そんなこんなで会津です(どんなだ)。
いろいろ回っているので個別にしました、まずは個人趣味でごめんなさい、如来堂(笑)。そして天気も悪いです、私が行くと会津はいつでも天気が悪いんです。勉強中の無知が語るので間違いがありましたらすみません......。
新選組三番隊の隊長で、会津では新選組の隊長を務めた斎藤一(この時は山口次郎)と共に、会津に残った新選組隊士が激戦し、命を落としたと云われていた場所です。
「十三名は華と散った」とありますが、実際死亡が確認されているのは六名で、斎藤を始め多くが生き残りました。昭和まで生き延びた池田七三郎などは如来堂脱出後、水戸諸生隊と合流し、水戸、水戸城、そして銚子まで転戦を続け、降伏しています。
激戦の会津に残った人々が生き延びて、箱館まで戦った土方さんが亡くなるというのは、なんとも云えない感情が沸き上がります。双方にとって、どういう気持ちだったのだろうと。まぁ勝手に盛り上がって熱く考え過ぎってこともありますけど......やっぱりいろいろ思っちゃいますね。
こちらには生存して生き延びたことも、斎藤が語ったことも書かれていますね。研究が進んで後々作られたもの。
ここらへんの土方さんと斎藤の動きを何度も読んではいるんですが、未だに理解できていないんです、あ、頭が足りない......のにこんなこと語っててごめんなさい(苦笑)。
土方と論争したのはいつなのか。土方が会津を去る8月23日以前であることは間違いないけど、うん?
斎藤に付いて行った隊士は、十数名とも二十名とも云われますが、結構多いですよね。土方と斎藤の意見の相違で分裂したと多くは書かれていますが、そう簡単な話に感じられないのです。まぁでも、斎藤と同じ考えで残ってくれた隊士が居るのだとしたら、......感無量ですが。
とりあえず、転戦する土方に反対して残ったのは事実。どちらが正しいとは云えないですよね。
谷四郎兵衛によると、一度は仙台行きを了承したともありますが、戦況を見て考えを変えたのか、斎藤は落城寸前の会津を捨てて行くことはできないと会津に残りました。実は会津藩士だという説もまだ捨てきれない斎藤ですが、どちらにせよ、ここで会津に残ったことこそ、私が斎藤を好きになったきっかけです。まぁそれから調べ始めたら、他にもいろいろ付加されていくのですが。
全滅した、と云う説が信じ続けられていたのは、おそらくこの土地のため(笑)
おそらく阿賀川を渡って逃れたのだろうと云われてますが、ちょっと撮れていませんね、もっともっと向こうかなって見えないか。どうやって脱出したのかもう一度考えようと、周囲の写真ばかりたくさん撮ってましたが、帰って見るとろくな写真が撮れてない
何人が斎藤と残ったのかは定かではないので確かなことは云えませんが、死亡者が六名で脱出者も多いことから、それほど大きな攻撃ではなかったと云う説に納得しています。ここが生きるか死ぬかの分岐点だったでしょうね、会津に残留した新選組にとって。亡くなられた六名に関しては、深く頭を下げます。
斎藤はその後城下で会津が降伏するまで戦い続けます。降伏に気付かず城下で戦を続けていた会津藩家老佐川官兵衛と一緒だったと云う説もありますね。如来堂を生き延びた隊士は、戦では亡くなりませんでした。
本当に何もないんですが、ここに来た時はなんだろう、なんだか落ち着きました。ものすごーく天気悪かったんです、嵐だったんです、傘が折れるほどの
でもここに斎藤が居て戦ったのだと思うと、ずっと留まりたい気持ちになりました。......はぁ。お疲れ様でございました。
あ、そうそう、ここに来る途中、中野竹子像を見ました。次回はそれでも書きましょうか。これ以上は画像が重くて書きづらい。
同じ20代の女として考えることは山ほどあります。自分何やってんだろうなぁとか。観念が違うから一緒にしてはいけないのかもしれないけど、やっぱり年齢が同じだと考えちゃいます。彼女の辞世の句がどうにも好きで好きで堪りません。幕末の中で一番好きかも知れない句。
武士(もののふ)の 猛(あつ)き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも
それでも戦って戦って、戦死した中野竹子さんです。
神崎
コメントを書く