャンダル!
当初から取り沙汰された白河院と璋子の関係
さて・・・
忠実が日記にて言及していた璋子の噂についてお話します![]()
実は白河院の養女となっていた藤原璋子に関しては、以前より風評めいた噂が巡っていました![]()
噂の内容をひと言で表現すれば、彼女の奔放な異性関係でありました![]()
璋子の最初の嫁ぎ先候補として挙がったのは、摂関家嫡男忠通であったのですが、実はこのお話が表面化する前より、彼女の異性関係が既に、取り沙汰されていたのです![]()
この頃、璋子は複数の男性と恋愛交渉を持っていたみたいです![]()
具体的には、摂関家傍流公卿の息子や白河院の信任を受けていた僧侶の縁者だったみたいですが、程なく、その関係は消滅してしまいました![]()
璋子の奔放な恋愛関係を察知した養父白河院が、彼女と彼らとの仲を強引に引き裂いたのです![]()
璋子と関係を持った件の男性達は、中央政界からの左遷を余儀なくされました![]()
専制君主白河院の逆鱗に触れた故である事は言うまでもありません![]()
院にとっては関白嫡男に嫁ぐ事が決まっていた璋子の身辺を整理する必要性から、大ナタを振るったのでしょう![]()
ただ、当時の平安宮廷社会における男女の恋愛は近代・現在と比べて、かなり大らかでした![]()
一人の女性が同じ時期に、複数の男性と恋愛関係を持っていても、倫理的な問題にはありませんでした![]()
皆さんよくご存じの『源氏物語』でも、主人公光源氏は複数の女性と交渉を持っています![]()
当然、正室やその他の妻(妾)が既にいたとしても、恋愛の自由は保証されていました![]()
この恋愛の自由は、もちろん女性にも与えられていました![]()
従って、当時の空気から考えてみても、璋子の派手な恋愛事情についてそれ程、目くじらを立てる必要はなかった筈です![]()
白河院が璋子と恋仲になった男たちを罰した理由は、摂関家との婚姻に先立ったリスク撲滅策と考えれば、納得がいきます![]()
婿となる忠通の父忠実にとっては院の配慮に感謝するべきだったと考えられますが、周知の通り、彼はこの輿入れ話を固辞してしまいます![]()
なぜだったのでしょうか![]()
実は璋子の異性関係に纏わる噂は、まだ他にもあったのです![]()
その噂こそが、忠実が縁談を断った最大の理由だったのです![]()
白河院と藤原璋子は、義理の親子関係であったが、二人は密通している![]()
つまり、璋子は院の愛人であり、その関係は今尚、続いている![]()
この噂は、当時から宮廷社会に広まっていました![]()
信じられない話だと思われますが、この噂を知らない貴族たちはいなかったとされています![]()
(公然の秘密状態だったのでしょうか・・・
)
幼い時に実父閑院流藤原公実を失った璋子は、すぐ白河院と院の愛人祇園女御に引き取られ、養女として育てられました![]()
院にとっては、この幼子がとても愛おしかったのでしょう
『鐘愛する事甚だしき
』と伝えられてます![]()
やがて、璋子も美しく成長して行くにつれて、白河院の彼女への愛情は、娘への物から次第に一人の女性への物に変化していったのではないか![]()
その結果、いつしかこの義理の親子は、禁断の関係を結ぶようになった![]()
おそらく、当時出回っていた話は上記の様な物であったのでしょう![]()
もちろん、この話が本当であったかどうか・・・決定的な証拠は何一つありません![]()
しかし、いくらこの時代が恋愛に対して、大らかであったとしても、親と子(たとえ、血の繋がらない養子縁組であったとしても・・・)の間で、そのさまな関係を持つこと等、言語道断
とても容認される事ではありませんでした![]()
この醜聞は、後の時代である鎌倉期の説話集『古事談』に実に詳しく、かつ、赤裸々に描かれています![]()
更に、現在において、平安時代の有力な研究者(既に故人となられましたが)が詳細な調査によって
『璋子は白河院の愛人であった事は間違いない
』という見解を発表され、学界で大変な波紋を呼んだみたいです![]()
ところで、『古事談』には、忠実との縁談が破談となり、鳥羽帝(白河院孫)の女御として入内した璋子は、なおも白河院との関係を続けており、鳥羽帝との間に生まれた最初の皇子(顕仁《あきひと》)の誠の父親は、白河院で、彼等の周辺は真相を知っていたけれども、誰もが皆、黙して語らなかった![]()
更に、璋子の夫だった鳥羽帝は、何時からともなく、自身の妻と祖父院との不純な関係を知悉しており、生まれた顕仁親王の事を『あれは叔父子だ
私の子供ではない
』と近臣に吐き捨る様に言ったという記事が残されてます![]()
この顕仁親王こそ、後に悲劇の王といわれた崇徳院(すとくいん)でした![]()
『古事談』自体が、当事者がこの世を去ってしまった後の時代に書かれた文献である為、そのまま鵜呑みにする事はできないと思いますが、忠実の他に同時代を生きた公卿たちの日記にも、白河院と璋子との風聞に触れた記述が見受けられます
崇徳帝出生の秘密も併せて、事の真相は今となっては闇の中なのですが、この噂が白河院後の、院政を総覧する王家の内紛を引起す火種となった事は、厳然たる事実であったのです![]()
さて、関白忠実が院と璋子との噂を入手したのがいつ頃だったのかはわかりませんが、少なくとも嫡子忠通を璋子の婿にという話を受けた時点で状況を把握していたのでしょう![]()
風評が事実かどうかは別として、その様ないわく付きの女性を、自家の嫁(将来の摂関正室)として迎えてしまう事自体、とんでもない災いを摂関家に招いてしまう
と危惧したと思われます![]()
『冗談じゃない
院と関係が切れていないあんなとんでもない女を押し付けられてはたまらない
』
忠実はこの縁談を、百難あって一利無しと判断
婉曲に断りを入れたのでした![]()
(白河院が忠実に悪感情を持った事はおわかりでしょう
)
その璋子が、自分の娘勲子の結婚相手として想定していた鳥羽帝の女御に決定してしまった![]()
![]()
忠実はやり場のない怒りを(軽蔑していた女に鳥羽院妃の座をさらわれてしまった・・・
)自らの日記に書きつづるより他に自分を落ち着かせる術がなかったのでしょう![]()
『このままでは終われない・・・』
忠実は直ちに巻き返しを図る事を決断します![]()
それは保留状態にしていた娘勲子を、鳥羽帝の後宮に入れる計画を実現させる事でした![]()
しかし、焦りからなのか、忠実はある重要な事実を完全に見落としていました![]()
彼は、彼自身に対する白河院の恨みの深さを、考慮していませんでした![]()
次回はそのお話をさせて頂きます![]()
タケ海舟