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会津と地元のつながり

投稿者:air (エア) 投稿時間:2010年06月06日12時04分09秒 | 2 コメント | トラックバックなし

先日、ちょっとしたきっかけで 「会津」 について、ある人に語ったことが呼び水となりまして...。

会津へ行きた~い!!!

などと心の中で叫んでいます。

で、気が付いてみれば、自称 「会津藩好き」 なのに、ここのブログでは殆ど語っていないじゃないですかっ!
『龍馬伝』 絡みか 『長州ファイブ』 ...おいおい、会津藩どころか、佐幕派でもないよ。
佐幕派を語ってるのは、僅かに新選組? しかもイラストばかり。
こりゃマズイってことで、たまには会津について語ってみようかと...。

 

最初はもちろん 「幕末会津藩」 に惹かれて行った会津ですが。
何度も行くうちに、会津の街や人、空気にほれ込んでいます。
調べてみると、地元にも縁が結構あったりなんかして...。

会津も、私が住む地元も、周囲を山に囲まれた 「盆地」。
囲む山の高さは違いますが、海から離れた山なので、
山菜だったりお蕎麦だったり、食材は近いです。
まぁ、それくらいなら地理的条件による相違と考えられます。

でも、他にも、馬刺しを食べるとか、天ぷら饅頭とか。
お饅頭を天ぷらにして食べる風習は、地元でもあるんです。
(会津では日常食ですが、こちらはお盆の季節もの。)

 

◆高遠つながり
さてさて、なんでこんなに似ているのかなぁ...と思っていたら、
会津藩藩祖の 「保科正之」 でした。
正之公は、会津に移る前は米沢、その前にいたのは、地元の県内の
高遠藩だったりするわけです。
保科正之公が住民に対してとても良い政治を行っていたので、
家臣はもとより地元住民も多数ついて行ったのだそうです。
それで、人々の暮らしや文化も移動したわけですね。
今でも、会津方面で食べられているお蕎麦が 「たかど (高遠)」 と呼ばれているのは
そういう理由です。
逆に、高遠ではお蕎麦の文化は一度廃れて、ここ数年に会津より 「たかど」 の文化を
逆輸入して盛り上げようとしています。

高遠にある歴史資料館の展示によると、『会津磐梯山』 に

小原庄助さん 何で身上潰した 

          朝寝朝酒朝湯が大好きで

               それで身上潰した ハァモットモダーモットモダ♪

歌われて有名な 「小原庄助」 さんは、もともとが高遠から会津に移った人だそうです。
戊辰戦争で戦死した人にも 「小原庄助」 さんがいてお墓もあるので、
代々名前を受け継いだのかも知れないし、庄助さん自体が架空の人物だとか、
他にモデルとなった人物がいるとか、さまざまな説があり事実は不明ですけど...。

そんな歴史的つながりがあり、鶴ヶ城三の丸や保科正之公を奉っている 「土津神社」 には、
高遠から贈られた 「コヒガンザクラ」 が植えられています。

ついでの高遠情報。
高遠には、仲間由紀江の映画  『大奥』 で有名になった江島が流されて幽閉された 「囲み屋敷」 が復元されています。

 

◆保科正之公
保科正之公にふれておくと...二代将軍徳川秀忠の隠し子で、徳川家光の異母弟です。
恐妻家の秀忠はコッソリと認め 「幸松」 と名前も贈りますが、正之の存在は公表されませんでした。
秀忠の正室 「お江与」(お江)は、織田信長の妹、お市の方の三女で、秀吉の側室淀君の妹。
戦国の乱世を政略結婚で生き抜けてきた8つも年上の正室に正之の存在を知られたら、
母子の命が危ないのです。
つてを頼って武田信玄の娘、見性院に保護をされ、正之7歳の時に元武田家の家臣である
高遠藩保科正光に預けられる事となりました。

その後、正之は実子のいなかった保科家に養子に入り、いろいろあって、保科正之は家光に見出されます。
米沢を経由して会津へ移り、己の出生を誇示することなく将軍家に使え、数々の業績を残したわけです。

秀忠の正室 「お江与」 は、「お江」 として来年のNHK大河ドラマに決定しています。
主演は上野樹里。 のだめ = お江 って、どうなるんでしょう?
ちなみに、「保科正之を大河ドラマにしてください!」 という活動が、会津・高遠で行われているのですが...。
長野県では、「保科正之」 の他に 「真田幸村」 と 「木曽義仲」 を推している活動があって...
全県一致で纏まっていないのよね。


さてさて、話は会津に戻って...。

 


◆小笠原長時
私の地元の守護だった 「小笠原長時」 という人物がいます。
時は武田信玄が信濃に進出してこようという頃。

林城という山城を拠点にしていた信濃守護の長時くん。
一応、馬術とか弓術では名を馳せていて、礼儀作法の 「小笠原流」 に関係する人物らしいのですが、
どうにもヘタレで、政も上手くなく困った殿様だったようです。
戦う気でお城で準備をしていましたが、いざ信玄が攻めてくるぞ~!ってなったら、
怖くなって戦う前に逃げ出しちゃいました。
その時に、自分の愛でた白牡丹が、敵に踏み荒らされるのは忍びないと、近くの兎川寺に株を預けました。
雅と言えば雅な殿...なんですけどね。

で、何故、長時くんかといいますと、信濃を追い出され、上杉謙信を頼って越後に行ったり、
なんだかんだ巡り巡って、たどり着いたのが会津でした。
幕末には白虎隊らが学んだ会津藩校日新館でも、礼儀作法として 「小笠原流」 が教えられていたのは、
もしかしたらそんなつながりかも知れません。

会津で蘆名氏の世話になっていた長時君は、会津で家臣に殺されてしまいます。
「いい年こいて家臣の娘に手を出したから、家臣に殺された」というのが通説となっている
残念な結果ですが、最近は地元の研究家によって病死説も浮上し、
どうなるかと個人的に気になっています。

転々としてやっと落ち着いた場所が会津。
会津市内の 「大龍寺」 で奥さんと共に眠っています。
そんな長時君の白牡丹は、松本城にも株分け寄贈され、毎年五月中旬~下旬ごろに
見事な花を咲かせて、市民に親しまれています。


長時くんのお墓が大龍寺にあると教えてくれたのは、初めての会津若松ひとり旅で
バスを待っていた時に話し掛けてくれたおばあさん。
どうやら、ボランティアで観光案内をしている方のようです。
会津では、自分達の歴史に誇りを持って、郷土を愛している人々が多いんです。
その辺りの話は、またの機会に。

 

 

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2 Comments

会津ファン様ありがとう。奥会津出身の者です。私の実家はもう存在なく、想いは美しい景色と思い出へといつも胸があつくなります。今年、只見とっておきの話 という本が役場から発行されました。これは書店で買える本ではないようですが、15年かけて住民や神奈川大学などの調査チームによる新事実などが掲載されております。白虎隊の生き残りの話や小笠原長時さんもでてきますが、長岡藩主の河井継之助終焉の地であります。司馬遼太郎の、峠 という小説の主人公です。(私は読んでいませんが)八十里峠を超えた二万五千の一行を丹羽代官の指揮のもと、受け入れ準備、各家に分散させて匿い、食糧がつき、まかないきれない責任をおって自害。会津は無垢な子供のようなご先祖さまたちが作り上げた風土なのだなと、誇らしく、また、人は、子孫が誇れるような人格を築きあげるために生きることに意味があると思った次第です。権力や財力は正義のもとにこそ価値があり、なぜ今の社会が混迷しているのかは、そこにあるように感じます。機会があったらぜひ一読ください。

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