伝通院にある清河八郎墓所
文久3年(1963)4月13日、庄内郷士清河八郎は麻布一の橋で落命いたしました。
現在、同人の墓碑は文京区の伝通院と郷里である庄内町清川の歓喜寺に存在します。
実は墓碑はもとよりありませんでしたが、清河八郎の埋葬地がありました。
それがきょう述べる麻布宮村町に存在した正念寺です。
「新選組始末記」(子母沢寛著)によれば、清河八郎が暗殺された際、同じ浪士組の仲間であった石坂周造が首級のみを山岡鉄太郎邸へ持ち帰り、伝通院に埋葬されたということです。
ただ、置き去りにされた胴体はどうなったか?その埋葬地が正念寺なのです
正念寺は真宗の寺院で、起源は存じませんが、いつしかこの地域で亡くなった無縁仏の埋葬を引受けていた寺院でした。
ちなみに現在、同寺院は茨城県に存在します。しかし、檀家を引受けたのではなく、廃寺同然であった同寺の名跡を現在の寺院が継承したようです。
では、清河八郎の遺骸はどうなったのか?実はとあるHPに柴田吉五郎氏が汲江寺という寺院に無縁の遺骨を改葬したという記事がありました。これを東京都公文書館の公文書で調査すると記述がありました。
同寺の遺骨は渋谷の吸江寺(汲ではなく吸)に改葬されておりました。
明治27年の警視庁起案の東京市参事会における説明によると、
麻布宮村町○番地共葬墓地ノ儀ハ無縁ノ死屍ヲ埋葬セシ者多ク、近来荒廃ニ属シ無数ノ白骨暴露シテ難擱状況ナルモ、元関係寺院正念寺ハ去ル明治十七年九月中、暴風ノ為メ堂宇悉ク省潰シ、現今殆ント廃寺ノ姿ニテ其管理者タル住職ハ貧困ニシテ到底管理行届カサルニ依リ本案ノ金額ヲ以テ他ノ墓地ヘ改葬セシメントス
*番地ですが、現在は宅地になっておりますので公表は控えます
とあります。この説明を受けて東京市も視察したようですが、まったくその通りだとし、正念寺に60.1円の改葬費用が捻出されています。
しかし、これには少し、誰かの指示が動いていたような気もします。
実はこの正念寺、隣家はなんと井上馨です。
つまり井上邸にしてみれば、暴風によって寺が崩壊して自然に任せた墓地から死屍が露出して、その屍臭が風の流れによっては邸内に流れ込んでも不思議ではないというわけです。基本的に真宗の寺院ですから火葬ののちに埋葬されるのが通例ですが、無縁仏ということを考えると、なかには土葬で埋葬された者もあることは否めません。当然荒廃していますから、夏には無数の虫が沸いて悲惨な状況だったことは想像できます。いまで言えば心霊スポットですね。
確かに庭園の先にはドクロが転がり、風に乗って屍臭が舞うのでは、いくら豪邸でもたまったものではありません。
ちなみに当時、井上は内務大臣を務めており、警視庁は所管官庁でした。この正念寺改葬が警視庁起案ということでも指示を窺わせるものを感じます。まさか井上馨もこの遺骨に清河八郎の遺骸があったことは知らなかったでしょうが......。
そのような事情から清河八郎の遺骸を含む無縁の遺骨は箱に詰められ、5人の人足によって吸江寺に運ばれ、共同墓地に埋葬されました。
のちに本家子孫である齋藤治兵衛氏が同寺へ訪れ、共同墓地の土を持ち帰り、埋葬したと伝えられます。

あさくらゆう
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