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「千葉さな」直筆文書発見について

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年08月23日06時51分03秒 | コメントなし | トラックバックなし

初めて見つかった!竜馬の"婚約者"千葉さなの直筆文書(スポーツニッポン)

千葉さなの直筆文書を発見 都公文書館から(共同通信47ニュース)

 おかげさまで千葉さな直筆文書が新聞記事となりました。ここでわかったのは、

①明治20年1月現在、千葉さなは千住1-1(現1-4)に住んでいた。
②建物は自分のものだった。
③千葉さな本人は「佐奈」の変体かなの記述であり、幕末期、父定吉が用いていた「佐那」の標記ではない。
④千葉さなが立ち退いた経緯から考えると、毎日新聞「千葉の名灸」にある明治15年春に灸治院を開業した可能性が高い。

 このあたりでしょうか?

 ですので、
明治15年春ころ → さな、千住1-1(現1-4)へ灸治院開業。
明治20年3月25日→ さな、立退きのため、千住中組70番地(現仲町12)へ移転。
明治21年7月31日→ さな、千住中組993番地(現仲町1-1)に灸治院を新築。

 この順序によります(除籍謄本を参照)

 面白いのは、千住1-1にあった建物とほぼ同等の建物を993番地へ新築しています。このあたりにさなの性格がでているような気がします(993番地の建物謄本によると、建坪21.9、2階3坪)。
千葉灸治院


 千住の地は一時維新の際、宿駅の格の関係でやや没落しましたが、馬車鉄道等の開業により遊郭も賑やかでした。そうした背景が千葉さなにこの場所へ住まわせたものではないかと思います。

 ちなみに千葉さなが住んだ千住1-1は千住宿の入口になります。
足立郡役所跡01南足立郡役所跡02


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千葉さなの墓所が無縁になった訳

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年06月18日07時04分04秒 | 2 コメント | トラックバックなし

 千葉さなが亡くなったのは明治29年(1896)10月15日です。葬儀の後、19日にいまの谷中霊園に土葬されました。

 墓所の管理者は本来なら養子の正(まさし)になるのですが、江田島の兵学校にいましたので、妹の夫が墓の管理者となりました。

 その後、正は明治35年に病没しました。この後、悶着があり、管理者は墓所を手放してしまいました。当然、人間の心理として相手に権利など渡すわけはなく、放置されてしまいました。

 もし甲府の清運寺の墓所に埋められているとすれば遺品かと考えています。なぜかというと管理者と連絡がつかなかった可能性があるからです。

 このような状態のため、千葉家の墓所は放置された状態となりました。

 それでも戦前は特に撤去の必要が出るまでは残されていたようです。

 しかし、昭和20年、日本は敗戦し、さまざまな処理を行うことになりました。

 谷中霊園も例外ではなく、公園化するために無縁墓所は撤去し、また公園にならない地域はその後に新しい所有者を迎えることにしました。

 昭和24年8月にこうした無縁墓地の撤去が議決され、当時無縁だった墓所の管理者宛に通知されました。当然無縁墓な訳ですから連絡のつかない墓所ばかりで、いよいよ撤去へ向けての公示が行われました。

 このなかに当然、千葉さなの墓所も公示対象となっていました。

 この手続きを経て、昭和25年3月、千葉さなの墓所は改葬され、それらはほかの無縁墓の遺骨と一緒に千葉県の八柱霊園の「谷中霊園無縁塚」に葬られました。

 
 なので、現在、千葉さなの遺骨は八柱に眠っております。


 現在は都条例により、情報公開が制限されており、霊園管理者に聞いても教えてはいただけないでしょうが、いくつかの史料によってこの八柱にさなの遺骨があることは証明できます。

 はかない運命を生きた千葉さなは考えようによっては八柱でほかの無縁となった方たちと地下で共同生活を送っていることでしょう。


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千葉さな(佐奈・佐那)の観光名所

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年05月16日10時23分53秒 | コメントなし | トラックバックなし

画像 669.jpg
 今年の大河ドラマ「龍馬伝」で颯爽と登場し、一躍人気を集めた千葉さなですが、意外に観光案内できる場所が少ないのが難点です。

 最近脚光を浴びた甲府の清運寺もありますが、さなが終焉を迎えた地、東京の千住にも情報発信の場所が存在します。

 コチラは矢立茶屋といい、千住のボランティアチームが結成したお店です。お食事もできますが、気軽に立寄れるスペースになっております。

 千住は最近ようやく脚光を浴びており、先月、千葉さなの灸治院跡に案内板もできています。

 最近のイチオシはコチラ!
CCF20100515_00000.jpg
佐那カステラ(中身)

 佐那カステラです。15日訪問した際、ちょうどご店主が配達されておりまして、試食したところ、感激する美味しさです♪

 こちらはすべて手作りによって製作されるため、限定50本しか作れないそうです。そのため5月1日発売と同時に予約なしですと品切れが多いようです。販売は製造元の「ひので家」(北千住駅近辺)さんでもいただけますが、あらかじめ「矢立茶屋」で「さな」談義に華を添えながらお茶、あるいはコーヒーでくつろぐのも面白いかも知れません。

 お値段は1本750円でプレーン、抹茶、桜の風味3点が発売されています。特に最近は桜味の売れ行きが好調で、入荷して右から左に流れておりました(ちなみに3本箱入りの場合は2500円)。

 この矢立茶屋ですが、上記の通り飲食も可能です。おすすめは千住ネギを使った鴨つくねうどんで、650円で販売しております。そのほか、田楽は350円で、ほかにも甘味、飲み物等を揃えています。ご店主も気さくな方で素朴な疑問をぶつけてみてはいかがでしょうか?

 もちろん「千葉さな」の絵はがき等、さなグッズも揃えてあり、また、この千住は松尾芭蕉出発の地としても有名なため、本来は「芭蕉」のために発起したところでもあります。

 最寄駅は京成電鉄「千住大橋駅」から徒歩5分くらいで、墨提通り沿いに存在します。日光街道の旧街道を散策しつつ、「さな」の空気をはぐくんだ場所に立ちつつ、茶屋で談義しつつ、そのまま北千住駅(約15~20分)まで歩いて帰るのもよいかも知れません。

矢立茶屋
足立区河原町29-5
03(3882)0451
9:00~17:00

ひので家(佐那カステラ製造元)
足立区旭町24-9
03(3882)6455
10:00~19:30


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おりょうの夫~西村松兵衛の生家跡を訪ねる

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年05月01日10時41分49秒 | コメントなし | トラックバックなし

28日
6:00、強制的に起床。少し頭痛がする。この2日間、睡眠時間が少ないせいでしょう。
6:50、タクシーで岡山駅へ。ここで高速バスに乗るのですが、乗り場が遠い!
      とにかくギリギリで乗車。なんとか間に合いました。
7:05、乗車。この車輌は4人シートですが、トイレ、給茶機が設置されて厚遇でした。
      車内では昨日上郡で買った菓子パンをいただき、三田PAで明石焼きで朝食しました。
10:35、京都駅着。コインロッカーに荷物を預けます。
11:00、名古屋行きの高速バスに乗車。
11:53、八日市ICで下車。休憩はありません。
      ちなみにここはトイレと自販機があり、向かいが市内バスの停留所でした。
12:18、定時にバス到着。
12:30、1つ乗り過ごしましたが、法務局へ到着。調査開始です。
13:20、法務局を辞去。収穫はありました。やはり現物を見るとわかりました。
100428近江鉄道
13:46、近江鉄道で近江八幡へ。ヘロヘロな線路に似合わない豪華?な車輌でした。
14:00、近江八幡駅に到着。自転車を借りて西庄墓地へ。
100428西庄墓地

 滋賀県近江地域の墓所特有なのですが、墓所が2ケ所あります。ひとつは寺院にある墓所(参り墓)。そして共同墓地(埋葬墓)です。こちらは共同墓地のほうです。性質上、墓碑はほとんど存在しません。墓碑のかわりに目印の石ひとつなんてところも普通に存在します。なので特定は不可能でした。

15:00、墓所を辞去し、西村家の菩提寺だった円光寺へ。
100428円光寺

 前もってアポイントを取っておりましたのでとても親切にしていただきました。ありがとうございます。

 ここで報告です。諸説入り乱れている西村家ですが、まず、

西庄ではまったく無名です

 司馬遼太郎の作品から、西村家の存在を初めて知ったのはご住職だったそうです。過去帖でその存在を確認し、地域に住む西村家に聞いたそうですが、まったくご存知の家はなかったそうです。いま浸透しているのは阿井景子さんの小説からであり、いま述べた現状以上のことは判明していないのが事実です。

 ちなみに現在、西村家は円光寺の檀家ではなく、共同墓地にあった墓も移転されたそうです。

 また、いままで推定されていた西村喜左衛門家址も違っていました。
西庄西村家跡とされる場所
 この「マコトホーム」の場所は隣家です。その隣の納屋の場所に西村喜左衛門家が存在しました(公図と土地台帳で確認)。

西庄

 それでも西庄は昔の雰囲気を残している町です。駅からもそう遠くなく、駅のレンタサイクルを使えば10分ほどで到達できます。機会があったら訪れてみてください。


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「足立史談」と「千葉さな錦絵」は誤りという話

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年04月18日16時25分29秒 | コメントなし | トラックバックなし

 昨日、無事に「足立史談」が手元に届きました。今回は「千葉さなについて」と称し、千葉定吉家のことを執筆いたしました。

 ここに初出の内容がかなり多くふんだんに盛り込みました。当時の新聞記事(傍証付き)や鳥取藩の記録、公文書から抽出しています。

 そして大事なことをこのブログで告白します。

アサヒ・コムきっずに紹介されたほか、朝日新聞本誌でも2月13日付で「千葉さなの錦絵発見」と報じられました。
 
 実は、コレ、

間違いです。

 あの錦絵の人物は「千葉貞(てい)」で、千葉周作の孫、周之助之胤の姉妹にあたります。その証拠にこの錦絵が描かれた撃剣会の番付表が残っており、そこに「千葉てゐ」の名前が確認でき、菩提寺の仁寿院の墓所にも「千葉貞」の名前が刻まれています。そして東都新聞の明治17年7月19日版にも千葉貞が当時、神田錦町にあった玄武館で長刀を教えているという記事が存在します。

 これを受けて水面下で発表者である宮川禎一氏と連絡を取り合っておりました。宮川氏も誤りを認め、画像使用について、この一件以降、収拾していただきました。

 ただ、残念ながら4月4日の午前、「坂本龍馬の女たち」で、例の錦絵が登場してしまいました。特にリミナル効果のある使用方法でしたので、NHKにクレームを行いました。

以下がNHKよりいただいた回答です。


いつもNHKの番組やニュースをご視聴いただき、ありがとうございます。
龍馬伝の宣伝番組のご指摘についてご連絡いたします。

番組で使用した「千葉さな」と考えられる錦絵については、
昨年12月、京都国立博物館の宮川禎一氏が発表された説を
もとに宮川氏にも取材して、「千葉さな」として放送していました。

その後宮川氏のもとに2月に間違いではないかという指摘が入り
宮川氏も3月にこの錦絵は「千葉さな」ではないと認められました。
この龍馬伝関連番組は高知放送局が1月に収録。
1月と2月に本放送をしたもので、その時点ではまだ錦絵については
「千葉さな」と認識していました。
その後も宮川氏からNHK高知に連絡がなかったのでそのまま再放送を
してしまいました。
ご指摘後、宮川氏に問い合わせたところ、間違いだと認められたので、
今後再放送の際にはこの錦絵を使用しないで、別の映像に差し替えて
対応させていただきます。
貴重なご指摘ありがとうございました。

今後とも、NHKをご支援いただきますようお願いいたします。
お便りありがとうございました。

NHK高知放送局 
NHK視聴者コールセンター


本メールアドレスは送信専用のため返信はできません。
お問い合わせは所定のメールフォームからお願いします。

http://www.nhk.or.jp/css/goiken/index.html

 今回、「足立史談」に今回の件を簡単にですが発表しましたこと、宮川氏にも了解をいただいていることを受けて、公表させていただきました。


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近藤勇と土方歳三~出会いの奇跡

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年02月25日08時03分51秒 | コメントなし | トラックバックなし

「新撰組と多摩党の虚実」という本がります。この本によると土方歳三はこの本に出てくる嘉永火事によって武の必要を感じ、近藤勇の門下になったといいます。

 実のところ、この事件を教訓として剣術を習ったのは佐藤彦五郎であり、土方歳三ではありません。ただ、彦五郎が近藤周助→近藤勇の門下にあったことが土方歳三を近藤勇に引き合わせたのは事実でしょう。

 この出会いですが、実はかなりの偶然が重なって初めて出会えたという経緯があります。

 まず歳三の生家、隼人家ですが、歳三がいる時期は村の伍長の役職にありました。基本的に役付きの家で長男でない者は同じ家格の村の家へ養子にいくのが通例です。ところが弘化3年(1846)に起きた川の氾濫で隼人家の家作が流されてしまい、かなり家系が逼迫してしまいました。借財を抱えた家から養子を貰うという環境はよほどの恩顧がなければかなうものではありません。こうした事情で歳三は奉公にも行き、奉公から帰った後も養子の口もなく彦五郎の家へ厄介になっていたのです。こうした彦五郎の庇護がなければ剣術を習う環境もなく、彦五郎という仲介者がいなければ逢うこともなかったわけです。

 で、この彦五郎にしても近藤道場で剣術を学ぶことについても偶発的な事件がきっかけになっています。

 これは「嘉永事件」、または「嘉永火事」と呼ばれるもので、日野市では150年経ったいまでもタブーとされている事件です。

 タブーなので簡単に記しますが、旧来より日野宿は名主ふたりが村政を行っており、本陣を隼太家が、脇本陣を彦右衛門家が担いました。彦右衛門の子孫が彦五郎に当たります。

 時代の趨勢でこの事件が起きる前に隼太家が斜陽化し、いつしか彦右衛門家が本陣業務を担うようになりました。この後、彦右衛門の専断的な村政にあたったことが端を発し、当時の名主、隼太が代官役所に告訴して、事件が起きる前まで村を二分するほどの悶着が起きました。そして天保8年(1837)、隼太が出府中博打を行っていた罪で奉行所に召捕られてしまいます。かれこれとこれにも悶着がありまして、隼太は遠島処分を受ける破目になりました。

 しかし、隼太は弘化5年(1848、2月に改元して嘉永)までには罪を解かれ、名前を蘇六と改めて、息子の芳三郎の家に厄介となっていました。

 で、本件は嘉永2年(1849)1月20日、日野宿で大火が発生しました。このとき、彦右衛門家に怨みを抱いていた蘇六は同家に乱入し、彦五郎の祖母ほか1名を惨殺してしまいました。

 この顛末は結局、翌日捕縛された蘇六が幽囚中に彦五郎側に同情した者によって暴行を受け、その傷が元で獄死して落着しました。

 実は私は隼太が遠島処分されたという報告書が残されていることもあり、どの島に遠島されたかを調べたことがあります。しかし、記録に残る島には該当者がいませんでした。

 ようやく22日、「鈴木平九郎日記」の弘化3年の項でわかりました。その部分を記すと、

日野宿元名主隼太事七郎左ヱ門義、博チ悪事ニ付、八ケ年前三度目之入牢ニ而、名主相勤居町医高野長英奸策ニ而牢屋敷出火、同人逃去後隼太牢替ニ相成、遠島御仕置被仰付候由等之評判も有之所追々延引、此度江戸払御仕置ニ而出牢(略)

 つまり、「蕃社の獄」で捕縛され、終身刑を受けていた高野長英が天保15年(12月に改元して弘化)牢役の人間を抱き込み出火させ、逃亡した事件で、この火事は幕政史において、ある意味有名な事件です。このとき隼太も同じ牢にいたことが考えられます。このとき、牢の掟では罪人を放置して焼死させず、一時解放して帰ってきたものには恩典を、帰ってこなかったものには重罰を与えるという決まりになっています。

 この経緯を見るに、隼太は解き放たれた後に牢に戻ったことにより罪一等を減じられ、江戸所払い、つまり軽追放処分に減刑されたことが伺えます。

 このとき遠島処分を受ければ、生還率はかなり低い島の暮らしですからこの事件は起きなかったものと思われます。こうした運命のいたづらが嘉永事件に発展し、彦五郎に武力の必要を痛感させ、近藤周助の門下となるわけです。

 まさか近藤勇と土方歳三の出会いに「高野長英」がでてくるとは思いませんでしたが、運命とは偶然の連続からなるということを痛感いたしました。





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北辰一刀流~千葉家墓所について

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年02月15日11時20分07秒 | コメントなし | トラックバックなし

 前回の記事で気になっておりましたので、千葉家の墓所巡りをいたしました。

本妙寺千葉家墓所
 まずは巣鴨本妙寺にある千葉家墓所です。ここに北辰一刀流の創始者、千葉周作の墓碑が存在します。ちなみに旧仁寿院墓地にあった千葉周作と千葉道三郎の墓碑がこちらの墓所へ移されております。「剣法秘訣」の著者、千葉勝太郎氏の墓所でもあります。特筆すると千葉道三郎の妻、以称子氏の墓碑銘は渋沢栄一の書になります。

 駅からは遠いですが、寺院に入ると右手に案内板が存在します。

雑司が谷霊園千葉家墓所
 次に雑司が谷霊園にある千葉家墓所です。こちらは千葉周作の実弟、千葉定吉(千葉重太郎)一族の墓所になります。いわゆる桶町道場の千葉家です。のちに千住へ移り住んだ千葉束氏を筆頭とした千葉灸治院の方々の墓所と、日本橋浜町に住んでいたといわれる千葉清助氏の墓所等が存在します。こちらの家から千葉佐奈(千葉家の方よりご教示いただきました)家へ正氏が死後養子に入っています。かの坂本龍馬と交流のあった家はコチラになります。

 こちらの墓所は霊園事務所からすぐの場所(1-6-5)に存在します。

仁寿院千葉家墓所
 最後は練馬仁寿院にある千葉家墓所です。こちらは千葉周作の子、千葉栄次郎一族の墓所になります。旧墓碑は存在せず、昭和10年に再建された墓碑が存在します。水戸藩士を継承したのはコチラの家になります。明治期に衰退した北辰一刀流玄武館を千葉東一郎とともに再興した千葉之胤墓所でもあります。

 こちらの墓所は都営大江戸線、あるいは西武豊島園線、豊島園駅下車。田嶋十一ケ寺墓所内に存在します。

 今回、私も勉強中ではありますが、ネット情報を見るに、かなり情報が交錯しているようにも見受けましたので、今回ブログにUPいたしました。なお、故人の眠る場所ですので、マナーある墓参をお願い申し上げます。


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清河八郎~もうひとつの埋葬地

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年02月07日12時20分11秒 | コメントなし | トラックバックなし


伝通院にある清河八郎墓所
 文久3年(1963)4月13日、庄内郷士清河八郎は麻布一の橋で落命いたしました。
 現在、同人の墓碑は文京区の伝通院と郷里である庄内町清川の歓喜寺に存在します。
 実は墓碑はもとよりありませんでしたが、清河八郎の埋葬地がありました。

 それがきょう述べる麻布宮村町に存在した正念寺です。

 「新選組始末記」(子母沢寛著)によれば、清河八郎が暗殺された際、同じ浪士組の仲間であった石坂周造が首級のみを山岡鉄太郎邸へ持ち帰り、伝通院に埋葬されたということです。

 ただ、置き去りにされた胴体はどうなったか?その埋葬地が正念寺なのです

 正念寺は真宗の寺院で、起源は存じませんが、いつしかこの地域で亡くなった無縁仏の埋葬を引受けていた寺院でした。

 ちなみに現在、同寺院は茨城県に存在します。しかし、檀家を引受けたのではなく、廃寺同然であった同寺の名跡を現在の寺院が継承したようです。

 では、清河八郎の遺骸はどうなったのか?実はとあるHPに柴田吉五郎氏が汲江寺という寺院に無縁の遺骨を改葬したという記事がありました。これを東京都公文書館の公文書で調査すると記述がありました。

 同寺の遺骨は渋谷の吸江寺(汲ではなく吸)に改葬されておりました。

 明治27年の警視庁起案の東京市参事会における説明によると、

 麻布宮村町○番地共葬墓地ノ儀ハ無縁ノ死屍ヲ埋葬セシ者多ク、近来荒廃ニ属シ無数ノ白骨暴露シテ難擱状況ナルモ、元関係寺院正念寺ハ去ル明治十七年九月中、暴風ノ為メ堂宇悉ク省潰シ、現今殆ント廃寺ノ姿ニテ其管理者タル住職ハ貧困ニシテ到底管理行届カサルニ依リ本案ノ金額ヲ以テ他ノ墓地ヘ改葬セシメントス
*番地ですが、現在は宅地になっておりますので公表は控えます
 
 とあります。この説明を受けて東京市も視察したようですが、まったくその通りだとし、正念寺に60.1円の改葬費用が捻出されています。

 しかし、これには少し、誰かの指示が動いていたような気もします。

 実はこの正念寺、隣家はなんと井上馨です。

 つまり井上邸にしてみれば、暴風によって寺が崩壊して自然に任せた墓地から死屍が露出して、その屍臭が風の流れによっては邸内に流れ込んでも不思議ではないというわけです。基本的に真宗の寺院ですから火葬ののちに埋葬されるのが通例ですが、無縁仏ということを考えると、なかには土葬で埋葬された者もあることは否めません。当然荒廃していますから、夏には無数の虫が沸いて悲惨な状況だったことは想像できます。いまで言えば心霊スポットですね。

 確かに庭園の先にはドクロが転がり、風に乗って屍臭が舞うのでは、いくら豪邸でもたまったものではありません。

 ちなみに当時、井上は内務大臣を務めており、警視庁は所管官庁でした。この正念寺改葬が警視庁起案ということでも指示を窺わせるものを感じます。まさか井上馨もこの遺骨に清河八郎の遺骸があったことは知らなかったでしょうが......。

 そのような事情から清河八郎の遺骸を含む無縁の遺骨は箱に詰められ、5人の人足によって吸江寺に運ばれ、共同墓地に埋葬されました。

 のちに本家子孫である齋藤治兵衛氏が同寺へ訪れ、共同墓地の土を持ち帰り、埋葬したと伝えられます。


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大舘昇一郎~土方歳三とともに散った彰義隊士

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年01月31日15時23分25秒 | コメントなし | トラックバックなし

 明治2年(1869)5月11日、新選組副長を務め、陸軍奉行並であった土方歳三は一本木関門で戦死したと伝わります。

 今回はともに一本木関門で戦死した大舘昇一郎を採りあげます。

 大舘昇一郎は御先手同心大舘仲右衛門の長男として天保11年(1840)に生まれました。

 大舘家は三十俵二人扶持の家系で、父は天保14年に死去し、この年に大舘家を相続しています。当然親類の庇護下にあったものと思われます。

 ようやく元服を迎えた嘉永6年(1853)、武備先手同心に配属となり、安政5年(1858)には火附盗賊改役を兼務いたします。ただ翌年には同役兼務を解かれ、文久3年(1863)には硝石製造御用御取締勤番となります。

 その後、幕末では慶応元年(1865)に御細工所同心へ転属し、翌年には御納戸同心へと移ります。

 慶応4年(1868)3月、彰義隊に加盟し、上野戦争で官軍と戦います。この戦争で瓦解後、親類宅等に潜伏し、同年8月に長鯨丸に乗船し、榎本武揚とともに旧幕府脱走軍として随行いたしました。

 同年10月の箱館政権では彰義隊に配属され、同彰義隊内で起きた内紛により分裂し、大舘は渋沢成一郎を隊長とする(通称)小彰義隊の頭取に就任いたしました。

 そして明治2年5月11日、官軍の箱館市内侵攻により出兵し、熾烈な戦いの後、一本木関門で戦死しました。大舘家の親類には同じく頭取を務めた小林清五郎から伝えられています。

 ちなみに同人は妻帯せず、子供もいなかったので遠縁にあたる幕臣、ニ橋貫一郎の長男、録太郎が明治11年(1878)に大舘家を絶家再興し、主に教育関係に従事していたようです。


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坂本龍馬の妻、「お竜」写真への疑問

投稿者:あさくらゆう 投稿時間:2010年01月24日12時37分17秒 | コメントなし | トラックバックなし

 最近、メル友の森重さんより以下のURLをご紹介いただきました。

よっぱ、酔っぱ

 この項の問題は近年発表された女性の写真が坂本龍馬の妻、「お竜」なのかということです。

 私は古写真研究家ではありませんので、どのような写りこみやらはわかりませんが、ひとつ疑問だったこと。それは

科学警察研究所が鑑定していることです。それも依頼は高知県立坂本龍馬記念館なのです。普通、県立クラスで国レベルの公的研究施設(一応科警研は警察庁の管轄)が鑑定するのは極めて稀といえましょう。経緯がとても気になります。

 それと、京都国立博物館からの依頼ではなく、県立の施設から、というのも気になります。確かに140年前の殺人事件の証拠の捜査、といえば辻褄が多少は合いますが、直接の証拠ではない1枚の写真ですから......不思議です。

 また、今回の件は少々明後日の方向に向いているのも言えるでしょう。実はこの写真について、1982年に西尾秋風氏が発表していることです。ここには「裏面に記入がなく」と書いてあります。しかし、アルバムに「お竜」と鉛筆で書いてあるという。しかし、西尾氏が発見した当時、その鉛筆書きが書いてあったなら西尾氏が

お竜の写真発見される

とするのではないでしょうか?これは過去にも揉めていたそうです。ですので、先にするべきことはその写真ではなく、

鉛筆書きの部分の鑑定

ではないでしょうか?

 科警研でなくとも東京大学か京都大学でもできると思えます。まず炭素年代測定法で調査して、そして鉛筆の成分分析を行い当時輸入されていた鉛筆かどうかを鑑定するということです。

 ちなみに輸入鉛筆は幕末に存在しており、広島県立文書館に所蔵される幕臣小野友五郎が慶応四年に鉛筆による日記が遺されています。

 たぶん、写真よりもこの鉛筆書きの部分の調査が懸命ではないか?ということになります。もちろん誰が書いたか?という点までは調査しなくても良いでしょうが......。

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