February 2010
近藤勇と土方歳三~出会いの奇跡
「新撰組と多摩党の虚実」という本がります。この本によると土方歳三はこの本に出てくる嘉永火事によって武の必要を感じ、近藤勇の門下になったといいます。
実のところ、この事件を教訓として剣術を習ったのは佐藤彦五郎であり、土方歳三ではありません。ただ、彦五郎が近藤周助→近藤勇の門下にあったことが土方歳三を近藤勇に引き合わせたのは事実でしょう。
この出会いですが、実はかなりの偶然が重なって初めて出会えたという経緯があります。
まず歳三の生家、隼人家ですが、歳三がいる時期は村の伍長の役職にありました。基本的に役付きの家で長男でない者は同じ家格の村の家へ養子にいくのが通例です。ところが弘化3年(1846)に起きた川の氾濫で隼人家の家作が流されてしまい、かなり家系が逼迫してしまいました。借財を抱えた家から養子を貰うという環境はよほどの恩顧がなければかなうものではありません。こうした事情で歳三は奉公にも行き、奉公から帰った後も養子の口もなく彦五郎の家へ厄介になっていたのです。こうした彦五郎の庇護がなければ剣術を習う環境もなく、彦五郎という仲介者がいなければ逢うこともなかったわけです。
で、この彦五郎にしても近藤道場で剣術を学ぶことについても偶発的な事件がきっかけになっています。
これは「嘉永事件」、または「嘉永火事」と呼ばれるもので、日野市では150年経ったいまでもタブーとされている事件です。
タブーなので簡単に記しますが、旧来より日野宿は名主ふたりが村政を行っており、本陣を隼太家が、脇本陣を彦右衛門家が担いました。彦右衛門の子孫が彦五郎に当たります。
時代の趨勢でこの事件が起きる前に隼太家が斜陽化し、いつしか彦右衛門家が本陣業務を担うようになりました。この後、彦右衛門の専断的な村政にあたったことが端を発し、当時の名主、隼太が代官役所に告訴して、事件が起きる前まで村を二分するほどの悶着が起きました。そして天保8年(1837)、隼太が出府中博打を行っていた罪で奉行所に召捕られてしまいます。かれこれとこれにも悶着がありまして、隼太は遠島処分を受ける破目になりました。
しかし、隼太は弘化5年(1848、2月に改元して嘉永)までには罪を解かれ、名前を蘇六と改めて、息子の芳三郎の家に厄介となっていました。
で、本件は嘉永2年(1849)1月20日、日野宿で大火が発生しました。このとき、彦右衛門家に怨みを抱いていた蘇六は同家に乱入し、彦五郎の祖母ほか1名を惨殺してしまいました。
この顛末は結局、翌日捕縛された蘇六が幽囚中に彦五郎側に同情した者によって暴行を受け、その傷が元で獄死して落着しました。
実は私は隼太が遠島処分されたという報告書が残されていることもあり、どの島に遠島されたかを調べたことがあります。しかし、記録に残る島には該当者がいませんでした。
ようやく22日、「鈴木平九郎日記」の弘化3年の項でわかりました。その部分を記すと、
日野宿元名主隼太事七郎左ヱ門義、博チ悪事ニ付、八ケ年前三度目之入牢ニ而、名主相勤居町医高野長英奸策ニ而牢屋敷出火、同人逃去後隼太牢替ニ相成、遠島御仕置被仰付候由等之評判も有之所追々延引、此度江戸払御仕置ニ而出牢(略)
つまり、「蕃社の獄」で捕縛され、終身刑を受けていた高野長英が天保15年(12月に改元して弘化)牢役の人間を抱き込み出火させ、逃亡した事件で、この火事は幕政史において、ある意味有名な事件です。このとき隼太も同じ牢にいたことが考えられます。このとき、牢の掟では罪人を放置して焼死させず、一時解放して帰ってきたものには恩典を、帰ってこなかったものには重罰を与えるという決まりになっています。
この経緯を見るに、隼太は解き放たれた後に牢に戻ったことにより罪一等を減じられ、江戸所払い、つまり軽追放処分に減刑されたことが伺えます。
このとき遠島処分を受ければ、生還率はかなり低い島の暮らしですからこの事件は起きなかったものと思われます。こうした運命のいたづらが嘉永事件に発展し、彦五郎に武力の必要を痛感させ、近藤周助の門下となるわけです。
まさか近藤勇と土方歳三の出会いに「高野長英」がでてくるとは思いませんでしたが、運命とは偶然の連続からなるということを痛感いたしました。
[ 2010年02月25日08時03分51秒 ]
北辰一刀流~千葉家墓所について
前回の記事で気になっておりましたので、千葉家の墓所巡りをいたしました。

まずは巣鴨本妙寺にある千葉家墓所です。ここに北辰一刀流の創始者、千葉周作の墓碑が存在します。ちなみに旧仁寿院墓地にあった千葉周作と千葉道三郎の墓碑がこちらの墓所へ移されております。「剣法秘訣」の著者、千葉勝太郎氏の墓所でもあります。特筆すると千葉道三郎の妻、以称子氏の墓碑銘は渋沢栄一の書になります。
駅からは遠いですが、寺院に入ると右手に案内板が存在します。

次に雑司が谷霊園にある千葉家墓所です。こちらは千葉周作の実弟、千葉定吉(千葉重太郎)一族の墓所になります。いわゆる桶町道場の千葉家です。のちに千住へ移り住んだ千葉束氏を筆頭とした千葉灸治院の方々の墓所と、日本橋浜町に住んでいたといわれる千葉清助氏の墓所等が存在します。こちらの家から千葉佐奈(千葉家の方よりご教示いただきました)家へ正氏が死後養子に入っています。かの坂本龍馬と交流のあった家はコチラになります。
こちらの墓所は霊園事務所からすぐの場所(1-6-5)に存在します。

最後は練馬仁寿院にある千葉家墓所です。こちらは千葉周作の子、千葉栄次郎一族の墓所になります。旧墓碑は存在せず、昭和10年に再建された墓碑が存在します。水戸藩士を継承したのはコチラの家になります。明治期に衰退した北辰一刀流玄武館を千葉東一郎とともに再興した千葉之胤墓所でもあります。
こちらの墓所は都営大江戸線、あるいは西武豊島園線、豊島園駅下車。田嶋十一ケ寺墓所内に存在します。
今回、私も勉強中ではありますが、ネット情報を見るに、かなり情報が交錯しているようにも見受けましたので、今回ブログにUPいたしました。なお、故人の眠る場所ですので、マナーある墓参をお願い申し上げます。
[ 2010年02月15日11時20分07秒 ]
清河八郎~もうひとつの埋葬地
伝通院にある清河八郎墓所
文久3年(1963)4月13日、庄内郷士清河八郎は麻布一の橋で落命いたしました。
現在、同人の墓碑は文京区の伝通院と郷里である庄内町清川の歓喜寺に存在します。
実は墓碑はもとよりありませんでしたが、清河八郎の埋葬地がありました。
それがきょう述べる麻布宮村町に存在した正念寺です。
「新選組始末記」(子母沢寛著)によれば、清河八郎が暗殺された際、同じ浪士組の仲間であった石坂周造が首級のみを山岡鉄太郎邸へ持ち帰り、伝通院に埋葬されたということです。
ただ、置き去りにされた胴体はどうなったか?その埋葬地が正念寺なのです
正念寺は真宗の寺院で、起源は存じませんが、いつしかこの地域で亡くなった無縁仏の埋葬を引受けていた寺院でした。
ちなみに現在、同寺院は茨城県に存在します。しかし、檀家を引受けたのではなく、廃寺同然であった同寺の名跡を現在の寺院が継承したようです。
では、清河八郎の遺骸はどうなったのか?実はとあるHPに柴田吉五郎氏が汲江寺という寺院に無縁の遺骨を改葬したという記事がありました。これを東京都公文書館の公文書で調査すると記述がありました。
同寺の遺骨は渋谷の吸江寺(汲ではなく吸)に改葬されておりました。
明治27年の警視庁起案の東京市参事会における説明によると、
麻布宮村町○番地共葬墓地ノ儀ハ無縁ノ死屍ヲ埋葬セシ者多ク、近来荒廃ニ属シ無数ノ白骨暴露シテ難擱状況ナルモ、元関係寺院正念寺ハ去ル明治十七年九月中、暴風ノ為メ堂宇悉ク省潰シ、現今殆ント廃寺ノ姿ニテ其管理者タル住職ハ貧困ニシテ到底管理行届カサルニ依リ本案ノ金額ヲ以テ他ノ墓地ヘ改葬セシメントス
*番地ですが、現在は宅地になっておりますので公表は控えます
とあります。この説明を受けて東京市も視察したようですが、まったくその通りだとし、正念寺に60.1円の改葬費用が捻出されています。
しかし、これには少し、誰かの指示が動いていたような気もします。
実はこの正念寺、隣家はなんと井上馨です。
つまり井上邸にしてみれば、暴風によって寺が崩壊して自然に任せた墓地から死屍が露出して、その屍臭が風の流れによっては邸内に流れ込んでも不思議ではないというわけです。基本的に真宗の寺院ですから火葬ののちに埋葬されるのが通例ですが、無縁仏ということを考えると、なかには土葬で埋葬された者もあることは否めません。当然荒廃していますから、夏には無数の虫が沸いて悲惨な状況だったことは想像できます。いまで言えば心霊スポットですね。
確かに庭園の先にはドクロが転がり、風に乗って屍臭が舞うのでは、いくら豪邸でもたまったものではありません。
ちなみに当時、井上は内務大臣を務めており、警視庁は所管官庁でした。この正念寺改葬が警視庁起案ということでも指示を窺わせるものを感じます。まさか井上馨もこの遺骨に清河八郎の遺骸があったことは知らなかったでしょうが......。
そのような事情から清河八郎の遺骸を含む無縁の遺骨は箱に詰められ、5人の人足によって吸江寺に運ばれ、共同墓地に埋葬されました。
のちに本家子孫である齋藤治兵衛氏が同寺へ訪れ、共同墓地の土を持ち帰り、埋葬したと伝えられます。
[ 2010年02月07日12時20分11秒 ]

あさくらゆう