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etude194

投稿者:かぶとぼとけ 投稿時間:2009年12月31日11時32分11秒 | コメントなし | トラックバックなし
(今日は大晦日。
 神さま詣りの日です。

 御林守河村家の30万㎡の土地に結界を張る神々に
 毎年大晦日にお詣りをするのです。

 ブログを書きおえたら、行ってまいります)


昨日の幕末攘夷論の真相について
つづけてお話しします。

薩英戦争と馬関戦争を戦った英国は、
大国に臆せず堂々と干戈を交えてくる薩長の気骨を見て、
外交交渉に値する相手であると判断した
ということなのでしょうか。

本当に、
交戦を決断する気概などというものが、
外交の場で意味を持つのてしょうか。

おそらくそれはそうではなく、
弱腰の幕府は長く続かず、
朝廷を担ぎ上げて新政権を立て、
自らがその実権を握ろうとしている薩長二藩の軍事力に、
交渉相手としての政治的将来性を見た、
というのが正確なところであろうと思います。

実際そのように、
幕軍は、
長州征討戦では長州に敗れ、
鳥羽伏見では薩長に敗れて
やがて滅亡する運命を辿るのです。

勿論、
倒幕軍を英国が後押ししたことは、
よく知られているところです。

ですから、
ペリーに開国をせまられた幕閣が鎖攘を貫き、
もしも列強との開戦を決断したとしても、
薩長を統率するだけの軍事力も経済力も
すでに幕府にはなかったのです。

欧米列強と戦うどころか、
薩長にさえ敗北する有り様でしたから、
幕府が号令をかけ、
日本全土を戦場にしてゲリラ戦を戦うなど、
夢のまた夢でした。

そのように考えると、
攘夷論は、
まったく違う様相を見せてきます。

つまり、
不可能な攘夷を声高に叫ぶことで、
開国を進める幕政を混乱させて幕府を窮地に陥れ、
もって朝廷の力を強め、
天皇を中心とする新政権を樹立して、
そののちに欧米列強と条約を締結する、
このような目論見のもとに攘夷思想が成り立っていたとすれば、
すべて頷けるというものです。

つまり、
幕府は、
倒幕派の首魁である慶喜を十五代将軍としてしまった、
というわけです。

斉昭と慶喜が倒幕派であったというのは、
いかにもとんでもない説のようですが、
だいたい慶喜を強く推挙したのは、
薩摩の斉彬でした。

幕府を倒すために、
あるいは幕府を薩摩・水戸の傀儡政権とするために、
将軍として慶喜を送り込んだとも考えられるのです。

幕府の幕引き役として送り込まれた慶喜は、
見事にその責務を果たしたと言えるのかも知れません。

このように幕末の攘夷論を見てみると、
幕末の夜を血で染めた攘夷の志士たちは、
斉昭や斉彬らによって画策された攘夷論に操られ、
命懸けの踊りを踊っていたにすぎなかったのかもしれません。
 

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