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April 2011

郵便創業140th

 

ブログからの転載。
久しぶりにこちらに顔を出した…すみません汗



郵便創業140th記念。
おめでとうありがとう郵便!!shine

下記はだらだら感が否めないまとめ。
郵便創業に関わることを抜粋してこねこねしてみました。
原材料は郵便創業談と坐右日記。地租改正法の起源を参考に。
※太文字は郵便創業談、坐右日記原文引用部分。灰色文字は地租改正法の起源引用。
長いので畳みます。


建議を聴かれたのは大隈伯
創始に方(あた)って私の経営に援助を與えられたのは渋沢栄一君です。

前島密:駅逓権正兼任(本官は租税権正)

明治三年五月十三日
帝国郵便の一粒の種を私の胸中にまきましたる第一日めです。

東西両京往復官文書の毎月平均一千五百両。
これをそのまま月で使えば通信線を伸ばし各一便東京-大阪両地より出せる計算
月一千五百両を三府の間の当座の郵便基金にし収入をプラス。
新しい路拡大基金にして全国へ。

明治三年五月、改正掛:伝馬町助郷制の改正を意図し
前島密提議の東海道試験郵便計画を論定す。
六月二日大蔵・民部省合議により東海道試験郵便仕法の弁官伺案を定む
十一月十三日大蔵・民部省再議し、郵便役所規則その他を定む
明治四年一月二十四日太政官東京・京都・大阪間郵便開始の布告

明治三年六月十七日
関税を担保にした外債100万ポンド(約488万円)契約破棄に関する交渉のため
大蔵大丞上野景範の差添として前島密、渡英。

翌四年八月十五日帰国、同月十七日駅逓頭
二十三日度量衝改正掛長に任命されるまで民部省省務には関わらず。
其の間、前島が種を蒔き改革の方向を定めた駅制改革や郵便制度創設を
分立した民部省の大久保系幹部の下にあって
奏任の最下位という地位に甘んじながら実現につとめたのが杉浦譲であった。
※杉浦譲駅逓権正明治三年六月十七日~四年七月二十九日

実施第一番の事務は杉浦譲氏の擔任となった。
其時杉浦氏は今はからず足下に代って
帝国郵便最初の実施者たる栄誉の任に上ったけれども
是はただ權りに代りを初めるのであるから
足下の成案に一字一句の増減もしないで本務を執って
足下の帰朝を待たうと公言せられたのです。
お留守番ゆずりん(* ´Д`*)=3 ハァハァ

改正掛の討議にもとづき前島が成案化した近代的郵便制度を実現することは
改正掛の一員でもある杉浦も、強く希求するところだったろう。
右の杉浦の発言は彼の偽りない決意の表明と考えたい。
しかし、彼はこの実現を分省した民部省にあって孤立してすすめねばならなかった。
実際に、郵便制度実施のための具体的装置はほとんど杉浦と駅逓司官員によってなされ
前島の案を変更したり補充したりすることになった。
しかし彼は太政官の布告文だけは
前島案とほとんど「一字一句の増減もない」ものに固執した
ここに杉浦の謙虚な性格とともに
大久保の下にあっても、改正掛時代に決定した改革方針を
あくまで貫こうとする、彼の意地を見ることが出来る。
駅逓権正杉浦譲とその下僚は民部・大蔵合併時代に改正掛が提起した近代化改革所案を
分省した民部省において継承し官行郵便制度を明治四年一月二十四日に実現させ
またかなり遅延はしたが
廃藩置県後の五年一月、東海道筋の伝馬所、助郷を廃止し
陸運会社による陸運組織を作り上げた(同年七月に全国の伝馬所、助郷廃止)
※陸運会社は飛脚問屋たちの要望を受けて作らせたもの。今のぺりかん。

横浜から米国郵船でイギリスへ出発。
船の中に郵便局がありサンフランシスコ本社船と洋中に行き会う。
米国の郵便、東洋の運送を担い、毎年米政府より50万ドル貰っているとの事。
前島が船長に聞くと英仏文明国もみな同じと云う。
切手の再用を防ぐのに消印を押すのを知り、それを杉浦へ伝えた。
嬉々として伝える前島が素敵。

英ローランド・ヒルの遠近均一、郵便料金法を各国で施行されていた。
それを知り、一番驚いたと前島談。
郵便、貯金法を学ぶ。
紙幣製造の兼務。
欧州大陸に旅行、ロンドン市内には六ヶ月のみ。
ネルソン・レイとの交渉、紙幣製造が本務。
…帰朝明治四年八月十五日。

私の不在中何事も変更せずして
帰朝を待つと誓った所の杉浦譲氏は枢密内吏に転任して
濱口儀兵衛氏がかわって駅逓頭に任ぜられたのです。
私が腹一杯にもって来た郵便の事は
はや駅逓寮とは縁を絶って
今は濱口氏の技両如何を傍観するより外すべのない場合となったのです。

肩透かしをくらった前島。
※濱口儀兵衛(成則)前・和歌山藩権大参事
7/28駅逓正、8/10駅逓頭、8/17和歌山県大参事。

濱口駅逓頭が云うには「郵便などいやしい商売」
そんな濱口に任せられない、前島、政府に直訴。駅逓頭に舞い戻る。

※杉浦は太政官正院権少内史に転任。
廃藩置県後の大久保の井上宛(民部大蔵分離問題による人事交渉)七月二十七日書翰:
濱口儀兵衛について:「至て人物ヨロシク民部之方ニ的任」と推薦し
戸籍あるいは駅逓の正でもよい→井上はそれを呑んで大久保の意見通り濱口は駅逓正、八月十日には駅逓頭に。
しかし同月十七日には駅逓頭を前島密に譲って和歌山県大参事に転任。
結局、大久保の主張は形だけ容れられた。。


*坐右日記より。
明治三年三月小朔日(西暦:4/20)
一.休省
一.自今日置駅逓郵便(新式郵便)
筋違外 赤坂御門外 京橋 芝神明 赤羽根橋 四谷御門外 両国橋西 浅草観音前 牛込御門外 永代橋
西京 役所中立売 烏丸 今出川千本 五条 堀川 四条建仁寺町
大阪 役所道頓堀 栄成橋 北堀江ノ阿弥陀池 京橋堀雑子場 堂島二丁目 天満神宮

右東西京 八時 大阪ハ九時

一.試発右郵寄静岡日下木貞ニ 大阪同局真中氏等
一.夕退回視四日市郵便会社(注・役所)此日百五十本入云


民部省お休みの日。
今日から駅逓郵便のスタート!
東京は本局の四日市役所のほかに筋違外などに書状集箱を設置。
大阪、京都も同様に中立売、道頓堀に役所があって(分局)ほかに箱を設置。
 
毎日東西両京八時半(午後三時)
大阪九時半(午後一時)限りで各所書状集箱を役所に取寄せ
書状と賃銭切手とを見合わせ、不都合な以下を調べた上で部類分け
行囊へ納め入小札は札刺へ刺止
総て両京は七時(午後四時)、大阪は八時(午後二時)迄に結局可致事

一時間で仕分け…結構ハードな気がするです。たたかいですな!
切手の金額と合わない場合は別に取り除いて差出人へ返したようです。
仕分けの棚はタンスみたいな感じで、巾着みたいな袋(町名入り)に分けていたようです。


杉浦は試しに、日下木貞(ひと文字で「てい」、JIS外)二郎…静岡に居る弟と
大阪に出張している部下の真中さんへ手紙を送っています。
夕方頃に四日市郵便役所に寄ったらこの日は150通有りましたと報告が。
この中に杉浦の出した手紙も入っているのですね。
次の日は244通、三日めは211通。
このころ中村正直に「西国立志編」の本を送られていました。
一番下の弟、直也君が来ていたり、花見をしたり、歯が痛かったり。
そういえば住所が七軒町だったぞよ。

杉浦が主人公の小説では、息子を肩車して書状集箱に投函してて微笑ましいです。
大好きな場面///

この東海道を主要とした三都を結ぶ郵便が出来、横浜にも役所を置くように。
廃藩置県のいわゆるクーデターによる人事異動があり
濱口儀兵衛を経て前島密により明治五年、郵便は全国区へ広まっていきました。

 

前島について、まだまだ微妙な知識でしかないのですが

杉浦とは同じ幕臣から静岡藩出仕、民部省出仕。改正掛のメンバーとなる。

前島は漢字なくしちゃえ★的な発言、薩摩で英語教師をしていたのでしたっけ…ぬう要確認。

[ 2011年04月17日22時36分18秒 ]

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