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January 2010

龍馬という人

 

幕末、「土佐藩」に「坂本竜馬」という人がいた。
などとわざわざ書かなくとも読者にはその名前を知っている方も多いのであろう。筆者にとっては「高杉晋作」と並ぶ幕末の英雄なのである。

この「竜馬」の生まれは四国の「土佐(高知県)」である。身分のやかましい封建社会の江戸期にあって、「人は平等」という現在では当たり前の考え方が特に強い男であった。
その理由を探るには「土佐藩」という地域の特異性を語らなければならないであろう。

「関ヶ原」以前の「土佐」という土地の支配者は「長曾我部氏」であった。関ヶ原の戦で「豊臣側」についた「長曾我部氏」の支配は「掛川」の大名「山内氏」に変わることとなる。当然、「山内氏」の家来の侍たちも、「土佐」に移ってくる。その「長曾我部」の家来を「上士」と呼び、元々「土佐」にいた「長曾我部氏」の配下の侍を「郷士」とした。」

同じ「武士」という身分でありながら、「上士」と「郷士」には「天と地」程の身分差があった。一例を挙げれば「上士」が「郷士」を無礼打ちにしても罪にはならない。「武士」社会において、このように「身分」を二分させている「蕃」は他にはそうそうない物である。
「坂本竜馬」は、その「郷士」の生まれであった。

「船」
がこの男の人生の「テーマ」の半分以上を占めていたと言っても間違いではないのかもしれない。「黒船来航」以来、この男は、「また、坂本の大法螺が始まった」と噂されるくらい「船」にこだわった。

「ワシは軍艦を5隻手に入れて坂本艦隊を作って世の中を変える」

と、いう話しが口癖だったようである。

もっとも、「竜馬」の船好きは「黒船来航」以前よりのものだったらしく、国許の「土佐」で船頭の弟子になっていた事もあるのである。

この「坂本竜馬」。「人」には好かれた。

「お前(おまん)はエライのぉ」

とよく言った。

相手がそれを否定しても、「いいや、お前(おまん)はエライ。ワシは阿呆じゃきに」と返していた。しかし、それは「嫌味」には聞こえない。この辺りは「他人を誉める事」が得意な「吉田松陰」と似ているが、「竜馬」の場合は本当に自分を「阿呆」だと思っていた気配がある。

理由がある。幼少に竜馬は気が弱く泣き虫で、近所の子供たちと比べても「賢い」とは言えなかった。それを、姉の「乙女」に鍛えられた。この「乙女」姉さんが男勝りなたちで、徹底して「竜馬」を鍛えた。
結果として江戸に出た「竜馬」は江戸の三大道場に数えられる「千葉道場」の大目録という剣の達人となる。

しかし、自分では「阿呆」だと思っている。「阿呆は阿呆なりに時期が来るまでにじっくり準備をする」という考え方も「竜馬」は持っていた。幕末の「志士」と呼ばれる人間たちが結果を急ぐ余りに、その決起の瞬間を迎える前に次々と倒れて行く中で、「竜馬」が生き延びて活動できたのもこの為なのかもしれない。

「時期を急ぐ者」と「時代を変えたくない者」にとっては「竜馬」は邪魔者でしかなかった。「時期を急ぐ者」たちは「竜馬」を罵り、「時代を変えたくない者」たちは「竜馬」の命を狙った。しかし、この両者たちの手先がこの男に対面すると「この人は悪い人ではないのではないか」と疑問を持ち「竜馬」に傾倒する者も多かったという。

この「男」には不思議な魅力があったのであろう。


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[ 2010年01月07日09時00分36秒 ]

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